はてなキーワード: ネット右翼とは
こういう風に単純化するのは反対だなぁ。ポスターを批判している人の中にも、ただ無知なだけで話せばわかってくれる人もいる。たしかにマイノリティ側にばかりコミュニケーションの義務が発生するのはそれ自体が非対称性ではあるけど、だからといって開き直ったところで何も解決しないし、先人たちが地道に偏見を払拭してきたから今回もたくさんの人が味方をしてくれたわけで。
えっ、そういう話じゃない?
献血ポスターをめぐるやり取りについて、どうして齟齬が生じるのか、幾人もの人が色々と小難しく考えているようだけれど、んな難しいものではないでしょ。ネットイナゴの難癖があまりに目立つというだけなんだから。ネット右翼とか差別主義者との間に「誠意あるやり取り」が成立するかどうかと同じで。— 若林 宣 (@t_wak) October 23, 2019
https://togetter.com/li/1369547
http://toianna.hatenablog.com/entry/2019/06/25/205348
この辺読んでいて、そういえば自分はツイフェミだった時期があったなと思い反省文を。
自分がフェミニズムに興味を持ったきっかけというか要因は、人権問題に関心のあるリベラルな学生だったからだろう。私は当時ネット上で左派的な言説の多くを観測しており、その流れでフェミニストたちのアカウントをフォローするようになっていった。
彼らは現代においてなお残っている実に多くの女性差別を暴き、実に多くの不正義を告発している、ように見えた。彼らの主張はおおむね正しいように見えたし、差別によって苦しみ、不利益を被っている女性がいるのなら、この状況は是正されなければならないと思った。また自身(男性である)が無意識に女性差別的な行動を取ってしまっていないか、という点にも大いに過敏になった。
身近に思いっきりセクハラの被害に遭っている女性がいたので尚更こういう話題に関心が出たのかもしれない。フェミニストたちの行動の裡に潜む暗い衝動の存在に私が気付くのは、ずっと先のことである。
といっても、私もフェミニズムに首までどっぷりとは行かなかった。あの界隈には単に男性嫌悪を拗らせただけと見える人も多くいたし、彼らのいくつかの主張(例えば「権力勾配」「まなざし」など)については本当に正しいのか確信が持てなかったので判断を保留していた。
とはいえ、各論においてはともかく、総論においては同意していたのは事実だ。
で、私がフェミニズムという運動そのものに疑問を持ったきっかけだが、それは例の「女だけの街」騒動だった。
あの騒ぎ自体はよくあるしょうもない炎上騒ぎなので、わざわざ論じる価値はない。ネット上でよくある異性叩きコンテンツのいち類型にすぎず、個別に論じる事自体が時間の無駄だと思っている。
ただあの炎上は私にとってひとつ大きな収穫があって、それはフェミニストたちのある姿勢が露わになったことだった。
事の経緯としては、最初にとある女性が書いた「女だけの街があったら夜道で怖い思いをしなくて済むのに」といったようなツイートが発端だったと理解している。これ自体はまあ、政治的に正しいかどうかはともかく、単なる愚痴にすぎないだろう。なのでこれ自体を正しいとか正しくないとか言うつもりはない。人間はたまには正しくない愚痴を吐きたくなるものである。
が、人権という原則に照らし合わせてこの発言が色々とまずいのも事実だ。ヒトラーだって同じことを言っていただろう。「アーリア民族だけの国があったら良いのに」と。「〇〇だけの街(国)」というアイデアは古今東西多くの虐殺を引き起こしてきたのだ。
それなのに、フェミニストたちはこれを「素朴な心情の吐露にすぎない」と擁護していた。
なるほど確かに「素朴な心情の吐露」ではあるかもしれない。だが「素朴な心情の吐露」なら何を言っても良いのだろうか?件の発言が「日本人だけの街」だとしても彼らは同じように擁護しただろうか?「女は男に比べて頭が悪い」と素朴に信じている人間が自身の考えを披露するのもOKだということになるのだろうか?そもそも、そういう「素朴さ」の裏に張り付いた偏見や認知の歪みを告発してきたのがフェミニストではなかっただろうか?
本当なら、フェミニストたちはこの発言を擁護するべきではなかったのだ。
繰り返すが、人間は時に政治的に正しくない愚痴を吐くものだ。だが炎上してひとつの論点として浮上してしまった以上、擁護するべきではなかった。せめて「気持ちは分かるけどその言い方はまずいよ」と諌めるくらいのことはするべきだった。
なのに彼らはそれをやらなかった。
その時の様子を見て私は愕然としたのを覚えている。単に男性嫌悪をこじらせた似非フェミニストばかりではない。ある程度誠実に、論理的にものを言っている(ように見えた)フェミニストたちも、揃って件の発言を擁護し、食ってかかる人間へ罵倒を浴びせていた。彼らはお定まりのお題目ーー男性社会の犠牲者ーーを大声で唱えた。私たちは被害者だ、奴らが悪いのだ、と。
なんということはない。彼らの行動原理は正義などではなく、結局のところつまらない党派性と暗い攻撃衝動にすぎなかったのだ。ニーチェの言うことろの奴隷道徳というやつだ。
彼らの言葉の底が見えた瞬間だった。
「日本人だけの街」がアウトで「女だけの街」がセーフだと主張するには、おそらく根拠として例の「権力勾配」という概念を持ってくるしかないだろう。
「権力勾配」の扱いは長らく自分のなかで答えが出せていない問題だった。例えば人種隔離政策が実施されていた時代のアメリカで、黒人が白人を殴ることと白人が黒人を殴ることを同列に扱うことはできない、なぜなら黒人は被差別階級だからだ、という主張は、必ずしも狂ったものだとは言えないだろう。
ただ、私としては最終的に、これは否であると判断するに至った。理由は大きく分けてふたつある。
第一に、この主張は結局のところ、「人権の内実はその個人の属性によって変化する」と主張しているに等しいことがある。
人権というのはつまるところ社会的フィクションにすぎないのだが、ここを切り崩すことを許してしまうのはどう考えても悪手だ。女性差別を問題にできるのも、つまるところ「万人が等しく人権を持つ(べきである)」という原則があるからだ。その原則がなければ、性別、民族、性的指向、政治志向、その他あらゆる属性によって、恣意的に個人の権利を制限することができるようになってしまう。これは到底受け入れいることができない。「権力勾配」という概念は人権という原則に照らし合わせて筋が悪いばかりか、フェミニズムが拠って立つ基盤を自分で切り崩していることにもなる。
女性差別の撤廃という正しい目的を達するために、正しくない手段を用いることは正当化できるだろうか。
これは難しいところだ。政治的な目的を達するため不正な手段を用いることが、一時的な戦略として必要であるという考えは理解できる。が、例えば共産主義革命という「正しい」目的を達するためにいかに多くの人が殺されてきたか、ということを考えると、やはり首を縦に振ることはできないだろう、という結論を暫定的にだが出すことになった。
例えばアファーマティブアクション(これは自分は否定的なのだが)なんかは、マクロな不均衡を是正するためにミクロな差別を導入する、という政策だろう。他にも、件の医大入試における女性差別問題なんかでも、一概に「差別だから悪だ」とは言い切れない事情があるのは理解できる。
社会というものは原則どおりには動いてはくれず、難しいものだなと常々思う。
ともかく、あれ以来、フェミニストたちの言説がどういうものだったのかが、なんとなく見えてきた。彼らのやり口はネット右翼よりは洗練されているかもしれないが、その本質においては何も変わるところがないことが分かってきた。
敵を作ることで味方を定義し、団結させる。それは人生に不満を抱えた人間たちを動員する効率の良い手段だ。日曜革命家が効率的に票田を獲得し、鉄砲玉を生産するための手段。こういうメソッドは社会に遍く見られるもので、今日もどこかで誰かが動員されているのだな、とネットで怒っている人を見るたびに思う。
今更気づいたのか、と言われれば返す言葉もないが、当時の私はちょっとばかり難しい本を読んだだけで社会については全く無知な学生だったのだ。ちょっと首を突っ込んだだけの段階でフェミニズムのおかしさに気づき、取り返しがつかなくなる前に抜け出せたのは僥倖だったのではないかとも思う。
昨今、TERF関連でまたフェミニズムが面白いことになっており、トランスジェンダーに対するフェミニストたちの態度を見ていて、あの時フェミニズムから離れた自分の判断が正しかったことを再確認している。そのことにはなんの喜びもないが、少なくとも自分がもう彼らの一員でないことは嬉しく思うし、あの集団的な狂気から一人でも多くが目覚めてくれれば良いと思う。
教訓があるとしたら、人々の情動を喚起して動員する手口を直に学べたことと、原理原則において一貫性を保つことの重要さだろうか。社会運動自体が不要だとは思わないが、少なくとも自分は、正義を叫ぶ人間の言葉を、以前よりずっと注意深く観察するようになった。それとリベラルが必ずしも味方だとは限らないということも学んだ。
違う
本当にそれは違う
あんたは記憶の改ざんを起こしてるかほんとはリアルタイムでマミー石田HPを見てないかだ
マミーはそもそも誰かのダークヒーローになろうとなんかして無かった
俺の掲示板荒らしや釣りの師匠になった人だけどカリスマやオピニオンリーダーではない
言葉遣いもおかしいし年収1500万のマンハッタンの不動産王だとかプロフィールも滅茶苦茶でバカっぽかったし
あれに共感して「俺はマミー側だ」なんて思える人間を産むつくりではなかった
ついでにいえばネット右翼も「誰かを差別しちゃう強い俺かっこいい」ではない
ネット右翼は元々は嫌韓厨と言われていて彼らはとにかく韓国人を問題視してたの
彼らは自分達を「嫌韓」とは認めても「差別者(サグとしての)」と自認したことなんかない
「俺達は差別で言ってるんじゃない」
「韓国人のことを知れば知るほど嫌いになってあんたがたも俺達と同じになる」
純粋に「差別的なことを言っちゃう俺」を演出したり楽しんだりしたいという厨房ならば
知恵遅れなんかを対象にしてた。
何故かわかるか?
そういう意味では嫌韓厨は韓国人のことを自分達より下の存在とは見ていなかったともいえる。
戦って身を守らなきゃいけない、危ない、って言ってたんだから。
小林よしのり信者は「コヴァ」と呼ばれ若年右翼の代名詞となる。
各板の住人と摩擦を起こし「嫌韓厨」と呼ばれるようになる。
これに辟易する空気につけ込んだネット右翼が「テレビ局は在日に支配されていて韓流をゴリ押ししている」などと吹き込む。
この頃から「ネット右翼」「ネトウヨ」といった呼称が登場し、「嫌韓厨」に取って代わるようになる。
麻生太郎がローゼンメイデンを読んでいた、とする都市伝説が広まる。
後に否定されるが、当時は「麻生は漫画好き」との評判が先行してオタクからの支持を得た。
2chからレスを転載するいわゆる「まとめブログ」が登場して「嫌韓コピペ」などもまとめられる。
2005年から2007年にかけてVIPPERとの抗争があり、いくつかのまとめブログは閉鎖に追い込まれる。
オタクからも嫌われていた福田に対し、人気の高い麻生はネット上で歓迎された。
その際、(2007年の参院選で大勝しており)次の衆院選で政権奪取の公算が高かった民主党が仮想敵となる。
初期の人気ブログが閉鎖したことで「痛いニュース(ノ∀`)」などの新興勢力が台頭し、ネトウヨのポータルサイト的な役割を果たす。
またゲハ系の「はちま起稿」「オレ的ゲーム速報@刃」、アニメ系の「今日もやられやく(やらおん!)」などが人気を集めはじめる。
ニコ動とまとめブログは2000年代後半において2ch文化をネットユーザーに輸出する最大の拠点であった。
「ネトウヨVSそれ以外」の戦いだったのが「自民党支持者VS民主党支持者」という形になりはじめる。
東方神起・少女時代・KARAなどK-POPを中心として流行する。
俳優・高岡蒼甫の訴えをきっかけに「フジテレビはK-POPを優遇しすぎている」との理由でデモが起きる。
対韓感情の推移を眺めると竹島問題のときだけ急激に悪化するのが分かる。
やらおん・はちま・刃・ハム速・ニュー速VIPブログに対して転載禁止の沙汰が下る。
まとめブログの衰退とともに政治議論の舞台はTwitterへと移っていく。
民主党は壊滅的な打撃を受けて撃沈、反民主が親自民へと流れ込む。
「親自民&反民主(=マジョリティ=ネット世論)VS反自民(マイノリティ)」という図式が完成する。
以下蛇足。
アメリカ大統領選挙におけるドナルド・トランプの勝因に「ポリティカル・コレクトネスへの反発」「ポリコレ疲れ」が挙げられる。
日本の政治議論にもポリコレ・フェミニズム・グローバリズムなどのレイヤーが被さるようになる。
嫌韓厨はある時期にパタッと廃れてネット右翼に切り替わったんだよね
まるで号令でも出てるみたいに
いま推測するなら「嫌韓厨」っていうのは実態を正しく表現し過ぎてたんだと思うよ
罵りではあるけど内容は全然間違ってない。
これだと「ああ、韓国を嫌ってるのね」「焦点は韓国なのね」とばれてしまう。
「彼等の韓国を嫌う理由は正しいのかどうか」って興味もって調べる人も増えてしまう。
そりゃそうだわ
だって嫌韓厨の第一目標は「日本人に広く韓国人の実態を知ってもらうこと」だったから。
自分達のような韓国マニアや狭いネット右翼の間でいくら韓国について知悉しても駄目だと理解してた。
昨今はもうほんとに一般日本人でも「韓国なんか変じゃね?」「ちゃんとやりかえさないと駄目じゃね?」ぐらいになってきてた。
ここで韓国が更にやらかしてくれるのは彼等にしてみりゃ追い風でしかない。
「どんどんやってくれ!」ってなもんよ。
韓国に二枚舌の用日政権が出来て、日本のお人よし政治家や利益誘導政治家がそれと組んで
国レベルで言えば韓国にやられ放題なのに日韓友好みたいなお題目が堅持されて動かせない、みたいな従来の状況だから。
今回二度と過去の関係には戻らないぐらいに韓国が状況を変えてくれてしまった。
祝杯でしょう。