はてなキーワード: 証左とは
ありていな話、「わかりやすいエンターテインメントフィクション」は前近代的価値観でないと成立しにくい
たとえば、私的な問題に対する司法権力を無視した暴力による解決、私情による復讐での殺人、近代的な企業のビジネスライクな上下関係にはない濃密なロマン性を持った主従関係、所属集団が敵対しているゆえ結ばれない男女……等々
おかげで、それらを描いた作品を作ろうとすれば、時代劇とか異世界ファンタジーになるのが通例
現代劇でその手の要素を描こうとしたら、「現代に生きてる前近代=侠客アウトローの世界」ぐらいしかないのだ
現実の生活においてはとっくに、ヤクザや不良や暴走族を嫌う人間の方が多数であろう
高倉健の任侠物映画や深作欣二の実録ヤクザ映画が若者の基礎教養みたいなもんだった60~70年代に比べれば、ヤクザも不良もエンターテインメントの世界においても随分と隅っこに追いやられた方だと思う
しかしながら、フィクションの世界において現代においてなおヤクザが都合良く使われているのは、みんな心の奥底では「近代の自由・平等ってつまんない、前近代的な暴力性や主従の束縛などがあるほうが”ドラマとしては”面白い」と思ってることの証左
衣食足りて礼節を知るというけれど、あくまでエンターテインメントとしては、平和な時代になったからこそ、むしろみんな前近代的なものを楽しく思うのさ
政策的には存在を許さないように締め付けているヤクザだが,漫画の題材として取り上げられることは多い.
直近ではBack Street Girlsやヒナまつりなど,アニメ化までする例もある.
ピカレスクとかダークヒーロー的描写をされることはかなり昔からあった印象だが,
コンクリに詰められたり,会長の身代わりを用意するために洗脳する様子をギャグとして扱う表現には
これ,笑えるには笑えるけど社会的にヤクザに許容的なのかな?と疑問に思うのだけれどどう思う?
信条としては検閲には否定的なのでどうこうしろという話ではないのだが,このあたり他の人はどう考えているのかなと.
一歩引いて考えるとヤクザをただコケにするのではなく,普通のギャグとしてアニメに流すというのはヤクザが広く受け入れられているという証左なのでは?
コメ見て,週ジャンでも家庭教師ヒットマンREBORN!,ニセコイ,ぬらりひょんの孫と主人公がヤクザという漫画はいくつもあるが,
ヤクザがテンプレ,属性として広く浸透しているのが背景にあるのだろうなーと思えてきた.
いずれもヤクザ要素はほぼない,あるいは仁義くらいで,別に「仲間を大切にする」という性格に置き換えてもおそらく問題はないが,
設定としてヤクザの方がある程度の話の広がりが保証されるのだろう.
居住地的にヤクザとは縁遠い生活をしているが,そのような人が大多数だとしたら
それは日々同じ事の繰り返しを続けている事の証左に他ならない。
要するに概ね生活に変化が無いから、どうしようもなく飽きるのだ。
物書きなら図書館にでも行ってみると良い。
当然探すといった手間はかかるが、何時間でも読める物、参考になる物がいくらでもある。
料理を覚えるのも良い。
美味い物とは、結局は自分の舌に合った物だ。突き詰めれば、自分にしか作れない。
健康に良い物、飽きがこない物、保存に向いた物、
レシピを探して自分なりにこうだ、と言える物に仕上げるべく研究する。
これだけでも一生ものの暇潰しだ。
原付でも買って、慣らし運転ついでに村や渓流を見に行くのも良い。
娘が休校の電話がかかってこないので学校に行かねばならんと言う。
台風が来ているし、このままなら午後から放課になるから休めば良いと言うも、クラスメイトや友達からズル休みみたいに言われるのが嫌だと言う。
親の言うことが聞けないのか、と馬鹿の一つ覚えみたいな押しつけはしたくないが、それに近いことを言い、従わせてしまった。
学校に行けなかったことで、とても落ち込んでいる。信じられない。
こちらが悪者にならなければ、こんな状況でも安全を選ばせることすら出来ないなんて、教育の敗北を感じてしまう、というのは言い過ぎだろうか。
そもそも当日の朝になるまで休みかどうかわからんというのも意味不明だが、
平成も終わろうとしている現代に、電話で連絡回してる上、回線がパンクして繋がらないのもふざけている。
それは、悪天候の中飛び出しても、自分たちは絶対に死なない側だという証左ではないと思っている。
ある程度の予測ができている事象について、最悪のケースを想定して大事をとらせるのは、そんなにも愚かな振る舞いだろうか。
今後もこうして悪者になり続けないと、もしもに備えることすら出来ないのだろうか。ひどく悲しくなった。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
ここだけの話、私も少し前までは誰が作ったか見分けがつかなくてな。
今でも百合とか薔薇とか、右とか左とか、リベラルの種類やPCあたりは正直なところ記憶が怪しい。
ブクマの多さがホッテントリに密接に関係している以上、「ブクマしている人間がしょうもないから」というのが答えになってしまうな。
まあ、あくまで君の主張に則った上での回答だが。
つまり、その「“しょうもない”中に君が含まれていない」というのが本質的な回答になる。
君がその“しょうもない”人間に加担した覚えがあるなら自明の理だが。
今回学ぶべきは、「大局的に見れば、しょうもないモノの方が遥かに多い」ということだ。
その次元内では、しょうもないと思っていないからブクマしているかもしれないし、思っていてなおブクマしている人間だっているかもしれない。
幸か不幸か、私の質問会場はしょうもなくないことが多いが。
スープにできた膜を食べる仕事も大概だが、こっちはまだ理解できる方だからな。
昔の日本でも敵討ちは認められていたから、そんな感じになるだろうな。
そういったものを題材にした演目もいくつかあるので、私刑行為ってのは古今東西需要があったわけだ。
私が知っているレベルの時代劇とかでも、基本的には悪い奴らを非合法な手段や、超法規的措置で成敗するものが多いしな。
とはいっても演目になる程度には、理想と現実が異なっていることの証左でもあるが。
多くは返り討ちに合うか、そもそも仇相手と出会うこともないまま旅の途中で死んでいたようだ。
武家とかは仇を討たないと家督を継げないなんていう風潮もあり、嫌々やらされることも珍しくなかった。
つまり何かを公に認めるということは、しがらみも多くなりやすいってことだ。
国会前でデモを起こしたLGBTたちは生産性がないと言われたことに対しそれが図星だったから行動した。
人生を、特に子供を作ることを生産性という尺度で測っていいか悪いかは各人の意見であるのでどうでもいいが
子供を作ることが生産性に寄与するものであるという意見は、「子供を作ることは生産性がない」という選択肢と2択で問えば
前者のほうがより納得しやすく誰もが思っていることだということに疑問の余地はない。
子供が作れない、あるいは子供を作らない夫婦がLGBTほどにあの意見に反応していないこともその証左である。
すでに自動車はヒトより相当速く進めるし、ブルドーザーは力士何人分もの怪力。
コンピュータも、数値に置き換え可能な情報なら、検索処理などすでに人間を凌いでいる。
特化したことなら単体の人間を超えたチカラのある機器はたくさんあるし、人間はうまく利用している(たまに犠牲になってしまうが)
尤も、AIは今までの機械と違い、AI以外の装置と繋がってやりとりしやすい点では今までの単体の機械と性質を異にしてはいる。そこがいまクローズアップされているということは、自分以外と繋がって(対人でも動植物や道具でも)うまくやりとりすることが(少なくとも今までは人間固有の)大きな特徴である証左なのだろう。
「人工知能」自体は、いくら進化しても人間のすべての領域を追い越せはしないだろうけど、人間が欲してきたことの大部分を代替してしまうかもね。
女へのエロ目線や人権軽視が世に溢れてるのを見て「これってありなんだ、私もやろーっと」って素直にそれの男版創作する女と、「全部ゾーニング必要に決まってんだろ!」と怒る女と、女向けの創作には男向けの創作の百倍繊細な男がいる。
(男比率が多いだけのアニメをBL扱いしたり、『魔女が育てた子が大きくなったら魔女を守る』というテンプレ創作は『小学生をレイプしてぇ』と同じだと主張したり)
なお件の幸色のワンルームは絵柄や雰囲気からして恐らく女子中学生辺りの受けを狙っていると思われるが、何故か批判に対して「ポリコレ棒」「クソフェミ」と反論するのは大人の男性が多い(肝心の中学生女子は「好きなのに悲しい」ぐらいである)。
それはこの作品が『被害者バッシングが強い事件をモチーフにして被害者バッシングに沿った展開の話』である証左とも言える。
あの作品の雰囲気、ジャンルでいえばカゲプロみたいな中二病御用達だぞ。君ら『誘拐犯正当化物語』じゃなきゃ知りもしなかったか散々馬鹿にしてただろうね。
しかし『誘拐犯に自らついていく美少女』『美少女をストーカーしていたが結果的に彼女を虐待親から救った誘拐犯』っていう、あの時被害者バッシングする奴等が言ってたことを具現化した漫画だからこそ、被害者バッシングしてた奴等にも届いたのだ。
ましてや実写化キャストが「こんなことあるかも」とか言い出したので、こいつぁやべぇと思われるのは当然。
「中学聖日記」については未読なのでなんとも言えない。
「ホンモノの親なら子供を見捨てない」
「ホンモノの親になることに憧れていたんでしょう?」
カンヌで最高の賞(パルムドール)を約20年ぶりに獲得した邦画「万引き家族」では、警察によってこんな言葉が次々と主人公たちに投げかけられる。つまり、主人公たちが身を寄せ合って創り上げた家族は、血縁関係を持たないゆえに“ニセモノ”であり、紐帯の根底に打算的なものを含んでいるから、ちょっとした圧力ですぐに瓦解するのは当然、というわけだ。
杓子定規に主人公たちを攻め立てる警察はとても憎たらしく描かれており、観客は「お前ら警察が一体何を知っているんだ」とイラッとさせられる。だが、一方で我々は日常生活において、“ホンモノの家族”という思い込みに囚われている。
実は、現代のわれわれが当たり前に持つ家族のイメージ像は近代的な産物だ。例えば、E・バダンテールの著作「母性という神話」では、17~18世紀のフランスにおいて、子供の大半が産まれてすぐに里子に出され乳母に育てられる風潮があったことが示され、“母性愛”という概念が人類史において常に家族間に君臨してきたわけではないことが明らかにされる。統計によれば、同時代に毎年パリで洗礼を受ける新生児2万人のうち、約7千人が捨て子であった。日本でも一昔前の農村を思い出せば分かるだろう。子供は「小さな大人」であり、安価な労働力に過ぎなかったのだ。
歴史を遡ると、「血縁関係があるのだから、自分を犠牲にしてでも、親は無償の愛を子供に授けて当然」という考え方は、ここ100~200年特有の理念に過ぎない。ざっくばらんに言ってしまえば、家族という概念が「血の繋がりを契機として、様々な世代が身を寄せ合って互いに助け合うべき存在」から、「血が繋がっている以上は、無償の愛で繋がり合うべき存在」へと変化したのである。
言うまでもなく、現代に生きる以上、誰だって愛のない親より慈愛に満ちた親になりたいし、子供をこき使う親など御免こうむりたい。しかし、「打算抜きで、無償の愛で繋がり合う家族こそがホンモノだ」というとき、我々は家族に対して、実際にはありえそうもない“完璧さ”を要求している。
完璧さを家族に要求する社会は、その基準を満たさない親を徹底的に許さない。さいきん東京・目黒で起きた5歳女児の虐待死に対する、社会のいささかヒステリックじみた反応は、その証左と言えるだろう。もちろん、こうした社会の過剰反応で救われる子供もいるし、未然に防がれる悲劇もある。
しかし、そうした社会は同時に、血縁関係によって成り立っている家族こそを“ホンモノ”とするがゆえに「血の繋がった親が実の子供に愛を抱かないはずがない。なぜなら、親は無条件に子供を愛する存在だからだ」という循環論法的な前提に拠っている。残念ながら、これが近代特有の“神話”であることは、すでに述べたとおりだ。先に挙げた目黒の事件でも、日本特有の親権の強さが問題になったが、「ホンモノの家族」への神聖視と親権の強さは無関係でないはずだ。
「万引き家族」でもやはり、虐待から逃れニセモノの家族の元で幸せな時間を送っていた子供は、最終的に虐待を行っていた実親のもとへと返される。ホンモノの親は、ニセモノの親と違って“愛”を持っているはずだ、という社会の思い込みが、結果として子供を再び悲劇に追いやるのである。
さらに悲劇的なのは、親役を担っていた2人(リリー・フランキー、安藤サクラ)だ。彼らは事あるごとに「血が繋がってないからこそ、逆に絆が強いんだ」と述べるのだが、その実“お父さん”“お母さん”と呼ばれることに固執している。一見すると「ホンモノの家族」という社会通念から自由であるように見えて、やはり彼らもまた近代が家族に与えた役割を引き受けることから逃れられていない。
したがって、リリー・フランキー演じるニセの父親が子供を裏切って逃げようとした理由も、血縁関係が両者の間にないことに求められる。ホンモノの父親なら子供を裏切るはずがないのだから。こうして、彼は「お父さん」と呼ばれることを諦め、単なる「おじさん」であることを自ら認めるに至る。
ニセモノは決してホンモノになれず、ホンモノにはいささかの弱さも認められない。仮にその弱さがどうしようもない貧困に由来するものだとしても、この息苦しい社会において弱さはニセモノの証なのだ。
別に打算的だったっていいじゃない。弱い一面があったっていいじゃない。ホンモノ、ニセモノどっちだっていいじゃない。そこに幸せがあればさ。