はてなキーワード: 突発性難聴とは
私は小学校の頃から中学卒業するまでいじめられ、それをバネにして勉強して
今は誰もが聞いたことがある日本企業でエンジニアとして働いている。28歳である。
大学や会社の同期からは、できる人、すごい人だと思われているんだけど、実際は全然そうじゃない。
発達障害も双極性障害も、軽度の対人恐怖症ももち、昨日はついにうつ病も認定されてしまった。
ついでに去年突発性難聴を患って、片耳も聞こえない。
外では一生懸命できる私を繕っているだけ。
中身はだらしない、集中力が極端に散らばってしまう女で、精神的疲労も、もうへとへとである。
家族にも上司にも友達にも、精神障害を持っていることは打ち明けてないし、打ち明けられないと思う。
でも周りからはできる人を期待されているし、自分には重い仕事もどんどん降ってくる。
どうしたら、このギャップを埋められるんだろう。
2週間ほど前に人生二回目のライブハウスに行ったら騒音性難聴になりました。
やっとこ聴力が回復したのでどんな感じだったのレポです。
注意喚起あるいは騒音性難聴になった人の参考にでもなれば嬉しいです。
ついでに嬉し恥ずかし増田デビュー。まあ文章上手くないので箇条書きなんですけど
0日目:
・ライブ終了後,音が聞こえにくい状態に加えスピーカーがあった左側の耳で耳鳴りがする状態に(ピーという高音とノイズのようなシャーシャーした音)
・騒音性難聴は知っていた(http://sauce3.hatenablog.com/entry/2015/05/11/082730)ため,やってしまったかと背筋が冷える
・寝たら治ることにわずかに期待し就寝
1日目:
・午後3時ごろ耳鼻科へ。聴力検査の結果、左耳のみ4000Hzの聞こえが悪い
・あっこのグラフ進○ゼミ(上記のリンク先)で見たことある!状態
・騒音性難聴と診断され、アデホス,メチコバール,プレドニンを1週間分処方される
2~4日目:
・大人しく薬を飲む。ステロイド(プレドニン)は飲み忘れダメゼッタイ
・なるべく早く寝る,なるべく安静にする。安静って何だろうと悩む
・相変わらず耳鳴りはするが,徐々に治まってきているようなそうでもないような
5~7日目:
・このあたりから1日の中での耳鳴り/耳鳴り無しの時間が半々くらいになってくる
8日目:
・再度耳鼻科へ。聴力検査の結果,高音域の聞こえは戻るも何故か左耳のみ低音域の聞こえが悪化
9日目~14日目:
・ステロイドが無くなったため気が抜けて10回に1回ぐらい薬を飲み忘れる
・耳鳴りは完全になくなる
15日目:
というわけでした。自分の場合片耳だけ症状が出ましたが,ぐぐってみると両耳とも症状が出るのが一般的なのか?といった感じ。逆に突発性難聴は片耳だけ症状が出ることが多いらしいですね。
騒音性難聴も突発性難聴も,とにかく早期治療をしないと聴力が回復しなくなってしまうそうなので異変を感じたらさっさと病院行きましょう。音楽聞くのが好きなのに音楽を聞いたせいで音楽が聞けない体になるって悲しすぎますし。
同じ音量を聞いても騒音性難聴になる人ならない人がおり,体質でどうしようもないらしいです。
今回は聴力が戻ったので一安心ですが,これからはライブに行くとき耳栓するマンになります!隣の人が耳栓してても怒らないでやってくれよな!!
ついでに心配な人はぜひライブに耳栓もって行ってください。2000円くらいで見た目も目立たない良いやつ買えます。からだだいじに。
前者に近いデータはあった
http://idsc.nih.go.jp/iasr/24/279/dj2793.html
ムンプス難聴の発生頻度は、 Nelson教科書の記載(4)などをもとにムンプス患者1万5千人に1人といわれている。
日本においては1年間に100万~200万人がムンプスに罹患するといわれているので、
計算上は1年間に70~140人のムンプス難聴が発生していることになる。
しかしながら、 最近の報告を参考にすると、 母集団が小さく局所的な調査ではあるが、
200~ 400人のムンプス患者に対して1人の難聴発生が報告されており(5, 6)、 その発生頻度は決して低くないようである。
また、 耳鼻咽喉科においては比較的多い疾患である突発性難聴として診断された症例のムンプス特異的IgM抗体価の陽性頻度を検討して、
突発性難聴の約5~7%はムンプスによる不顕性感染の可能性があることが示唆されている(7)ため、
ムンプスウィルスってのがあって、それに感染する人が年間100~200万人、
そのうち難聴の症状が発生するケースが200~400分の1
「日記を書く」ということは一種の精神安定のためだと個人的には思っています。
今年が自分にとって良い年であってほしいから、記録していきます。
(はてな記法初挑戦なので使い方間違ってる気がする)
ただの一般人のコスプレをしたダメ人間なので気にしないでください。
=====
現職が嫌いではないです。
ですが、ワークライフバランスが崩れているのも現実です。
急激に食欲と睡眠欲が増加する、体調を崩しがちになる、突発性難聴みたいな症状がでる等、
主にストレスが原因なんだろうけど、それをなくすためには転職しかないのかな、と思っています。
うまくいくかは別として、有給消化はしたいなーと思う日々。
(その問題等はやめたら書くかもしれない)
気に食わないというか、今まで自分が出来ていた事が、色々と出来なくなっていく自分に苛つきたくない。ストレス溜まるし。
腰痛とか、足のむくみとか、解消したいことはたくさんあるのですが、
まずは体調のせいで自分の休みの日を寝て過ごす日をなくしたい、というのが第一目標です。
本当は女子力高い人みたいに「毎日ヨガする!」とか宣言すべきなのかもしれないのですけど、
使っていた、というより、使いこなせていなかった、というのが正しいです。
今更ですが、その机をただの置き場にしていた状態だったので、なんとかせねば、と思って捨てました。
「日記を書く」ということは一種の精神安定のためだと個人的には思っています。
今年が自分にとって良い年であってほしいから、記録していきます。
(はてな記法初挑戦なので使い方間違ってる気がする)
ただの一般人のコスプレをしたダメ人間なので気にしないでください。
=====
現職が嫌いではないです。
ですが、ワークライフバランスが崩れているのも現実です。
急激に食欲と睡眠欲が増加する、体調を崩しがちになる、突発性難聴みたいな症状がでる等、
主にストレスが原因なんだろうけど、それをなくすためには転職しかないのかな、と思っています。
うまくいくかは別として、有給消化はしたいなーと思う日々。
(その問題等はやめたら書くかもしれない)
気に食わないというか、今まで自分が出来ていた事が、色々と出来なくなっていく自分に苛つきたくない。ストレス溜まるし。
腰痛とか、足のむくみとか、解消したいことはたくさんあるのですが、
まずは体調のせいで自分の休みの日を寝て過ごす日をなくしたい、というのが第一目標です。
本当は女子力高い人みたいに「毎日ヨガする!」とか宣言すべきなのかもしれないのですけど、
使っていた、というより、使いこなせていなかった、というのが正しいです。
今更ですが、その机をただの置き場にしていた状態だったので、なんとかせねば、と思って捨てました。
○朝食:なし
○調子
普通。
今日は用事もないし、休日なので就職活動の連絡がくることもないので、のんびりしていた。
働かないと! みたいなそわそわ感もなく、至って平穏に時間を過ごせていると思う。
僕はちょうど一年前のこのぐらいの時期に「突発性難聴」という病気にかかっており、
またそれかなあ? と勝手に思っているのだが、耳鼻科に行っていない。
ちょっと本格的にお金がないので、耳鼻科に行く資金を捻出するのが難しいのだ。
(とかいいながら、コンビニから上げを買ってる辺、ムジュンだよなあ)
よく考えると、最初の一ヶ月は給料ないというか、貰えるのが一ヶ月先だったりとかするから、
今後就職することを考えると、お金はよおく考えて使わないといけないし、色々と難しい。
現在進行中(三社)
K社:書類選考
A社:書類選考
T社:面接
去年身内が生きるか死ぬかってとき、突発性難聴なってしまって、なんだか耳の具合が悪いんで、なかなか聞こえていいないので話通じてなさそうだったら遠慮なく言ってくださいってしゃべってた。
で、結局死んだんだけど、耳のことしゃべるときへらへらしてたのが悪かったのか。
年度末で、え、この年でそんなところに転勤するんだ、っていういわゆる栄転みたいなのした人がいて。
その子、自分とおんなじことを、2ヶ月後とかに他の人に吹聴してまわっていたらしい。
それだけじゃなくて、
「管理職が私のことを何も考慮していないのにあの仕事を引き受けてしまって悪化して」
ということになっていたらしい。
で、その話題が出るころに、あーわたしもなりましたよ突発性って言ってもだれーも覚えていなかった。
その人と話をしていて耳の聞こえについて思ったことは一度もない。
自分の耳が突発的に悪くなったのは現実で、それは自分はわかりきっててとても不自由だったんだけどさ。
で、そうやってうまいこと転勤できた彼女にとってもそれはよいことだったんだろうけどさ。
耳が悪くなった=管理職のパワーハラスメントのせい、説を唱える彼女のせいで自分の耳聞こえないは相乗効果でうそくさくなったんだろうなあ。
言ったもの勝ちで、それをそうやって道具につかう人がいるけれど、でも自分はわかってほしい人にはわかってもらえたと思うからそれでいいや。
ギャンブルはしない、たばこは吸わない、お酒は休前日と休みの日に缶ビール一本、車の運転は超安全で一度も違反なし。子供二人を奨学金なしで私立大学を卒業させたし、定年後も65になるまで働いた。普通に真面目な人なんだとは思うけど、好きになれない。
昔「お前を養ってやっているのに、生意気な口をきくな」と言われてから、あまり好きではなくなった。これは義務教育は終えていた、高校生の時の話だ。確かに働くという選択肢もあるのに進学させてもらっているのは事実なのだから、反論はできないな、と思ったので黙るしかなかった。
誰かに何かをする事は父にとっては全て「してやっている」事なのだ。
買い物に行く時、「車で送ってやるしかないじゃないか」。電球が切れた時「電球を取り換えてやるしかないじゃないか」。
家族同士で諍いが起こると過去に自分がやった「やってやった」事を持ち出して、自分が優位に立とうとする。
定年後、家にいる時間が長くなったのでテレビを見て過ごしている時間が多い。ちなみにうちは居間にしかテレビがない。あまりテレビを見る習慣はないけれど、父親がチャンネルを占有しているので、居間にいるのが苦痛になって寄り付かなくなった。なんか、威圧感があって。
会話しても噛み合わないので会話したくない。一緒に暮らしていて、顔を合わせても私からは話しかけない。あちらから話しかけられた時だけ、無視しない程度の言葉を返す。
何十年も仕事をしていてお疲れ様、とは思う。仕事で管理者の立場にいたので、今度は家の中を管理しようとして、母のテリトリーだった家事にまで口出しをするようになった。料理を手伝う、とかなら可愛らしいものだけど、掃除や片付けの仕方を否定したりとか。今まで家事には見向きもしなかったのに。
母はストレスで突発性難聴になった。私もストレスを強く感じてる。私はいいんだ、家を出ていけばいいから。
休みの日が気が休まらなくて、一日中一緒の母は一体どんな気持ちでいるんだろうと思う。
さっさと死ねばいいのに、と休日に何回も思ってしまう。これって親に対してすごくひどい事言ってるんだろうけど、やめられない。駄目だなぁ。
ドコモショップに行けば自分が作ったプロダクトが入ったものが見られたから、
ただまあ、それがモチベーションにつながるかといえば全く別物だったね。
iPhone一筋だというのもあるけど、仮にプロダクトが好きで好きでたまらなかったとしても
成功報酬型のモチベーション獲得方法(2chとかでユーザ評価を見るような)は
1Qサイクルでプロジェクトを立ち上げ、終わらす忙しさにあって続かなかったろう。
設計もエクセルもJavaもCも大っ嫌いで、プロダクトにも関心はもてねえ、
そんな中で今まで仕事してこられたのはとりあえずリーダーが突きつけたWBSと目標に
沿うこと以外全く考えてこなかったからだな。
二十代のほとんどはつまんねぇ仕事ばかり詰め込んだが間違ってたとは思っていない。
もとからものつくりは好きじゃなかったし、仕事の内容は考えるが仕事をしてる理由は考えない、
そんな社畜で馬車馬のように一本のレールを走ることが結局はモチベ、仕事をする燃料になったよ。
とはいっても仕事はやはり選ぶべきだ。あるいは選べる人間になるべきだったんだ。今までの俺はたまたま幸運だった。
今思い返すとどうして自殺しなかったのか不思議なくらいだった。
今までいた田舎から東京に放り出されて一人暮らしを始めたことは、僕が過剰な開放感と万能感を持ってしまうのに十分だった。
自力でお金を稼ぐ快感に酔いしれた。大人だと錯覚した。家賃は仕送りしてもらっているのにも関わらず。
そしてパソコンを買った。免許もとった。バイクも買った。モノには困らなかった。
そうして自分の能力を錯覚した自分が次に手を出したのは、同人活動だった。
それなりに秋葉原に通ってはいたが、幼い頃から絵を描いてきて絵描きに憧れていたというわけでもなかった。
それは単純だった。クリエーターがかっこよかった。
というのも、周りの友人がヲタク的素養が半端無く、原画家やシナリオライターは神扱いされていた。崇拝されていた。
ヲタク世界で崇拝されることは世界の全ての頂点に思えていた。西又葵は日本で指折りの金持ちだと思い込んでいた。
知り合いの中にたまたま、コミケですんなり壁サークルに上り詰めた人がいた。
当時は無意識であったがどうも自分は顔を広げることは得意であったようだ。
その人にアドバイスを受けながら僕は元気よく描いた。
一応、高校の頃勉強がつまらないと落描きをしていたことはあった。とはいえその程度だったので最初の評価は酷いものであった。
それをバネにして、描き続けた。
ちなみにこのあたりで学校に行っていないのが親にばれ、退学してフリーターになった。
週6で夜勤に入り、日中は単発バイトがあるときはそれをこなし、ないと描いた。
そうして2年ぐらいしたところで、ふとある新商品を見て電撃が走ったのだ。
「これは流行る」
ずっと流行ジャンルに乗り遅れていたが、何故かその時は確信があった。
日中のバイトをしばらく減らして、描いた。
売れた。
そして僕は、部数にして4桁出せる同人作家になった。
相変わらず週5で夜勤のバイトは入れていたので収入はなかなかのものだった。
新しいバイクを買った。車が視野に入った。程度のいい中古のBMWすら乗り回せるんじゃないかと皮算用した。
いくつか商業の話は来ていた。
しかし、ラノベイラストやピンナップなどの単発仕事は何故か胡散臭いものだと当時の自分は考えて断っていた。
そうしているうちについに来た。
エロゲー原画。しかも自分を主軸に据えてくれるという。ふたつ返事でOKした。
そして、転落が始まったのだ。
待てど待てど上がってこないシナリオ。
自分を拘束するための「仕事のための仕事」、長ったらしい会議が繰り返された。
そうして消耗しきった頃、ついにシナリオが上がってきた。
イベント画の指定も一気にきた。
どう見ても絵にならなさそうなシチュエーション、どう見ても惹きつけなさそうなエロ分の少なさだった。。
同人経験をばかにするプロも多いが、その同人経験ですら、これは売れないと確信した。
そもそもシナリオに凝った結果、原画にしわ寄せが来るという状況が大間違いなのだ。
悲劇的なことに、プロデューサーはシナリオライターに心酔していた。
僕は描かなければならなかった。
明らかに売れないであろう失敗作とわかっていながら、描き続けなければならないことがどんなに苦痛か。
そうして、大失敗作はついに世に送り出された。
結果は散々だった。
自分たちのチームも加担したのかは不明だが、運悪く会社がちょうど傾いていた時だった。
社内はギスギスしていた。次の製作の予算がでるかわからなかった。
プロデューサーはだんだん「俺の言うことに口を出すな、気にくわないなら辞めろ」というスタンスになっていった。
相変わらず、シナリオライターには甘かった。
初めて人間に対する不信感が湧いた。
それがトリガーになって、今まで知らなかった他の世界に対する興味が湧いてきた。逃避の意味もあったんだろう。
お金を稼いでいる人や社会的に何か成し遂げている人のブログや本を、嫉妬心と不快感に苛まれながら読み漁った。
世界は果てしなく広かった。西又葵はそこまで金持ちではなかった。そして自分は仕事の本質を知りつつあった。
いつの間にか、生活リズムという概念は消え去っていた。なんども倒れた。精神科で薬を処方された。
毎晩薬を飲んで眠りに就く時間だけが幸せだった。数時間で目が醒めてしまうのだが。
突発性難聴を繰り返し、耳はもはやあまり聞こえなくなっていた。
しかし懲りずに自分の所感と成功者の言葉からヒントを得た、今後のブランディングをプロデューサーに説き続けた。
駄目だった。どころか、よりワンマンになっていった。
そして自分はひとつの疑念を確かめるべく、こっそり外注で他のエロゲーの製作を手伝いはじめた。だいたい予想通りだった。
時が経ち、作品が送り出されていった。もちろん、どれも売れなかった。
そして、僕はそっと、一つの夢の後片付けを始めた。
それからまた時が経った。
僕は年収4桁を数えられるようになった。
相変わらず忙しいことに代わりはないが、前向きに目標が立てられるいい業界、いい仕事だ。
仕事は突き詰めればつまりサービスであり、人に届いて初めて価値を生む。
そして、自分のした仕事の成果というのは、その仕事の品質とそれを受け取った人の掛け算だ。
エロゲー業界はあまりに受け取る人が少なすぎる割に、前者の品質だけは異常に求められる。
あまりにアンバランスな掛け算なのだ。
世界が見えていなかった過去の自分ということを引き算しても、まだまだ、後者の「受け取る人の規模」をしっかり理解して仕事を選べている人は少ないと思う。
資本主義社会が続く限り、この掛け算さえ忘れなければ、どんな状況からでも這い上がれると思う。
そして、絵描きさんへ。
本当に自分の描きたいものを描きたいのならば、プロにはならないことだ。同人の方がよっぽどピュアだ。
突然右耳が聞えにくくなったんですよ。
どうせ耳掻きのしすぎで耳の奥を傷つけたんだろうと思って2日程ほっておいたんだけど、昨日の夜なんとなく「片耳が聞えにくい」とかそんなキーワードでググってみたら、突発性難聴の可能性もあるとかなんとか。
物凄くびびって泣きながら近所の耳鼻科をググりまくりですよ。ビバ!インターネット!
しかしですよ。うちの周りの耳鼻科って全部木曜が休診日なの。ふざけてるの?耳鼻科の医師みんなでゴルフとか行くために休みを合わせてるの?そんな親睦いらねえよ。普通は病院同士で休みをずらすとかしてどんなときにでも患者を受け入れるのが普通じゃないの?
馬鹿なの?死ぬの?
こっちはもう有給つかって仕事休んじゃったんですよ。明日も有給つかって休むとかさすがに無理なんですけど。今日これから仕事行けって?病院どこもやってないってわかった時点でどうでもよくなって缶チューハイ飲んじゃったよ昼間っから!昼間っから飲むお酒はいいいですね!
テレビやゲーム、音楽などの音の出る娯楽は長時間続けてると気持ち悪くなってくるし(短時間なら平気)他人のブログでも読み漁るか本でも読むかしかできないじゃん。つーか今から不貞寝する!!で、夜眠れなくなってまた涙目になる!もーいや!
本格的に入院したり自殺未遂したりで病院のお世話になり始めたのは7年くらい前、家に泥棒が入って生活費を15~20万程盗まれて精神的ストレスと恐怖感が増大してからだが(しかも犯人は親戚だったもんだから以下あとで)、私が小さな頃から元増田の日記にあるような性格傾向があったから、多分その頃から少しずつ病を得ていたんだろうと思う。
ただ元増田の家と状況が違うのは、弟は一時期色々あって大学を中退しながらも今は仕事しながら一人暮らしをしていることと、母親が中途の盲聾者ということだ。私が中学校位まではまだ少しは見えて聞こえていたのだが、今は全く。(でも母親の部屋には双子の子供がいて、それが何かを言っているのが聞こえているそうだ)目は網膜色素変性症、耳は高熱を出したことで突発性難聴で、私と弟が生まれる間に二つの病にかかったらしい。亡き祖母の話だが)
こういう状況だったから小さい頃から母方の祖父母と同居し、祖母が母親がわりに私の面倒を見てくれた。
祖父は賃貸業をやっているから(まだまだ元気な昭和3年生まれだ)ずっと家にいて、私は幸い寂しい思いをした事がなかったが、コロコロ変わる母親の機嫌に合わせるのが苦痛で、祖父母と折り合いの悪くなった父母と弟が一時期近所にある祖父の借家に引っ越した時も、私だけは祖父母の家に残って祖父母と一緒に暮らしていた。母は祖父母よりも遠い人間だった。
あんな女性にだけはなりたくない、としか思えなかった。
ヒステリックな母親の性格がどうしても好きになれなかった。「お母さんはかわいそうだから大切にしておやり」と祖母に言われて育ったが、私には無理だ、としか思えなかった。私が小さな頃はまだ補聴器を使えば音が聞こえていたが、中学の頃には聴力がほとんどなくなったから筆談しか出来なくなり、高校時代になると、視力もほぼ無くなったから、手のひらに指で文字を書かないと意思を伝えることが出来なくなった。
何かを相談しようにも、その過程を踏むのが面倒で、自分の進路を決める時は大概、家族には事後承諾だった。
高校も大学も第一志望を決めてから話をした。
幸い大学は第一志望には落ちたものの県外に出る事が出来た。祖母が土地を一つ売って事業に失敗した父親の借金を精算し、かつ私の入学費と1年生の間の授業料にあててくれたということを後で知った。2年からは授業料免除と奨学金とバイトで、家からの仕送りがほとんどない状態で大学に通えた。18切符で東京に行ってコミケに参加も出来た。
家に母がいない、家族の事を考える必要がない、ということがどれだけ気楽か。本当に幸せな時期だった。
ただ、私は地元に帰らねばならなかった。母親の面倒を見なければならないから。
やがて就職活動の時期になる。地元で就職先を探さなければならない。その時期から37~8度の微熱が続き、一日起きられないこともしばしばだった。今にして思えば多分、逃避行動でしかなかったのだろうと思う。そして時は折しも就職氷河期。
結局仕事の見つからないまま地元に帰り、とりあえずアルバイトで食いつないで公務員試験を受けよう、と思っていた時に、祖母にガンが見つかった。余命1年。
呆然とした。祖父と伯母二人と一緒に、入院していた病院に通った。母はその頃、自分の部屋に引きこもって、食事と風呂の時以外は部屋から出ないようになっていた。私には母の相手をしている精神的な余裕はなかった。祖母は手術をしたが体力がものすごい勢いで落ちていくのが傍目にも良くわかった。私はまだ何も恩返しをしていないのに。私の誕生日から2週間後にあっけなく祖母は逝った。
「お母さんの面倒を見てあげてね」というのが祖母の願いだった。しかし母との距離感を埋める努力すら、私はしようとしなかった。
私にとって母親以上に母親である存在だった祖母を亡くして、何もかもがどうでも良くなった時期に、前述した泥棒騒ぎが起きた。
母はしょっちゅう出歩くことが出来ないから、手元に生活費を持っていた。それをごっそり持っていかれて、恐怖と悲しみに泣き喚く母と一緒に私も泣くしか出来なかった。続けて2回。父親が金銭を管理するようにし、部屋に鍵を二つつけたが、母親は昼夜を問わず「死にたい」と大声で叫ぶようになった。部屋の中にマジックで「死ね」という殴り書きがあちこちでされた。
私は母親の変化を受け入れることが出来なかった。そして家にいることが苦痛になった。事情を知っている友人の家に入り浸るようになって、家に帰るのは2週間に一度という有様だった。
ある日たまたま家に帰った時。2階から父親が大声で私を呼んだ。母親の部屋に入ってみると血だらけだった。母は手首を切ってわんわん泣いていた。
見舞いに行くことすら苦痛だった。しかし投薬を始めて、母親の精神状態は嘘のように落ち着いた。最初はリスパダール頼みだったのが、徐々にいらなくなった。私は相変わらず家に近づくことがしんどいから父親に任せっきりにしていた。
後日わかった事だが、盗んだのは従兄弟だった。従兄弟の母親である伯母は、母の頼みで買い物に出かけたりしてくれていた。
何もかもうんざりだった。
…とりとめがなくなった。そんなこんなで私もパニック持ちだ。今もストレスがかかることがあると寝入りばなに死にそうな気持ちになって飛び起きるし、コーヒーを飲むと発作が出やすくなるからあまり飲まないようにしている。
20代の頃は早く死にたいと思っていた。
でも30代になって厄年を超えて、「とりあえず生きててもいいんじゃね」とちょっとずつ思えるようになってきた。
ちょっと前にも母親が首吊って死にそうになって入院した。鬱血した顔を見て泣けてはきたが、「母が生きててよかった」と思えるようになった。
私には元増田さんのような情の深さはないし自分かわいいし懐も広くはないから、母親を受け入れることは一生出来ないだろうと思う。父親には任せっぱなしで済まないと思うけど、なかなか家に帰れない。ごめん。
網膜色素変性症は遺伝の可能性があるから、私も発症するかもしれないし、子供に遺伝するかもしれないと考えると結婚&出産はする気がないけれども、人生の伴侶を見つけた元増田さんが羨ましいな~と思ってしまう。私、心狭いなあ。私の分も幸せになれよこんちくしょう!
でも人をうらやんでても自分は自分だからしょーがない。私は事情を知って受け入れてくれている友人に心から感謝するしかない。
私に生きる場所をくれた人だ。ここがあるから、私はとりあえず生きていようと思える。公務員にはなれなかったけれど、正社員でもないけれど、とりあえず働いて生きてる。働ける体がある。仕事とは別に一生続けられる技術も身につけた。
そしてオタクバンザイ。漫画とアニメとゲームと小説がなければ、私はとうに死んでいただろう。
死んでも世間的には害がないんだろうけど、ここで死ぬのはシャクだからもっと生きてもっと働いてもっと本読んでWEB見てゲームして遊ぶよ。
私には支えてくれるものがたくさんある。けれども母にはない。今年は私にとっては正念場だ。後悔したくないからちょっとだけ頑張ってみる。
母の世界は、母の中にしかないのだ。目を閉じて耳を塞いでも、目も見え耳も聞こえる私では想像出来ない世界に母は住んでいるのだから。
それを肝に銘じておかないといけないなあと思う。
人格者にはなれない人間が、過去を整理するためにつぶやいてみた。
…こうやって並べてみてみると、自分本当にキャパ狭いな…。だから増田で書いたんだが。
ごめんねばあちゃん。頑張ってもう少しだけ母親に優しくしてみるよ…出来るといいなあ。