はてなキーワード: 狂信者とは
名前を伏せて顔隠さなきゃ言えないからな、だから名前を暴かれて顔が晒されたときの反応を見たいんだよ
会社の告発を悩んだ末にする奴隷くん、自分の界隈の気に食わない人を影で晒す陰湿女、思うようにいかない現実に怒り狂うKKO、人格も品位も疑うようなクズ発言してるクズ、壊れたレコードの様に同じことを叫ぶキチガイ、自分の信じるものこそが正義と信じて疑わない狂信者、パリコレクソ野郎
みんな白日の下に晒し上げられてほしい、そして発狂するなりごめんなさいするなり踊ってくれ
2chの●流出ほどの大炎上(界隈限定)にはならないと思うけど、確実にネットストーキング界隈が探りは入れる、そして「名誉永久ネットのフリー素材」が誕生する
@suzukiyuusuke3
今日までアニメはある種の人々(一般にオタクと呼ばれる)の信仰対象になっていた。それは新興宗教だった。以前、あるアニメをみろとそういう人達に奨められ、なんとか苦労して全話みてみた上で、おもに美術の批評言語を使って率直に批評したところ、その種の狂信者から大変しつこく誹謗中傷された。
それで私は気づいた。アニメは或る一部の人々にとっての正真正銘の宗教なのだと。信者の中に批評言語は持ち込まれない慣行になっている。だから私がちょっとしたきっかけ(アマゾンプライムビデオに入ってみた)で一時的にひきずりこまれたその業界中では、同調か全拒否どちらかしかできないのだった。
アニメは手塚治虫やディズニー辺りから流行しだした新たな映画の形式といえるだろうが、その商業芸術が主な客にしているのは一般大衆の中でも子供や、特に幼稚な大人達である。宮崎駿でさえ子供向けを前提にしていたから、総じて知的障害に近い社会不適合者を大勢ひきつける結果になるのは必然だった。
私が何とか苦労してあるアニメを全編みてみたのは、そのアニメのファンがネット上で制作陣を執拗に脅迫していたのを知っていたからだ。アニオタによる猟奇的事件を引き起こしている作品とは何かを確かめてみたのだ。結果はひたすら幼稚な中身で、反社会的な知的障害ボーダー層を煽っていたのだった。
京アニの作品は1度もみたことがないから中身については何もいえないのだが、昨今アニメをとりまく状況は嘗てのものとは全然様変わりしている。それは上述のよう反社会的で精神遅滞に近い人々が大勢、新興宗教として崇める対象になっているという点で、過去のアニメ界とはまるで質が違うのである。
アップルCEOのティムクック氏が京アニに同情の様なツイートをしていて私はこの事件について知ったのだが、彼はアイフォンの主要な顧客層である日本人全体の中でも、京都に新たな店舗を設置したところなどから、現代アニメ界をとりまく社会病理をまったく無視して単なるテロとして扱っていると思う。
他の大衆娯楽、たとえば(これも京都に本社がある任天堂に縁が深いが)テレビゲームとか、映画とか、漫画、小説みたいなものとアニメが「サブカルチャー」として近い位置づけにあるのは確かだが、現時点のアニメはほぼ深夜テレビなどで提供される無料の娯楽で、いってみれば下流の慰み物なのである。
村上隆氏はアニメの無教養(Lowbrow)な性質を、知的な文脈操作で欧米美術史に皮肉な位置づけで乗せることで有名になった。端的にいうとアメリカのポップアーティストが漫画に素材をとったのを日本ネタで流用したのだが、一時的に彼の援護的唱道者だった東浩紀氏らも、アニメに公民権を与えた原因だ。
なにがいいたいか。日本政府が麻生大臣や、東氏に親しい猪瀬都知事が在籍していた時期に、クールブリタニアを表層的に猿真似した文化政策であるクールジャパンでアニメにお墨つきを与えたのは、間接的に東京圏のスーパーフラッターが影響している。要はアニメの暗黒面は意図的に無視されていたのだ。
アニメは「わかりやすく」「子供に愛されており」「みなが大好きな」「誰にとっても望ましい」「外国人にも大人気で」「日本文化の象徴」といった凄まじい厚化粧で美化されてしまった。背後には労働集約的手描きの不合理な制作、過酷な長時間労働の地獄があり、知的ボーダーの客層による退廃があった。
たとえば同人誌という分類がある。二次創作という名目でアニメキャラに、変態性欲の性行為をさせる独自制作の漫画・アニメ作品を販売するとんでもない退廃主義的世界が、東京コミックマーケットを中心に勃興していた。石原都知事の時代には一部は18禁化されたが、堂々と非実在児童の性を含んでいる。
美術史の中ではバルテュスを筆頭に、その種の児童性愛の表現や、ギリシア美術とか江戸の春画などに由来した変態性欲的なエロス表現は多かれ少なかれ容認されている。つまり同人誌もサブカルの派生物として、未来では昭和~平成・令和期の主に東京での大衆芸術の姿と歴史化されてはいるだろう。
京都は中世、「上方」と称し、大衆蔑視の高踏的な文化傾向を自認していた。が上述の任天堂や今回被害にあった京アニはそうではない。京都府民の一部は東京文化を自らとりこみ、多かれ少なかれ低俗な大衆芸術を販売しはじめた。これは質的変容でもあるし、アニオタによる炎上事件の伏線にもなっている。
サブカルなるものは低俗で無教養な一般大衆を相手に客商売するところに発生した。しかもアニメは単なる売り上げの為ますます「大衆の中で最も愚かな者」を最大公約数の客層にしようと幼児退行じみた卑俗化を極めていった。その極点に起きたのが某アニメ制作陣への脅迫事件や今回のガチ炎上事件なのだ。
今日、アニオタと呼ばれる人々には、おそらく東京のキー局によるテレビのニュースでコメンテーターが訳知り顔でいいそうな「犯罪者予備軍」といった客層が確かに含まれている。それは例えば高IQな知識人とかハイカルチャーの客層(日本ではほぼ絶滅しているが)に比べてより多めに含まれているだろう。
なぜなら、上に述べたとおり、東京や京都のアニメなるものは金儲けを目的に、できるだけ量的に俗受けする為、どんどんと卑近な表現に自らを変質させていったからだ。要は、下流相手に客商売しているので、当然ながら犯罪者や反社会的な知的ボーダーの部類もアニメファンには含まれてしまうことになる。
なぜ彼ら下流的な知的ボーダー層に昨今のアニメが宗教とみなされているかだが、私のみたかぎり、彼らは知識社会に全然ついていけていない。当然ながら幼稚極まりない娯楽作品しか理解できない。資本主義の手順に従い広告費やグッズ販売などを目的に次々流される深夜アニメが彼らのたまり場なのだ。
ニコニコ動画は、今では国際レベルでビリビリ動画にお株を奪われたが、嘗ても今もこのアニオタ層と極めて親近していた。2chねらーを誘引した西村博之氏らが匿名コメント機能をつけたので、名誉どころか恥も外聞もない反社会的犯罪者との境界例にとって極めて居心地のよい居場所になったからだった。
もう一つ、注目すべき事件があった。悠仁親王をアニメ『エヴァンゲリオン』内で引用された、ロンギヌスの槍とほぼ同じピンク色に塗った二股の刃物で、或る被疑者が脅迫した事件だ。この槍は神学上、磔刑後のイエスを突いて聖性を否定した遺物とされており、王権神授説の否定を意識した事件だったろう。
アニメオタクはそもそもが、虚構を現実と多かれ少なかれ混同し易い脳の性質の持ち主が大半であろう。さもなくば作り話にいつまでも夢中になるわけもない。いわゆる偶像崇拝の禁忌という私徳が弱い人達といいかえてもいい。この点では、ポケモンGO等を禁止した一部のイスラム法学者は正見を述べている。
そして虚構と現実を混同し易い脳は、一般に子供の時点でそうなり易いのが経験的に明らかなかぎり、いわゆる精神年齢の低い人々により多くみられるはずだ。つまりアニオタは単に批評言語が拙いだけではなく、アニメ内で表現された思想を宗教的に鵜呑みにしがちで、かつ知的ボーターも相当混じっている。
識から、多かれ少なかれ類似の退廃がみられる他のサブカル(例えば小説とかも)含め、一切近づかないことにした。その内部にいる人々は特定の宗教信者とほぼ類似のエコーチェンバー(残響室)内にいると自覚し、サブカル批判を進んで行うのが賢明だ。
https://twitter.com/suzukiyuusuke3/status/1151922241971478528
2019/07/19
信教の自由と言うか、なぜ信教の自由じゃなかったかといえば、宗教の名をもとに騙そうとするやつがいたからなんだよな。
で、宗教の名をもとに騙されてしまえば、だます宗教を潰そうとしても狂信者として、反発する。
昔はカトリック一本だったからわかりやすいが、プロティスタントが生まれ、お互いがお互い宗教の名をもとに騙そうとするやつだと思って血で血を洗う抗争。
だから信教の自由というものが生まれたが、逆に宗教の名をもとに騙す連中も放置されることとなった。
いま宗教が信じられていないのって、霊感商法が増えすぎて、宗教に関心があると言うと、そいつらに漬け込まれるからだと思うわ。
自分でも恥ずかしいんだが、ゆるせないことが沢山ある
具体的なことは恥ずかしいので書かないが、とにかく悪い(と思われること)がゆるせない。
そうなったらもう最後で、くそったれた狂信者のようにその出来事をどうにかしたくなって、さもなければ遠ざけようとする。
思えば、俺がゆるせないことに対して憤慨するのは高校時代から始まっている
俺はこのことを今の今まで「暴走した正義感」と呼んでいたが、最近は単に「我慢できない。キレやすい人間」という表現が適切なんじゃないかと思うようになってきた。そしてこれは多分合っている。
そんなことだから、仕事も定着せず今やただフリーターとして日々を生きている。ちなみに趣味は駅前でゴミを拾うことだ。
地方都市の終電駅らへんでごみ拾いしている小汚いおっさんがいたなら、それは俺だ。
我ながら情けないし、めちゃくちゃ後悔しているが、例えすべてをイチからやりなおせたとしても俺は同じような事をするんじゃないか?
だからこれでいいっちゃいいんだよな。そう言い聞かせてる。
ポリコレって、絶対的な正義とか真善美とかそういう対象そのものの是非(つまり創作物の中身)を問うてないでしょ。むしろゾーニングやレイティングがきちんと成されている限りどんな表現も許されてるんだから(少なくとも現代日本ではね)、ポリコレは表現を守ってくれる盾に近い。
はい嘘。
自分たちの決めた「絶対正義」に沿わない表現を「レイティング」とか「ゾーニング」という名の表現規制でジワジワと殺しに来るのがポリコレ。
表現を守る?とんでもない。
「どこでどんな表現をする」も表現の自由なんだが、それをポリコレ狂信者は意図的に無視している。
壁じゃないよ。棍棒。
壁だというなら、「壁の外側」をどんどん狭くして特定の表現を殺しにかかってるのがポリコレ狂信者。
必要だと思うなら、それは自分の内に自分だけで作るものだ。他人の人権を侵害する権利を「壁」と言えば正当化できるとでも?何様のつもりだ。