当時、学長であった哲学者・鷲田清一教授は、一通りの -文字数として数えると
原発の問題の有無や、テレビで流れる「亡くなった方」の数字の桁こそ違えど、
そしてなにより、
近しい人を亡くされた痛切さが伝わってくるという点で、
今回の2018年7月豪雨、ぼくは、3.11と同質のものを感じています。
今回の豪雨、ぼくは降水量としては3番目に多かった神戸に住んでおり
確かにいままでにない雨の降りかたでした。
加えて、徒歩にして500mほどの場所で土砂崩れが発生していましたが、
それでも、「災害に巻きこまれつつある」という意識は希薄でした。
被害地域が広域であったこと、下手に現地取材を行えば自身も被害者になってしまうマスコミのリスクに加え、
もしかすると「雨の災害」だと、心のどこかでラベリングをしていた(し続けている)人も多くいたんじゃないかなあ。
現在は、豪雨災害のニュース一色、現地からの報道ばかり、といった感じですけれど
実際の雨が降っているときの映像は、ほとんどが京都の嵐山だったり
それらのニュースをみて感じたことがあったので、書いておきます。
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ご家族を亡くしたお父さんの後ろには、画面を通じて確認できただけで
お父さんの後を追うように、20人ぐらいの「マスコミの人」がいました。
よく「心ないマスコミが!」という意見は目にするけれど、ぼくは今回
「このお父さんは、ひとりでこの時間を過ごすことにならなくてよかったんじゃないか?」
ご家族を亡くされた苦しみ。
自宅が浸水し、心の支えを失ったなか、
いったいなにを支えに生活を取り戻していくんでしょう。
想像するだけで胸が引き裂かれそうになるよ。
「だれにも見向きもされず、ひとり」だったら、どうだったのだろう。
だから一部の人たちから「クソマスコミが!」と呼ばれるのでしょう。
けれど、人間みんなが「苦しみをひとりで耐え忍ぶ」ことをできるように
デザインされているとは思えないのです。
ぼくだったら、どうだろう。
そんなときに、それがたとえ気遣いからでの「ひとり」であったとしても
カメラをかつぎ、マイクを握ったマスコミのみなさんではあるけれど、
きっと、しぼりだすように、されているお父さん。
受け止めることができるか、それを試されているんじゃないかなあと思うよ。
ああ、痛い体験ですね。強くなろう。
3.11、多くの人がそうできたように、また今回も。
そう、3.11です。ぼくはニュースで水につかった西日本の街を見るたびに、三陸を思い出します。
ぼく以上に思い出すよなあ。
逃げているように思わないで。
あれだけの傷をうけてまだ7年です、
「みんなが生活してくれている」それは奇蹟だし、
みんなが絶望していないんだよ。それは、みなさんが、
すっごいワガママを言うと、
「ただ、いてくれること」そのことがどれだけぼくらを救うか。です。
いつもありがとう(^_^)
みなさんがそういてくれるんだもの。
きっと、ぼくらにできないはずはない。
もう、寝る暇もなく働いてるって。
そんな皆さんに敬意を持って過ごせたらいいよなあ。
そして、それが原因で心を痛めるかもしれないけれど、
「関心」が向けられていること、
さっきのお父さんの話のように、間違いなく支えになるから!
FIGHT BACK!
みんなの状況が少しでも良くなっていきますように。