はてなキーワード: 念仏とは
予備校の講師をしている関係で、ブックオフにはよく出入りする。参考書が大量に必要になるけど、経費で買えないから、安くあげるしかない。問題集とか、とくに最新である必要がないのもあって、黄色チャートとか、古くても問題は同じだったりする。そういうのを買う。
買ってもすぐに使うとはかぎらなくて何年も眠らせていることもある。昨日もずいぶん前に買った数学Ⅲのチャートを開いて媒介変数のちょっとややこしい問題のわかりやすい解説がないかなあと調べてた。そのとき、モノクロの写真っぽいものが落ちた。ページのどこかに挟まってたようだ。
拾い上げてみると、それが胎児のエコー写真だということはすぐにわかった。うちの子が産まれる前にも、こういうのを病院で渡された。だから最初は、うちの子のエコーだと思ったぐらいだ。けど、考えてみたら、もう成人して家を離れた彼女がわざわざ親の所持品の中に古い写真を挟み込むわけはない。もちろん、私自身がわざわざそんな古いのを栞に使うわけはない。そもそもこの本は、買ってからずっと使ってなかったんだし。
ということは、前の持ち主だろう。自分が胎児だったときの写真を栞に使うとは奇特な生徒がいたんだなあと思った。さて写真をどうしたもんだろう。持ち主に返したくても、きれいな古本で、他になにも手がかりはない。名前が書いてあるようなこともないし、だいたいがほとんど使われた形跡がない。参考書類の古本は書き込みがされてることも多いのだけど、なにもない。筆跡さえわからない。
もちろん、胎児の写真から顔がわかるわけもない。そう思ってもういっぺん写真を見て、気がついた。撮影日が、10年ほど前なのだ。この本がどれくらい私の手元で寝ていたのか、さらにその前、どのくらいブックオフの書棚で店晒しになっていたのかわからない。けれど、本の発行日とかから考えたら、持ち主が使っていたのはやっぱり10年ぐらいより前だろう。ということは、この写真は、持ち主本人の写真ではない。
私は混乱した。わけがわからなかったけれど、とりあえず気持ちを落ち着かせるため、デリヘルを呼んだ。別にそういう話をするつもりはなかったのだけれど、やってきた嬢に言うともなく、一部始終を話してしまった。すると、嬢は突然、仕事の手をとめ、その写真を見せてくれないかと言う。見せてやると、しばらくじっと見たあと、写真に向かって手をあわせ、なにやら念仏のようなものを唱えはじめた。私は余計に分けがわからなくなった。が、しばらくその柔らかい声を聞いているうちに、どこか納得する気持ちがわき起こってきた。なるほど、回向写真か
こういう言い訳をたまに聞くが、それが事実かどうかはとりあえず置いとくとしても、
大衆にしっかりと金出してるアピールをしないのだから経済対策の不備と言い切ってしまって良いだろう
実際に金を出すことは必須として、市場とコミュニケーションを取って安心感を与えて、
コロナ後には消費がしっかりと回って景気がV字回復する、もし失業したりしても政府が面倒をみてくれる
振り返ってみれば、バブル崩壊後にその真逆をやり続けたのが日本政府だよな
自己責任、自己責任と念仏唱え続けて、すっかり消費や投資が萎縮して経済が滞り、
気がつけばかつての科学立国、物づくり大国は栄華は失われて衰退まっしぐらだ
バイデンを見習え。無差別な減税に給付に大盤振る舞いが功を奏して、アメリカはすっかり経済V字回復ムードだ
乗数効果がどうした、GDP比でみたらとか、そんな専門家にしかわからん細かい話はいいから、
人間性を治す気が一切ないなら
女増田のババアたちには是非イスラム国に行くなりウクライナに行くなりクルド人民防衛軍にでも弟子入りして
そのスキルとノウハウでゴルゴ13のキャサワリーみたいに異性を作るしかないな
そんなことでもしないと行き過ぎた承認欲求と狂った上方婚願望を叶えるとか無理だし
どうせもはや狂って糖質寸前になってるから三行以上の文字を読んだりネガティブな情報入るだけで視界が歪んで幻覚が見えて意味不明な妄言書き殴り始めたり
幼児退行起こして猫ちゃんニャンニャンとか不毛な奇行を始めるから馬の耳に念仏だと思うけど
それさえ嫌なら来世は大好きな悪役令嬢にでも生まれ変われると信じて屋上からステータスオープンとか叫んでダイブして異世界転生キメるしかないな
SNS全盛のこの時代、前評判なしに作品に触れることはほとんどないように思う。
悪いことじゃない。誰だって面白そうな作品を見たいに決まってる。でも、ちょっとだけ、この現状に危機感を覚える自分がいる。
「テセウスの船」という有名なパラドクスがある。船のパーツをすべて交換したとき、それは元の船と言って良いのか?というアレだ。私の覚える危機感はこれに近い。つまり、前評判ありきで作品を見た後の感想は果たして本当に私自身のものなのか?ということだ。
どんな作品なんだろうと検索すれば、耳触りのいい言葉が無数に並んでいる。「どうあがいても●●」だとか、「(作品A)+(作品B)÷2」だとか、「(なんかそれっぽい形容)な(任意の作品名)」だとか。よく考えつくなあと思うし、実際的を得ているのだろうとも思う。一方、この上ない空恐ろしさも感じる。こんな素晴らしい感想を見た後、この作品を見た俺は新しく何か感じ取れるのか?俺の感想はすべてネットの共通解に塗りつぶされやしないか?結局他人の言葉のパッチワークでしかないのでは?自分で思いついたはずのうまい表現もいつかサブリミナルに見た他人の言葉じゃないのか?…。
既に用意されたテンプレを新しい作品に当てはめ、みんなで同じように使うインターネット組体操は確かにすごく楽しい。でもそれだけじゃダメだろという感情はぬぐい切れない。他人の感想で作品を誉めたかと思えば、評価が間違っていれば責任逃れ。次は他人の感想で作品をくさす。自分をオタクと思ってるあなたたちも無意識にこうなっちまってないか?
だから私は作品とタイマンを張る。休日、本屋でじっくりと腰を据え、本棚を眺める。タイトルと、装丁と、ほんのわずかな粗筋。これら一次情報だけで本を選ぶ。読みきるまで他人の感想は見ない。どんなに拙くとも、自分の感想を書ききって初めてネットに触れる。時には多数派と真逆の見解になることもある。正直心臓がバクバクする。そのたび「これは答え合わせじゃないぞ」と念仏のように唱える。すると、意見の違いを楽しむ余裕が出てくる。
ぶっちゃけめちゃくちゃ疲れるし、割に合わない作業だ。だけど、これをしないと自分が自分でなくなってしまう気がするから気の向く限りは続けようと思う。続くかな??
耳無し芳一がウマ娘だったら全部解決してたという事実が存在し震えている。
馬の耳に念仏 なので耳にお経を書いても利き目がないな…と和尚が思うのは仕方がない。
つまり和尚のミスはケアレスミスではなく考察に考察を重ねた結果の判断ミスとなり「うっかり和尚め!」なんて思われなくなる。
これでまず和尚が救われる。
つまり平家の怨念が迎えに来ても逃げ切れる。怨念といっても所詮は人間の霊。人間ごときがウマに脚の速さで勝てるわけがないのでこれで芳一が救われる。
ゴールドシップがなにかおかしなこというだけでTwitterで話題になるんだから耳なしマーケティングする必要がなくなる。
以上から、耳無し芳一がウマ娘だったら全部が丸く収まったことがわかる。
でも現実に耳無し芳一の話は残って我々の世代に伝わっているので残念ながら耳無し芳一≠ウマ娘ということがわかってしまう。
残念だ。
貯金を下ろしてピーチ城の一部屋を借りて、そこに杢人を4人ほど連れてきてパターゴルフをする。負けたら魂を抜かれて本当の人形になってしまうけれど、オリンピックが中止になるのならどのみちみんな人形だ。ピーチ城の地下には家畜化された人間がいっぱいいる。医者も弁護士も裁判官もここでは獣として生きている。野生にもなれず社会にも戻れず、生きていると言うより生かされていると言った方が正しい。それでも水道から味のしないヨーグルトが流れてくるのでみんなからは感謝されてる。歪んだドラえもん、歪んだサザエさん、歪んだクレヨンしんちゃん、歪んだ進撃の巨人。必死に念仏を唱えても、六ちゃんの鉄道趣味が治るわけじゃない。これは呪いだ。
・追記
研究室に依存しきった生活してたからか、離れることになって情緒不安定なんだろう。ボロボロ泣きながらブコメやらなんやら読んだよ、ありがとう。目についたコメントに答えだけ書く。ほんとつまんねー追記だから読まなくていいです。
博士号は誰でも取れるよ。うちの学科だと査読付き論文2編と査読付き国際会議発表1報あれば博論着手できる。性別や年齢や国籍で差別されないから誰でも取れる。英語圏のほうが有利だけど。
念仏じゃなくて題目にしとけばよかった。せっかく創価学会の話出したのにね。
実際私が博士号取れたのって私の努力が9割なんだけど、研究室の教授や先輩後輩同輩に恵まれてたってのがあるんだよなぁ。海外志向も弱いので、家庭がもっと良くてもちょっと楽できたくらいで変わらなかったんじゃないかな。あと高校時代の友人が5人博士課程進学してて、それにもかなり勇気づけられた。感謝。
一度自分が頑張って勝ち取ったものを勝手に100%関係のない他のもののおかげにされた、ってのが嫌で嫌でしかたないから「環境に感謝しろ」に同じ匂いを感じて腹が立つんだろうな。で、未だに恨みを忘れずに勉強と研究を自分が胸張って私の力だと納得行くまでやっていった結果って思いたい。ある程度納得するところまでたどり着いたけどゴールじゃねえなこれ。本当に足の裏のご飯粒、名刺にPh.Dって書けることだけ楽しみ。ただ、多分メインは目の前にある自分の有能さを発揮できるものが勉強と研究だったから、得意分野で勝負する手っ取り早い方法がそれだった、ってことだと思う。
私はうっせえわと思わず一度は全部聞く性分ですが、皆様が思ってるより健康です。頭の出来が違うので。育ちは悪いが思考が高級品。
救いがねぇ~~~っぇええぇ~~~~~~
ブスで性格が終わってるのは環境のせいだろうが私のせいだろうが関係がない結果なんだよなぁーはぁーうんこうんこ。
結論なんて最初から出てるんだよ。いちいち「環境に感謝しろ」とか言う奴がとにかく嫌い。同じ口で「努力不足」とか言ってねえだろうなァァアァン????って嫌味を言いたかっただけ。
私は凄いし、勉強も研究もできた。大変だったけど論文もいっぱい書いたし博論も内容も濃い良いものが出来たと自負してる。めちゃくちゃ向いていた。ブスで性格が終わってて、恋愛ごとに全く向いてないのは自覚してる。望むものと出来ることが違うのって辛いよね。幸せではないけど、不幸でもないよ。願わくば誰かと一緒にもっと幸せになりたい。
・以下本文
博論公聴会もクリア。公聴会自体がセレモニーなので、まあ博士号取ったと仮定していいだろ。ワイくんは凄いのだ!浪も留もせずに査読付き英語論文2編日本語1編通したのだ!
ワイくんは貧乏家庭で学部のときからずっと奨学金とバイトで全て賄ってきた、今どき珍しいそこそこの苦学生なのだ。修士のときの奨学金が全額免除になって本当に助かってるのだ。
それでも君らは、ワイくんの努力や苦悩のごくごく一部の欠片は認めても、「(努力できる)環境がよかった」「博士号まで取れるような家がすごい」とか言うんだろうな。違うよ。大学以降は全部私が頑張って稼いだ金。県内トップの公立高校に受かったときに「創価学会と私の祈りのおかげ」って言った口を出すのに金を出さない親がマトモな環境、マトモな家庭だと言いたいならどうぞいつでも変わってさしあげましたのに。
で、この「博士号」っていう結果に対していちいち「環境のおかげ」とか「家族に感謝しろ」みたいな嫌味言ってくるのはいいよもう。
じゃあなんで私の恋愛関係がクソまみれなのを環境、家庭、貧乏、顔、アトピーのせいにしちゃいけねえんだよクソが。何が顔じゃなくて性格が悪いだ。99%私の努力のものを環境のおかげにしなきゃいけなくて、環境ほか諸々で少なくとも50%は歪んだ性格や、100%元から歪んでる顔や皮膚のせい、じゃなくて私のせいなんだよ。
というわけで皆様のお望み通り、最悪の性格を披露してあげますよ。よかったね、これで「やっぱり性格が悪い!お前のせい!」っていう逃げ道ができるよ。逃げ道作ってあげるとかホント優しくて気遣いができる人間だね私って。
「マトモに動いてないカスな脳味噌しかもってないのに、「高学歴は環境のおかげ!」「恋愛がクソなのはお前のせい!」っていう覚えた念仏唱えてるだけのしょーもない死んでないだけの脳無し人間さんよ。早めに死ねな?脳味噌がついてる人間全員に迷惑だから。」
鈴木大拙は大乗を情の仏教で上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。
なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。
ちゃんと仏法を説いて、理屈で説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。
時代が違うから、救済宗教としての大乗仏教の需要がなくなっているのは仕方がない。
もともとの仏教は、個人が出家して修行したり知識を得たり戒律を守ったりすることで救われるという宗教だった。そういう自助によって救われるというのは現代の目から見ると納得感があるけど、古代や中世の時代にはそうとも言えない。
古代や中世では庶民は生きるだけで精一杯。戒律を守っている余裕なんかないし、そもそも識字率が低い時代だと仏教の教義を知ること自体が困難。
そうすると、救われるのは高位聖職者と金持ちだけになってしまう。そうした人間だけが天国に行ける宗教って何よ!?という問題意識から生まれたのが大乗仏教。「○○するだけで救われる」というのは、現代から見れば安易に見えるけど、古代や中世において庶民を救うには必要なことだった。
だから、現代の視点から大乗仏教を宗教の堕落みたいに言うのは間違ってる。
ちなみに、律法を守ることを重視するユダヤ教ファリサイ派に反発して、「人が救われるのは律法を守ることによってではなく、神を信じることによってだ」と主張したのがイエス・キリスト。だからキリスト教の聖典には、極端に○○せよ~などの決め事がない。
以下の浄土真宗コピペも、以上の理屈を知っていればよくわかる。
→浄土宗
ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人的謙遜)働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちにしか役立つ可能性がない。
でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたらおまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。
はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう
法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。だから俺なんか結婚だってしちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ
おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。つまり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人的暴走)だから感謝の踊りを踊ろうぜ、let’s dance!