今まで、自分の性根は真にクズであり、どうせ叶いはしないのだろうが、1つの理想として他人に寄生して生きていきたいのだと考えていた。
しかし、最近ほとんどの人間にとってめったに経験しないであろう出来事によってそれは否定された。
おそらくは、自分は完璧にはクズでないということが分かったというのは、喜ぶべきことであるように思うのだが、実際に起こってみると、そうではなかった。
なんだか自分のアイデンティティが否定されたような、夢が打ち砕かれたような気がした。
それだけではない、あの申し出を喜べなかったということだけが今までの自分を否定しているのではない。
あの申し出を事実上断ったということは、自分で、自分の認識している性愛の対象すら否定したということではないのか。
自分は同性愛者なのだろうか無性愛者なのだろうかと思案してみたが、少なくとも性欲があることは確かであって、本当に、何が起こったのか何をしたのか自分の行動が何を意味しているのかが理解できなかった。
いつも理性的に、少なくとも後付けであっても行動の理由を探すようにしているのであるが、今回に限っては、自分にも、"なんとなく帰り道を変えて散歩してみる"のと同じような、その程度の行動にしか見えなかった。
しかしおそらく帰り道を変えて散歩してみたくなるのにも、何かその日の日中にあった出来事によって気持ちに自分でも気づかない程度の微小な変化が起きているとか、あるいはテレビで散歩は健康に良いというのを見て決して影響されやすいわけではないがたまにはいいかと思ったとか、そういう何かしらの背景があるのであって、もっと言えば、あの申し出は別に、10秒以内にハンドルを切るか決断しなければ1人か5人が死んでしまう、といった合理的な選択が不可能になるような要因はなかったと思うのだ。
だから、自分がなんとなく嫌な気持ちになっていると感じたというだけで突発的に拒絶してしまったことは、自分というモノを自分からいきなり、完全に、遠ざけた。
何をしても楽しくないという気持ちが以前よりも高まったし、生きている価値はあるのかという所にまで至っている。
持論としてそのような思案には何の意味もなくて愚かだと今でも思っているのに、愚かであることをやめられない。
自分は、今までずっと、社会貢献や人類の利益のためになどという大きな大義のようなものによって生かされていると感じたことはないし、それは面接で答えるべき暗記単語であって、実際には、周りの人間への愛情のために生きていて、孤独であれば死んでもよいと考えていた。
しかし、それも間違っているというか、まあこのような信条に間違いもクソもないと思うのだが、もはや、それを信条として生きていけなくなった。
自分からの愛情すら分からなくなってしまったのに、自分への愛情など推し量られるものではないし、自分から自分への愛情など尚更である。
死ぬことへの不安と生きることへの不安が釣り合っているように感じる。
時が解決してくれ、天秤が、左へ傾くことを祈る。