はてなキーワード: 傍観者とは
世界の誰が嫌いでも、自分だけはこういうシチュエーションやこういうキャラクターが好きでしょうがない!っというニッチなところをまず目指せ。そのニッチを掘りつくせ。あらゆる傍観者に語らせろ。少年は巨乳を憧れで語り、少女は恐怖として語り、おばさんは苦労するわねと語る。
全部の視点をやりつくしたらようやくそこからクセを抜いていくんだ。
語りたいものにであっていないのなら(もうやりつくされているが)おまえがいままでよんだラノベが大好きでそれの話ならいつまででも語れる少年、あたりが手ごろ。だがそれはすでにデュラララからモモからやりつくされてるレッドオーシャンでもあるのだが。
ざっと読んだだけで文面というか字面で元増田を否定してるんだなとわかるトラバが一つでもあったとする。
それに何の反論もついてなければ「間違ってたこと認めたんだな」と傍観者に思われかねないだろ。
ネットの書き込みがバズったりときには社会問題のスケールで注目されるのは多くは傍観者のおかげなんだから、傍観者が受ける印象というものはうまく管理しなければならない。
おそらく傍観者は時間の節約術として元増田より先にトラバを見て「元増田は読むに値するか」を判断するからこれは大事なことですよ。
普段ROM専で初めて書き込むので、読みにくいところ、分かりにくいところあったら申し訳ない。
通勤途中に踏切と踏切前に横断歩道があるんだが、ほぼ毎朝そこで白杖持ったおじさんとすれ違うんだ。
そこの踏切が降りている時に右折または左折してきた車が横断歩道の真ん中に停止していることがある。
そのタイミングでおじさんが横断歩道を渡ろうとして停止している車にぶつかってるのを何度か見た。
俺も車邪魔だなぁと思いながら横断歩道を渡っているのでおじさんがぶつかるかもしれないのが分かってずっと見てたんだ。
でも声をかける勇気がなくて傍観者になってしまっているのがもやもやする。
こういう場合って何て声をかけるのが正解なんだろう。
突然話しかけてびっくりされないかな…とか、ボディタッチして一緒に渡ってあげたらいいのかな…とか考えるけど行動に移せないことに毎朝自己嫌悪になってしまう。
それと、踏切が降りてて進めないからといって横断歩道の真ん中に停止するのってアリなの?
有識者いたら教えてほしいです。
【追記1】
一時停止じゃなくて停止だった。横断歩道の真ん中で踏切が上がるのを待ってる状態のことを言いたかった。
【追記2】
コメントくれた方ありがとうございます。
早速だけどさっき近くの交番に行ってきた。
分かってたことだけどまぁそうだよね…
交番に行ってみて思ったけど、その場で何かをできるかもしれない自分が白杖おじさんに声をかけるなり勇気を出さなきゃなと思ったよ。
明日こそおじさんが困ってたら声をかけるぞ。
https://anond.hatelabo.jp/20211003134639
児童は小、生徒は中高、学生は大学だがまとめて生徒と呼ぶことにする
ギャルゲエロゲは「ゲームとしてはアニメや漫画に近い」に入ると思う
https://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/sai_arts
https://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/IkaMaru
ぷよぷよ通と書くつもりだった。以降のシリーズはすまん知らなかった
通のストーリーの簡素さは初代〜64のマリオシリーズに近いと感じる
通より後からは急にストーリー濃度が上がるのはサンシャインに近そう
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/tsz
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/miruna
学校通ってたら旅できないじゃん
主要キャラが生徒という描写が少しでもあれば生徒主題と認定している
学校「や生徒」が主題と書いたのはここをはっきりさせるためだったが
さすがにさりげなさすぎて伝えられなかったようだ。申し訳ないと思う
生徒が主要キャラでも学校シーンはあまり描かないアニメや漫画は多く
例えばドラえもんやセラムンは学校の話は少なくコナンにはほぼ出ない
むしろ授業シーンに力が入っているハリポタなどの作品のほうが珍しい
だから生徒が主要キャラでも旅できるのは多くの作品で証明されている
ジョジョ三部など生徒でありながら数々の国を巡る大冒険を繰り広げた
お遍路の区切り打ちのように旅の途中で家に帰る変則的方法も行われる
光の石の伝説や日帰りクエストなどローファンタジーではよくあること
有名なのはソードアートオンラインのアルヴヘイム編とガンゲイル編か
劇場版ドラえもんもどこでもドアやタイムマシンで一旦帰ることがある
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/aa_R_waiwai
妙に多いといえば現代日本の子供が学校に通っている割合こそ妙に多い
現代の文明社会に生きる子供キャラを描いたらほとんど100%生徒だ
ttps://anond.hatelabo.jp/20211004124738
ゲームもオブジェクトを用意する手間が割としんどいのかもしれない
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/gabill
漫画の場合は授業時間などをスキップして学校行事や放課後だけをつまみ食いできるけど、ゲームだと省略し過ぎると没入感が削がれる。
納得がいくようでもありいかないようでもある。識者の登場が待たれる
しかし例えばドラクエ2の勇者は王子らしい生活がほぼ描かれてないが
そのせいでプレイヤーが没入しにくいという話を聞いたことはないから
生徒の生徒らしい生活描写もほんの数カット程度で足りたかもしれない
一揆をする農民や色を揃える医者もゲームの中ではただ戦ってるだけだ
初めはアキネイターぽちぽちしながら適当にぶちあげた理論だったけど
ブコメ見ながら考えてたり返信書いたりしていたら頭が整理されてきた
またブコメやトラバで学校が舞台のゲームとしてあげられているものが
想定となんか違ったので自分の立てた疑問がずれていることに気づいた
そうして浮かんできた思いつきとこのブコメが符合したので貼っておく
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/AKIYOSHI
ゲームはプレイアブルコンテンツだから、物語のベースにいわゆる「学園的共通体験」がなくとも自分ごとになるからでは。だから最初から世界で戦える。
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/cotbormi
言われてみればゲームに少ないのは学校のような特定のものというより
平凡だった人間がある日突然変わった出来事に巻き込まれる物語構造だ
生徒が主要キャラになりにくいのはこの傾向が生む結果の一つのようだ
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/nakex1
マンガ等なら学生が思いがけないことから冒険や戦いにってするところを,ゲームだと最初から戦士や兵士ってことは多いかもしれないな。
https://anond.hatelabo.jp/20211003134639
児童は小、生徒は中高、学生は大学だがまとめて生徒と呼ぶことにする
ギャルゲエロゲは「ゲームとしてはアニメや漫画に近い」に入ると思う
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https://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/IkaMaru
ぷよぷよ通と書くつもりだった。以降のシリーズはすまん知らなかった
通のストーリーの簡素さは初代〜64のマリオシリーズに近いと感じる
通より後からは急にストーリー濃度が上がるのはサンシャインに近そう
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学校通ってたら旅できないじゃん
主要キャラが生徒という描写が少しでもあれば生徒主題と認定している
学校「や生徒」が主題と書いたのはここをはっきりさせるためだったが
さすがにさりげなさすぎて伝えられなかったようだ。申し訳ないと思う
生徒が主要キャラでも学校シーンはあまり描かないアニメや漫画は多く
例えばドラえもんやセラムンは学校の話は少なくコナンにはほぼ出ない
むしろ授業シーンに力が入っているハリポタなどの作品のほうが珍しい
だから生徒が主要キャラでも旅できるのは多くの作品で証明されている
ジョジョ三部など生徒でありながら数々の国を巡る大冒険を繰り広げた
お遍路の区切り打ちのように旅の途中で家に帰る変則的方法も行われる
光の石の伝説や日帰りクエストなどローファンタジーではよくあること
有名なのはソードアートオンラインのアルヴヘイム編とガンゲイル編か
劇場版ドラえもんもどこでもドアやタイムマシンで一旦帰ることがある
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/aa_R_waiwai
妙に多いといえば現代日本の子供が学校に通っている割合こそ妙に多い
現代の文明社会に生きる子供キャラを描いたらほとんど100%生徒だ
ttps://anond.hatelabo.jp/20211004124738
ゲームもオブジェクトを用意する手間が割としんどいのかもしれない
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漫画の場合は授業時間などをスキップして学校行事や放課後だけをつまみ食いできるけど、ゲームだと省略し過ぎると没入感が削がれる。
納得がいくようでもありいかないようでもある。識者の登場が待たれる
しかし例えばドラクエ2の勇者は王子らしい生活がほぼ描かれてないが
そのせいでプレイヤーが没入しにくいという話を聞いたことはないから
生徒の生徒らしい生活描写もほんの数カット程度で足りたかもしれない
一揆をする農民や色を揃える医者もゲームの中ではただ戦ってるだけだ
初めはアキネイターぽちぽちしながら適当にぶちあげた理論だったけど
ブコメ見ながら考えてたり返信書いたりしていたら頭が整理されてきた
またブコメやトラバで学校が舞台のゲームとしてあげられているものが
想定となんか違ったので自分の立てた疑問がずれていることに気づいた
そうして浮かんできた思いつきとこのブコメが符合したので貼っておく
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/AKIYOSHI
ゲームはプレイアブルコンテンツだから、物語のベースにいわゆる「学園的共通体験」がなくとも自分ごとになるからでは。だから最初から世界で戦える。
ttps://b.hatena.ne.jp/entry/4709197893321561378/comment/cotbormi
言われてみればゲームに少ないのは学校のような特定のものというより
平凡だった人間がある日突然変わった出来事に巻き込まれる物語構造だ
生徒が主要キャラになりにくいのはこの傾向が生む結果の一つのようだ
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マンガ等なら学生が思いがけないことから冒険や戦いにってするところを,ゲームだと最初から戦士や兵士ってことは多いかもしれないな。
某鯖シーズン1のこと
最後に残った武闘派同盟も外交の根回しにより、全ての有力同盟を味方につけることで四面楚歌に陥らせ屈服させた
ある意味で鮮やかなものだが、この展開を不服とする人物がチャットで不満をぶちまけている
展開が理不尽と感じた初心者はもうプレイに戻ってこないかもしれない
違法性はなくても、VALORANTで問題になったスマーフィングに隣接する問題があるように思われる
経験者が集まり特定の同盟でプレイを初めて、他の同盟にスパイをバラ撒けばゲームを牛耳れてしまう
このようなフレイザード同盟の発生を防ぐためにはプレイヤーに倫理や節度をもとめるよりも
運営の対策が必要だと思われるが、経験者にポイントをつけて同じ州に集中できなくする程度では
スタート条件は一緒なので、その意味では公平であるし、規制には限度があるだろう
せめて複垢でスパイをしたことが明らかなプレイヤーは永久BANする対応を取ってほしいものだが
増田の意見はいくつかの点で傾聴に値する。まず女性表象をめぐる問題ということをちゃんと踏まえて語ってくれている。表現の自由界隈では、この表象の問題、何かをなぞらえて表現することが、単なる表現全般とは違う、なぞらえたものとの関係において権力性や影響や責任を伴う行為であることを、正面から受け止めている人が少ない。そして「ただ、女性表象の批判は賛同者の増減に関しては基本的に分が悪い戦いで、基本的に負け戦を強いられるものだなと見ていて思う」という認識も個人的には同感だ。自分は日本での女性表象の独特な偏りや歪みが現実の女性をめぐる認識や取扱や社会的地位を左右していることを体感的に信じていて(ちな自分はシス男性)、だから女性の経済状況の改善などに比べて女性表象の問題を些末なイシューとは考えたくないんだけど、この感覚は決してメジャーなものではないことも理解している。
Vtuberの身体性についての指摘も面白いと思う。ダナ・ハラウェイとかの問題意識から言えば、vtuberというのは身体性とジェンダー・エクスプレッションを任意に切断したり接合したりできる一種の文化的達成なわけだし、フェミニズムにとっては前進だともとらえられる。フェミニズムの女性表象論は、形式それ自体よりも、その文脈、特に任意性・主体性・当事者性といった要素が重要になってくると思うけど、女性として表現されたvtuberの「中の人」が女性で、vtuberをその「中の人」の自己表象ととらえた場合、フェミニズム的にはストレートな批判が困難になってくる構造がある。レースクイーンやグラビアアイドルのように「本人達には責はないが、そうした表象・価値を求める男性社会の犠牲者(攻撃的な言い方をする人達からすれば、迎合者)」的な位置づけに落ち着いていくかもしれない。
一方で自分は「今回の件が華々しい(無惨な)負け戦」だとまでは思っていなかったりする。フェミ議連を批判する人々はおそらく「勝利」して何かを得たという感覚は乏しく、フェミ議連側も「成果」を上げたことで勝利感を得ていて、そして大多数の傍観者は「どうでもいい」と思っているように思う。いわゆる社民的な活動や地道な女性運動をしてる方々から、件の増田議員が結構問題あるというか、方々で暴走して「味方」に迷惑をかけている人だという話を伺って、今回の脇の甘いムーブについてある程度納得が行ったんだけど、批判側がその脇の甘さをきちんと突けてクリティカルヒットしてるか?というと、そうでもないような。
山田議員については、彼が守ろうとする「表現の自由」とあまり関心を示さない「表現の自由」の間には明らかにセレクティブなバイアスがあるけれども。おぎの他オタ側を自認する他議員に見られるような、フェミニズムやその他PCな価値観への嗜虐的・嘲笑的な態度はこれまであまり見せてこなかったし、そこは本人の矜持なんだろうと信じている。逆に後者のような感覚が強まって勢力を拡大していくと、むしろ山田議員は「オワコン」化してしまうかもしれない、とも思った。
仕事をしているかどうかはともかく、牛丼社長は社長だし、俺はただの役員なのだ。
報告するべきことは報告しておかなければならない。
売上や人事についての話をしつつ、社長引退の話を切り出せるタイミングをいつも探っている。
そういう目で見つつ感じるんだが、この社長、今の状況について何も引け目を感じていないんだな。
本人が明言しているわけではないのだが、
「自分はむかし安月給で粉骨砕身働いた。だから今のんびりしながら高い給料もらってるのは当たり前。
しかもただのんびりするんじゃなくて、みんなの仕事っぷりを見ながらいろいろ考えてる。
と、本人の言葉ではないのだが、そういう思いがにじみ出てくるような発言をちょいちょいする。
No.2の俺が断言するが、社長から会社を良くしようという発言や行動はこの2年間何もなかった。
それでも社長は自分が考え思考するだけで会社のためになっていると自信満々でいられるのだ。
正直驚く。
とりあえず言いたいのは、
あなたは天空からの傍観者のつもりでみんなを見ているのだろうが、あなただってみんなから見られているんですよ?
あなたがボケボケしながら牛丼貪ってるのを見て、社員のやる気は著しく落ちてますよ。
それをもう一回持ち上げるのに俺がどんだけ苦心してるか知っていますか?ってこと。