同じ病室で、寝たきりの私の部屋のカーテンを開け、ハイチュウを
「オーイ」
と投げてきた、とてもじゃないが十代にしか見えない三十一歳の患者に、そんなことが伝えられた。
「いやほんと。ワンピース着て、ふりふりで、あの……バッグ……」
「駅前うろついてる女の子がよくつけてるようなちっこいバッグ?」
「そう、そう。そんなバッグつけた子」
「へえ。ほんとかなあ。何歳くらい?」
「いやあ、あの格好は高くて二十……二、ちょうど君くらいじゃないと、あの格好はできないし、しないだろうね」
「僕が動けるようになってからが楽しみです」
本当に信じられなかったけど、動けるようになったら話してみたいと思った。
動けるようになったら話ができる患者が二人ほど増えた。四十代の、ロックマンと不思議のダンジョンの話ができる、落ち着いた喋り方をする、感じのいいおっさん。四十代の、若い頃は本当に美人だったんだろうなという顔立ちの、シミかそばかすがまぶされている女性。ハンターハンターのパームに近い。
「泣いた」
「毎朝旦那にする電話が楽しみだったのに、『迷惑だ』って理由で禁止にされた」
神経症的な張り詰めた、瞬きのしない二重瞼の双眸で、手をかけたプラスチックのコップを震わせながら私たちが囲むテーブルでそう言う姿は、本当にパームだった。
かわいい、らしい子がいる病室がわかった。入院したのが土曜だったので、PCR検査を受けれず、個室で生活している。私の一個下の、前の入院でもよく話していた吃音の男の子は、その女の子がいる病室を見つけ、覗き見たらしい。
私は車椅子での移動が可能になって、車椅子の方用のトイレに向かうまでに、乃木坂の病室はあった。僕は偶然その姿を見た。茶色が入っていて、短髪。雰囲気は可愛いと思った。儚げで。私はそう言うのに弱い。
「僕は可愛いと思ったよ」
月曜日、パームがせこせこ歩いていた。ロックマンとよく話をしていて、何かをしようとしていた。
「連れてきた」
と言っていた。
「はじめまして。私は〇〇と言います。『アイリス』と言われています。『アイリス』というのは友達がつけてくれたあだ名で、〇〇という名前は花で、その花言葉は、⬜︎⬜︎というんですね。それが私すきで、それで私は『アイリス』なんです。『アイリス』です。よろしくお願いします」
生徒会長みたいな堂々とした喋り方で、アイリスはそう言った。話と話の間の取り方が演説調だった。
「いやもう、私は介護福祉士の資格を持っているんですけど、ここの看護師さんは本当にいい人とダメな人が多くて、こんな対応を私にしているということは、他の患者さんにもそうしてるってことだから、私すっごく腹が立って、暴れていました。私は介護福祉士の資格を持っていて、実地を知っているので、本当にひどいなって。だからもうひどいものです」
乃木坂はきっと、それを事実だからそう言っているのだろうけど、話し方はとても自信に溢れていて、高圧的ですらあった。
「僕も、ここに三回入院してるけど、わかるよ」
「あ、私四回」
パームには聞き忘れたが、私は入院した経緯を聞く。なぜかといえば、みんな気さくで明るいからだ。こんなところに入院するとは思えないほどに、あっけらかんとしていて、私に対しても
「死ななくてよかったね」
「強運だったんだ」
と言ってくれる。
三十一歳のハイチュウは睡眠薬を飲んでも眠れず、飲み続けたらいつのまにかコンビニに行ってしまっていて、そこで通報され、警察に保護、保護室で数日を過ごしたらしい。医療保護入院。
ロックマンは、
「これ」
「ぼ、ぼ、僕はひとつ、精神的に負担があって。あとひとつは親がそうしろっていうから」
任意入院。
アイリスにもそれを聞いた。でもあまり覚えていない。覚えているのは、睡眠薬を飲み、警察に保護され、運び込まれたという内容だった。ある友人に「声がでかい。気分が悪くなる」と言われたのがトラウマで、温泉に行った時もそのようなこと言われ、さらに精神的に酷くなって、自殺企図したらしい。
「僕は三回自殺企図してるんですけど、今回は20メートルくらいの橋から飛び降りて、腰骨が全部折れ……」
「脊椎にいかなくてよかった! 神経症状が出なくて本当によかった!」
話を止めてまでアイリスがそう叫んだ。力強い目をして、泣きそうになっていた。
「え」
みんな驚いた。
みんなは口々に
「おめでとう」
「よかったね」
と言っていた。でも私はあまり嬉しそうではないアイリスの姿を見逃さなかった。私はアイリスにどんな精神疾患を持っているのか、すこし個人的な話になってしまうが、聞いてみた。
「私は沢山の障害を持っていて、まず、適応障害。双極性障害というテンションが上がったり下がったり……」
「あ、僕も」と私は手を挙げ、
「私も」とパームが手を挙げた。
「仲間〜っ!」とパームは嬉しそうにしていた。アイリスも笑っていた。私も笑っていた。
もう一つあったが、忘れてしまった。
「あと、人口の0.2%くらいしか発症しない、身体(わすれてしまった)障害というのがあって、人間ってストレスを何かで発散しているじゃないですか、カラオケとか、友達と遊んだりとか。でも私はそれができなくて」
「蓄積されていっちゃうんだ」
「そうなんです。そう……蓄積されて、手が痺れてきたり、動かなくなったり、しちゃうんです。こうしていま皆さんと喋っている間も、緊張で左半身が痺れています」
なんて壮絶なんだ。アイリスの印象が変わった。こんなにも堂々としているのに、いま、このいまでさえ苦しんでいる。
「そして、〇〇先生(私と同じ主治医だ)に、『この病気じゃ入院じゃ治りません。通院してゆっくり、あなたの二十三年間の人生をゆっくり、ひとつひとつときほぐしていかないといけません』と言われたんです」
「だから私、本当に不安なんです。見放されてる……とは違うけど、どこにも繋がれてなくって」
「野放しにされてる」
「そう……。みんないろいろ、結婚とか、出産とか、仕事とかしてる中で私はこうやっていて、本当に生きていることが不安なんです。ストレスなのかもしれない。社会で生きていけるかわからない」
「その状態なら、そう思うと思う。でも、僕は気楽な人間なんだ。みんながどうこうしていようと、僕には関係がない。僕は自由にやっている。僕には社会がない。君は不安だというけど、その『社会』は、いったい誰なんだと思う?」
「〇〇さん」
「はい」
「行きましょう」
アイリスはみんなに頭を下げた。パームは悲しそうに、自分の名前を書いたノートの紙切れをアイリスに手渡した(私の提案だった)。
「また、会えますよ」
僕は、
「無理だけはしないようにね」
と言って、アイリスに手を振った。