多くの人は能力と人間の尊厳とを勘違いしているような気がする。
能力があれば評価される。能力がなければ "バカ" とレッテルを貼られ、能力主義の元に正当化された差別が行われる。
"バカ" は人ではない。尊厳を踏みにじられ、人間としてカウントされない。それに耐えかねて死んでゆく。
言葉は何よりも切れる刃物だ。心を切り裂く刃物。それは物証としては残りにくい。しかし確かに苦痛を与えることができる。
人を物理的に殺せば罰せられる状況において、これはもっとも効果的な殺人手段である。いじめにおいてそれは行われる。
いじめにも損害を考えた理性的ないじめと、単に感情に流された野蛮ないじめがあると思う。
それらの違いはその集団の論理的な思考力による。感情を抑えつつ合理的な行動が取れるかという違いだ。
後者は語るに値しない。しかし、前者、これは人の残虐性が垣間見える。
コミュニケーションにおいては相手が心地の良いように演出することが重要である。つまり、人の気持ちがわかることこそがコミュニケーション能力だと思う。
裏を返せば、それは人がどうすれば傷つくのかをわかっているということだ。コミュニケーション能力を逆方向に運用する、そうすることで人を殺せる。
思いやりなどという概念はない。あるのは自分にとって利益であるかそうでないか。誰かがいじめられていても、助けることによるメリットがないならば助けず傍観する。場合によっては加勢する。当然といえば当然の判断である。
"バカ" かどうかは要するに "気づいているか気づいていないか" の問題である。それによって "生きる価値" なるものを否定されるのはそれこそばかげている。
障害者の方のお話を伺うセミナーに参加したことがある。それが終わった帰り際、ある人間が吐き捨てた。「何もできないくせに」
これが全てを物語っているように感じた。
能力を向上させるべく努力するのは大事であると思う。しかし、それと尊厳とを混同してはならない。
弱者を叩く、気に入らないから攻撃する、自分の優位性を実感できて心地が良いから貶める、そんな人間の残虐な本性を見すぎて嫌になった。
それが気持ちの良いことであるというのはその通りなんだろうと思う。だがだから実行に移すのは浅はかだとも思う。
正義はどこにもない。
いじめられっ子乙
社会規範や損得勘定以前に 親切にするのも不親切にするのも、遺伝子要素が極めて強いギフト 生まれつきの性格 さらに言えば人間に自我や自由意志はない(あっても極僅か) それでも誰...
社会規範や損得勘定以前に 親切にするのも不親切にするのも、遺伝子要素が極めて強いギフト 生まれつきの性格 さらに言えば人間に自我や自由意志はない(あっても極僅か) それでも誰...
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> 多くの人は能力と人間の尊厳とを勘違いしているような気がする。 君もその勘違いしている人の内の一人ではないか?
でも、ちょっと特殊なことができるだけでデスクワークで働けて、何も能力がない人はトイレ掃除や駅の構内清掃とかしか仕事がない 職業に貴賤はある。これは事実だ この国は生存権と...