はてなキーワード: 漢字とは
妻のスペック
めちゃめちゃ頭良くなってほしいわけではないのだが、さすがにちょっとと思うことが多く、今後子育てすることになったときに母親の学力は子どもにとっても重要なので改善したいと思うことが多い。
漫画はそれなりには読めるので、ここに注力して情報をインプットする機会を増やした方がいいのかなとも思ってる。ただ土台となる記憶力が悪すぎて身についてるのかがわからない。
といっても同じクラスになったことはないんで、そこまで詳しくはないけど
滝ガレが通ってたのは名古屋にある某医学部受験に強い中高一貫私立校。学校名は漢字一文字
高2の夏にストパーかけるまで天パが酷くて常に髪型がボサボサだった。あだ名は鳥の巣
電車通学だった滝ガレがヤンキーに絡まれて髪の毛にガムくっ付けられたことがある
高3のとき付き合った彼女と初めてアナルセックスしたら、相手が痛がって途中で抜いたんだけど、チンポに未消化のワカメがついてたらしい
といっても同じクラスになったことはないんで、そこまで詳しくはないけど
滝ガレが通ってたのは名古屋にある某医学部受験に強い中高一貫私立校。学校名は漢字一文字
高2の夏にストパーかけるまで天パが酷くて常に髪型がボサボサだった。あだ名は鳥の巣
電車通学だった滝ガレがヤンキーに絡まれて髪の毛にガムくっ付けられたことがある
高3のとき付き合った彼女と初めてアナルセックスしたら、相手が痛がって途中で抜いたんだけど、チンポに未消化のワカメがついてたらしい
俺は国語と精神と頭が弱くてここの住民にうまく伝わるかわからないけど
題名の通り
「宝くじとか空くじ 億千万円とか当たるわけないだろ ばっっっっっっっかじゃねーの 赤ちゃんバブー」
とか 言ってた俺に一等前後賞が当たった
本当に嬉しい けど同時に震えて怖くなった
年末がパァになった
家と銀行とをいったりきたりした 道中で怖さと疲れでめげそうになったのをなんとかがまんした
当たって浮かんだのは「これ全てを俺1人で抱えるのか」だった
どこかの増田が10年前とか2年前とかに俺と同じくらいかそれ以上の金額を当てたことを思い出した
俺も当てた 当てたくて当てた そうだから
当たる前はつかいみちはバカ面に鼻垂らしてうへうへ無限に考えてたのに今では「どうしよう」の言葉が脳みそに泳いでて
何もできなくなった
まえの俺の知る高額増田のブコメとかに「1億ははしたがね あぶくぜに うたかたのゆめ 現実見ろ」って散々散々言われてたのを見たし
俺も「投資しろ」とか当たってもないのにウエメセで言ってたから
俺は恥ずかしくて仕事辞められなかった
「夢じゃないんだ 本当に抱えるんだ」と思った
膝がガコガコして女の子みたいにぺちゃーって床に座った
俺はもう文章で察せるだろうが
投資とかカネ増やしとか そんなの俺がするもんじゃないって思ってた
その日死ななければオッケーで生きてた 今は死にそう
ブコメは大金は刺して欲しいやつがうじゃうじゃいるって言ってたから俺も刺されようと思った
そしたら父ちゃんに低い声でさとされて「身内にでも教えるものじゃない」って言った
俺は自慢が借金はないこと
でも高卒でおまけにバカだからここの住民みたいな 頭いい勉強は知らない
本当にバカなの
お金がもらえるらしくてやりたかったけど ボタンが多くて失敗した
俺はバカだから宝くじの300円とか3000円とか当たったら喜んだ
億とか数えれないし 競馬とかパチンコみたいに難しいのを考えなくていいからよかった
誰か助けてくれ まじ怖い
いろんなコメ見たけどみんな俺を心配してくれてて心があったかくなった ありがとな
父ちゃんを褒めるコメがいっぱいあって俺が嬉しくなった 俺の父ちゃんはすごいんだぞ
とりあえず俺は引っ越すことになった 父ちゃんも引っ越すかもしれないって言ってた
最初の使い道はこれかもしれない 父ちゃんは「俺の引っ越し資金は俺が出すからお前の金は出すな」って言った
そんで俺も父ちゃんも電話の番号と会社を変えた そうした方がいいって父ちゃんが言ってたから
契約が俺がどんくさくて父ちゃん同伴するんだけど 頼りになる 頼りにしちゃいけないんだけど
何でもかんでも父ちゃんに押し付けてていい歳して情けないけど 俺には父ちゃんしかいないから
いつか恩返し山ほどしたいな
あと住民 ありがとな 大好きだ
生い立ちにしては文章が上手だなと思ったら編集者に転身していた。更生の理由を「嫌気が差した」とだけ書いているが、どういう気持ちなのか詳しく聞いてみたい。
学校通ってない奴が漢字の文章を?悪い冗談だよな。足立区にいた時小学校に似たような奴がいたけど、名前を漢字で書くのがやっとだった。今は何やってるか。しっかし大検て簡単に取れるんだな。
そのような生い立ちでもしっかり文章書いてるのがすごいと思った。
こういう生育歴・境遇の人間がこんなまともな文章を書けるとは、俺らが若い頃には考えられんかったよ、最初の一文が書けないとか「楽しかったです・美味しかったです」くらいしか書けない人物しかいなかった。
最近こういう「日本の底辺にいる人たちに取材をしては増田に投稿する増田」がいるなぁ。本人にしては文章が巧すぎるんだよ。アフィリエイトブログでもいいから記事にして収益してお金を取材対象者に渡せばいいのに。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230128224222
アマデウーッス
本日はホロコースト犠牲者を想起する国際デー、日本においては国旗制定記念日、求婚の日、船穂スイートピー記念日とのことです。
わかりやすいデザインというのは大事だとは思うのですが、だからって情報が多くなると逆にわかりづらくなります。
だからって簡潔にしすぎると逆に訳がわからなくなるという事案は主にトイレ周りで発生してますね。
色で分けても色弱の方に不親切になるし、オシャレにしすぎても解読に時間がかかる。
いや角張っててわかりづらいですかね、男って漢字も角にぶつかったら痛そうですもんね、特に力の字の出っ張りの部分が引っかかりそうで凶悪です。
ということで本日は【わかりやすい注意喚起よいか】でいきたいと思います。
・おじさん構文を使わない、絵文字は少なめで絵文字よりはスタンプ
・否定的なことを控える
・皮肉を控える
・自虐を控える
・最大3行
・自分語りは程々に
・暗くなったら話題を変える
・未来志向の話をする
・会話しすぎなときは返しづらいボールを投げる(無視できる人に限る)
この上で面白いふうに転がせたら良いんだけど難しい
でも冗談とかプロレスっておじさんvs女子の間で成立させるの難しくない?と思う
日本の報道局とか、社会活動家とか、ある種の草の根運動的なことをしている人たちって
たしかに、労働運動とか市民に学が無かった時代に、学のない大衆が「革命」を起こしていたのだから(学のある人間の革命が成功したのって日本くらいでは?)
知性を「特権」ととらえて、反知性主義的な傾向があるのは仕方ないことだと思うのよ。
でもそろそろ変わってもいいころじゃない?「コンクリートから人へ」とか「牛はウン桁、人はウン桁」みたいな
感情的な標語でガキみたいに喚き散らす時代から変わってないじゃん。
何か一つ政策を否定するときも「○○みたいな研究があって、その研究によるとこの政策の方法は否定されてる」とか
もっと科学的に説明できるでしょ?なんだよ「岸田はなんもしてないからだめ」って。ちゃんと数字とか出して「なにもしてない」なら分かるけど
結局「漢字読めないからだめ」「なんか覇気がないからだめ」の二の舞やろ。
いつまで反知性してるんだよ、なんのための教育だよと思う。
第一線の数学者は他のどの科学者よりも難しい問題を達成していると思うのだが、特に現代数学において誰でも知っているというような人が全然いない事実にひっかかるものがある。
マルクスみたいな経済学者とか、ファーブルみたいな生物学者など、他の学問には数学者よりは高度なことはしてないというのに一般の人でも知っているという人がいるのに、これはどういうことなのか。
数学者で有名といったら、せいぜいピラゴラスといったような古代人、現代数学でいえばリーマンとかラプラスとかだ。
これらの人物に共通するのは小学校から大学までのカリキュラムで扱う理論や公式の発見者かどうかということに過ぎない。
特に古代人が考えたことは現代から見れば易しいものなので義務教育の内容に採用されやすい。だからあのへんの時代の人物は数学者でも知名度が高い人がいることになる。
ようするに言いたいのは数学者の有名無名はただ単に教育制度次第になっているということだ。
高度な現代数学でも岡潔や望月新一と有名な人はいるじゃないかと言う人もいるかもしれないが、あれらが有名なのも、実績の価値が正しく一般の人にも伝わって認知度が高まってきたというものではない。
岡潔なら統合失調症だったなかで戦時下を生き抜いたこと、望月新一なら自分のコネを使って論文を掲載させたこと。
そういう生き様のセンセーショナルなところがもっぱら庶民の関心を呼び起こしているに過ぎないのだ。
ポアンカレみたいな「未解決問題を解いた人」というわかりやすいラベリングを持った人間が有名なのも本質的には上述したのと同じところにあるのだろう。認知している人の多くが業績の概要と価値だけでも正しく理解してるか疑わしい。実績の内容に関する関心ではなく、未解決問題を解いたという一点で共通認識化されているように思われる。
ちょっと単純化が過ぎるかもしれないが、数学以外の科学者の土俵はもっぱら実験や実証のなかにあると思う。
実験により、何かをしたらこういう結果が出た、という目に見える因果関係を把握する力さえあれば誰でもその分野の大学者になれる素質はあるとさえ言える。
もちろん実際に誰もが知ってる大学者になれるかどうかはもちろん有用な結果をはじき出す実験にこぎつけられたらという話になるが、どちらにせよ彼らは比較的易しい具象の中で研究対象と戦っているということには違いない。
一方で数学ときたら現時点で新規性のある高度な数学論文をしたためるには何万ページという論文が語る知見に対する確かな理解の積み上げが無いと無理だろう。
理解する過程においても数千ページ目にあたるある論文が理解できないとなったときどこに理解の欠落があるか今まで読んだ論文から探しなおさなければならないわけである。
理論の構造自体も目に見えるようなわかりやすい因果関係から成っているのではなく、抽象的なわけだから、知識の欠落がなかったとしてもその理解は純粋に難しい。
しかし高度な論文の作成はその先にあるのだからこの数学の研究というものは果てのない作業なのである。
望月もそのような作業を経てついにはIUTの創出という高みに至ったはずである。
そして望月以外にも当然少なくとも月ごとには相当数、同程度の高みから発した高度な内容の論文が公開されているはずだが彼らの中から一般人にも有名という人は現れて来ない。
ようするに現代数学者は天才である。あの手の分野の数学者は受験勉強を全くせず東大に悠々と合格するような人間がざらであるらしい。もっとも現代数学者の絶対数が少ないのだから「ざら」というのは数ではなく割合の問題なのであろうけど。
そんな数学よりは高度な理解力を要しない学問では誰からも知っている人が出てきているのに、現代数学ではせいぜい専門家の間で有名という程度にしかなれないというのは理不尽なことだと思う。
私にはそれほどの数学の才能はないので数学ができる人間に対して劣等感がある。
だから劣等感の元凶である彼らにはせめてとことん栄誉ある立場にあってほしいのだ。
彼らすら大して評価されないのでは彼らと違って能力のない私には何も救いがないではないか。
あるいはこういうことなのかもしれない。既存の知識を理解するという力と新しい見識を発見する力というのは異なるものなのではないかと。
つまり数学の功績は高度な理解力の上に成り立っているものだけども、高度な理解力をもった彼らがもし別分野を志していたとしたら果たして一般の人の記憶にも残る大学者になれていたのかどうか。
現代数学者にチョムスキーの生成文法もその理論を考え出した背景にある理論も含めてその気にさせれば簡単に理解してしまうだろうが、かといってもし彼らがチョムスキーと同時代に生まれて言語学を志していたらチョムスキーを出し抜いてあのような文法理論を創造できたのだろうか。漢字の世界で白川静みたいな業績を打ち立てることができただろうか。丸山真男のような戦後思想史の巨人になれただろうか。
理解力は結局脳の処理能力という量的な要素に還元されるものに思われるが、理論の創造というものはどのような分野にしても大胆なひらめきがものを言い、これなるものは量化などもちろんできない、一種の特殊能力なのではなかろうか。
数学はむしろ知見が論理的に緻密な状態でに充実に蓄積されているのに比べ、他学問の知見は相対的には雑駁というかなんというか、とにかくそういったところから新しい理論を考え出すのには数学以上に何かアクロバティックな部分が必要にも思える。
コペルニクスだったかは海上の水平線で帆船が見えなくなる事実から地球が丸いということを歴史上最初に悟った人物らしいが、彼のような発見は彼より多くの知識を持った、つまりは理解している天文学者には出来ないはずだと朝日新聞の轡田だかいう論説委員の本に書いてあったと思う。
本当だろうか。現代数学者がその時代に生まれても無理だったのだろうか。でももしそういう発見という意味での知性が特殊な力なのなら、ここは素直に認めておくべきことなのかもしれない。数学者こそ昔の偉人が発見した事実をベースに論文をしたためることができているだけで、彼らがいなかったらならば今のような仕事はまるでおぼつかないものになっていたかもしれない。
ただしコペルニクスやデカルトみたいなあの手の啓蒙思想の潮流で偉人扱いされている人がもしも今生まれたら、史実でその発見をしたときのインパクトと同じぐらいのインパクトを持った発見ができるのだろうかという疑問はある。
しかしできないのだとしてもそれは役割の問題なのだということになるんだろう。コペルニクスにはその特殊能力をもって彼にしかできない発見をしたのだし、現代数学者も彼らの理解力をもって高度な論文を発表している。それでよしとするべきことなのだろうか。19世紀から20世紀のイギリスでは優秀な人間は天文物理学に行くものだという常識・慣習があったのも引っかかる。
学者としての優秀さというのは最終的には理解力のような計り知れるものではない、ひらめく力・直感のセンスで決まると認識があった証左なのだろうか。
そうであるなら私についてもまだまだ人生これからで、数学以外の学問でひらめきを発揮する道はあるのかもしれない。
そうだとすれば劣等感を抱く前提条件も崩れ、数学者が一般に知られていようといまいが気にする問題ではなくなってしまうはずであるけれど、ここまで掘り下げて考えてしまったので、まあそれはそれとしてこの疑問は解消されるまでことあるごとに私を悶々と悩ませるには違いない。
まあそれでも既存の知識を理解することにおいては絶大な才能があること、つまり学者がどんな難解な理論を提唱しようがたちまち理解してしまうという意味で、あらゆる人に対してタイムラグはあるにしてもそれを無視した見かけ上はどちらの方が物事をよく理解してるかということについては遅れを取ることがないという点にはやっぱり羨やむものがあるかな、ノー勉で東大に受かる素質というのも素直に?率直に?畏敬の念に駆られてしまう。
dorawiiより