はてなキーワード: 閉鎖病棟とは
一方的な批判だけでなく対話のできる誰かに返事頂けるまで投稿します
不登校児の人生と身体障害者の教諭の体裁、優先されるべきはどちらなんですか
もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました
見学の面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療と連携してサポートしますと言われたので
それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました
その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました
その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした
担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました
3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内の問題や自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした
メモや日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました
私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、
しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした
書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました
高校の担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした
ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメだからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした
高校も卒業になり家庭内の問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました
別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で
時間だけが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした
ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?
返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃんと自分で問題なくよくできたいい子だったのに、など
質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした
メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました
許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました
それでその元担当に一通送りました
そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と
今思えば当たり前ですが元担当が警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科の閉鎖病棟へ入れられました
その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生の何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか」
担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と
スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました
それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました
人生の殆どがかかってる問題なので誰かまともに返事頂けるまで投稿します
不登校児の人生と身体障害者の教諭の体裁、優先されるべきはどちらなんですか
もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました
見学の面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療と連携してサポートしますと言われたので
それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました
その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました
その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした
担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました
3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内の問題や自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした
メモや日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました
私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、
しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした
書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました
高校の担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした
ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメだからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした
高校も卒業になり家庭内の問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました
別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で
時間だけが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした
ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?
返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃんと自分で問題なくよくできたいい子だったのに、など
質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした
メールで数回、「メールだとよくわからない、伝達の齟齬が生まれる」というので直接支援学校で私が1人向こうが元担当と別の教員の2人での中話すことに元担当「久しぶりじゃない。立派になって。一体どうしたの?何のこと言ってるのか意味がわからないよ。あんなに元気でいい子だったのに。」別の教員「元担当は親御さんが今年病気して大変で、元担当さんも今年大病して大変なんだよ。あんまり責めないの」などと言って同じようにはぐらかされて逆にこちらが悪いかのように言われました
許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました
それでその元担当に一通送りました
そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と
今思えば当たり前ですが元担当が警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科の閉鎖病棟へ入れられました
その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生の何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか」
担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と
スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました
それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました
読み取れない点は質問して下さい、どこか書いてないからウソと決め付けないで下さい
こういう状況に陥った人がいることに意見下さい
もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました
見学の面談時に担当者から併設された精神科も通院することで医療と連携してサポートしますと言われたので
それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました
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その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした
担当は○○さんはいい子、○○さんは分かってる、そんなに苦しんでるんだからこれ以上苦しむ必要はないなど言われたり、時々旅行のお見上げを貰ったりしました
3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内の問題や自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした
メモや日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました
私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、
しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした
書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました
高校の担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした
ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメだからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした
高校も卒業になり家庭内の問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました
別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で
時間だけが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした
ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?
返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃんと自分で問題なくよくできたいい子だったのに、など
質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした
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許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました
それでその元担当に一通送りました
そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と
今思えば当たり前ですが元担当が警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科の閉鎖病棟へ入れられました
その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生の何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか」
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スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました
それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました
読み取れない点は質問して下さい、どこか書いてないからウソと決め付けないで下さい
こういう状況に陥った人がいることに意見下さい
もうだいぶ経ちますが、いじめを苦に登校できなくなりそうなった子が通うところとして特別支援学校へ通いました
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それを信じて中学3年間通いました、最後の2年間片足の不自由な身障者の担当教諭が私の担当になりました
その教諭とは1年生の頃からよく関わっていたのでそれもあって決められました
その学校で1番関わったのはその人で、私はいじめのことを話したくとも場面緘黙になっていて話せたのも関わり慣れたその担当くらいで、少しずつ伝えていたつもりでした
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3年間通って私自身に何か病名がつくことはありませんでした、私は卒業してから自分は健常者なんだ、全く問題ないんだ、と必死に進学先で頑張りました、家庭内の問題や自分自身の問題誰にも話せず、頼れず、押し潰される一方でした
メモや日記に記してそれを誰かに教えればわかるでしょうけどそれもできない問題を抱えてました
私はこの文章の半分も当時自分のことを言葉にして書けませんでした、作文の時間は常に居残りで、
しぶしぶ先生が来週までと言っても書けないまま時が過ぎてその科目の期間が終わるといった具合でした
書きたくても書きたくても他の人がするふうにどうしてもペンが進まずしばらく酩酊状態のようになりました
高校の担任にも話そうとしたりしましたが高校では他の生徒の相手をしなければならずとても時間を割いて話を聞く人なんていませんでした
ましてや精神の話なんて専門じゃない相手に話してはダメだからと人に言われたり躊躇したりで話せるほど慣れるまでに至りませんでした
高校も卒業になり家庭内の問題も更に重圧を増し、半年後押し潰されました
別の病院に通おうともしましたが短くて2週間、もしくは1、2ヶ月の1回5〜10分の間に問診で応えるなんてとても無理で
時間だけが過ぎ診断もつかず、他人から健常者なのに怠けてる情けない人間として過ごすしかありませんでした
ずっと思っていた疑問が一つあり、やっと聞くくらいのことはできるようになったので特別支援学校の元担当に連絡をして聞きました、私が伝えていた私の生きづらさ当時担当医にちゃんと伝えてくれていたんですか?
返ってきたのは一体どうしちゃったの?ちゃんと自分で問題なくよくできたいい子だったのに、など
質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした
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許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました
それでその元担当に一通送りました
そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と
今思えば当たり前ですが元担当が警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科の閉鎖病棟へ入れられました
その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生の何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか」
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質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした
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質問に答える様子なく、そのようなことはなかったという回答でした
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許せませんでした、こんなことが続いてるということは同じような苦しみを後輩たちも味わってるであろうこと考えただけで殺意がわきました
それでその元担当に一通送りました
そのような卑怯な真似を直ちにやめないなら「お前の首切断して職員室に投げ込んでやる」と
今思えば当たり前ですが元担当が警察を呼び脅迫したということでうちに6、7名来ました、最寄りの署で事情聴取、1時間もしないうちに当時通っていた精神科の閉鎖病棟へ入れられました
その入院中色々な人に口々に何度も言われました「あの先生の何が悪いんだ、何も悪くない、優しい先生じゃないか」
担当医には「他の患者があと詰まってて早く退院して欲しいんだよねー」いつまで入院続くんですか聞くと「私が大丈夫だと判断したら出します」少しでも担当教諭の件でこちらの言い分を言えば「それだと退院は難しいな」と
スタッフ全員にもその元担当教諭のことを言おうものなら鍵を閉めて出るということを半年以上続けられました
それを考えることをただただ否定され、許せないことは許せないまま、黙ってなければまたぶち込むという対応をされました
退院したあとも色々ありましたが、私は世の中の無差別殺人のように短絡的に実行しませんでした
それでも今なお元担当教諭や病院は非難されず、私はただの凶悪犯予備軍として何も問題を聞き入れてもらえないんでしょうか?
ネタだと言われましたが嘘じゃないです
最終章ではありますがまだやるべきことが残っているので第1篇となるでしょう。
- 母親の介護から逃げてから、その後 anond:20210322144223
- 母が精神病棟に入院した anond:20210403022555
以前に語ったとおり、母親は病気で自活が不可能となり父親による老老介護を受けた後に精神病棟に入りました。その後は体調不良のたびに転院を繰り返し、最後は実家からほど近い病院で息を引き取りました。最期を看取ることはできませんでした。そもそも職場から2時間近くかかりますし一報があった時点ですでに危篤状態でした。
その少し前から体調不良が続きいつ旅立ってもおかしくない状態でした。でもコロナにより面会はかなりの制限がついていたので、病院からほど近い父でも最期を看取ることは難しかったのとこと。特に第5波の現在ではまともに病院に入れることすら怪しいのですが。
母親に関しての良い記憶は殆どありません。私が子供の頃から彼女の周囲はストレスと負の感情が渦巻いていました。あらゆることに怒鳴り散らし厄介事を量産します。隣人、宅配業者や取引先とのトラブルは枚挙にいとまがありません。家族の中にあっても暴力と暴言は絶えず、幼いときから母親は嫌悪と畏怖の対象でした。常に誰かしらを敵に回すことでしか自分を保てず、最後は泣きわめいて八つ当たりを繰り返す人でした。機械音痴だったのが救いでしょう。彼女はスマホやPCどころか自身のケータイ電話すらもっていませんでした。仮にスマホを扱えたとしたらツイッターやらでどんなことを書いたかわかりません。
そんな母も亡くなりました。
一番最後に家族が聞いた言葉は「来てくれてありがとう」だったそうです。数すくない面会の中で唯一話せたのはそれだけだったとか。そもそも、4月以降の入院生活の多くで彼女は心を閉ざしていたようです。閉鎖病棟という空間が耐えられなかったのかもしれません。彼女自身が介護状態になってから父への依存がマックスになっていたこともあり、父に会えず家族の顔を見れない寂しさが彼女を内向的にしていったのでしょう。だから面会時に言葉を話したことに周りの看護師が驚いた、と聞きます。おしゃべりだった母親がおとなしく心を閉ざすということはよほど病院の生活が心を折るに充分だったに違いありません。
父はそれを後悔しているようです。
葬儀は直葬でした。リーズナブルで早いというそれだけの理由でしたがコロナ禍では最善の方法だと思います。母親の親戚縁者数名と私の家族だけで執り行いました。
葬式自体は何度か経験があるものの、直葬は初めてです。住職もなく火葬場に直接集まって遺体を焼いて納骨するだけというもので、移動時間を除けば1時間半で終わりました。
従来型のように通夜と告別式を執り行うことが悪いとは思いません。故人を悼む人の多さや気持ちの整理をつけるために必要な儀式もありますから。
高くとも50万せず、極めて簡易的でスピーディ。遺族の負担が本当に少ないのです。
なぜ喪主が大勢の人の前で挨拶をしなければならないのか。多くの時間とお金をかけて悲しみと疲れをふくらませる必要があるのか。ほとんど交流のない親戚や会社の人々に頭を下げなければいけないのか。お坊さんの固いお話。。。
それらをすべて省くだけでここまで楽になれるのかと感動しました。いままでの葬式は何だったのでしょう。
コロナは多くのものを奪いましたが、葬式に対する考えを改める機会をくれたことだけはメリットと受け取っています。
さて、旅立ちのあと家族と合流していくつかわかったことがあります。
母親はいくつか不動産を持っているのですが、その一つが少々どころかかなり厄介な物件だということ。保険嫌いだったのにいくつか保険に入っていたこと。預貯金はそこそこあるのですが、額よりその中身についてここで書くことが憚られるものであること。デパートの預け金が結構な額になること。そして、母親が成人後に殆ど健康診断等を受けていなかったということ。
母親が病院を嫌っているのはわかっていましたが、健康診断そのものをまともにしていないのは驚きです。歯もぼろぼろだったので長く歯医者にも行っていなかったのでしょう。
思えば母親の数々の病気は、去年の夏に倒れてからようやくわかったものですばかりです。糖尿病やガンなど、本当は健康診断で発覚するものばかりです。少なくとも献血でいいからしておけばなんらかの予兆を見て取れたかもしれません。
恐らく長いあいだ健康上の不安を抱えていたと思います。でもそれを認めずに騙し騙し過ごしていた結果がこれです。
さらに病気がわかっても頑なに医者を信用せずかなり説得が難しかったと聞きます。
自分の家族が崩壊寸前だった記憶が強いがために、幸せな家族という存在が実感できないのが本音です。配偶者の実家にお邪魔したとき、リビングに家族との写真が所狭しに飾ってあったのはかなり印象的でした。そうやって家族と記念写真を撮って飾っておく習慣が失われた家庭でしたから。実家で目につく写真といえば、唯一仏間くらいにしかありません。本当は以前にもありましたが引越しの際に殆どなくなってしまいました。
今一番不甲斐ないのは、遺産や死後の手続きの諸々を実家の家族に任せっきりだということでしょうか。でも多くがオートメーション化されているのでかなり手続きは簡単とのこと。いい時代ですね。
遺産の整理がついたら第2編を書くかもしれません。
特に男性のほうが「俺が愛したのは女優としての○○であって、素の○○じゃなかったんだ…」となりそうな気がする。
(自分はどちらのファンという事もないから、結婚自体は大変めでたいと思っている)
これまで色んな人が言ってきたことだけど。
結婚前は一緒に居られる時間は限られているけど、その分「作られた状態」でいられる。
結婚して四六時中一緒にいたらどうしたって「素」が出ることもある。
すっぴんの話だけではない。キラキラかわいい彼女だって人間だから生理前症候群で機嫌悪くなる日もあるだろうし、ストレス溜まったら暴言吐きたくなる日もあるだろう。男性だってずっと紳士的ではいられない。
調子が悪くてボサボサの髪で死んだ魚の目をする日もあるだろう。
某俳優の元奥さんのような、他の女優と話をしたらスマホをぶち壊すみたいな「やられ続けると確実にウンザリする言動」だってやっちゃうこともあるかもしれない。
それでも子供がいないなら、まだお互いの欠点を見ないフリできるけど。金銭感覚が大きくズレていると本当に地獄。
あと知り合いに産後ビックリするほど荒れた女性がいた。産後鬱って奴。
誰が産後鬱になるかならないかは、誰にも分からない。元々の性格が原因ではないのだから。
出産後に新生児のお世話で寝不足になったら、産後鬱とまではいかなくてもイライラカリカリするものだし。
どこにもこの「巨大なお世話でしかない心配な気持ち」を書き込めなかったから、
ここに書き込んでみた。
同じ病室で、寝たきりの私の部屋のカーテンを開け、ハイチュウを
「オーイ」
と投げてきた、とてもじゃないが十代にしか見えない三十一歳の患者に、そんなことが伝えられた。
「いやほんと。ワンピース着て、ふりふりで、あの……バッグ……」
「駅前うろついてる女の子がよくつけてるようなちっこいバッグ?」
「そう、そう。そんなバッグつけた子」
「へえ。ほんとかなあ。何歳くらい?」
「いやあ、あの格好は高くて二十……二、ちょうど君くらいじゃないと、あの格好はできないし、しないだろうね」
「僕が動けるようになってからが楽しみです」
本当に信じられなかったけど、動けるようになったら話してみたいと思った。
動けるようになったら話ができる患者が二人ほど増えた。四十代の、ロックマンと不思議のダンジョンの話ができる、落ち着いた喋り方をする、感じのいいおっさん。四十代の、若い頃は本当に美人だったんだろうなという顔立ちの、シミかそばかすがまぶされている女性。ハンターハンターのパームに近い。
「泣いた」
「毎朝旦那にする電話が楽しみだったのに、『迷惑だ』って理由で禁止にされた」
神経症的な張り詰めた、瞬きのしない二重瞼の双眸で、手をかけたプラスチックのコップを震わせながら私たちが囲むテーブルでそう言う姿は、本当にパームだった。
かわいい、らしい子がいる病室がわかった。入院したのが土曜だったので、PCR検査を受けれず、個室で生活している。私の一個下の、前の入院でもよく話していた吃音の男の子は、その女の子がいる病室を見つけ、覗き見たらしい。
私は車椅子での移動が可能になって、車椅子の方用のトイレに向かうまでに、乃木坂の病室はあった。僕は偶然その姿を見た。茶色が入っていて、短髪。雰囲気は可愛いと思った。儚げで。私はそう言うのに弱い。
「僕は可愛いと思ったよ」
月曜日、パームがせこせこ歩いていた。ロックマンとよく話をしていて、何かをしようとしていた。
「連れてきた」
と言っていた。
「はじめまして。私は〇〇と言います。『アイリス』と言われています。『アイリス』というのは友達がつけてくれたあだ名で、〇〇という名前は花で、その花言葉は、⬜︎⬜︎というんですね。それが私すきで、それで私は『アイリス』なんです。『アイリス』です。よろしくお願いします」
生徒会長みたいな堂々とした喋り方で、アイリスはそう言った。話と話の間の取り方が演説調だった。
「いやもう、私は介護福祉士の資格を持っているんですけど、ここの看護師さんは本当にいい人とダメな人が多くて、こんな対応を私にしているということは、他の患者さんにもそうしてるってことだから、私すっごく腹が立って、暴れていました。私は介護福祉士の資格を持っていて、実地を知っているので、本当にひどいなって。だからもうひどいものです」
乃木坂はきっと、それを事実だからそう言っているのだろうけど、話し方はとても自信に溢れていて、高圧的ですらあった。
「僕も、ここに三回入院してるけど、わかるよ」
「あ、私四回」
パームには聞き忘れたが、私は入院した経緯を聞く。なぜかといえば、みんな気さくで明るいからだ。こんなところに入院するとは思えないほどに、あっけらかんとしていて、私に対しても
「死ななくてよかったね」
「強運だったんだ」
と言ってくれる。
三十一歳のハイチュウは睡眠薬を飲んでも眠れず、飲み続けたらいつのまにかコンビニに行ってしまっていて、そこで通報され、警察に保護、保護室で数日を過ごしたらしい。医療保護入院。
ロックマンは、
「これ」
「ぼ、ぼ、僕はひとつ、精神的に負担があって。あとひとつは親がそうしろっていうから」
任意入院。
アイリスにもそれを聞いた。でもあまり覚えていない。覚えているのは、睡眠薬を飲み、警察に保護され、運び込まれたという内容だった。ある友人に「声がでかい。気分が悪くなる」と言われたのがトラウマで、温泉に行った時もそのようなこと言われ、さらに精神的に酷くなって、自殺企図したらしい。
「僕は三回自殺企図してるんですけど、今回は20メートルくらいの橋から飛び降りて、腰骨が全部折れ……」
「脊椎にいかなくてよかった! 神経症状が出なくて本当によかった!」
話を止めてまでアイリスがそう叫んだ。力強い目をして、泣きそうになっていた。
「え」
みんな驚いた。
みんなは口々に
「おめでとう」
「よかったね」
と言っていた。でも私はあまり嬉しそうではないアイリスの姿を見逃さなかった。私はアイリスにどんな精神疾患を持っているのか、すこし個人的な話になってしまうが、聞いてみた。
「私は沢山の障害を持っていて、まず、適応障害。双極性障害というテンションが上がったり下がったり……」
「あ、僕も」と私は手を挙げ、
「私も」とパームが手を挙げた。
「仲間〜っ!」とパームは嬉しそうにしていた。アイリスも笑っていた。私も笑っていた。
もう一つあったが、忘れてしまった。
「あと、人口の0.2%くらいしか発症しない、身体(わすれてしまった)障害というのがあって、人間ってストレスを何かで発散しているじゃないですか、カラオケとか、友達と遊んだりとか。でも私はそれができなくて」
「蓄積されていっちゃうんだ」
「そうなんです。そう……蓄積されて、手が痺れてきたり、動かなくなったり、しちゃうんです。こうしていま皆さんと喋っている間も、緊張で左半身が痺れています」
なんて壮絶なんだ。アイリスの印象が変わった。こんなにも堂々としているのに、いま、このいまでさえ苦しんでいる。
「そして、〇〇先生(私と同じ主治医だ)に、『この病気じゃ入院じゃ治りません。通院してゆっくり、あなたの二十三年間の人生をゆっくり、ひとつひとつときほぐしていかないといけません』と言われたんです」
「だから私、本当に不安なんです。見放されてる……とは違うけど、どこにも繋がれてなくって」
「野放しにされてる」
「そう……。みんないろいろ、結婚とか、出産とか、仕事とかしてる中で私はこうやっていて、本当に生きていることが不安なんです。ストレスなのかもしれない。社会で生きていけるかわからない」
「その状態なら、そう思うと思う。でも、僕は気楽な人間なんだ。みんながどうこうしていようと、僕には関係がない。僕は自由にやっている。僕には社会がない。君は不安だというけど、その『社会』は、いったい誰なんだと思う?」
「〇〇さん」
「はい」
「行きましょう」
アイリスはみんなに頭を下げた。パームは悲しそうに、自分の名前を書いたノートの紙切れをアイリスに手渡した(私の提案だった)。
「また、会えますよ」
僕は、
「無理だけはしないようにね」
と言って、アイリスに手を振った。
何で増田たちの自称するスペックが本当なら、そんな珍獣、大学時代に精神保健の講義や見学とかで精神病院の閉鎖病棟にでもいかないとエンカウントしないようなレベル
社会への逆恨みで糖質拗らせて頭壊れてる奴らなんか人生で見る機会もなかっただろうに、何でまるで自分たちのクラスタそのものみたいに喚き散らしてんの?
俺そこまで障害者福祉に詳しいわけではないが、ネットでエコーチャンバー状態になって他害性統合失調症とか尊大性ASD拗らせまくってこの世のすべてが憎いレベルで狂ってる増田が多いけど
それ精神医学的にも非常にまずいんじゃないのか?