はてなキーワード: 退職とは
去年のハロウィンの時期、仕事場から駅に向かう大通りに並び立つガールズバーの客引きの中に彼女はいた。
いつものように無視して通り過ぎようとしていた、というか客引きの女の子たちには意識が向いてなかったのだけど、
「いっつもいんねー」
と、変わった声のかけられ方をして、思わずそっちを見て歩く速度を緩めてしまった。
「あー、これは飲み好きだわー」
私はヘラヘラ笑っている彼女の顔ではなく、思わず胸の谷間に視線を固定してしまった。
負け確定。
それから、月に1回ペースで、彼女の店でたった1時間だけ飲んだ。
うける、しぬ、くさ。
彼女は私の詰まらない話に、たった3つのボキャブラリーで反応していたが、逆にその薄っぺらさが心地良かった。
今年の1月、いつものように1時間飲んで札を2枚置いたとき、彼女が「次さ、同伴いい?」と少し苦笑いを浮かべながら聞いてきた。
いつも1万円しか使わない細い客なのに。
26歳の彼女はガールズバーでは年長の方で、稼ぎも考えてキャバクラに転職したいらしい。
次の店が決まったら指名するけど、そんなお金使えないよ、と返事した。
それには生返事で彼女は「次の店決まるまでもさ、ご飯いいですか?」と聞いてきた。
初めて敬語だったから、いわゆるパパ活かと思って警戒したけれど、どうやら単純に、愚痴をこぼしたいだけだったらしい。
2月は週に一回、居酒屋、韓国料理、イタリアンと、高くも安くもない店で食事をした。
ウケる、しぬ、くさ。
店にいる時と会話の内容はあまり変わらなかった。
2回セックスはした。
2月の終わりにキャバへの入店が決まり、3月の頭に店に行った。
耳元でごめんと言われたので、えだってワンチャンあるでしょと返したら、ワンチャンはしぬ、と笑われた。
笑われたけど、本当は翌日に2人で個室温泉付きのホテルに行く約束をしていた。
だけど、翌朝、彼女からごめんなさい、体調悪くて行けそうにないです、とラインがきた。
お大事に、残念だけど元気になったらまた、と返事をしたら、すみません、と返ってきた。
久しぶりに敬語を使われた。
ラインの既読が付かなくなって、ブロックされたのだろうと思って4週間。
妊娠して店を辞めることになった、付き合ってる人がいることを秘密にしていたことも、せっかく入店祝いをしてくれたのに店を辞めたことも申し訳なくてどうして良いか分からなかったのだという。
もともと、私は、妻との関係が冷え切っても本気の不倫をすると面倒だと思い、夜職の女性と安全に遊ぼうと考えて手を出した、下衆な人間だ。
だから気にしなくて良いし、心からおめでとう、気まずいだろうに連絡くれて感謝してる、と伝えた。
酒もセックスもなしで会うのは初めてのことだ。
彼女の夫はあまりお金を稼がないらしいので、お祝いを少し包もうと思う。
何万が正解?
以前からその存在を知ってはいたがこれまでは比較的すんなりと退職出来たので自分は使うことはないだろうと思っていた。
使うまでに至った経緯を記したいと思う。
3月4日
私はプレス屋に勤めていたがいつも通り職場へ行くと朝礼で一人の従業員が土日休みの間に足を骨折してしばらく会社に来られないという。
その従業員は社長と仕事をすることが多く日頃からかなりこき使われていたが、その日は朝一から私が代わりに社長と2人作業で一緒に仕事をしなければならなくなった。
私も社長と一緒に仕事をするのは初めてであり慣れておらずとても速さでは敵わないので作業前に社長ヘ
「◯◯さん(骨折した人)のようにはいかないかもしれませんが」
というと
「ダメダメ!」
と言われその後は手が遅いだの散在言われプレス機のフートスイッチを踏むタイミングが遅いだの軽く足を蹴られたりギャーギャー言われ午前中で嫌気がさし退職代行が頭をよぎる。
休憩時間入ってもキリのよい生産数まで止めてもらえずフォークリフトで製品を入れる箱を持ってきて「降ろせ」と言われ休憩時間が短くなってしまう。
午後からまた再び社長との作業であったが午前中よりも強い口調で手が遅くて眠くなるだのギャーギャー言われ遂に我慢が出来なくなり頭にきてキレると社長もキレて「遅いと言っただけじゃないか!」と首根っこを掴まれる。
「もう辞めます、お世話になりました」
「待て、上(社長室)で話そう」と言われ「◯◯君(私)に上に立って色々仕事をしてもらいたいから色々と言ってきた」と言われたが相手が不快に思う言動では何にもならない。
社長は面接時や入社前の打ち合わせでは穏やかな印象だったが入社した途端に豹変したかのようにギャーギャー言うようになった。
これまでも他の従業員に対してもパワハラと言われても仕方ないような言動をしていたが社長本人は厳しく言わないと効き目がないと思っているようでそれらが原因で辞めた人もいると他の従業員から聞いたこともあった。
私が「もう今日で辞めたいです」と告げると
「それは流石にない、就業規則に則って30日後や60日後にしてほしい」「◯◯(骨折した人)が歩けるまで半年かかるようだがそこまでとは言わないが1ヶ月様子を見させてほしい」と言われ、
「1ヶ月後ですか?2ヶ月後ですか?」と聞いても「わからない」と。
「明日退職届を書いてくれば来月(4月)の頭には辞められますか?」と言っても「今週いっぱい考えてみてはどうだ」と言われる。
お互いに歩み寄ろうととも言われたが好きなくともこちらから歩み寄る余事はないし、これまで歩み寄らなかったからこその現状だと思った。
この日の昼の時点で職場にある私物をカバンに詰め込みそのまま退職代行に依頼するつもりだったがとりあえず保留する。
3月5日
通常通り出社。
社長との仕事は前日に終了していたのでこれまで自分がしていた仕事を行う。
この仕事は追い込まれるものではないがやはり社長との仕事はキツイし、肉体的にも精神的にも追い込まれ給与に見合った作業ではなく一緒に仕事をするのは無理だと考える。
週の半分くらいは社長との仕事になりそうでいつ退職出来るかわからない状況で私も精神的に持たないのでやはり退職したいと思い休憩中に退職代行業者を調べ、一番お手頃な所へLINEにて相談しそのまま依頼。
ほとんどの私物は前日に持ち帰っていたのでこの日は作業靴を持ち帰る。
3月6日
前日、退職代行業者に言われた通り始業前に職場へ電話し「体調不良で休みたい」と伝える。
応対したのは社長だったが「熱はないのか?」と聞かれ「ないです」と言うと「じゃあ(現場へ)伝えておくね」とそれが最後に交わした言葉となった。
午前10時台に退職代行業者からLINEで無事に退職の手続きが出来たと連絡が来る。
職場には本人には直接連絡しないでほしい、と伝えているようなので細かいやり取りは業者を挟んでとなる。
退職届と健康保険証を職場に郵送する必要があるのでその日のうちに送った。
退職してから1ヶ月近くになり給与の締め日の関係で源泉徴収票はまだであるが退職に伴う各種書類は届き始めている。
辞めるのに退職代行にお金を払うのは正直抵抗はあったが早くに辞められ現在は新たな職場に勤めはじめ、有給もすべて消化できたので結果的には無駄な時間を過ごさなくて良かったと思う。
退職代行を使うことに対しても色々と意見があるようで様々なケースもあるが職場の問題があり、勤め上げるのが難しいケースもあることも知ってもらいたい。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.kobe-np.co.jp/news/himeji/202404/0017511004.shtml
この話で、自分は戻された側だった。
といっても条件は違っていて
だったので、厳密には一緒ではない。
自分が小6の時に赴任してきた音楽教師が、厳格あるいはヒステリックな女性だった。
前任がおっとりした定年間近の男性教師だったのもあり、その差にも驚いた。
方針も「音楽を楽しむ」から「音楽をきっちり学ぶ」になったのもあって正直音楽の授業がそんな好きでなくなった。
で、前述の校歌であるが、今までの伴奏は児童が演奏しやすいようにアレンジされてたらしいが、女性教師が元に戻してしまった。
仕方無しに最高学年で小3までピアノを習っていた自分がやることになったが、一人で弾ける難易度ではなく、右手自分左手女性教師みたいなことになった。
翌年の校歌がどうなったかは知らないが、荒れた自分の二つ下の学年によって先生は病んで転任したと聞いた。
(補足すると担任が大当たりの先生から大ハズレの先生になったので抑えきれなくなったっぽい)
あの我の強さだったのに?!と驚いたが、後々友人にパワハラしてた上司が咎められて病んで退職したと聞いたので、得てしてその手の人は反撃されると弱いのだろう。
32でやっと諦め専門分野に近いところに就職、半年後妊娠結婚して退職
妹の大学時代から国試浪人間の面倒を誰が見ていたかと言うと私が面倒を見ていた
私大の学費も出し、年金や、予備校代、奨学金なども払っていた。子供1人育てられる位は出したと思う。
なので私が結婚しても結婚式をあげるお金はなかったし家を買うお金もあまり貯められなかった
お金は帰ってこないつもりで出してるので返せという気持ちは無いがまさかここまでお金出してきたことが無駄になると思わなかった
仕事を辞めてしまったので妹の稼ぎは無いし、半年で辞めてしまったのでお金を稼ぐ大変さも知らない
国試浪人2浪目から毎年諦めろ、諦めさせろと両親妹vs私で喧嘩したが挑戦し続けたい妹とそれを擁護する両親を退けられなかった
浪人留年せず大学出て就職したお前には留年国試浪人の辛さが分からない、挑戦せず安牌な道をとったお前にはわからないと言われてきたが頭悪い方が悪いと思う
諦めがつくまで人の金で挑戦し続けられる環境があって、家族を持つ幸せも、家も買って、 おねえちゃんは子供いらなかったの?と聴いてくる妹が羨ましい
この増田 https://anond.hatelabo.jp/20240328145307 を読んでいて、新人歓迎会のトラウマを思い出したので書く。
新卒で就職したのは、大手電機からリストラ分社され投資ファンドに売却された地方製造業…に、グループ内人材派遣を行う人材派遣会社だった。
当時はリストラ分社化された直後で、まだ元グループ本社からの出向社員も残っていたし、元グループ会社の看板も、営業網も使えていた。
それにに加えて、リストラ分社化された後で「これで迅速な意思決定ができて伸びるぞー」と言うお題目が信じられている頃でもあったと思う。
だからか、当時入社するプロパーの入社式はそれはそれは華々しく行われていた。
いや、華々しく行われていたのを、私たち派遣会社経由組は、敷地の隅にある人材派遣会社事務所のちっぽけか打合せ室の窓から見ていた。
プロパー新人が記念写真撮影をしているのをみて、私たちはあっちいじゃないの?と少しは思うが、当時ピッチピチの新卒で疑問に思うこともなく。
派遣会社の事務所長から何かしら訓示を受けた覚えがあるが良く覚えていない。
簡単で事務的な話だけだったので、そのまま配属先となる職場から主任が迎えに来て、職場へと向かった。大部屋式の事務室である。
課長の所で軽く挨拶した後、課員に特に紹介されたりもせず、大部屋の端にガラス張りのパーティションで囲まれた「OA室」と呼ばれる部屋に連れて行かれ、ここがお前の席だと座らされた。
周りには同じく派遣できている人たちが数人いるが、みな黙々と仕事をしている。一応会釈はしてくれるが特に会話もない。部屋の中にはサーバと古めかしいブラウン管モニタがついたCAD端末がうなり声を上げている。
15インチスクエア液晶とDELLの型落ちデスクトップを渡され、いきなり赤が入った原稿に従ってWord文書を直していくと言う仕事を振られた。
当時ピッチピチの新卒で今のようにくたびれていなかった私は、緊張して違和感を感じる暇も無かったというか、違和感を感じるような知識も無かった。
それから数日して、プロパー新入社員が挨拶にやってきた。「全員集まれ」と声がかかって大部屋の中心にみんなで集まり、彼らが新人だと紹介される。実際に配属されるのは8月のお盆明けからだが、と聞かされた。
何で8月なんですか?と、少しは話をするようになっていた主任に聞いたところ、彼らにはみっちり新人研修があるのだとのこと。
すごいね。
元グループ会社から分離したけど新入社員教育は合同で行って、元グループ会社本社にて集中的に研修するんだって。
すごいね。
そうして彼らプロパーの新人が新入社員教育を受けて、定時退社している間に、自分はみんなにシェアされる雑用便利人としての立場を明確にしていった。
忙しくなると投入され、ろくにスキルも身につかない雑用をやる。どの課に所属しているのかと言うことも曖昧だった。業務調整をする上司というものが存在しなかった上に、ひとヤマを超えると別の社員の忙しい案件に投入されるため常に長時間労働であった。OJTと言う言葉すら無かったが、仕事の特性上、割り当てられた仕事が終わらなければ終わらない。やらずに放置しても誰か別の人がやってくれるわけではない。溺れながら仕事を覚えていくことになる。
このように同じ職場のメンバーとしての一体感が生まれる事も無かったが、一つだけ一帯運用してもらえていたものがあった。それが「タイムカード押し」である。だいたい19時30分を回ると係がタイムカードを回収しに来る。彼にタイムカードを渡すと、私が自分で押さなくてもかわりにタイムカードを押してくれるというサービスである。
いや、サービスしているのはこちらか。当時ピチピチの新卒であった私は、それが当たり前だと思って、深く考えなかった。いや、考えようとしなかった。
さて、この内容を何故標記の増田から思い出すに至ったのかというと、積み重なった違和感が爆発したのが、新人歓迎会だったからである。
時は流れて8月。プロパー社員の新人が正式に職場に配属された。配属されて行われるのが、新人歓迎会である。
今までも全体の飲み会らしきものは行われているのを知ってはいたが、私がいる「OA室」の人間は誘われることは無かった。しかし、新人歓迎会と忘年会だけは別らしく、出欠席の紙が回ってきた。
私は、これを自分も歓迎してくれる会であると疑わず、出席と記入した。会費は7000円であった。高い。正直、月給額面残業代込み174,000円からその金を出すのはかなり痛かった。痛かったが、仕方が無いと思った。
そうして、久々にリクルートスーツに身を包んで、会場に着いたところ、以下の様な事が分かった。
なお、記念品として贈呈されたそのハンドブックは「仕事で必要だから」と言われたので私は自分で買っていた。彼らの初任給は、私が当時付けられる限度まで残業を付けてもらうのよりも、一切残業せず3万円は高かったはずである。
偉い人のよくわからない話を聞いて、乾杯して。新人代表のよくわからない決意表明を聞いて。なんか意味のわからない余興が行われていたのはぼんやりと覚えているが、途中でなんか気持ち悪くなり、料理も食わずに会場を抜けて家に帰った。
今なら、7000円も払ったのだからせめて夕飯代ぐらいは浮かしてやるぐらいの図太さは身につけたが、当時ピチピチの新卒だった私にはそんなものはなかった。
ちなみに、頭の中をぐるぐる回っているぐちゃぐちゃを吐き出して落ち着けたのはインターネットである。もっと具体的に言うとこの増田、はてなAnonymousDiaryのおかげである。ここで無茶苦茶愚痴を書いて、みんなにそんな会社やめちまえよって同情してもらって、やっぱりおかしいよね?おかしいよね?、と整理ができた。
そうして、スキルを磨いて、勉強して、戦略的に行動する事を心がけるようになった。
みなさんのおかげです。どうもありがとう。当時の増田がどれぐらい残っているかは、まぁ、わかんないくらい昔の話ですが。
さて、その後だが、元グループ本社のブランドが使えなくなり、営業網から外され、元グループ会社が格安で担っていた間接機能を自分でやらなければならなくなり赤字に転落。
元グループ本社から出向で在席していた人々…つまり売却に至っても本社が転籍させなかった優秀な人々…が徐々に去って、さらに買収した投資ファンドからクビ切り役人みたいな連中が送り込まれ、プロパー社員のボーナスが年3ヶ月分吹っ飛ぶ、労働組合が元グループ会社の組織から外されて見捨てられる、福利厚生が自社独自に切り替わる、など労働条件の改悪、激変が続く事になる。
当然元グループ本社と共同で半年以上かけてじっくり行われる新入社員教育なんてものは翌年以降は蒸発しなくなった。新人は極簡単なビジネスマナー講座と図面の読み方みたいな軽い教育を受けて入社後数週間で職場配置されてくるようになった。
同時に、派遣社員が増える事になった。それも元グループ本社の系列のグループ内向けの派遣会社(つまり私の所属会社)からではなく、他の派遣会社からの人材が投入される。金は無いが、今までグループ本社の機能に依存していた部分を自社化しなければ行けなかったからだろう。
さらに賃金が高い社員を中心に退職推奨と言う名のリストラが行われ、その代わりに派遣社員が加わるという事が特に現場系で進行する。更にラインまるごと海外のEMSに出されるようになっていった。
しかし、プロパー社員と派遣社員を切り分けて考えると言う企業体質や文化はそう簡単に変わるわけもなかった。妙な壁がずっとある。お給料から命令系統、食堂の食券価格や給茶機の掃除当番まで妙な区別が残り続け、それが原因でか、不合理で業務効率が上がらないことおびただしい形だった。
ただ、そうして、会社は一応は黒字になった。筋肉質になったと宣伝しているがリストラは黒字になるまでやるからリストラなのであって、黒字になるのは当たり前である。
そのタイミングで、元グループ会社本社が最後まで持っていた20%程度の株式を完全に売却する事になった。完全に手切れである。私が入社して6年ほどが立っていた。
そこで、私が所属している派遣会社も完全に撤退する事になった。元グループ本社のグループ内向け派遣会社であるからである。
かつて敷地内にあった派遣会社の事務所はとっくになくなっていた。同期もみんないなくなっていた。
そして、私に提示されたのは、派遣会社から派遣元の会社に正社員として転籍しないか、今と同じ仕事を続けられるよ、という誘いだった。
もちろん、断った。
会社側は、まさか正社員になれるのに断ってくるとは思ってもみなかったようである。それはそうだ。特に人事部門などは、痩せても枯れても元大手企業の工場で地元で最も安定した職場で誰もが就職したがる、と言う御山の大将であったからだ。
だから自分たちの仲間に迎えてあげることが最高の報酬だと思っていた節があった。だからせっかく人事に交渉して入社できるようにしてやったのに恩知らずが、みたいなことを言われたこともあった。
さて、断った結果どうなったかとと言うと、派遣会社としてはもう派遣業を拡大していないこともあり同じ地域では仕事がないといわれた。そのため別の地域に転勤になるがよいか、と。もちろんOKと言った。願ったり叶ったりだ。
そうして新しい派遣先を探るからと言うことで、改めて所有している資格などを申告せよという事になった。コツコツと勉強してとりためた資格などを開示した結果、ちょうど人手不足のタイミングと重なり元グループ本社のR&Dに派遣が決まる。
引継ぎ屋マニュアル作成をこなしながら異動の待機している間に、こんどはなんと所属派遣会社がグループ本社に吸収合併される事が決まった。
本社のR&Dに派遣ではなく異動という形で、あっと間にグループ本社の正社員になることができた。神風が吹いたと言える。
そうして今ではそれなりに暮らしているのだが、そんな今でも「新人歓迎会」と言われると、あの悪夢の新入社員一年目が、悪夢のホテルでの夜が頭をよぎるのである。
だからみなさん、相手の所属がどこだとか考えずに新人には優しくしてあげてほしい。あなたにとっては毎年来る新人かもしれないけれど、新人にとってはたった一度の新人時代なのだから。
また、新人の皆さんも、なんかおかしな事があっても人生何事も塞翁が馬である。よいこともあれば悪い事もあるが、前向きに、やってきたチャンスを掴んで離さない程度の握力を常に鍛えておく事ができれば、道は開いていくのである。
頑張ってほしい。