はてなキーワード: ソフィストとは
まず「論理的だ」と自称する人が多用するのは他者を批判し、無知であるかのように見せかける戦略である。
彼らは議論の場で冷静かつ理路整然とした態度をとり相手の感情や状況を無視して、自分の主張を押し通そうとする。
その結果相手は不快感を覚え、自分の意見が無価値であると感じることが多い。
こうした行為は論理的思考とは無縁であり、むしろ他者を傷つけることで自分の優位性を示そうとする性格の悪さを反映している。
さらに「論理的だ」と自称する人は自分の感情を抑圧し、他者に対しても感情を無視するよう強要することがある。
感情を論理の敵として扱いすべての問題を冷徹に解決しようとする。
しかし人間関係や社会的な問題は感情が大きく関与しているものであり、それを無視することは現実を無視することに等しい。
感情を排除した論理はただの冷酷な行為の正当化に過ぎず、その背後には他者への共感や理解を欠く性格の悪さが潜んでいる。
また、彼らは自分の論理が絶対的な正義であると信じて疑わないことが多い。
この信念に基づいて他者の意見や価値観を否定し、自分の考えを押し付ける。
論理は本来柔軟であり異なる視点や価値観を取り入れて成長するものだが、彼らにとって論理は自己中心的な道具であり、他者を支配するための手段に過ぎない。
このような態度は単なる性格の悪さから来るものであり、真の論理的思考とはかけ離れている。
彼らの行動は、他者を批判し、感情を無視し、自分の意見を押し付けることである。
論理的であることを誇示する前に他者への共感や理解を持つことがより重要であることは、言うまでもない。
「論理的だ」と自称する人々がしばしば使用する誤謬は、古代ギリシャのソフィストたちが用いた技巧と驚くほど似ている。
ソフィストたちは論理的に見える議論を構築することで相手を説得し、勝利を収めることを目的としていたが、その手法はしばしば実質的な真実や倫理を無視し表面的な論理だけに依存していた。
現代においても、「論理的だ」と自称する人々が同様の手法を用いることが多い。
彼らは、自己の主張を支持するために論理的誤謬を巧妙に組み込むことがある。
たとえば、相手の主張を歪曲して攻撃する「藁人形論法」や、証拠や論理に欠けた結論を出す「滑り坂論」などがその一例である。これらの誤謬は表面的には論理的に見えるが、実際には正確な推論ではない。
ソフィストたちのように、これらの自称「論理的」な人々は、自分の議論を正当化するために論理を武器として使う。
しかし、彼らの目的は真実の探求ではなく、相手を打ち負かし、自分が優位に立つことにある。これは、ソフィストたちが依拠していた「エリスティケー(eristiké)」と呼ばれる、勝利を目的とした議論の技術と非常に似ている。
さらに、彼らは自らの主張を絶対視し、他者の反論を無視したり、軽視したりする傾向がある。これは、ソフィストたちが自らの知識を絶対的なものとして売り込み、他者を教え導く存在として振る舞っていたこととも重なる。このような態度は、論理的な思考というよりは、むしろ権威主義的であり、自己中心的な性格の表れと言える。
しかし、ソフィストたちの手法が古代ギリシャの知的活動において一部の人々にとって有用であったように、現代においてもこれらの誤謬的な議論は一見効果的に見えることがある。
それでも、こうした誤謬に依存することは、最終的には自分自身を欺くことに繋がる。論理的であると自称するならば、その論理が真に正確で公正であることを確認することが重要であり、それを怠れば単にソフィスト的な詭弁に過ぎなくなる。
結局、「論理的だ」と自称する人々が使用する誤謬は、古代のソフィストたちと同様、見かけ上の論理に過ぎず、真の意味での論理的思考とは大きく異なるものである。彼らが追求すべきは、他者を打ち負かすことではなく、真実を明らかにするための誠実で公正な議論であるべきだ。
「論理的だ」と自称する者たちが用いる詭弁に対する対策は、まるで闇の魔術に対する防衛術を学ぶかのように慎重であるべきだ。
彼らの誤謬的な論法は表面的には魅力的で説得力があるように見えるが、正しい知識と洞察を持って対処すれば、その魔術は容易に無効化される。
まず論理的誤謬を見破るための知識を身につけることが重要である。相手が「藁人形論法」や「滑り坂論」のような誤謬を用いている場合それを即座に認識し、その不正確さを冷静に指摘することが防衛の第一歩となる。
これは、まるで闇の呪文を逆に唱えて無効化するかのような行為だ。
次に、感情や倫理を無視されないように自分の立場を守ることが肝要だ。論理は冷徹であるべきだと信じる彼らに対して、感情や倫理もまた論理の一部であり、それを排除することの危険性を指摘することが重要である。これは、闇の魔術の冷たさを温かな光で照らし出す行為に他ならない。
さらに、議論の目的を見失わないことが必要だ。相手がソフィスト的な手法で自分の論理を押し通そうとする際、こちらも勝利を求めるのではなく、真実や理解の追求を目指すことが求められる。これは、防衛術の究極の形であり、闇の魔術を無力化する最も強力な手段となるだろう。
こうした防衛術を身につけることでその魔術に惑わされることなく健全な議論を続けることができる。罪を憎んで人を憎まずとも言うか。
論理は武器にも盾にもなり得るが、その使い方次第で人を傷つけることも守ることもできる。
冷たさと強さを兼ね備えたスリザリンの特質を持つ者は時にその論理を自己中心的に用いるかもしれない。だが、真に賢い者は論理の裏にある温かな光を見失うことがない。
我々が目指すべきは感情と理性が調和した真の論理的思考である。
しかしこれはスリザリンに向けたスリザリンからのメッセージである。
闇を学ぶとき、我々もまた闇に飲まれかねないことに注意しなければならない。我々は、気を付けなければならない。我々は、心を忘れてはならない。
おわかりかな?
美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンは、イタリアのルネサンスの絵画と建築に具体化された古典的な美の概念について考察している。
イタリア ルネッサンスの中心的な考え方は、完璧なバランスです。この時代は、建物と同様に人間の姿においても、それ自体の中に静止している完璧なイメージを達成しようと努めました。あらゆる形態は自己存在する存在へと発展し、全体が自由に調整され、独立して生きている部分にすぎません…。古典的な作曲のシステムでは、個々の部分は、たとえ全体にしっかりと根付いていても、一定の独立性を維持します。それは原始芸術の無政府状態ではありません。部分は全体によって条件づけられていますが、それでもそれ自身の命を持つことをやめません。観客にとって、それは分節、つまり部分から部分への進行を前提としており、それは全体としての知覚とは非常に異なる操作です。
古典的な概念では、美しさは、比例、調和、対称性、および同様の概念に従って、統合された部分を配置して一貫した全体を形成することで構成される。
これは西洋の原始的な美の概念であり、古典および新古典の建築、彫刻、文学、音楽のどこにでも体現されている。
アリストテレスは『詩学』の中で、「生き物、そして部分から構成されるすべての全体が美しくあるためには、部分の配置に一定の秩序がなければなりません」(アリストテレス、第 2 巻)と述べている。
そして形而上学では、「美の主な形式は秩序、対称性、明確性であり、数学科学は特別な程度でそれを実証しています。」(アリストテレス、第 2 巻)
アリストテレスが示唆しているように、この見方は黄金分割などの数式に要約されることもあるが、それほど厳密に考える必要はない。
この概念は、とりわけユークリッド原論などの文書やパルテノン神殿などの建築作品に例示されており、また彫刻家ポリクレイトス (紀元前 5 世紀後半から 4 世紀初頭) の正典によって例示されている。
カノンは、完璧なプロポーションを示すように設計された彫像であるだけでなく、今では失われた美に関する論文でもあった。
医師ガレノスは、この文章の特徴として、たとえば、「指と指、すべての指と中手骨、手首、そしてこれらすべてと前腕、および前腕と腕」の比率を指定していると説明している。
その論文で身体のすべての対称性を私たちに教えてくれたポリュクレイトスは、その論文に従って人間の像を作り、論文と同様にその像自体を正典と呼んだ作品でその論文を裏付けた。
古典的なテキストにおける「対称性」の概念は、双方向の鏡像関係を示すために現在使用されているものとは異なり、より豊かであることに注意することが重要。
それはまた、古典的な意味で美しい、物体の特徴である部分間の調和の取れた測定可能な比率の一種にも正確に言及しており、道徳的な重みも担っている。
たとえば、『ソフィスト』 では、プラトンは高潔な魂を対称的であると説明している。
古代ローマの建築家ウィトルウィウスは、その複雑さと、適切であるがその根底にある統一性の両方において、中心的かつ非常に影響力のある定式化における古典的な概念を体現している。
建築は、ギリシャ語でタクシーと呼ばれる秩序と、ギリシャ人がディアテシスと呼ぶ配置、そしてギリシャ人がエコノミアと呼ぶ比例と対称、装飾と配分から構成されます。
秩序とは、作品の細部を個別にバランスよく調整し、全体としては対称的な結果を目指して比率を配置することです。
プロポーションは、優雅な外観、つまり文脈の中で詳細が適切に表示されることを意味します。これは、作品の細部がその幅に適した高さ、その長さに適した幅である場合に達成されます。一言で言えば、すべてが対称的な対応関係を持っているときです。
シンメトリーは、作品自体の細部から生じる適切な調和でもあります。つまり、与えられた各細部が全体としてのデザインの形に対応することです。人間の身体と同様に、キュービット、足、手のひら、インチ、その他の小さな部分から、リトミーの対称的な性質が生まれます。
アクィナスは、典型的なアリストテレスの多元主義的な定式化で次のように述べている。「第一に、誠実さ、あるいは完璧さです。何かが損なわれていると、それは醜いからです。次に、適切な比例または調和があります。そして明晰さもあります。明るい色のものが美しいと呼ばれるのは、このためです。」(『神学教典I』)
18 世紀のフランシス・ハッチソンは、この見解を最も明確に表現していると思われることを次のように述べている。
「したがって、体の均一性が等しい場合、美しさは多様性と同じです。そして多様性が等しい場合、美しさは均一性と同じです。」 (Hutcheson)。
ハッチソンは続けて、最も美しい対象として数式、特にユークリッドの命題を挙げる一方で、次のような普遍的な物理法則によってその根底にある巨大な複雑性を持つ自然を熱狂的に賞賛している。
「美しさはある、と彼は言います。アイザック・ニュートン卿の計画における重力がそれである」(Hutcheson)
美とは部分間の特定の比率の問題であり、したがって古典的な概念に対する一連の非常に説得力のある反論と反例が、エドマンド・バークの著書「私たちのアイデアの起源についての哲学的調査」で与えられている。
植物界に目を向けると、そこには花ほど美しいものはありません。しかし、花にはあらゆる種類の形とあらゆる種類の性質があります。それらは無限に多様な形に加工されます。 …バラは大きな花ですが、小さな低木の上に生えています。リンゴの花はとても小さいですが、大きな木の上に生えています。しかし、バラもリンゴの花もどちらも美しいです。 … 白鳥は、自白すると美しい鳥で、首は体の他の部分よりも長く、尾は非常に短いです。これは美しいプロポーションですか?私たちはそれが事実であることを認めなければなりません。しかし、首が比較的短く、尾が首と体の残りの部分よりも長いクジャクについてはどう言うでしょうか。 …人間の身体には、相互に一定の比率を保っていることが観察される部分がいくつかあります。しかし、美しさの効果的な原因がこれらにあることを証明する前に、これらが正確に見出されればどこでも、それらが属する人は美しいということを示さなければなりません。 …私としては、これらの比率の多くを非常に注意深く検討したことが何度かあり、多くの主題においてそれらが非常に近い、あるいはまったく同じに保たれていることがわかりました。それらは互いに大きく異なるだけでなく、一方が非常に美しい場合には、 、そしてもう1つは美しさから非常に遠いです。 …人体のあらゆる部分に好きな比率を割り当てることができます。そして私は、画家がそれらすべてを観察し、それにもかかわらず、もし望むなら、非常に醜い人物を描くことを約束します。
デビッドライスが白饅頭の本を買って読んで「悲観的な事実を羅列してるだけでそれでどうしたいか何も書いてない」とか文句言ってるけど
https://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2022/06/17/123531
そんなの白饅頭だけじゃないわな。バズる記事は全部そんなもんだよ
冷笑系界隈だけじゃないぞ。これから日本はEVに取り残されていくーって話してるやつ
https://togetter.com/li/1903943
これも「悲観的な事実を羅列してるだけでそれでどうしたいか何も書いてない」の類。何も先に進んでないけど悲嘆に暮れて満足してる
現代日本人、こういうの好きなだけじゃね?
こことも関係した話か
https://anond.hatelabo.jp/20220623123857
[追記]
この増田も同じじゃんてブコメがちらほらついてるけど、俺は白饅頭と同じバリューしか出せないのわかってるから別に今更何とも思わねえよ
それよりトラバ元の増田をもっと評価してやれ。今の若者に失礼って言ってるやつ。あいつはライスの言うソフィストなんかじゃねえ
今の若者をちゃんと信じてる。他人の感情をいたずらに揺さぶるんじゃなく自分の感情を曝け出してる。ああいうのが生産性あるんじゃねえかな
安倍政権が終わり、菅政権に移行してから、自民党はとにかく醜態を晒し続けている。
菅総理はとにかくリーダーシップや判断力に欠け、安倍元総理がどれだけマシだったのかを実感する日々だ。
この期に及んで新自由主義型の国家運営を崩さない等、国家運営能力の低さも露呈している。
普通自民党の支持率が下がれば野党で最も力を持つ立憲民主党の支持率が上がるはずであるが、全く上がっていないのだ。
これはつまり、自民党を見限った人でも立憲民主党を支持する気が起きないという信頼の無さがある。
なぜ彼らは支持を取り付けられないのか?
それはひとえに政治家と呼ぶのも憚れるソフィストが悪目立ちし、しかもそれなりの地位にいるので集団として自民党以下の信頼度になっているためだ。
つまり、自民党の議員を最低の政治家だとするならば、立憲民主党の議員は、政治家のレベルにすら達していない…
自民党も政治家じゃない!という文章の読めない人のために書き直すと、どれだけ自民党の評価が下がったとしても自民党以下だとみなされているというところが大きい。
特にSNSでの立憲民主党の議員はあまりにも相手への敬意が欠けている人間が多い。
これは対立する人間扱い出来ないとみなされかねず、このような倫理観の人間が権力を持つというのは独裁、粛清、規制を表立ってやるということであるため、ある程度歴史の素養がある人間なら真っ先に避ける。
もちろんそういった事を自民党がしていない、しないとは言わないが、自民党よりもひどくなると見なされる。
官僚に圧をかけ、揚げ足取りを連発して「問題を解決する」ことよりも「勝つ」姿勢が目立つ。
このあたりは共産党よりもひどく、コロナウイルスの感染が爆発した際、共産党はコロナウイルスの議論を最優先としていたが、立憲民主は桜を見る会の話ばかりしていた。
日本の政治家のレベルの低さというのは日本のメディアの能力が極めて低いために国民が適切に政治をやれないという劣悪な環境にも起因するが、野党勢力はとにかくルール違反が多い。
大義のためにルールを破るやつというのは今どき漫画でも敬遠される人間である。
その他の政党も、支持母体が怖すぎる公明党、短絡的で夢見がちで足元が完全に見えていない日本維新とれいわ、野党の中ではかなりマシだが経験が浅くて弱すぎるために立憲民主に迎合せざるを得ない国民民主、死にかけの社民党、頭のおかしいN国、ちゃんと政治家ではあるがここが通ったらアメリカとの関係が最悪になって国防が終わる日本共産党、政党ですら無い希望の党など、選択肢が完全に終わっている。
ユーミンに対するコメントをみてシンプルにひどい思ったし、敵側にはなんでもアリかよと憤りもした。
だが白井氏の以前のツイッター発言と今回のフェイスブック発言を並べて貼ったツイートを見つけ、「ああ、もっと深刻な、むしろ低レベルな事態なんだな」と思ったので書いておく。
以前のツイッター発言とは要するに、「芸能人や熟知しない人でも政治的表明をしていいじゃないか」「人権に含まれる」「それを避難する人は軽蔑されて然るべき」という内容だ。探すと出てくると思う(以前の検察のときのハッシュタグの時期のツイートだろう)
この直近数ヶ月のツイートは、今回のユーミンに対する発言と、あまりに真っ向から矛盾する。
ユーミンは歌手だ。発言自体は政治的発言といえるかも議論ある程度な踏み込んでいないものだ。しかし、「その者、死すべし。」といって憚らない白井氏が、人権を尊重しいないこと・軽蔑されて然るべきことはもはや言を俟たない。
ただ、どうにも気持ち悪いのが、同一人格の中にこれが成立するということだ。どうにも不可なの解だ。言語表現を生業としているにも関わらず、この矛盾となぜ共存できるのか。
ここまでいくと、単にブーメランというよりも、もう少し根深く低レイヤーで、もう少し低次元なことだなと気付かされる。
もっとプリミティブに、言辞を弄して場を制圧すること(=マウンティング)にこそ向き合っているのだ。
だから彼は理念の人ではない。赤旗への寄稿していた過去もあるようでどちらかといえば左派の人なんだろうが、そんなのは些細なことだ。
第一義的には彼は詭弁家なのだ。つまりソクラテスに嘲り笑われたソフィストでしかないのだ。
コンテクストを自らに定めることすらままならず、場当たり的な優越の快楽にひたあるのみであれば、その者の語りは特段敬聴に値しない。
彼はさほど特別ではない。ソクラテス先生がウンザリするくらいにはギリシアに居たし、歴史は繰り返すので世界中に沢山のソフィストがいる。
同じというのは思想がということではない。
「お題目は大変崇高で、実現できれば素晴らしいが人間が素晴らしくないのでダメな方に転がっていった。」という所である。
本来はマジョリティの無神経さからマイノリティを守るという何気ないものであったはずであるが、今や「自分が不快なものに相対主義を持ち出してすりつぶす行為」に変貌した。
というかそのまんまだ。プロタゴラスなどのちゃんとした知恵者が節度を持って使っていれば、学問のツールとしての懐疑論に収まっていた相対主義も、市井や政治の場に降りていった時点で、相手を蹴落とし、自己肯定のために用いられるごろつきの便利ツールへと変貌してしまった。
野球のルールの中で使えば人々を楽しませることができるバットも、人の頭に使えば簡単に不幸を量産できるようなものだ。
ポリコレもきちんと自己批判、懐疑、考察を繰り返すことのできる「ルール守って議論できる学者」が使っていれば人類の倫理を底上げできるものであったのであろうが、
自己批判も自己観察もできない我々のような一般市民の手に落ちたことで、自己肯定や社会の中での地位闘争に転用されてしまったと言って良いだろう。(その間に「自己批判ができない学者=ド三流の学者」が挟まっているのは相対主義でも同じである)
最近いろいろ発生している問題を見て思う。
普段、賢いフリをしている人や、一般に賢いと思われている人ですら
簡単に騙されるひとは多いんだなということ。
そして、それは自分だけが例外ではない幾つものDNAレベルに書き込まれたような
罠が存在しているんだなということ。
そしてその罠に抗う方法ですら罠であるという多重構造になっているということ
さらにそれらすべてが騙されることがとんでもない快楽だということ。
自分なりにいろいろ世の中や自分自身をみていて
この罠をリストにしてまとめてみた。
亀田親子最悪だよねー。オタクきもいんですけどw うわぁ。出たよ低学歴w まったく、人の悪口いうやつって最悪だよね。 俺は状況をクールに見てるぜ。コイツラばかじゃねーの?w ほら、罠。どっちにころんでも。
TBSやGoogleが最近叩かれている。マイクロソフトもそうだ。この権威に屈しないかんじ。 カッコイー。俺は正義の代弁者だ。いいだろう。 大企業は金にまみれて汚い。電通は汚い。 金を持っている?そんなもの人生の幸せなんかじゃない。 東京大学?ふんっ!どうせ使えないやつらだろ? 学校の勉強がなんになるんだ? 肉体労働をしてないから、わからないんだ!ハッハーw 俺の若い頃はもっと苦労してたからよかったんだ。 今の若いやつらは勉強しないし、活力がない。 ちょっとかわいいからってエリカ様とかやってるから いけないんだよ。
うぁ。なにこいつ、いい年こいて童貞なのw?キモ過ぎw へー。こいつ、数学できるとかいってるけどどんだけのモンなのかねぇ。 はっきり言って俺の若い頃は違ったね。 こいつ、プライドばっかりでぜんぜん使えない。 自分ができる奴なんて勘違いしてるんじゃないのw?
ほら、出たよ。B型批判w低俗だよねw??。血液型で人を判断するなんて 低俗極まりないし、科学的根拠にかけるよw あ、ちなみに松本人志はB型だけどねw
アッコが芸能界で幅利かせてるのは在日だからだろ? このアイドルもプロデューサに抱かれたんだろ? Googleで初音ミクの画像が出ないのはGoogleがTBSから金もらったからだ。 金子?あー。どうせ在日だろ?
バカだな。知らないのかよ。9.11はブッシュが戦争を起こすために仕組んだんだぜ。 そもそも人類は月になんていってないしw テレビ業界は完全に電通と創価学会に支配されてるからな。 ジャニーズ事務所の人間はみんなジャニーにケツほられてんだよw
ジャニーズ事務所の人間はみんなジャニーにケツほられてんだよw 郵政民営化はあれは外資に200兆あげたも同然なんだよw
知ってる?リサイクルって意味ないんだぜ?
こんなこと言うのは俺だけかもしれないけど、TBSも亀田親子も被害者。 最大の加害者はそのストーリをつくった電通とその背後のヤクザ。
っていうか出たよ。工作員。工作員が大量に沸いてるなw
いじめ問題とかは景気が回復すれば自然と無くなるんだよ
いじめ問題とかは景気が回復すれば自然と無くなるんだよ
水は言葉を理解するし、初音ミクは世界を変えるし、TBSは最悪。 下賤下賤。ご立派ですねー。
俺は欝病なのさ、失恋中なのさ。かわいそうだろ。 そんなかわいそうな俺の言ってることを信じてくれないなんてなんて嫌な奴なんだ。 あー。そうさ、こんなに悲しい俺。すてき☆
ソース?チャンネル桜だバーロー? アスパルテームは毒だし、買ってはいけない! タバコは人を殺すし、副流煙w猛毒ッスw いやいや養老先生はちがうって言ってたよ。バカの壁にぶちあたりすぎ。
これらの罠はすべて巧みに刷り込まれ、組み合わされ、
人の判断を狂わせる。
例にあげたような考え方なんてしないって思ってることも
罠。ほんとにそう?例に挙げたのはワザと極端な論でごまかしてるだけ。
ほら、そろそろ見えてきた。
罠の構造。
人間の根本にあるプライドやコンプレックスをくすぐったり、いじったり。
これからは逃れられないってところを自覚することから、
話を始めよう。
俺は、この罠のこと自覚して、生きてるよ。どうだい?
ね。またひっかかっちゃった。
この罠に引っかかってないブロガーなんて見たことない。
特に有名ブロガーなら、ことさら。
アンタもだよ。
おっとまた罠に引っかかった。
あー。現代の哀れなソフィスト達に栄光あれ!!!!!
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回避したとして、退学処分になった。
しかも不正な手段を使うとは・・・なんてふうに思う人は、
さすがにわが国にはいないだろう。
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と興味のあるニュース
おちんちんに皮がかぶっているか、いないか
そこに男の子は誘起を持つ。
女の子でいう胸の乳首とか、クビレがあるとか
一般的に誰にでも見せる部分ではない「陰」を
男の子は共通して意識するところ
それが包茎ではないのかと僕は思う。
「包茎の何が良いか」
「包茎の何が悪いか」
カッコわるいだの、フェラの時に臭うとマズいなど
一般論と。
雑菌が入りやすくなり衛生上よろしくない
男女病気に成りやすく種の継続が悪くなるなど
医学論と。
ちんこ剥けたくらいでこんなにモテたら世話ないっす!
ヨーロッパに目を向けてみると
先ほどのニュースに戻って・・・。
イスラム教の通例儀式として8歳になると強制的に手術をします。
認められるんですね。
「砂漠の民で水が貴重で入浴できなかったために、
陰茎癌になり民族が滅んでしまう」が理由となっています。
モテなさそう・・・32%(酷いです)
不潔そうで嫌・・・27%(半分正解)
全く持って面白い。w
治せるものなら治して欲しい・・・86%
別れる・・・7%!!!!!!!
「包茎で別れる!!!」これは意外!
「あなた包茎だから別れる!!」と言われたら
男として人格否定に近いです。
よっぽどの名器をお持ちなのか!?
僕はそこが気になります。
さて、ながながと包茎に関して語りましたが
種の継続につながるおちんちんは、
ひとくくりでは纏める事はできません。
つまりは理由あっての包茎手術であって
「恥ずかしいから」「民族がやってるから」という
問題ではないかもしれません。
何か合っても責任とれないっす。
とか言われたら、優しく微笑み
と意味の分からない事を言って、抱きしめてあげて下さい。
そして、マイノリティだと思いますが
彼氏に問うべきだと思います。
もしかしたら貴方の上を行き、
「未来の人間幸福を願い、包茎というだけで別れようと結論を出す君の遺伝子を今後残すのは危ない事だ!
よって僕は包茎のおちんちんで感染させ君の生殖器官を破壊しようとしている。」
と理由ある答えが返ってくるかもしれません。
長くなりましたが(結局下ネタ)僕が出す答えとして
「口に含むものは奇麗にしておいた方が良い」
という最低の答えで閉めようと思います。
もうちょっと考えてみましょう。そしたらまたひとつわかることが。