はてなキーワード: 公共交通機関とは
元増田がとうとう削除してしまったから、やむを得ずうんちに連ねて書く。
なあ、Pは対象者が圧倒的弱者だから一緒にすべきではないってブコメがあるけど、
現行の日本リベラル派の中でも主流ラディカル・フェミニズムからすると、男女で圧倒的な非対称性があるんだよな?
女性が圧倒的弱者であるから(杉田水脈議員は別なのかも知れないが)、強権的に介入してでも女性の保護を公共交通機関でも被災地でも優先すべきなんだよな?
ここまで性愛の対象者が一方的弱者になるってことは、異性愛も本質的には政治的に正しくなく、LGBTのうちGこそが特に正当性がある。
Gの性愛の対象者である男性は弱者ではないから、「ゲイに電車で痴漢されたらどうする?」も「風呂でホモに見られるのが嫌」も全て強者として棄却されて当然の棄却な訳だ。
Tは性的志向と直接関係ないので置いておくが、Lは性愛の対象が弱者(女性)であるぶん、やはり異性愛と同じ問題を抱える。
Bは性愛の対象が強者(男性)ではなく、弱者(女性)に向いた場合にのみ、異性愛と同じ問題を抱える。
結局性愛の対象者が弱者であることがNGなら、生き残るのはGか、男性を好んだ場合のBのみだ。
もしここで、性愛の主体と対象者が同じぐらいの弱者性/強者性を持っていれば対等であるので、OKとする。
しかし、Bのうち本人が女性であれば女性を対象とすることは認められるが、本人が男性で対象が女性であれば認められないままだ。
Bの中でも本人が男性か女性かで深刻な分断が生じることになる。
また、Gの場合は相手の男性も対等な関係となるため、単なる異性愛の男女関係の非対称性と異なる事態が生じる。
対象者となった男性にも、Gからの痴漢や覗きを怖がる権利が発生する可能性があるのだ(ただし、一方的強者-弱者関係がある場合しかこの権利は発生しないと定義するなら、この問題は回避される)。
さらに考えると、女児L、つまり女児が女児を性愛とした場合については、互いに弱者性が等しいので、その間での性愛ひいては婚姻を阻む必然性が(弱者性の論理に注目する限りでは)なくなる。
電車で子供が泣いてたら親は申し訳なさそうにペコペコしろと言うのを見るたびに疑問なのだが
話し声の大きな人、足を広げて座る人、前にずれて座る人、イヤホンから音が漏れている人、まだ降りてないのに乗る人、臭い人、座席に荷物を置く人、感染症にかかってる人、デブ、混雑時にリュックを背負う人、呟いたり奇声を発する頭おかしそうな人、電話する人、優先座席を占領する健康な若者、でかい荷物を持ち込む人
この手の人たちやその連れに申し訳なさそうにペコペコしろと言うのを聞いたことが無い
子連れと妊婦は迷惑だから公共交通機関を利用するなタクシー使えない経済力で子供を作るなも度々見るが、じゃあ自分は人にうつす病気の時は公共交通機関などを使わず人に迷惑をかけない人生を徹底してるのかよと思う
東京からは遠い都市圏に在住の共働き夫婦。同じ専門職に就いているが職場は別。私は妻のほう。一年生の娘がいる。
娘はバスを使って一人で学校に通い、帰りはバスに乗って学童に行く。学童は夫の職場からならタクシーを使えば10分かからない。私の職場からは30分弱かかる。娘の学校は携帯・スマホ禁止だけれど、GPS端末を持たせていて大体の居場所はわかる。下校時刻になったらどこにいるかを確認するように私はしている。
少し前のことになるが、娘は迷子になった。学校で嫌なことがあって、下校後に学童に行くのではなくて夫の職場に行こうとして迷った。私が位置情報を確認していておかしいと気づいたので、夫の職場が近いし夫に探しに行ってくれないかと頼んだが、仕事が抜けられないという。それで私が仕事を切り上げ、タクシーを飛ばしてなんとか娘をみつけてことなきを得た。娘は無事。夫は私が娘を家につれ戻ってから戻って来て、まだ仕事が終わらないと職場に戻った。
この事件のあと、「こういう事態のときにはともかくすぐに仕事を抜けるべきではないか。あなたの職場の方がが近いのだからもっと早く娘を助けられたはずだ」と言うと、仕事が抜けられなかったという。自分の子供より大事な仕事なわけ?
一年生の娘が一人きりで公共交通機関を使って移動しているということがものすごく心配なんだよ。車にはねられたらどうするんだ。変な人に変なことされたらどうするんだ。総合的な判断で遠くの学校に通わせることにしたけど心配は心配だし、時にまわりに迷惑をかけて仕事を切り上げるのだって仕方がないと私は思ってる。
なんだろう、夫と私のこの温度差は。私が心配し過ぎなの?夫がおかしいと思う私は間違ってるのか。
追記:
コメントありがとう。ざっくり言うと、娘の学校と私の職場が近い。で、自宅と夫の職場と学童が近い。この学童には保育園時代の仲良しが通っていて、娘の希望で通っている。送迎付き学童も入ってたのだけど、娘が車酔いするのでやめた(路線バスならなんとかOK)。シッターさんもこのあたりだと一回2時間からなので、学校へのお迎えにだけ使うのは難しいかな。あと、まわりの友達も一人で登下校しているので最近はたまに私が付添うのも嫌がる。ここに書けることはこのくらい。
追記つづき:
「掟」については当てはまるところもそうでないところもあり。でも確かに、私が仕事を切り上げられるのは私が女性だからかもしれない。まわりが「仕方ない」と思ってくれる度合いが高いしね。
高齢者ドライバーの運転事故と、若者の車離れを同時に解決させる方法がある。
それは、まず高齢者を公共交通機関が発達し土地代の高い都市に強制移住させ、代わりに大企業を中心に企業の拠点を地方の過疎地に強制的に移転させる。
すると高齢者は公共交通機関を利用せざるを得なくなり、高齢ドライバーによる運転事故は無くなる。
逆に、車離れと言われる若者(労働者世代)は自家用車を利用せざるを得なくなり車を購入する事となる。
地方なんて月極駐車場でも数千円で借りられるし、車なんて中古のBMWが70万そこらで買えたりする。
(ダイハツの軽で良ければMacBook並の価格で手に入る。)
まあ現実的に国家予算使ってもこんな大規模な改革は実現できないだろうけど、俺が東京から長野の山奥に移住して分かった事としては、地方では高齢者マーク付きの車がガンガンにぶっとばして走っていて、さらに高齢者マークをつけたがらない高齢ドライバーはその数倍いる、ということだ。
なんかまだコメント欄で議論が続いていいるようなのでコメントを。
https://togetter.com/li/1227347
個人の権利を重視する立場と、行使される権利の総量を重視する立場の対立に見える。
交通で例えると、自家用車を所有している人が都心などの混雑が予想される場所に車で出かけることに対して、個人の権利を重視する立場からそのような行為を規制する法律はないなどと擁護する立場と、渋滞することが予想されるのだから公共交通機関を使うことを勧める立場。
当初、2次創作であった漫画を1次創作に変更して商業出版することも別にそのこと自体はとがめられることではない。でも、名前だけ変えればいいんだという認識が広まってしまうと、ファン活動とは言い難い2次創作が広がって、権利元が態度を変えるかもしれない。だから、一旦、2次創作として出した以上は商業出版にするべきではない。
こういう、総量が問題になる件に対処するのに、法律とか権利とかルールって、あまり役に立たない。権利元が、年間に数冊くらいなら2次創作ベースの商業出版があっても許容範囲だと思っていたとして、それを具体的なルールとして文章にすることができない。2次→商業をOKですと明文化してしまうと出版数を制限することができず、2次→商業をNGですと明文化すると年間数冊なら許容範囲なのに過剰な規制になってしまう。
結果、空気を読むとか、ファン活動の矜持とか、学級会みたいな話になる。今回のこの本については、かなり著作権的に白いから、商業出版しても大丈夫なんじゃないかなとは思うけれど、2次から商業に移すことを一律自粛するのも、安全運転に徹するという意味でありうる立場ではある。
モヤモヤするなどといった、個人的な悪感情をTwitterに投稿すること自体、汚い言葉を使わずに抑制的に行えば別にとがめられることではない。でも、その不満の感情がたくさん集まって、作者の目に触れる規模にまで増えると困るから自重しておいたほうがいい。といった風に、総量規制を主張している点か。
地方に越して、原付、いわゆるスクーターを買った。公共交通機関が弱い土地で、自転車ではキツイが車は持ちたくない自分のような人間にはピッタリ。おまけに燃費もいい。買い物に通勤に大役立ちなのだが、定められた速度を超えて運転する車や原付があんまりにも多くてたまげている。これまで電車かバスか徒歩という生活だったのであまり車道を意識したことがなく、こんなに危険運転車が多いのかと……速度オーバーは朝飯前で、歩行者やバイクがいるギリギリ横を高速で突っ切るやつ、あげくに煽り。いや煽りってなんやねん、飛行機のパイロットが他社の飛行機を煽って危険運転みたいな、本当にありえない光景だと思う。あいつら死にたいんだろうか。
別に命にかかわる病気じゃないんだけど、めんどくさい持病がある。時々顔の筋肉のコントロールが効かなくなって、勝手にほっぺたや目の周りがこわばってしまう。他人から見てどの程度異様に見えるのかは分からない。いちおう職場の上司には話してあるので、その情報が周りに伝わっているのかも知れない。発病当初は瞬きの回数が尋常でなく多くなり、だんだん目が勝手に閉じようとするようになった。その時には「苦しそう」「痛そう」と言われたが、その後目の症状はなりを潜め、その代わり広範囲の筋肉に影響を及ぼすようになった。
服薬をしながら、ときどき病院でボトックス注射を打ってもらっている。あのしわ取りに使われるので有名なボトックスだ。余計な筋肉の動きを止めるため、私のような病気の持ち主のために作られた薬らしいが、あんなのを美容目的で100%自己負担で打ってもらう人の気が知れない。私の場合は健康保険が適用されるので3割負担だけどそれでも高いと思う。
もはやこの病気との付き合いも8年ほどになるが、全く治る気配がない。原因からして不明だ。ストレス性の病気かと思われがちだけど、仕事が忙しいとき、イヤな仕事をしなければいけないときに出るとは限らず、家でのんびりしていても症状が出ることがある。なぜか旅行に行くと、旅先では症状が出ないことが多い。
が、やっぱり人生でいろいろ不本意な部分があり、それがこの病気を呼んでいる気がしてならない。それなりの給料と福利厚生を保証してはくれるが、2~3年でだいたい異動することになり、仕事内容を選ぶこともできない我が会社。そしてコミュ障ゆえに全然広がらない、深まらない人間関係。もはやいろいろなときに一人で行動することには慣れてしまったけれど、一人で動くと不便なことも多々ある。特に旅行に行きたいと思っても「一人部屋料金をとられるか、ビジネスホテルのようなところにしか泊まれない」「ペーパードライバーで公共交通機関がある程度あるところにしか行けない」というのが非常に不便だ。
もっと近場で行きたいところがあっても、気軽に誘える相手を思いつかない。こっちは友達だと思っていても、向こうはそう思っていないことなんて日常茶飯事だ。そこそこお金はあるけれど、結局交際費にお金がかからないから貯金できるだけなのだ。いろんな人と気軽にうまく付き合っていける人が羨ましい。昔は美女や可愛い女の子が羨ましくて仕方がなかったけど、私と同レベルの顔でも人生楽しそうに過ごしている人もいるので、あまり容姿は関係なさそうだ。友達に「○○ちゃん(私のこと)は、『自分で自分はこのままでいい』って思えないの?」と言われたことがあるけど、要するにいわゆる自己受容ができていない、自分のことが好きになれない状態らしい。自分で自分のことを好きになれないと他人にも好いてもらえないそうだが、そんな理屈だけ分かっていても簡単に自分のことを好きになれそうにない。
街を歩くと中国語やハングル文字の表示が多いことに気付く。私企業の案内表示ならいざしらず、公共交通機関である電車や地下鉄の駅やバス停、役所、図書館など、あらゆるところに中国語やハングル文字を見る。中韓は反日教育を行う敵国である。卑怯な彼らの得意技はテロや騒乱を引き起こすゲリラ戦だ。敵に道案内するかのような表示が街のあちらこちらに見られることを異常と感じなくてはならない。国防安全保障の観点から、こうした利敵表示を即刻排除すべきである。所詮彼らは、困った時は手揉みして近づいて来る。だが、潤えば対日毀損を果てしなく繰り広げる。彼らには倫理観や道徳心などかけらほどもなく、その残酷さは破廉恥を極める。隣国だからといって格別の配慮など不要だ。支那朝鮮に対しては、西欧諸国が両国に接するのと同様に、相手を人の住む国とさえ思わず厳しく対処することが最善であろう。悪友と仲良くする者は、共に悪名をまぬがれない。
https://monitor.gov-online.go.jp/report/kokusei201308/detail.php?id=75604
もともと、職場が郊外の、マイカー通勤前提のような場所だったので、車ありきの生活を何年も送っていた。
その後、職場が都市部に変わり、引っ越して電車通勤をすることになったのだが、職場から近い割には郊外型の店の多い、車があったほうが便利な場所を選んだ。
個人的には、そのほうがしっくりくる。買い物を休日にまとめてできるし、ちょっと大きなものを買っても運ぶのに心配がない。公共交通機関のないような山の中の観光地とかも、思いつきで出かけることができる。ただ、逆に街中には、必然性がなければ出かけない。幹線道路沿いにそれなりに店はあるし。
おそらく金銭面でいえば、街中に住んで車を持たない生活のほうが、多少家賃が高くてもトータルで見れば安くなるだろう。若者の車離れなんてのもよく話題に上がるが、単に都市部で生活する割合が増えているという事情もあるだろうと想像はつく。
けど私は、都市部だけで生活することに耐えられないのだろう。ちょっと郊外に出て、余裕のある景色の中にいるほうが居心地がいい。
丁度よく、街中に住むのと通勤時間が大差ない場所が存在したとはいえ、単身なのに郊外に住んで車を持つって、端から見れば一種の「道楽」なんだろうな。仮に職場が東京や大阪のガチ都心だったら、まず成立できない話だし。