はてなキーワード: 無意識とは
老婆心ながらアドバイスするけど、社会でそういうミソジニーとかセクハラに遭遇したときは「コップを落とす」といいよ。コップをひっくり返して水をぶちまけるみたいに注意を強く引くシグナルを送るだけでも、いまのなんか間違ってたんだな、って無意識レベルでの気づきを促す効果がある。
でもおっぱいが大きい子って、周囲からおっぱいが大きい子として扱われ続けるわけじゃん
おっぱいというよりかは"女性らしい”身体つきかどうかの問題かもしんないけど、
セクハラどうこうじゃなくて、男も女も無意識に身体つきを認識して関係を築くわけで、
それはやっぱり本人の性格に、ステレオタイプの再生産的な影響を及ぼすんじゃないかなぁ
もちろんすごく緩やかな傾向程度のものだろうけど
怖ろしい考えに捕らわれてしまった。
オレは、ルッキストだ…。
誰か、助けてくれ。
「この娘はオッパイが大きそう」
ああ、これは女子への偏見以外の何者でもない! オッパイのサイズと性格が関係してるわけがないじゃないか。
なのに、オレは無意識レベルで決めつけてた。この娘の性格なら、このサイズが適切だろうと。
もう良心の呵責なしに女性キャラクターを創り出すことはできそうにない。
これから先、オレは、キャラクターの胸の大きさをどうやって決めたらいいんだ??
誰か、この呪いを解いてくれ…。
帰宅して、ちょうど玄関の鍵を開けているところで電話がかかってきた。
その日は、
電車に乗っていて2回、
駅の改札を出たところで1回、
うんざりしていたのだがカバンから鍵を出してゴチャゴチャしているときに、
もう一度電話がかかってきたのでちょっとキレ気味に電話に出てしまった。
靴下を脱いだり、
スピーカーに切り替えて手を洗っているうちに
もう電話がかかってくることはない。
ホッとして電話を切り、あんまり簡単にイライラしたら駄目だなと反省しながら
いつものように家の鍵と定期券を玄関の棚に置こうとしたところで
パスケースがないことに気づく。
これは大変だ。
というのもパスケースの中には定期券と健康保険証を入れていたからだ。
身分証明書になるものを紛失すると色々と厄介なことが起こりかねない。
再び沸点まで気持が上がりそうになるが、いやいや待てよ。
探せば出てくるだろうと落ち着きを取り戻してカバンの中を覗き込む。
でも、ないんだよなあ。
うっかり無意識に家の何処かに置いてしまったのかもしれないと探してみるが全然みつからない。
いつも定期券は外付けの紐付き定期入れで持ち運んでいる。
でも紐が切れてしまったので仕方なく別のパスケースに入れていたのだが、
運が悪いときには色々と重なってしまって困ったことが起きてしまう。
すっかりと疲れていたし、夜も遅い時間だったのだが仕方ない。
脱いだ靴下をもう一度履き直すか洗濯したものに履き替えるか考えてから、
駅のほうへとパスケースを探しながら夜道を歩いて行った。
が、幸い街灯はしっかりとしている道なので定期券を探すのには困らなかった。
すっかり疲れてしまっていたし暑いし、これ以上探し回るのは無理だ。
駅で落とし物の問い合わせをした後、
はー、っとため息が出た。
その日は本当に色々と疲れた一日だった。
秋になって気温の低い日が何日か続いた。
私は雑で無精な性格をしているのだが
冬場に使っていたちゃんちゃんこ代わりの
薄手のダウンベストを春夏の間もかけっぱなしにしていた。
ふとポケットの中に手を入れると、
紛失したパスケースが出てきた。
うーん?ここか?
いや、どっかからひょっこりと出てくる可能性も高いよな、と思ってはいたんだけど、ここか?
どうやってパスケースを取り出してベストのポケットに放り込んだんだろ?
今となってはわかるすべもないから考えても仕方がないが、
とチラッと一瞬思ったが、もちろんそんな必要はない。
今のところは。
偽物の教会で結婚式を挙げる行為はキリスト教徒の人たちに対しての文化盗用になるんじゃないかな。
だってクリスチャンじゃないのに。しかも形だけでも洗礼受けるっていくらなんでも馬鹿にしすぎではないだろうか。
また、プロテスタント系の牧師さん(偽)をイメージした役をほぼ白人の人しか起用しないのは明確な人種差別になると思う。
意識のアップデートとかそういうの以前に、日本人に無意識に刷り込まれている差別意識の発露なのではないだろうか。
パートナーが欲しいといっている+社会正義 の合わせ技で子供作った育てている人ぐらいいくらでもいるんじゃない。
それと、ポテチの比喩なんだが、ちょっとポイントが(意図的に?無意識に?)ずれてるね
「ポテチ売ってるせいでコンビニの棚が狭くなる!アホ!」みたいな書きこみに避難が集まるわけよ。
親が65歳になった。
仮に親が85歳まで生きてくれたとしてもあと20年でお別れだ。
まだまだ先のように思えるが、そう遠くないと考えている。
あっという間に40歳に差し掛かっているし、1年の経過を年々早く感じている(もう10月だし)。
親は更に歳を取るし、自分も歳を取る。
85歳まで健康でいてくれるとも限らない。
それらが出来る予定もない。
親がいなくなったら孤立無援となる。
親というものは、生きているだけで圧倒的な精神的安定をもたらしてくれると思う。
別居しているし、会う頻度は多くないが「親が生きている」「自分の理解者が地球上に存在する」という事実に、
生きがいがない。
仕事は一応、順風満帆であるし、必要とはされていると思っている。
もちろん独立も含め、自分にしか出来ない仕事を見つけあがくつもりではあるが…。
死ぬまで働けるならそれはそれで幸せで、一人でも生きていけそうではある。
趣味は無い。
性急に結論を書くと、親が亡くなるまでに、
親がもたらしてくれている精神的安定に変わる「誰か」か「何か」を手に入れる必要があるということ。
あるいは自ら終わりにするために未練を断つ。
どちらも非常に難しい…。
だからオタクの敵になりたいとかそういうつもりで書いてないし、自分の問題提起が正しいかもあやふやだ。そこも含めて聞きたいと思っている。
言いたいことは題名の通りで、漫画やアニメの異常な表現は見直されるべきだと思う。
これはお気持ちの問題もあるが、実際に女性がコンプレックスを持つ原因になるのではと危惧している。
それは、アジア人ではまずいないレベルの巨眼女性が普通であるかのように表現されて、
特に若い世代が現実ではあり得ないくらいの巨眼を理想としてしまっていることだ。
少年漫画平均くらいの目の大きさならともかく、少女漫画は顔の四分の一くらいが目に支配されていることも多い。
さらには女児漫画だと顔のパーツの7割くらいが目で構成されているキャラクターが度々登場する。
で、これの何が問題なのかと言うと、現実の女性がその漫画アニメ表現に合わせようとしていることだ。
例として学生時代に彼女とプリクラを撮った際のことなのだが、出力された写真の目がデカ過ぎて宇宙人みたいになっていた。
キモいから40秒くらいの加工タイムで補正を切るコマンドをさり気なく探していたが、
そういうボタンは無かったし、彼女は「かわいい〜♥」とテンションが上がっていたので何も言わなかった。
「まぁプリクラってそういうもんか…」とスルーしたのもつかの間、俺の世代では「SNOW」という写真アプリが大流行した。
これは写真を撮る前から人顔を認識し、自動で肌補正や巨眼加工などをやってくれるアプリだ。
その結果、学内の奴等がSNSに挙げる写真は目が異様にデカく、肌も筆で塗ったみたいにボヤっとしていて、鼻の部分に猫の鼻みたいなバカなエフェクトが乗っているのがデフォルトになってしまった。
加工が一切ない写真を撮っていたのは俺だけで、共に旅行した友人は皆SNOWで撮っていた。
おかげでLINEに共有したアルバムの8割に変な鼻エフェクトが乗って宇宙人みたいな顔になっている。
時が経つにつれて最早SNOWでなくても加工撮影アプリを平然と使う世になってきた。
大学の友人は「かわいい彼女いるんだぜ」と顔が巨眼に加工された女性の写真を見せてきた。
サークルの先輩は「これが合コンのメンバーなんだが行くか?」と顔が巨眼に加工された女性の写真を見せてきた。
ルームメイトの後輩は「いやぁ〜マッチングアプリの写真に騙されましたよ〜」と顔が巨眼に加工された女性の写真を見せてきた。
百歩譲って見栄を貼りたい女性の立場を受け入れたとしても、ほぼ絵みたいになっている加工写真を男性側が受け入れて品定めするようになってきた。
完全に俺はついていけなくなり、頭がおかしくなりそうになった。
そんな折、俺は加工写真に理解を示すべく、相変わらず写真補正アプリをデフォで使ってくる彼女に対して、「これ使ってると人の顔が絵みたいになるよね〜」とアプローチをかけてみた。
すると「だよねだよね!少女漫画の主人公みたいでカワイイ〜」と返してきた
………な…なるほど〜……と思った。
確かに異様にデカい目、ツルッとした肌、点みたいにちっちゃい鼻
彼女の家には大量の少女漫画があったし、昔からプリキュアを見続けているとも言っていた。そういったモノへの憧れなのか…それとも目が小さいというコンプレックスが刺激されてしまったのか…
今や補正撮影アプリも使用したところで何か言われるような世ではすっかりなくなった。
人々がこのアプリを使う理由は必ずしも俺の彼女と同じとは限らないだろう。
しかし現日本は公共にアニメ絵が溢れ、日本人は幼い頃から目が大きなアニメキャラを自然と見てきている。
そういったモノに対して、最早意識して憧れを抱くまでもなく、大きい目が自然で理想的だという無意識が若い世代に芽生えているのではないのだろうか。
………と、ここまで書いたが
どこかしら変な所があるとは思う。
それとぶっちゃけこれを書いた主目的は学生時代に体験したSNOW大流行という恐怖体験の本質は何だったのかを知りたいだけなんで
フェミニストでオタクやってる人らは無意識的にフェミ界隈において特権階級だよな
萌えアイコンのリベオタは呑気にしてる横でトランス問題でフェミが内ゲバしてるの見ると
フェミってちょろいんだなってなるし
けど「マジョリティが触れるメディアで差別が再生産されるのが問題であってゾーニングは無意味」と言う人には悪いけど
ぶっちゃけた話
結局表現を意識的にないしは無意識的に差別に利用するユーザーが悪いんであって表現そのものに罪は無い
いやまぁそういうユーザーが集るコンテンツを潰す事に大きな意義はある事は否定しきれないけど
やはり作品より消費者側にメスを入れないとイタチごっこになりかねないし、行きつく先は反ポルノになる
規制より、消費者に「現実では差別になりかねない」という事を教育するのが一番良いんだよな
それでその表現の需要が自然消滅するか、あるいは存続しているかはまた別の話
人間の意識のどこかに、「最下層がいないと困る」という思いが潜んでいる。
米国でもインドでも、第二次世界大戦下のドイツでも、最下層のカースト集団こそが、社会を見舞う災難の責任を一手に引き受けるスケープゴートの役割を果たし、社会の構造上の問題から人の注意をそらす役割を果たしてきた。
そしてどのカーストに所属していても、多くの人は別のカーストより上にいることに誇りと安心を見出してしまうし、その階層の中での最下位にはなりたくないという思いから、ヒエラルキー内でも仲間を階層化し始めてしまう。
このようにカーストというものは、支配階層と隷属階層の間だけの話ではなく、あらゆる階層に所属する普通の人の心の中に形成され、維持し続けられているのだ。
色んな人が「本土の人は基地問題にずっと無関心だったのに、急に不正確とか言い出すのはおかしい」と指摘しているが、それは間違いだと思う。
本土の人間は、基地問題に多少関心を持ち続けてきたように私には思える。
ただしそれは、基地反対派が期待するであろう「現地の人がんばって」という肯定的な関心ではなくその逆、「めんどくせえなあ、必要なんだから基地を受け入れててくれよ」という否定的な関心である。
だがこの本音を表に出すのはお行儀が良くないことはわかっているので、一部の右翼・ネトウヨ系の人をのぞき、普段は隠している。
それでも基地反対運動への反感は人々の心の中にあったので、ひろゆきの悪ふざけで心の鍵が開き、彼のおちょくりに乗っかりたくなる人たちが少なからずいるのである。
もしかしたらひろゆきはそれがわかっているから意図的に、人々が隠してきた本音をくすぐったのかもしれない。
とはいえ現状では「必要なんだから基地を受け入れてろよ」と言い放つほど反対運動を嫌っているわけではないし、反対運動側にも理があるのを理解しているので、ひろゆきもそれに乗っかる人も、直接的には看板の誇張を批判して、反対運動自体へは間接的な悪印象を匂わせるにとどまっているが。
増田の『基地反対の沖縄県民から見たこの騒動(anond:20221008001255)』では、
と語られているが、実際は本土の人間はチラッチラッと沖縄を見ていたのだろう。
「反対運動、うっとうしいな。それにニュースやネットで映像を見ると、ああいう運動って盛った表現とか大袈裟なスローガンとか使ってるよな……言わないでおくけどさ」と本土人は思っていた。
それをひろゆきがはっきり口にしたから「あ、言ってもいいんだ」となったのだ。
もしかしたら増田は、基地反対運動を内心で嫌っている層も指して「SNSでネトウヨみたいなのが増えてて悪化してる」と表現しているのかもしれないが、それらはネットやSNS以降に発生したものではないと思う。
そしてこの反対運動への否定的な関心というのは、沖縄基地問題だけでなく、反原発デモや護憲デモ、平和教育などへの冷ややかな眼差しとも似ている。
沖縄やそこに住む人といった、地域に対しての悪印象があるわけではないと思う。
だが、「なるほど、全共闘の失敗以降の日本人の左派嫌いか」とまとめると、それはそれで取り落としがある。
左翼全体への悪感情は確かに影響しているのだが、それが全てではない。
たとえば裁判などで「全面勝訴」とか「不当判決」とかを墨書きしたものを出す瞬間が冗談のタネにされることが結構ある。あれは、大袈裟さや表現の盛り方が面白がられているのである。
主張の内容によらず「活動家」的なアピールの仕方が胡散臭いと思われている面もあり、きっかけがあると反感が噴き出るのであろう。
(右翼の集会も当然嫌われているが、あれらは活動家的な嫌われ方というより、暴走族やヤの字的な嫌われ方だと思う)
また、本土内にも米軍基地はあり、反対運動をしている本土人のグループもいて、それを別の本土人たちは否定的に見ていることからわかるように、普遍的なNIMBY(Not In My BackYard)問題としての衝突という面もある。
話をまとめる。
本土の人間は基地問題に対して無関心ではなく、そこには否定的関心があった。
NIMBY的に地元には基地のない状態を保ちたい自己保身、左派嫌い、活動家的誇張嫌いなどなどが絡み合った、否定的関心を本土人は基地反対運動に対して隠し持っており、今回の騒動はその一端が露わになったと考えた方がいいのではないだろうか。
「関心がある」という言葉は、修辞技法的に使われて、ただ興味を持っているだけでなく、賛同しているという意味を含むことも多い。
「理解がある」という言葉が、知識が有るだけでなく、心情的な賛同もしていることを含みやすいのと近い。
(余談だが、このような修辞には、ある物事に十分な知識や興味があれば当然それに肩入れするはずだという、人間の楽観性があって面白い。
また、「犯罪者心理に詳しい」だと犯罪者を冷徹に分析するプロファイラーのようだが、「犯罪者心理に理解がある」だと支えたりカウンセリングする人のようなニュアンスが漂うのは不思議でもある)
今回の騒動における関心という言葉もまた、賛同を修辞的に含んでいたり含んでいなかったりするだろう。
なんなら同じ文章の中で、基地反対運動に賛同していないという修辞的用法で「本土の人は基地反対運動に賛同していない、つまり無関心だ」という言葉を使い読者に受け入れさせたうえで、関心を興味や知識を意味する用法にさらりと切り替えて「本土の人は基地反対運動に無関心だ、つまり興味もないし無知だから勉強しろ」という主張に繋げる人もいるように見える。
まあ、このような、修辞的な用法と素朴な用法を繋げることで何らかのイメージを与えるやり方は、意図的というよりも無意識的なことが結構あり、私自身も文章をまとめようとするうちに自分のレトリックに自分で飲み込まれてズルい書き方をしてしまったことが結構あるので、強く非難するのは躊躇われる。
あるいは逆に、ある言葉がレトリック的に使われているのをわかっていながら、素朴な使い方として受け取って反論する、というズルさもよく見るし、これまた私自身やったことはある。
なんにせよ、文章を書く側でも読む側でも、ある意見を主張する側でも反論する側でも、ある言葉を修辞として使ったり素朴に使ったりすることで印象を誘導していないか、というのは気をつけた方がいいと思う。