はてなキーワード: 土砂崩れとは
2018年10月7日、六甲山で最難関ルートだとされる大月地獄谷ルート(渦森橋~みよし観音)を登った。2018年の台風ののちに、みよし観音を目指して登った人が他にいるかが、検索しても見つからなかったので、私のような登山素人に向けて書き残したい(これが検索でヒットするかはまた別の話)。画像はない。ちなみに天狗岩へ抜けるルートで登っている人は確認されているが、こちらの方が容易だとされているようだ。なお登っても、達成感を感じる前に、泥だらけのボロボロの服装で、おしゃれキラキラカップルと遭遇することになるので、極度のマゾヒストにしかお勧めしない。
天気 : 快晴 (気温27度)、前日早朝は雨
服装 : 破れてもいい服(長袖)、軍手、トレッキングシューズ
持ち物 : 昼食(おにぎり)、補給食(ゼリー系のやつ)、ポカリ、お茶、参考にしたサイトのコピー、遭難しても少し生き延びれるようにカロリーメイトいくつか
虫除けスプレー、山と高原地図等は同行者が持っていた。感謝。(逆に持ってない私がやばい)
ヘッドライトなども持っている方が良いでしょう。
主に下記のサイトを参考にさせて頂いた。呼び名などもこちらから拝借している。
https://tokiwatrekking.web.fc2.com/pages/y20160813.htm
http://shousam.fc2web.com/081018ootukijigoku.html
霊園の手前から谷に入り、沢沿いを歩いていく。
本格的な山登りは荒神山第二堰堤から始まる。ここを右から高巻く。当然ながら整備されている道ではないので、一発目にしては重め。頂点付近で少し無理やり登る必要がある。腕力である。
次は荒神山第三堰堤。左から高巻く。途中まではロープがあるが、道自体もそこまで険しくはないので、あくまで補助的に使う。ロープのかかっている木のうちで、少し弱くなっているところがあったので、油断は禁物。
ちなみに、ここを右から高巻くと、死にかける(体験談)。右側は急峻な上、堰堤の上端と同じ高さまで登ったのちに、ほぼ支えになるものが何もない状態でトラバースしなければならない。高さ18mなので落ちるときっと楽しい。
続く荒神山第四堰堤は、手前にある石積み堰堤を右から高巻くとそのまま巻道が見つかる。
次は紅葉谷堰堤。とうとう荒神山堰堤ゾーンを抜けて紅葉谷ゾーン。左手にあるロープからかなり上に登りそして降ってくる。一部、ほぼロープに頼らなければ進めない箇所があるので注意。確かに周りを見渡せば紅葉の葉っぱが見つかる。
紅葉谷第四砂防ダムは上目から、ロープを頼りに越えていく。この辺りになると結構感覚をつかみ出してきていて、どうやらいけそうだと感じ始めたが、それは幻想だった。
このエリアが終わると、滝が続きハードになってくる。複数の意味でハードになる。滝を登るため体力と、意味のわからないロープを信じなくてはならないため精神と。
紅葉滝は、右手手前に巻道、滝のすぐそばにロープがあった。右手手前の巻道はかなり斜度が高く、その上足元が滑りやすいという有様だった。同行者のうちの一人がロープ、もう一人が巻道から登り始めたが、私はどうにももっと手前に巻道があるような気がしたため、少しためらった。しかし、結局心もとないがロープを信じて登るルートの方が簡単なようで、信じて直登することに。案外いける...だが誰がいつ設置したのかわからないロープに命を預けたという事実が残る。
タラップ付きの堰堤が現れる。ダムから出ている水量が多く、タラップの場所まで行くのに身体中がずぶ濡れになる。体温がかなり上がっていたのでそこまで気にしなかったが、普通に考えて危険である。ダム自体は特に問題なくタラップから登りきれば、鋼製堰堤。下をくぐるが、足元が濡れる。
大月地獄大滝に到着。実際に滝を見ようとすると、生い茂る藪を超えて行く必要があった。また、この薮の手前から巻道が......滝を見ずに巻道へ。こんな薮、進めやしない、とその時の私は思っていた。
すぐそばにF2滝。巻道は見つからず、ロープを信じて直登する。できる限りロープに頼らないでいたかったが、頼らざるをえない部分がいくつか。しかしロープの根元を見てみると、理解しがたいほど不安定そう......。よくもまあこれを信じれたものである。ふと自分の体が震えているのに気づく。膝が笑っている。潜在意識も生命の危機を感じていたのだろうか。同行者の様子を伺うと、全員足が震えていた。愚かにも山を登ろうなどとするからこうなるのだ。
次のダム二つはタラップがついており、越えるのは簡単。しかし、越えた先がかなり深い池になっており素直には降りられない。滝を越えてしまった今、もう後にも引けず、無理やり脇道から池を越える。
A-7標識を越えるとF5滝。右の巻道を進むが、斜度がかなりある上に少ない木の根などを頼りに登って行く、本格的なクライミング。永遠にきつい時間が続くのかと思うほど、滝のかなり上まで進むが、くだるポイントが見当たらない。途中、堰堤が下に見えたがこれもスルーしてそのまま上から抜けた。ここの滝では、左に巻道があるとされていたのだが、明らかに崩壊しており、右から行くしかなかった。
ここから少し進み、小さい滝を越えて行くと、本格的に薮ゾーン。正しい進路がどこなのか、一見しただけではわからない。無理矢理川のありそうなところを目指して進む。さらに進むと土砂崩れの影響か、川はなくなる。本当に道が分からないのだが、とにかく信じて直進し続ける。テープも見当たらず、この道は正しいのか、という自問自答を繰り返して行くと、大きなダムが見える。
このダムは2016年に完成したもののようで、いくつかのサイトによると、2015年時点でみよし観音直下に建設中のダムがあるという情報があったので、ここはほぼゴールに間違いない!
ということでダムを目指す。足元は雑草のみで歩きやすく、木もないので視界が晴れてくる。左手にタラップがある、という案内板が見え、大きいが楽に越えられそう、と思ったのが甘かった。先の災害の影響か、左手側が完全に崩壊している。仕方なく、右手にあるステップを無理矢理腕力で登る。
この次にも似たようなダムがあるが、高さがさほどなく、そのまま越える。すると、眼前には森のみで、この先には道がないように見える。しかし、GPSを確認するとどう考えても正しい場所にいる。このまま突っ込んで行くしかない、と思ったところ右手に木製の階段が!久々に見たダム以外の人工物に喜び、何を口にしているかも分からないままわめきながら階段を上っていった。
抜けた先にあったのはJFE健康保険組合。みよし観音ではなかった。もう少し右手側を進んでいればみよし観音だったようだが、未確認。とにかく人のいる地に帰ってきたのだ。泥まみれの状態で、おそらく六甲山のキラキラしたイベントに行っていたであろうカップル達と出会う。そのまま下っていき、帰りはロープウェイで帰った。ロープウェイから見える木々に時々ピンクのテープが括り付けられており、新たな旅の可能性を見た。
昔ながらの場所に住み続けた古田と、新しい土地を求めて移住した新田。
住むべき場所は一生ついてまわる問題といえるが、進化論的にどちらのほうが優れているのか、確かめたくなった。
その結果がこちら。
見事に肩を並べる結果に。
要するに、人間は住みたいところに住むのが良いということなのだろう。
なんだかこの結果をみてホッとしたような気持ちになった。
ところで田のつく名字で一番多い=繁栄したのは言わずと知れた田中だ。
4位 田中 およそ1,343,000人
田んぼを所有する人間よりも、中に住んでいた人間のほうが幅を利かすとはなかなかに皮肉が効いている。
ついで続く田のつく名字は以下の2つ。
吉田に関しては良い(吉)田んぼなのは結果論だったのではないかとも思われるが、山田については山に資源が豊富なことを考えると納得の行く順位とも言える。
今回の台風や震災でも土砂崩れなどの実害が発生しているが、それをもってして尚、住む価値のある場所なのかと思うといろいろと複雑な気持ちになる。
豪族の末裔である佐藤、神事に仕えた鈴木、天皇に仕えた高橋に比べると、ただ田んぼの中心に住んでいただけでこれだけのシェア築き上げたというのだから食べ物の大切さは推して知るべしと言えよう。
尚、疑問が生じてからこの結論に至るまで、ものの10分程度で済んでしまうのだから便利な世の中になったものだが、もし今の時代に新しい名字を登録できるとしたら一体どんな名字が将来繁栄しているのだろうか。
増田抜きでお答えください。
当時、学長であった哲学者・鷲田清一教授は、一通りの -文字数として数えると
原発の問題の有無や、テレビで流れる「亡くなった方」の数字の桁こそ違えど、
そしてなにより、
近しい人を亡くされた痛切さが伝わってくるという点で、
今回の2018年7月豪雨、ぼくは、3.11と同質のものを感じています。
今回の豪雨、ぼくは降水量としては3番目に多かった神戸に住んでおり
確かにいままでにない雨の降りかたでした。
加えて、徒歩にして500mほどの場所で土砂崩れが発生していましたが、
それでも、「災害に巻きこまれつつある」という意識は希薄でした。
被害地域が広域であったこと、下手に現地取材を行えば自身も被害者になってしまうマスコミのリスクに加え、
もしかすると「雨の災害」だと、心のどこかでラベリングをしていた(し続けている)人も多くいたんじゃないかなあ。
現在は、豪雨災害のニュース一色、現地からの報道ばかり、といった感じですけれど
実際の雨が降っているときの映像は、ほとんどが京都の嵐山だったり
それらのニュースをみて感じたことがあったので、書いておきます。
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ご家族を亡くしたお父さんの後ろには、画面を通じて確認できただけで
お父さんの後を追うように、20人ぐらいの「マスコミの人」がいました。
よく「心ないマスコミが!」という意見は目にするけれど、ぼくは今回
「このお父さんは、ひとりでこの時間を過ごすことにならなくてよかったんじゃないか?」
ご家族を亡くされた苦しみ。
自宅が浸水し、心の支えを失ったなか、
いったいなにを支えに生活を取り戻していくんでしょう。
想像するだけで胸が引き裂かれそうになるよ。
「だれにも見向きもされず、ひとり」だったら、どうだったのだろう。
だから一部の人たちから「クソマスコミが!」と呼ばれるのでしょう。
けれど、人間みんなが「苦しみをひとりで耐え忍ぶ」ことをできるように
デザインされているとは思えないのです。
ぼくだったら、どうだろう。
そんなときに、それがたとえ気遣いからでの「ひとり」であったとしても
カメラをかつぎ、マイクを握ったマスコミのみなさんではあるけれど、
きっと、しぼりだすように、されているお父さん。
受け止めることができるか、それを試されているんじゃないかなあと思うよ。
ああ、痛い体験ですね。強くなろう。
3.11、多くの人がそうできたように、また今回も。
そう、3.11です。ぼくはニュースで水につかった西日本の街を見るたびに、三陸を思い出します。
ぼく以上に思い出すよなあ。
逃げているように思わないで。
あれだけの傷をうけてまだ7年です、
「みんなが生活してくれている」それは奇蹟だし、
みんなが絶望していないんだよ。それは、みなさんが、
すっごいワガママを言うと、
「ただ、いてくれること」そのことがどれだけぼくらを救うか。です。
いつもありがとう(^_^)
みなさんがそういてくれるんだもの。
きっと、ぼくらにできないはずはない。
もう、寝る暇もなく働いてるって。
そんな皆さんに敬意を持って過ごせたらいいよなあ。
そして、それが原因で心を痛めるかもしれないけれど、
「関心」が向けられていること、
さっきのお父さんの話のように、間違いなく支えになるから!
FIGHT BACK!
みんなの状況が少しでも良くなっていきますように。
自分はこの日の夜、うかつにも実家のある呉に向かって車を走らせていた。
昼を過ぎたあたりで、フロア中のスマホがけたたましく緊急エリアメールの受信を告げる。
初めは安佐北、佐伯、安佐南。避難準備、災害対策本部設置、避難勧告などと、ほんとうに10分おき位に緊急エリアメールのアラートが鳴り響く社内。江波、舟入、宇品・・・会社がある南区にも、豪雨の濁流が近づいてきているのを感じ、同僚たちは落ち着かない雰囲気で顔を見合わせていた。
自分も仕事そっちのけで市のホームページの緊急情報にかじりついていた。
仕事が終わったのが18:30。いったん荷物をまとめるため自宅に戻る。しかしすでに平和大通りは激混み。段原の同僚から床下浸水したとかなんとか連絡をもらい戦々恐々。普段なら10分もかからない自宅についたのが20:00。
荷物をまとめて呉に向かうことにした。
口田は明るいうちからすでにとんでもないことになっていたのをツイッターで見て知っていたし、それこそ四年前の災害も市内北部で起きたことだ。そして呉市内(中央付近・中心部)に住む両親や姉とのラインでは、二人はいたって普通で、市内ほど緊急エリアメールも届いていないようだった。
とにかく市内から逃げるのが最適解だとその時は思っていた。
しかしその目論見もあえなきさだめとなる。
会社を出た時点ではまだ生きていた広島呉高速道路がついに全域通行止めになっていたのだ。こうなったら焼山経由か31号線で帰るしかない。
家を出る前に確認しておけばよかったと歯噛みした。
(第2の判断ミス。高速が止まったことに気づいた時点で引き返しておけばよかった。)
東雲あたりに到着したころには21時になっていた。普段から混む場所ではあるが、自宅から一時間もかかったことはない。
車のガソリンが切れそうでイライラしていた。今にもエンプティが点滅しそうな領域。
目につくガソスタは全部閉めていた。そりゃそうだ特別警報発令中、ガソスタ店員だって避難してるにきまってる。
雨脚は弱まることはなく、車の天井をたたく雨粒の音でカーラジオもオーディオも聞き取りにくいほどだった。
渋滞に巻き込まれてる間も緊急車両はそこらじゅうでひっきりなしにサイレンを鳴らしていて、数分おきには路肩によけるような状況だった。西区、安佐北や安佐南の署名が書かれた消防車が目立ち、不思議だと思った。なぜなら自分が走っている道は市外へ向かう道。市外から応援が駆けつけてくるならともかく、広島市内の緊急車両が市内を手薄にしてまで市外を目指すなんて妙だ…。この先でなにかがおきているのか…?
「坂で土砂崩れ」
「瀬野川氾濫」
このときにようやく自分が向かっているところは安全じゃないと気づいた。なんだか予想以上にとんでもないことがおきている。
そもそも呉にたどり着けるルートは完全に失われているようだった。
その時にはすでにバイパスに乗っており、引き返すことができない状況だったうえにガソリンも切れる直前だった。
とにかくいったん海田に抜けて、ガソリン入れてから考えよう!と思った。
渋滞中、ガソリン節約のため空調を切っており土砂降りのため窓も開けられない蒸し暑い車内で、あわててツイッターなんかで情報取集すると、呉も地元もひどいありさまだった。
見慣れた景色が土砂や濁流にのみ込まれている様子は、どこかリアリティに欠けて見えた。
そしてガスメーターのエンプティマークは点滅していたけど、頼むから持ってくれ!という気持ちで覚えのあるセルフ24hのガソスタをところどころ勃発している通行止めにイライラしながら目指した。
悲痛な願いは届き、蛍光灯と値段表示でらんらんとかがやくガソスタにたどりつけたときは半泣きになった。
ガソスタの床には、流木やゴミが散らばっており、一時は冠水したのかも、と思い背筋が凍った。
ふんずけてパンク、なんてことにならないよう、細心の注意をはらって車を進めた。
救急車も給油していた。
さて、ガソリンも入り車内空調にようやく電源が入り曇りまくっていたフロントガラスもクリアになったところで0時過ぎ。
1.市内の自宅に引き返す
2.そのへんで車中泊する
ぶっちゃけもう運転はしたくなかったので車中泊をしたい気持ちもあったが、すでに一部冠水していた海田町にとどまるのはおそろしい。すぐそばには荒れ狂う瀬野川もある。
帰宅してしまえば鉄筋マンションの6階の自宅は流されることはないだろう。かといって市内の状況もわからない。マンション付近が浸水していたらジ・エンドだ。この時ばかりは、リバービューに憧れて部屋を選んだ自分を恨んだ。
それにどこかでまた通行止めで立ち往生する可能性もないとは言えない。
これ以上判断ミスするわけにはいかない。いろいろと取れる限りの情報を収集し、迷った末に、市内の自宅に引き返すことにした。渋滞に巻き込まれている間に対向車線を確認した限りでは、下りはそんなに混んでるように見えなかった。(逆にどこかで通行止めしてるんではないかと不安でもあった。)
運転時間はぶっ通しで6時間にのぼろうとしていたけど、この判断が間違っていないと信じて、がむしゃらに車を走らせた。幸い通行止めも渋滞もなく、恐ろしいほどスムーズに広島市内に帰ってこられた。
驚いたのは、緊急車両が市内に向かう車線を逆走しながら市外へと向かっていたところだ。当方は片側三車線の最も左を走っていたので何事もなかったが、なんの警告も交通整備もなく逆走しているのをみて世紀末を感じた。。
(それくらい市外へ向かう道は混んでいたというのはある)
市内に帰ってくると拍子抜けするくらい渋滞もなく浸水もないようだった。緊急車両よりタクシーが多かった。
最悪週末は一歩も部屋を出られない覚悟を決めてコンビニでアホほど買い物をし、自宅に戻った。
この時すでにコンビニの水のペットボトルの棚は空白が目立っていた。
自宅につくと、おそらく間違っていなかった判断に安心し、疲れていたので風呂も入らずに眠った。
皆さんに忠告。
今回みたいな災害のニュースを見るたび、なんで災害が起きそうなところの近くに住んでるのかなと思う。
もちろん自然と触れることでの豊かさとか、代々その土地に住んできたとかあると思うんだけど、それって命に変えても守りたいものなのか?
それなりの都会の耐震工事がされてる家に住んでればどんな災害でも死なないとは言わないが、津波が起こるかもしれない海、氾濫するかもしれない川、土砂崩れが起こるかもしれない山の近くに住む気持ちが全くわからない。
とはいえひとまず今回災害に遭われた方がいち早く元の生活に戻れることを願ってます。みんな募金しようぜ
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