はてなキーワード: 権威とは
【カトリーヌ・ドヌーヴが署名した記事の翻訳の件】お返事を拝見しましたが、いろいろ問題点が残っているようです。目下時間的余裕を欠くためにぶっきら棒な指摘の仕方をすること、ご寛恕ください。テクストを読む際に、まして翻訳する際に当て推量はマズイですので、以下の諸点を改めてじっくり検討されるますように。(元記事: http://www.lemonde.fr/idees/article/2018/01/09/nous-defendons-une-liberte-d-importuner-indispensable-a-la-liberte-sexuelle_5239134_3232.html)
参照サイトのhttps://fr.wikipedia.org/wiki/Galanterie は、la galanterieというきわめてフランス的なものを適切に説明しています。けれども、その内容の一面だけ取り上げて、「恋愛のお作法に乗っ取った男性からの誘惑の手順」というふうに「恋愛」や「誘惑」に直結させてしまうのは行き過ぎです。なぜなら、①そもそもフランス語圏の日常社会生活で言われるla seductionの意味するところは、日本語の「誘惑」よりずっと広く、一般的である。②男性が別に何らまったく誘惑の下心なく女性にドアを開けて差し上げる、席を譲る等のレディ・ファーストも、そこにごく淡い艶(つや)が伴っていれば立派なla galanterieである。③la galanterieをめぐって、それは男女同権原則を何ら妨げることなく男女関係を文明的にする作法なのか、男性優位のパターナリズムの表現なのか、という議論が頻繁に行われているという文脈がフランスには存在する。
■agression machisteについて:
前項の(3)からも分かるように、agression machisteは、(外見に反して男尊女卑を含意している)パターナリズムの押し付けを指しており、問題のテクストの賛同者たちによれば、la galantrieは agresssion machisteではない。ある種の「痴漢行為」はagression machisteの一つと言えますが、agression machisteすなわち「痴漢行為」ではありません。
■s'autonomiserに関して:
「自立」と「自律」は区別する必要。autonomieは「自律」です。また、現状の日本語では、「自立する」とは言いますが、「自律する」とは言いません。
■une conception substantielle du bienについて:
これの改訳例として私が「実体論的な善概念」としておいたのを「善の本質的な概念」に直しておられますが、それでは意味を成しません。この言葉は、哲学的で少し難しいのですが、まず間違いなく、道徳律をたとえば「他者の自由を妨げない」ことというように「否定的」な形式で考えるのでなく、「これがが善だ」というように実体論的に(あるいは、本質主義的にと言ってもいいでしょう)考える、そういう善概念を指しています。あとに出てくる哲学者のRuwen Ogienが世間の道徳を批判するときによく使う言葉でもあるようです。ですから、「実体論的概念」「本質主義的概念」と、「本質的な概念」はまったく異なります。ゆえにここは、せめて「本質主義的な善概念」とでも訳しておかないといけません。
■misogynieについて:
これは「女性嫌い」「女性蔑視」であり、「女性差別」の元になり易い性向ですが、「女性差別」と混同するわけにいきません。
■la liberte d'offencerについて:
「この概念が攻撃しようとするのは(神や国家指導者のような)『権力』『権威』とそれをアンタッチャブルなものにする空気」と断定(推量?)するのは早合点です。テクストに、Le philosophe Rugen Ogien defendait une liberte d'offenser... と書いてあるのですから、固定観念に囚われず、Ruwen Ogienの哲学思想を念頭に置いて理解しないといけません。そうすると、「人の気分を害する自由」あたりがやはり適切なのです(「中指を立てる自由」は論外)。
■la liberte de dire non a une proposition sexuelle ne va pas sans la liberte d'importuner :
「『ウザがられる自由』が男たちの側にあると解釈するのは…」無理ではないですよ。それどころか、その自由を相手(←ここでは男性)に認めるからこそ、女性の側がそれを「ノン!」と突き返す自由が生きるわけです。「ノン!」と拒否することがimportunerすること、ウザがられることではありません。なお、こういう間主観的関係が成立するのが男女間に限らないことは言うまでもありません。
■Pour celles d'entre nous qui ont choisi d'avoir des enfants, nous estimons...:
これを「子供を持つことを選んだ人々のために」とか、「私たちの中で子供を生むことを選んだ人達のために」と訳すのは、当該テクストの文脈の中では明らかに誤訳です。"Pour"はここでは、En ce qui concerne や quant aの意味なのです。著者(たち)は、私達のうちで子供を持つことを選んだ者についていえば、私達の考えはこれこれだ…、と述べているのです。
以上。
sukekyo
sukekyo
各出版社の漫画賞に対してのM-1みたいなノリだったのが「このマンガがすごい!」だったんでそれをまた権威のほうに戻してどうする?とは思うけど。どこかの賞がテコ入れしてショーアップすればいいんだわな。
まともな人は情報保全部隊に監視されて右翼に危害を加えられるリスクを受け入れたくないから左翼リベラルに残らない
自分で考えて独創性のある賛辞の言葉を自衛隊に伝えて隊員らからそういう言い方は侮辱してないかとか言われたら最悪だから
と普通の人は自然と多数派迎合で2ちゃんテンプレで喋るだけの安全圏から絶対でない動きになる
淡々とした口調の会話があちこちから耳に入る。いつも通りの光景ながら、可笑しさに笑いが出そうになるが堪える。ふと、この人たちもこんな突発的な笑いをこらえて生きているんだろうな。
この国では一切の笑いが禁止されている。そんな禁止令が制定されたきっかけは本当にちいさなことが始まりだった。だけれども、それに憲法やら国連やらの権威を使って圧力をかける集団が急先鋒となり笑い禁止を掲げて政治活動をしていた。みんな始めは馬鹿じゃないかと思っていた。そんなことありえるわけないでしょと。しかし、彼らは戦略的に着実に世論を取り込んでいった。
もし禁止令があわないなら、やめることもできるから一度やってみよう
笑いの感情に正の部分があることは認めるが、負の点もある、その負の点だけを規制するのは難しい。だから、一律で規制することが望ましい。もちろん、笑うという行為が禁止されているだけで、おもしろいと感じたりしても良いし、それを他人に伝えることはなんの問題も無い。ただ笑ってはいけないだけである。
あとは、そういう活動家が得意な海外では論法がたくさんあった気がする。
もちろん、反対派もいた。しかし、反対派は暴力的行為に訴えるばかりで議論というものを行おうとしなかった。
そういう状況の中で、禁止派のほうが何か正しいことを言っているのではと思う国民が増えてもおかしくなかった。禁止派の論理は正しく聞こえ、反対派は論理に真正面から反論をしない。まともな反対派がいたら、現状は今とは大きく変わっていただろう。
の話をするのもなんであるが、先頃「ああ東大話法だなあ」という会話を経験した
安富先生の東大話法はある種の人に対する正当で的を射た批判であると思うが、一般向けに提唱されたためか、いかんせん書きぶりがフワッとしている
批判の対象が詭弁を駆使する相手である手前これはあまりよろしくない。「それは東大論法だ」などと言ってもあの手この手ではぐらかされてしまうだろう
安富先生のまとめたことは2-1-2以降、および2-2以降に含まれることになるだろう。基本的には批判、あるいは"これからされるであろう"批判を回避するための詭弁であり、それを「議論を"分かりにくく"するための修辞」や「自らの立場を利用した権威的態度、権威論証」が支える形である。
さらに詭弁の形の一つとして付け加えたいのが2-1-1にある「自ら発言の後からの修正、限定」である。これは安富先生の挙げられた中に明示されていなかったように思うが、個人的にはこれこそが実は「東大話法的な」議論の中核を成しているのではないかとさえ考えている
もちろん「発言に対する後からの説明、注釈」は常識的な範囲では普通に行われるし、従って直ちに論理的誤謬であるということはできない。意味が正しく伝わらなかった時に後から「より詳しく」注釈するのは当然のことである
しかしながら、権威的な立場から発せられるがゆえに重々慎重であらねばならない言葉に対して、それが批判にさらされたからといって後から読み手の予想し得ない限定条件を付け加えたり、ある用語が通常用いられない特殊な意味で使われていると釈明したりするのは誠実性の問題であろう
あまつさえ「元の発言は当然そのような(極めて限定された)意味に受け取られるべきで、そのように受け取らなかった読み手が悪い」といったようなことを言うに至っては、まごうことなき詭弁である(「当然」という部分は権威論証的であるし、誤読の責任を相手に転嫁することは「本当に意味の齟齬があった」にしても不誠実である。もちろん大部分は、批判を無効化し回避するための方策として「相手が誤読したことにする」べく、後から意図的に作り上げられたものである)
言葉の意味や文法は辞書や文法書がア・プリオリに定めるものではない。膨大な一対一、多対多の関係の中において得られた広範な"合意"の集成であり、辞書や文法書はそれを抽出しているにすぎない。まして特権的な人物がその意味をなにがしかできるものではない
そのような合意の元に発せられた言葉の意味せんとすることを、批判を回避したい、相手に責任転嫁したいという邪な欲求のために後から自分の恣にしようとすることは、言語活動の中でももっとも不誠実な部類の行為であろう
ある朝、いや、夜でもいい。目が覚めたら、そこが30年後の世界だったらどうする?目覚める前とは全く違う場所、思うように動かない手足、鏡に映る自分の姿は30歳分年老いているとしたら?そんなこと、現実には起きそうもないから、真面目に考えるのは難しいよね。
でも、これは実際にあった話。ある病気で30年間、事実上眠り続けていた男が、優しくて熱心な医師の治療で30年ぶりに目を覚ます。その男は30年間の空白を埋めるように、本を読み、音楽を聞き、人と会話をし、恋をするんです。生きるって最高だなって思いながら、でも、病気が完全に治ったかどうかわからないし、投薬も続けているから病院からは出られない。病院から出たい、普通に生きたい。でも症状が安定しなくて、強い痙攣が止まらなかったりする。何もかも思い通りに行かない状況でどう行動するか、周りの人は何をしてあげられるか。レナードの朝っていうのはそういう映画。
映画のど終盤で、その男は、強い痙攣と戦いながら、好きな人とランチをするんです。痙攣を止められない、醜い自分を好きな人に見せながら、その男が何を言って、その女がどうするか。どうすると思う?たぶん、想像してることと全然違うことになるんだよ。そこで、泣いちゃうんだよね。そのシーンを見るためだけに、2時間があったと言ってもいいくらい、印象的なシーンなんです。
レナードの朝を誰かに勧めるとしたらこんな感じになるかもしれない。ネタバレしすぎな気はするし、こんなに長々話して、見てみたいと思ってもらえるか疑問。人に何かを勧めるって難しい。アカデミー賞の作品賞にノミネートされた映画です、みたいな権威付けしたくないし。難しい。
こんにちは。エルサレムのアイヒマン警察です。上司がインフルエンザで休んで暇なので、大好評炎上中のはあちゅうセクハラ告発について調べてたら id:plagmaticjam 氏の「はあちゅうとヨッピーとナチスドイツと経験主義~ハンナ・アーレントは何を語ったのか~ - メロンダウト」という記事を発見。
タイトルからして地雷臭がヤバイと思ってたら案の定トンデモだったので、おうちにあった『エルサレムのアイヒマン 新板』を読み返しつつ反論したいと思います。
炎上の経緯はハゲ子大先生 id:hagex のまとめが鬼詳しいのでこっちを読んでください。→はあちゅうのセクハラ告発大炎上まとめ(追記あり) - Hagex-day info
件の記事でブログ筆者は、アイヒマンとはあちゅうの類似性を下記のように定義しています。
はあちゅう氏=「自分が被害者になったら告発する。いっぽうネットで実際に被害者が見えないなら加害者になれる凡人」
「アイヒマンが命令によって思考と行為を切り離し悪人になれたように、はあちゅうはネットをかませ被害者を特定しないことによって思考を切り離しているように見える。」
「ヨッピーも童貞いじりが誰を傷つけているのか、と擁護していたが「誰がわからない」から傷つけてもいい、なんてアイヒマンが「名前を知らない」から業務的に虐殺したのと構造的に同じだ。」
ブログ筆者は「思考と行為を切り離すがゆえに、無自覚な悪人になる」構造があるとし、類似性を下記のように指摘しています。
ですが、前提にしているアーレントの読みがそもそも間違っています。
アーレントが指摘したのは「アイヒマンが何も考えていない=無思想性」ということでした。
「俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことなのか全然わかっていなかった。」
「彼は愚かではなかった。完全な無思想性−−これは愚かさとは決して同じではない−−、それが彼があの時代の最大の犯罪者の1人になる素因だったのだ」(p.221)
アイヒマンは相手が匿名だから虐殺したわけではありません。知っているユダヤ人も知らないユダヤ人も等しく虐殺しました。
彼は「善悪を弁別する能力をまったく欠いている」(p.20)のであり、「彼は自分の義務を行った。命令に従っただけではなく、法律にも従った」(p.107)のです。
アイヒマンの特徴は「自分の思想がなく、善悪の区別がつかず、ただ義務と命令と法律に忠実な男」であり「自分よりも権威のある立場の人が『正しい』と言ったなら盲目的に従う男」であるということです。
アイヒマンには、反ユダヤ主義の思想も教育もなかった、とアーレントは指摘しています。
好き嫌いがあるゆえに行動するのではなく、一切の好き嫌いがないからこそ、自分より高い立場の権威から命令されたことをマシーンのごとく忠実に実行しました。
実際、アイヒマンは「良心の問題については、命ぜられたこと(筆者注:虐殺)をしなかった場合にのみ疚しさを感じた」(p.20)と述べています。
アイヒマンのような「無思想で、法律や義務、命令に忠実である」人は、平和な時代であれば、上司の言うことを忠実にこなす「優秀なサラリーマン」、法律など絶対に破らない「良き市民」として一生涯をまっとうしたでしょう。
アイヒマンはあまりにも「普通のおっさん」であるという事実について、アーレントは<悪の凡庸さ>と指摘しました。
「アイヒマンはきわめて凡庸な一般人」であるというアーレントの見解は、「ナチスは、ユダヤ人を絶滅したくてたまらない極悪人・狂人」という世間の見解とはまったく違うものだったので、多くの反発を招きました。
一言でまとめると、アーレントが語る「悪の凡庸さ」とは、「平和な時代ならあまりにも普通のおっさん、ただし無思想で善悪の判断がつかないから、彼が従う権威や法が狂えばなにも考えずに極悪人になれる」ということです。
以上の経緯から見ると、ブログが「悪の凡庸さ」を誤用していることがわかると思います。もう一度、ブログで言及されていた構造をおさらいしてみましょう。
「思考」と「行為」が個別にあり、それらの連結を切り離す「X」があるという前提です。
しかし、アイヒマンはそもそも「思想」がありません。だから自分に注入される命令や義務を己のものとして実行します。
そもそも、はあちゅう氏はアイヒマンのような「無思想」ではありません。むしろ自己主張が強く、自分を良く見せたいタイプだと思います。
善悪の判断力はわかりかねますが、盲目的に命令や権威に従うタイプではありません。
「はあちゅうは凡人」と言うとなんとなく納得感ありそうなんですが、アーレントが言った「凡庸な悪」とは意味が違います。
「ネット」とか「不特定多数の他人」とかも、アイヒマンにはまったく関係ありません。
「凡庸な悪」というパワーフレーズはすさまじいものがありますし、引用したくなる気持ちもよくわかります。
しかし、なんとなくキャッチーな単語やフレーズだけを使って独自理論を展開するのは、引用源にも読者にもどちらに対しても失礼ですし、誤解を与えます。
名著や歴史的パワーワードを換骨奪胎して持論を展開するのはやめてほしいです
ぜんぜん引用源を正しく参照してない記事内で、ナチスドイツという激烈ヤバイものと名前を同列に並べられたはあちゅう氏とヨッピー氏、さすがに流れ弾すぎるだろ…と思います。あとブログで言及されてる「経験主義」も「違うだろ…」て感じなんですが、続きは経験主義警察の方々にお譲りします。
参考文献:ハンナ・アーレント、大久保和郎・山田正行訳『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告 新版』(みすず書房、2017年)
エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版】:Amazon.co.jp:本
(所要時間:45分)
※もちろん「書籍を読む」行為に、明確な正解はありません。私の読解もまたひとつの意見にすぎませんから、別のハンナ・アーレント警察の方から「違う!」とおしかりの言葉を受けるかもしれません。とはいえ、いくらなんでも適当すぎる読みだと思うんで反論を書きました。