はてなキーワード: 大阪市内とは
1/8-1/15 参加者の陽性判明
仮に12/23に感染したとすると、最長で23日後に感染が判明していることになる。
AKBイベントが 1/6 なので、1/29 までに感染報告が無ければ、イベントパンデミックは起こらなかったことになりそう。
http://www.city.osaka.lg.jp/kenko/page/0000007605.html
※麻しんの届出が6件あったが、うち3件はウイルス遺伝子検査の結果、取り下げられた。
http://www.city.kyoto.lg.jp/hokenfukushi/page/0000245665.html
箕面市市民安全ツイッター@Minoh_Anzen (1/21)
4日は会社か休業になり
大阪市内の被害がなかったとは思わないしどうだったのかは心配だったから
まず一人は、「あれくらいで休みやがって」というニュアンスをはしばしに感じたのでなんか居心地が悪かった
結局テレビは空港のことしかやらないから、自分の地域がセーフだったからセーフみたいに思われているのだろう
さらにはうちより大したことない被害だった人に被害状況のマウントまで食らって大変嫌な気持ちになった(うちは3時間も停電して大変だっただの、ガラス踏んで自転車パンクしただの桜の木が折れただの)
それぞれの地域で大変だったんだろうけど、そんなことこっちに嘆くように言われたって「で?うちは9時間停電してたしご近所はまだ電気止まってるとこありますけど?」「木どころかカーブミラーや電柱も折れてますけど?」「自転車あるだけよくないですか?自転車どころか自転車置き場がぶっ飛んでいきましたけど?」って答えればよかったんだろうか。そんな受け答えしても何の意味もないし、それ以上はなにも話したくなくなって強制的に会話を終えた。
関西電力には、「配電自動化システム」があるので、電線が1か所切れたくらいなら5~7分で自動復旧する。
停電しているエリアはおそらく、変電設備単位で別れているので自分の住む家の1区画だけという状態になっている。
数百メートル離れると信号も機能していて、コンビニの明かりがまぶしい。
秋や冬であれば、家にこもって過ごせなくもないが、今の時期、エアコンの無い部屋で寝るのは厳しいので、
近所の東横インに2泊することにした。
自宅の停電復旧状況は、自宅の固定電話の留守録応答があるかどうかで分かるので、
時々電話してみているが、今夜の復旧は厳しそうだ。
吹田市民です。
私のスペック。30代男性。大阪市内の会社に勤務。妻、30代、専業主婦。
自宅。築40年のマンション。古い。6階。
朝、いつもアラームは8時20分に設定している。(始業は10時なので、ゆっくりめ起床)
妻も既に起きていて、本能的に体を寄せ合う。
阪神大震災の時は、目覚めた時、既に揺れており、部屋が平行四辺形にグラグラ揺れていたのを覚えている。
違ったのは、振動の長さ。阪神大震災の時は1分ぐらい続いたと思うが、今回は15秒ぐらいで済んだ記憶がある。
震源に近かったせいか、緊急地震速報は、揺れの最中から鳴り出した。
玄関にいき、下履きを持ってきて、泥を払った上で、室内用として使用する。(ガラスや陶器が割れて散乱しているので)
ダイニングの食器棚が倒壊し、食器は約半分が使い物にならない。
書斎のPCモニター(24インチ液晶)が机から落ちていた。正常に動作するかどうかは、未検証。
書斎の本棚が倒壊し、再起不能なほどに壊れた。当然、中の本はすべて書斎内に散乱。
寝室は、引き出し式のクローゼットが私の寝床に倒れていた。すぐに飛び起きていなければ、頭直撃コースだったに違いない。
それ以外は深刻な被害はなかった。
続いて、風呂に水を貯める。ガスの元栓を閉じる。ベランダなど、すべての扉が開くかどうかをチェック→正常に開いたので、問題なし。
自分と妻のワイモバイル回線→音声通話は不可だったが、4Gは通信できた。
我が家は、基本的に必要なものしかストックしないという妻の方針のため、非常食になるようなものがない。
会社の上司に連絡。電車がいつ動くかわからないこと、部屋の中に割れた食器と家財道具が散乱していることを伝えると、出社しなくて良いとの連絡。
(家の惨状を写真に撮って送ったら、たいそう驚かれた。上司は京都に住んでいるので、ここまでひどくなかったのかもしれない)
確認したところ、こういうときに必要なものとしては、2リットルのミネラルウォーターが2本と、昨晩沸かしたお茶約1リットル弱しかない。
そこで、コンビニへ買い出しに行くことにした。
買ったものは、昼食の弁当×2、非常食相当のカップラーメン×2、朝食相当のカロリーメイト×1、紙パックのお茶1リットル とりあえず、夕方まではしのげる量の食料を確保。
自宅に戻り、午前中の間はテレビとネットで情報収集しつつ、下手に動いて余震にやられないよう、寝室で待機。
正午過ぎにお昼を食べて、そこから部屋の片付けを開始。
下履きを履きながら、室内の割れ物を回収していく。みかんのダンボール箱相当で、3箱分ぐらいの、ガラス・陶器の割れ物が発生。
細かい割れ物は新聞に包んで、特に営利で凶器になってしまいそうなものは、ガムテープとラップで養生してから、マンションのゴミ捨て場に捨てに行く。
同じような割れ物が、たくさん捨てられていた。
片付け作業中、1時間に1回ぐらいの割合で、テレビをつけて情報収集。私はずっとつけっぱなしにしたかったが、妻はこういう状況で災害の放送をずっとつけていると、精神的にもよくないと反対。
私も納得して、必要以上に情報に接しないよう心がけた。単純に、片付けにも集中できるという意味で、効果は高かったと思う。(私はテレビ見ながらの作業は、ついつい手がお留守になりがちなので)
5時になり、ライフラインの疑問が解決しないかと思い、マンションの管理室に行ってみる。
水道水がにごっていること、ガスを使っていいのか、この2点を尋ねに行った。
ガスは、一定の震度に達すると自動的にストップするので、再始動の手順がガスメーターに記載されていることを教えてもらった。
昨晩の残り物、白ごはん、ねぎ焼きが残っていたのでそれを電子レンジで温めて、惣菜といっしょに食べた。
室内の掃除はあらかた終わり、あとは細かい破片を取るために粘着ローラーをかけるだけとなった。
夜は、寝室とは別の、一番家具の少ない部屋で寝ることにした。
念の為、天吊の灯具は外した。寝るにしか使わない部屋なので、当面困ることもない。
翌日は普通に出勤するも、一部でJRが動いていないため、阪急で出社。30分の遅刻。
妻は、最後の片付けをしていたようだ。
一部の交通機関を除き、平常運転だったようだが、街の中には様々な傷跡がのこっていた。
マンションや駅のエレベーターは、軒並みストップ。点検して安全が確認されるまで封鎖。
公共施設の多くで、天井や壁に亀裂(クラック)が入っており、これも点検修理が終わるまでは近づかないよう、カラーコーンなどで規制線がはられている。
街ゆく車の中には、工事関係の車が目立った。かんでん○○とか、ガスサービスセンター○○といった、インフラ系関連会社や、
○○ビルテクノ・サービスといった、ビル管理系の車がよく目につく。
自分の会社の自席は奇跡的になにも倒壊していなかったが、いくつかのモニターは倒れていたようだ。
あと、うちの会社の部屋だけエアコンがついておらず、昨日今日と暑い中、汗をふきふき仕事をしている。
マスコミの報道内容とか、ヤフーニュースのトピックを見ていると、地震の扱いは過去の地震と比べて小さいように思う。
死者の数は1桁、翌日から通常営業できるようになったせいか、さほど深刻に受け止められていないように思うが、
実際に震源の近くで暮らしているものからすると、余震に怯えたり、想定外の後片づけに悩まされたりと、色々苦労をしている。
ただ、これだけの震度でありながら、犠牲者の数が少なく済んだのは、阪神大震災の経験が大きいと思う。
私は小学生の時に自宅で震度7を経験したが、揺れ方だけ見れば、あの時の悪夢と全く同じだった。
それにもかかわらず、倒壊損壊した建物、火災になった建物がわずかばかりであったのは、過去の教訓が行きていると思う。
当時幼いながらも、そのことで、人の生死なんて、いつどうなるかわかったもんじゃない、と感じた。
改めて今回思うのは、儚さだ。人の命もそうだし、割れた食器たちを拾い集めている時も、同じ気持ちを抱いた。
しかし、22年前と比べると、確実に社会は変わったと思う。もちろん、前向きな意味で。
マグニチュードや震度だけ見れば、当時より少し小規模だが、被害の規模は明らかに小さい。
建築物は、確実にあの時よりも丈夫になっている。
情報インフラも発達し、被害状況がほぼリアルタイムで分かるようになった。
色んな課題を抱えているこの社会だけど、耐震性というか、カウンターディザスタネスとでも言えばいいのか、
亡くなったクラスメイトの命も含め、過去震災や災害で命を落とした人々の尊い犠牲の上で、私達は日々暮らしているのだと実感した出来事だった。
http://megalodon.jp/2009-0724-1941-48/www.sankei-kansai.com/2008/10/07/20081007-002852.php
秋の収穫を迎えるころになると毎年、青森県弘前市から大阪新聞社にリンゴが届けられる。このリンゴは大阪府内の福祉施設にクリスマスプレゼントとして贈られる「善意のリンゴである。
大阪新聞が贈り物の橋渡し役をしている。
善意のリンゴは、13年前の 「リンゴ事件」 がきっかけで始まった。
昭和59年4月23日、大阪・京阪天満橋駅前。青森からトラックで行商にきた人が、はるばる運んできた赤いりんご80箱をトラックの荷台に積んで売っていた。
桜の季節で、駅前は近くの桜の名所、造幣局の 「通り抜け」 に訪れた人たちでにぎわっていた。
事件はその人が、電話をかけるため目を離したわずかなすきに起こった。
リンゴの山に、「試食をしていただいて結構です」と垂れ幕がしてあった。それをみた人が、つい一つ、手にした。
「リンゴはただやで」ということになり、1個どころか何個も手にする人が出た。
「押さんといて」。群集心理に火がつきトラックの前には身動きもできない人だかりがした。興奮してかリンゴの山にのぼり、人がきを目がけてボンボンとリンゴを投げる背広姿の男の人もいたという。
http://megalodon.jp/2010-0412-2052-49/www.sankei-kansai.com/2008/10/07/20081007-002853.php
被害総額40万円。
「いまさら警察に訴えてもしかたがない」と被害届も出さなかったが、マスコミに「大阪は本当に怖いところ」ということばを残して帰った。
大阪新聞は、事件の発生から3日後に「大阪の良識を取り戻そう」キャンペーンを展開した。これが当時の佐藤編集局長の発想である。
「いまからでも大阪の良識を取り戻しましょう。持ち帰ったリンゴの代金を支払うのも反省の証の一つです」と代金の支払いや寄付を紙面で呼びかけた。
「天満橋のサラリーマン」を名乗る人からは「事情が分からず、4個拝借しました。申しわけありません」と代金の倍額の2千円を届けてきた。「大阪のイメージダウンになるのはたまりません」と10万円をボンと寄付する団体も現れた。
青森出身の舞踏家・江口乙矢さんも3万円を寄託。寄金は31万2500円に達した。
現地の希望に沿い、交通遺児のために役立ててほしい、と編集局長が弘前市役所を訪れて、大阪市内の幼稚園児が描いた200枚のリンゴの絵とともに福士文知市長に託した。当の被害者からは、「大阪人の真心に触れることができました」と手紙が届いた。
大阪、弘前の両市が市制100年を迎えた平成元年からは、府内の福祉施設へのリンゴの寄付がスタート。そして平成9年も10月23日、市内のホテルで金澤隆弘前市長から大阪新聞社に20ケースのリンゴが託された。
昭和55年の毎日新聞じゃなくて昭和59年の大阪新聞(後の産経新聞)やし、
記事中にもあるとおり群集心理で「無料で取ってもいいもの」と思われただけで、
嘘ついてまで大阪人を貶めるなんてとても同じ国の人とは思えへんわ。
完全に嵌め込まれてんじゃん(笑
お前は社会人になって5年 何を見てきたんだ?
そもそも大阪市内で単身者用ワンルームなんて投資案件として成り立たない
大阪で不動産やるなら、西九条あたりの築30年くらいの物件を軽くリフォームしてインバウンド向けに民泊、インバウンドブームが終わる前に売却くらいを考えてないと完全にババを掴むぞ
どうなの?
いま詳しく教えてくれている営業の人がいるんだけど、その人以外に相談できる人がいないから知識のある人がいたら教えてほしくて。
内容としては
大阪市内の駅チカ単身用物件2000万弱をフルローンで買って、老後の収入源、あとは生命保険のかわりとして運用するっていう話。毎月の収支は▲1万くらい。
投資と言っても家賃で副収入を得たり、売買で利益を出したりとかではなく、長期的に所有して将来や万一の時に備えるためのものだそう。
だから利回りのいい物件ではなくて、立地のいい設備の充実した単身向けマンションにして、空室リスクを抑えるらしい
ちなみに自分の現状は
年収は430万、大企業ではないけれどもそれなりに名のある会社なので融資は受けられるみたい。
いままで保険とかは何もしていなくて、いつかやんなきゃな〜のままズルズルきた感じ。
営業の人がすごく親切でわかりやすい説明をしてくれたおかげで、メリットデメリットも自分なりには理解できたのでやってみたいという気持ちはすごく出てきてた。
ただ実際に手元から離れるわけではないとは言え、1000万超のお金を動かすとなるとビビらないわけなくて。
早い話ただ背中を押してほしいだけなんだけど、押してくれる人が周りにいなくて。それで増田ならと思ってこうして初投稿してます。
高橋龍也の要請で、「青紫」のペンネームで『痕』においてデビュー。このときはまだアクアプラスに入社しておらず、友人という立場で協力した。『To Heart』からは社員として参加し、『WHITE ALBUM』では日常パートの一部を担当した(ただし、『WHITE ALBUM』ではスタッフロールに名前を入れ忘れられ、参加は同ゲームの隠しファイルで確認できる)。
2003年11月23日、大阪市内でバイクを運転中、信号無視のトラックに衝突され、32歳で死去。新聞報道では「会社員」とされており、高橋や水無月も竹林の勤め先の配慮でその死を知らされた。
遺作は没後にあたる同年12月26日に発売されたStudio Ring(スタジオメビウスの姉妹ブランド)の『ななみとこのみのおしえてA・B・C』であり[3]、「スペシャルサンクス 青紫(多謝)」とスタッフロールに名を載せられている。
https://anond.hatelabo.jp/20080823131346
某所で少し話題になってたのでggったらこんなエントリが出てきたので自分の思い出をただ書いてみる。
大阪市内の小学校に80年代に通っていた。道徳の教科書にんげんは勿論覚えてる。しかし教科書を使った授業はほとんど行われず、大体NHKの番組を15分か30分だか見た記憶しかない。あれ、やばいほんとに記憶がない。ただ、元増田にあるような激しい同和教育は一切なかった。同和という言葉すら小学校では聞いたことが無かった。記憶がないからかくこともなくなっちゃった。エタや非人という言葉は多分にんげんに乗っていたので知っていたはず。5年生くらいの時に読んだカムイ伝であーこういうことかと思ったのも覚えてる。
戦前は大阪市の方が経済的に発展していて、大阪市の全域が工業的に発展していた。
当時の工業地は住宅地としては(公害的な意味で)よろしくなかった。
戦後になり、運輸能力が高まり、大都市は商業を中心に発展することになり、さらに人口が増えるのだけど、
大阪市内は全域工業的に発展していたために北摂や阪神間など郊外にしか住宅地を構えられなかったのに対し、
つまり、東京区部の居住地としての評価が高いのは、行政区分が広く、開発余地スペースが残っていた、というだけのこと。
現代でも、東京区部東側だけなら居住地としての評価は全く大阪市内全域トータルと変わらないし、逆に東京区部の広さに合わせて大阪市内に北摂、阪神間、堺あたりを加えれば居住地としての評価は同じくらい。
むしろ、東京西部では池袋、新宿、渋谷の副都心を形成できたのに対し、阪神間、北摂、堺などでは副都心を形成できなかった理由の方が気になる