はてなキーワード: 丸山眞男とは
新井白石はマジでマルチタレントっぷりが異常で、沖縄やアイヌ研究みたいな民俗学も事もやってるし、もうなんかすごすぎる。
というか国語辞典作ったおかげで本居宣長みたいな国学者の活動が活発化したわけだしだいたいこいつのせい感はある。
何でもかんでも成果出しておいて当時は詩人として有名だったとかいうのがおかしい。
本居宣長の影響力は文学の方面ではヤバすぎ、未だに源氏物語読まされてるのだいたいこいつのせいだし、
新井白石は入れたいですね。明らかに非常に優れた思想家だと思う。(ただし思想家として残した仕事の量や後世への影響という点では最上位というわけではないけれど)
吉本隆明は無理。
引っ叩きたい丸山眞男がないやり直し
まず、どんな深い思想も極端、一面的、偏った、側面を持っている。どれかを信仰するということは他の思想と必ず対立する。
二つ目、私は養老孟司さんがよく引用する、丸山眞男の日本に思想はないという主張が正しい気がする。しかし、養老孟司さんはこうも言う。人は何かを信じずには生きていけない。よって、日本人は思想をもたないという、世間の常識を信じている、と仮説を立てる。(さらに引用されるのは踏み絵の話だ。本心はどうでもいいが、建て前として踏み絵すら踏めないという人は世間から弾かれた)
最後に、確かに新興宗教に対する差別意識はなんの根拠もない不合理なものだが、(よくよく自分が信じているもの、なぜ自分が安心して生きていられるのか、を検証してみれば数々の根拠の無いものを信じている事に気付くだろう)
相手は世にまだ出たことのない学生である。世間知らずの学生と新興宗教の組み合わせにある距離感を抱かないとすれば、それを良識のある大人と言うのだろうか?孔子曰く、君子危うきに近寄らず、と。
日本は国際社会の中では異常としか言いようのない「戦争のできない国」だった。それが安保関連法案の施行によって普通の「戦争のできる国」になった。次は緊急事態条項を盛り込んだ憲法改正で「いつでも戦争のできる国」になる。今はまだ声に出して言う人は多くないだろうが、これは私を含め多くの国民が望んでいることだ。はやく戦争を始めて欲しい。そしてできることなら私を召集して欲しい。
その前に、憲法改正では国民投票で投票者の過半数が賛成しなければならない。しかしこれはそう高いハードルではない。国民投票は楽勝だ。投票率が先日のイギリスと同様の72%ほどになると仮定すると、投票権を持つ者の37%が賛成票を投じるだけで改憲が可能となる。実際の投票率はもっと低いだろうから、投票権を持つ者の1/3ほどが賛成票を投じるだけで済む。
「移民が仕事を奪い社会保障を食い潰す」と脅されたイギリス国民は、EU離脱を問う投票で過半が離脱に賛成した。「中朝が攻めてくる」と脅せば、日本国民の1/3くらいは簡単に改憲に賛成票を投じるだろう。ちょろいものだ。たったこれだけで、国民の主権を取り上げ、緊急事態を宣言すれば政府の思い通りの法律を発令できるようになる。そして我々が多数派であることは何度も証明されている。
すでに道は開かれた。私たちが強く望んだ道だ。連帯感など感じたことのないつまらない人生だったが、選挙のたびに、私は小さな希望に燃える。全国に同志がいて、私と同じように考え、同じような行動をしていることがわかるからだ。日本国民は皆、私と同じように馬鹿だ。皆で前に進む実感がある。
戦争は悲惨だ。しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。
もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。
持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる「持つ者」の傲慢であると受け止められるのである。
上は今からおよそ10年前に書かれた「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。からの引用だ。古い話なので忘れていたという人もいるだろうし、初見だという人もいるかもしれない。できたら全文を読み、興味があればその続編であるけっきょく、「自己責任」 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで──も読んでほしい。
これらが書かれた10年前からすれば、今はずいぶん前進した。もちろん戦争に向かってだ。国民は戦争を欲している。その背景にあるものは、未来に対する深い深い絶望だ。老人は逃げ切れるかもしれない。若者や子供にとって未来は未知数だ。しかし持たざる中年である私にとって未来は絶望でしかない。しかし戦争は、上の引用のようなチャンスとなるかもしれない。
私には配偶者もなく、子もなく、安定した職もなく、資産もなく、趣味も、職能も、持ち家もない。失うものはもはや何もない。私は将来に絶望しきった中年だ。日本人であることだけを誇りとして生きている。
戦争が起きても、何の技能も持たないまま中年となった私には何のチャンスも回ってこないかもしれない。それならば、私は国のために戦って散り、英霊として眠ることを切望する。そう贅沢な望みでもないだろう。もう私には、残された望みはそれしかないのだ。
タイトルは、丸山眞男が「〔竹内〕好さんとのつきあい」という文章のなかで紹介している内村鑑三の言葉である。
これを丸山は「みごとなコスモポリタニズムだ」と言ってるのだが、私も本当にその通りだと思う。
要するに、日本人はしばしば「島国根性」を発揮して、「人類」というものをどこかよそよそしい、抽象的なものだと考えてしまう。
日本人には実感や内輪の論理によって支配される仲間内の世界と、外国や外国人と付き合うときに現れる外側の世界とがあって、後者の世界に立つときにだけ「人類」という観念が現れる。
そのため、「人類愛」を唱えるのと同じ人間が、自分の家庭では亭主関白であったりする。
しかし、本来、人類愛というのはそういう「内と外」を区別しない思想であり、別の言い方をすれば「自分がいま立っているここがとりもなおさず世界なんだ」という思想なのだ、と。
「人類ってのは隣りの熊さん八っつぁんのことをいうのだ」とは対極的な、言ってしまえば「島国根性」の典型が↓のような考えだろう。
「リベラルなフェミニスト」というのは、世間一般の風潮に対する態度であり、他人に対する態度である。自分自身のことではない。特に、家庭における自分の個人行動のことではない。「女性一般の権利を尊重する」ということと、「自分の女房の権利を尊重する」ということは、まったく別のことだ。前者はフェミニズムで説明できるが、後者はフェミニズムとは全然関係がない。
ふたたび内村鑑三の言葉を借りるなら、「フェミズムってのは、うちの女房の権利を守ることをいうのだ」と言ったところだろうか。
「女性一般の権利」のなかに、どういうわけか「自分の女房の権利」が含まれない。これはつまり「女性」が単なる観念として、自分の身近な世界の「外」にあるものとして認識されている、ということだ。
↑の増田とは正反対に、自分の女房とか、身近な女性に対して優しい男を「フェミニスト」と呼ぶ人もいる。誤解の方向は逆だが、実はよく似ている。
恋人や女房をそれとして見るのと「同時に」、女性一般としても見るのがフェミニズムなのであって、恋人や夫婦といった内輪の論理だけで互いの関係を図るあいだは、それがどれだけ慈愛に満ちたものであってもフェミニズムではない。
むかしの学生運動家には亭主関白が多かった(女性の仲間にお茶くみをさせて平然としていた)という話を思い出すのだが、
結局のところ、「外」からやってくる権威(たとえばマルクス)に対する弱さと、「外」の権威が及ばない「内」(内輪の論理)の強固さというのは、おそらく関連しているのだろう。
「外」から次々と新しい権威がやってきて、そのつど恐れ入るのだけど、それが「内」に及ぶことはないから、「外」の権威はそのつど取り換えられる。
これは日本人が仏教を受容し、儒教を受容し、マルクス主義を受容し、そして現代にフェミニズムを受容するに至るまで、一貫して続いた思考パターンなのだろうなぁ、と思う。
戦争法案だ!という批判がアホくさいのは、戦争=悪という前提で発言しているからだ。
しかし、戦争はそもそも悪なのか?戦争が悪でなければ戦争法案というレッテル張りは批判足りえない。
ここで思い出されるのはピケティの資本主義の歪みが外的要因=戦争で解消されるという論である。
現代日本において格差はもはや行き着くところまで来ており、この社会は崩壊寸前だ。
格差によって未来を奪われた底辺層が日々絶望し、憎しみを募らせて暮らしている。
底辺層を救い、日本にかつてのような活力を取り戻させるには格差の解消=戦争しかない。
つまり戦争は悪どころか、日本を救うための銀の弾丸でり、善である。
もし、安倍ちゃんがやろうとしていることが憲法違反であり、戦争法案の作成であるなら、
日本人はそのことを歓迎し喜ぶべきだ。戦争だけが日本を救うのだから。
いやしかし、これを書いてて思ったけど、
SSクラス 江藤淳、柄谷行人、廣松歩、栗本慎一郎、谷沢永一、村上泰亮、中村元
Sクラス 小室直樹、浅田彰、福田和也、渡部昇一、呉英智、蓮實重彦、永井陽之助、中村雄二郎、すが秀実、佐伯啓思、高澤秀次、筒井康隆、小谷野敦、菅野覚明、養老孟司 見田宗介、佐藤誠三郎、大森荘蔵、西部邁
Aクラス 丸山眞男、吉本隆明、長谷川三千子、丸山圭三郎、橋本治、村上陽一郎、佐藤優、松岡正剛、伊藤貫、猪木武徳、坂部恵、坂本多加雄、大澤真幸、中川八洋、永井均、野矢茂樹、小浜逸郎、飯田隆、河合隼雄、片岡鉄哉、鎌田東二、梅棹忠夫、竹内洋、山本夏彦、山口昌哉、入江隆則、
Bクラス 猪瀬直樹、坪内祐三、中沢新一、御厨貴、橋爪大三郎、鷲田清一、北岡伸一、池田清彦、中西輝政、立花隆、山本七平、宮台真司、桶谷秀昭、宮崎哲弥、司馬遼太郎、古田博司、市川浩、東谷暁、苅谷剛彦、秋山駿、関岡英之、加藤尚武、浅羽通明、松原隆一郎、東浩紀
Cクラス 中島岳志、鎌田哲哉、兵頭二十八、内田樹、森本敏、村上龍、西尾幹二、仲正昌樹、大江健三郎、齋藤孝、森岡正博、富岡幸一郎、小泉義之、井沢元彦、桝添要一、中西寛、中島義道、鄭大均、山内昌之、村田晃嗣、山形浩生、林道義、松本健一
Dクラス 斎藤環、福岡伸一、副島隆彦、榊原英資、梅原猛、寺島実郎、佐藤健志、大塚英志、五木寛之、笠井潔、潮匡人、高橋源一郎、岸田秀、山田昌弘、竹中平蔵、池田信夫、萱野稔人、大川隆寛、大森望、櫻田淳、上田紀行、手嶋龍一、和田秀樹、藤原正彦、中野剛志
Eクラス 佐々木中、村上春樹、三橋貴明、田原総一郎、木村太郎、池上彰、竹田恒泰、切通理作、島田雅彦、酒井信、夏野剛、苫米地英人、上野千鶴子、姜尚中、鷲田小爾太、竹田青嗣、小阪修平、佐藤亜紀、
Fクラス 糸井重里、加藤典洋、中上健次、勢古浩爾、北田暁大、藤原和博、小熊英二、佐々木俊尚、西條剛央、玄田有史、城繁幸、茂木健一郎、岩田温、千葉雅也、岡田斗司夫
Gクラス 小林よしのり、宇野常寛、勝谷誠彦、荻上チキ、鈴木謙介、勝間和代、伊坂幸太郎、濱野智史、赤木智弘、坂本龍一、いとうせいこう、上杉隆、酒井順子
Hクラス みのもんた、久米宏、古舘伊知郎、ハマコー、太田光、水道橋博士、テリー伊藤、リリー・フランキー、コシミズ、香山リカ、森永卓郎、ホリエモン、津田大介、ひろゆき、中村うさぎ、雨宮処凛、桜井誠
http://anond.hatelabo.jp/20130831135023
スルーするつもりだったが、マメに応答してるのに感心したので少しだけ。
ああ、最初に私の立場を明らかにした方がいいかな。私はサヨクではないが、ウヨクの主張とサヨクの主張とでは後者に共感を覚えることが多い。
あなたの疑問は以下の2点。
1点目については、既にバイアスがあるのではないかとの指摘がなされており、あなたも認めている。私も指摘は正当だと思う。
というか、あなたは最初から「現代日本ではサヨクの人の方が言論や議論を否定したレッテルばりと一方的な言説を行う」というのが「僕の印象でしかないのだが」と認めている。
にもかかわらず、その単なる「印象でしかない」はずのものを当然の前提として「それはなぜか」と問う。
これは、議論のやり方としても、サヨクに対する態度としても、非常に不誠実なものである。
どうもあなたはこの点について中心的な話題でないなどと軽く考えているようだが、相手に対する敬意や誠実さは議論を行う上でもとても重要なものだ。あなたの友人も、あるいはあなたの敬意や誠実さの欠如を感じとって拒絶的な態度をとったのかもしれない。なんにせよ、この点については単に「主張が誤りである(可能性がある)と認める」だけでなく、なんらかの反省の言葉を述べるべきだと思う。
2点目についても、前提の部分におおいに疑問がある。
「非武装ならば攻め込まれない」などと主張している者がいったいどれだけいるのか。
自衛隊が憲法違反だと主張する共産党でさえ、自衛隊の即時解消は求めておらずその段階的解消を主張するにとどまる。憲法違反の存在であるにもかかわらず即時解消しないのは当然安全保障上の考慮に基づくものであり、「非武装ならば攻め込まれない」などと考えていないことは明白であろう。
私の実感からしても、代表的な左翼政党である共産党の見解からしても、「非武装ならば攻め込まれない」などと主張する者はごく少数にとどまるものと思われる。そのような状況下で、たまたまあなたの友人が「非武装ならば攻め込まれない」と主張したからといって、それをサヨクの問題として大々的に取りあげなければならないのだろうか。
全体に、あなたはいわゆる「脳内サヨク」を勝手に作り上げ、それに対して疑問の形式をとった皮肉をぶつけることで悦に入っているようにしか見えない。
また文章を読む限り、「現実」についての理解が平面的で、丸山眞男すら読んでいないように思える。
本を読めという言い方は好きではないのだが、疑問を解消するには多くの場合(本を読むなどして)きちんと勉強することが有効であるということだけ、老婆心ながら忠告しておく。
http://anond.hatelabo.jp/20110119132357
・グッグッグとすきなようにつながればいいと ぼくはおもうです(ω)
・———————そう、あなたは自由に繋がる権利があるんですよ、19歳さん。
この世には、不自由な繋がりなど無いのです。
・人とどう繋がるかを決める権利があるか。それには「Yes and No」とお答えしましょう。
・私達には人とどう繋がりたいかを決める脳の機能がある。
「繋がり」のクオリアについて、僕はフェルメールを見ながら考えている。
・このネットには残念な繋がりが多い。
・スターウォーズを観たので人とどう繋がりたいかアメリカで決めてくる。
・「繋がりの道」構想を発表する。
・人とどう繋がりたいのかを決める権利があるという俗流繋がり論にはエビデンスが無い。
・「人とどう繋がりたいかを決める権利があるっていうの?オナニーみたいに?」
「そう、シコシコってね」
・諸君!私は繋がるのが好きだ!
・19歳イイイィィイどう繋がるダァー!!!
19歳のことか・・・19歳のことかアアァァアアアァアア!!!!!
雇用の流動化が必要だというと、「人々の不安が増す」とか「モチベーションが下がって生産性が落ちる」いった批判がよくある。たしかに会社という繭にくるんで、すべての人をやさしく守ることができれば理想だろう。戦後の一時期には、それが実現したと錯覚された時代もあった。しかし残念ながら、もはやそういうユートピアは失われたのだ。
今われわれが直面しているのは、福沢諭吉以来の「個の自立」という問題である。『福翁自伝』などを読むと、100年以上前の本なのに不思議に単純明快でわかりやすい。本書は、その「新しさ」をハイエクなどオーストリア学派のリバタリアンに重ねて解釈したものだ(絶版)。
ハイエクは福沢の死んだ年に生まれたので、福沢が影響を受けるはずはないが、両者には共通点がある。それは若いとき、ヒュームやミルなどの古典的自由主義の影響を強く受けたことだ。そしてハイエクにとって社会主義との闘いが個人の自由への信頼を生んだように、福沢の場合も「門閥制度は親の敵」という儒教的秩序との闘いが生涯のテーマだった。
福沢以来、丸山眞男や大塚久雄に至るまで、個の自立は日本の知識人の見果てぬ夢だった。しかし今われわれの見ているのは、福沢が生涯をかけて闘った封建的秩序が自壊し、ゾンビ化した状態である。そこに出てきたのは自立した個人ではなく、帰属する集団を失って自殺する失業者と、家族にも見捨てられた「消えた老人」だ。雇用が流動化すると、こうしたストレスはさらに増えるだろう。
本書も指摘するように、福沢のいう「情愛」を排除して論理のみによって人々が結びつく社会は、彼のような強靱な知性の持ち主でなければ耐えられない。テイラーのような北米の人々が近代に築き上げた人工的コミュニティが崩壊して個人主義が強まることを危惧するのとは逆に、日本では近代以前から継承してきた「強い中間集団」が有効性を失う一方、人々は北米型の「強い個人」にはなれないのだ。
しかし福沢以外の道はあるのだろうか。北一輝は個人主義を超克する国家社会主義を提唱し、日本浪漫派は近代的自我を否定して「近代の超克」の道をさぐったが、それは破滅への道だった。戦後の日本的コーポラティズムの意外な成功は、欧米的な個人主義を経なくても繁栄できる「東アジアモデル」を示したように見えたが、それも幻想だった。
いま日本の陥っている袋小路を脱却する道は、おそらく福沢のいう「独立自尊」しかないだろう。われわれは市場経済によって得た富を捨てることができないからだ。そして組織を守ることによって個人を守るのではなく、古い組織を淘汰して社会によって個人を守るシステムに変えるしかない。福沢は、今なお新しいのである。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/ikedanob/status/4757525050
はてサツイッターで吐き出した愚痴にゴキブリみたいに群がって大はしゃぎww
どんだけ池田信夫嫌いなんだよw
まぁ著名人ユーザー全般に対するpostを見ていても思うことなんだけどさ、最近Twitterを「著名人へ生卵をぶつける好機」みたいに考えている人多くね?
社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。
これ、赤木智弘の言葉だけど、実はこういう状況ってもうとっくに生まれているんじゃないかってTwitter見てて思ったよ。氏は肉体的、物理的な接触を意味する「ひっぱたく」機会を望んでいたようだけど、想像力を働かせれば今ネットで行われている著名人のブログやつぶやきに対する容赦ない罵詈雑言も立派に「底辺がエスタブリッシュメントをひっぱたく」行為だと思えてこない?
昔は学者の言葉って綺麗に編集されたテレビや校正を重ねた書籍や新聞ぐらいでしか、一般庶民が耳にする手段ってなかったわけさ。だから学者って雲の上の存在だし、品行方正で上品で、部屋には書籍だらけだというイメージが漠然とあったはず。で、そのステロタイプな学者像を、ネットが発達して学者と1対1でやりあえる状況になった今も引きずっている奴が、まだ多いんじゃないかと思う。「相手は著名人だから、こちらが少々横柄なクチをきいても、相手になんかするはずがないさ」という甘えで、罵詈雑言を浴びせているようなのが結構居る。で、挙句にブロックされたらありえないことをされたかのように、そのことを吹いて周る。これは著名人や学者というものを自分より高いところに「勝手に」置いているからだ。学者ともあろう人間がそんな小さなことでいいのか、とでも言わんばかりだ。ちげーよ、お前も学者もTwitterでは最初から対等なんだってば。だからこそ気に食わなければ一発でブロックするし、悪態を突かれたら応戦もするの。
たかだか個人のグチにいちいち噛み付いて「経済学者なのに」という切り口で軽口を叩けば、そりゃ誰だってブロックするっての。わかれよ、それぐらい。
最初から自分と対等のつもりで罵っているのなら結構。だけど、それならそれで言い返されたりブロック食らったときに「著名人なのに」の理屈は、出すなよ?当然そうなるわな。だけどそれをわかってない奴、居るだろ。その見苦しさを自覚しろよ。
見ず知らずの人間がおかしな事を呟いていて「あまり知ったかぶりしないほうがいいですよ」とは普通はいちいち返さないはず。それを著名人だからという理由でやっている奴が居るよな。嫌いな人間に生卵をぶつける機会を伺うためのフォローをしているわけだ。それはそいつの権利だとは思うけど、自分から喧嘩売っておいて挙句にブロックされて文句言ってる奴は著名人に一体何を求めているのかと言いたい。
前にはてなでどっかの弁護士を中傷していた奴居たよな?で、その弁護士が訴訟をも辞さない構えを見せてきたら、突如として発言を取り下げ、代わりに今自分が陥っている状況を披露し始めた。「みなさん見てください!僕がこんなことを書いただけで、○○弁護士は法律を盾に訴訟するぞと噛み付いてきましたよ!」と、精一杯の抵抗を見せてた。つまり、彼はナメていたのだ。「メディアにも露出する弁護士ともあろう人間が、俺のような泡沫ブロガーの言葉に過敏に反応するはずがない」とタカをくくり、罵声を浴びせていたわけだ。チンピラは、いざ肉体的な闘争になった場合勝てない相手も沢山いるはずだ。だけど日頃から粗暴な言動に及んでいれば、自分が弱い人間だと悟られることはない。だけど、いざ反撃された場合に引っ込みがつかなくなる。だから勝てないと解ったとき、突如としてギャラリーを味方に付けようとするのだ。ああいう滑稽な人間が、Twitterにはまだまだ多い。