はてなキーワード: クールダウンとは
クールダウンなんて不可能だ。それは大人になれていないということだから、急に大人にはなれない。
さらりと流せるようになるには、ただひたすら、「しょうもないヤツがあらゆる所に出没する」という経験をひたすらしてその度にイラつき時にはマジレスしたりしながらも、そういう「子供」が混じっている世の中なんだということを悟りに近い境地で認識できるようになるまでめげずにオタクで居続けるしかない。
その道半ばでドロップアウトしたヤツがよく増田なんかで「オタク」への呪詛を振りまいているが、ああなってはいけないぞ。
だいたい、一人浮いてるヤツがムカつくなんてのはマシな方だ。
俺が最近で心を痛めたのは新田恵海氏の名前を見つけるや否や平然と誹謗中傷をしにくるまとめキッズだとか、キズナアイ氏を知りもしない人らが中傷してきた時だ。
ああいう集団になった悪質な「子供」がしょっちゅう目に入ってくる経験をすれば経験値も上昇するだろうが、望んでそういう局面にぶちあたっていくもんでもないからな。
町中、とくにスーパーやコンビニで、母親にすがりつくような感じで泣き叫ぶ子供。
普段は大丈夫だが、あるタイミングでそれに出くわすと、文字通りの意味で呼吸が困難になり動けなくなる。
心因性のものだろう。自分が子供だった頃、自分の子供がああだった頃、不安な気持ちのとき、子供の泣き声がトリガーとなりその場に貼り付けられたようになり動けなくなる。
ギャン泣きする子どもをほったらかしの親...何をしているの?育児放棄?→解説が分かりやすい「知らなかった、恥ずかしい」「誤解してた」 - Togetter https://togetter.com/li/1394729
この気持はとてもよくわかります。子供がいましたから。だけどいまこれをやられると上記のようになる。親は胃に穴が開きそうな気持ちでいるそうです。なるほどそれも本当のことでしょう。こちらは息が止まってます。
こういうときに、実際に自分が心臓麻痺などで死んだらどうなるんだろうなあと最近はよく考えます。たぶん因果関係がわかるひとはいないんでしょうが。
子供は国の宝だからなんちゃらかんちゃらというブックマークコメントをよくみかけます。なるほど子供の命のほうが老い先短いひとよりも大事なんでしょうなあ。
もっと工夫してよそでクールダウンさせたらいいのにともいいません。できるだけ子供のいるところにはいませんし、遠くで子供の泣き声が聞こえたら大急ぎで逃げてます。
SNSで子供のギャン泣きや子供とのやり取り中に心無い大人が文句言ってくるっていう話を見て思うんだけど。
未就学の子供の声ってもともと甲高いし、特にテンション高くなくても声量に配慮できないよね?
親が気づかなかったり無視したら何度も同じことを繰り返して、声が大きくなっていくよね。
それに付き合っている大人は、もちろん相手をするのが大変だろうと思うんだけど、
子供連れ特有の言葉遣いをはじめとした、大人らしからぬ挙動をしていて、それが気になったりする。
たった今カフェで、
母、爺、婆、4歳、2歳の組み合わせを観察してるんだけど、
4歳、言葉で機嫌アピールしていて、話に反応があるまで延々と言い続ける。
2歳、とにかく注目引こうとワーワー騒ぎ、親の目や手が向くまで繰り返す。
一緒にいる母親は初回は子供を無視、2回目以降で反応、子供の要求には素直に答えない。(クールダウン効果があるのか?)
爺婆はそれぞれの子供の一挙種一投足に反応して、何かするたび子供をあやす語を使い、延々とメニュー表を読み聞かせる。
なぜか子供自身がいらないと言っているアイスを無理やり注文するなど。
今しがた、自分は隣の席で起きていることをできるだけ理解しようと考えて、耳栓しながら観察していたんだけど、
耳栓をしていても子供の声とそれに合わせた大人の声の大きさと知性のない会話に耐えかねて、
個人的に、子供が大人のルールに合わせられないのはわかるんだけど、
これは、老人や障碍者に対して大きな声でゆっくりと「〇〇さん、□□しましょうね~」であったりとか、
実父・実母に対して何かの行動をとっさに制限したくて「ちょっと!〇〇しなくていいから!」などの命令が飛んでたりする時にも感じる。
「子供ってそういうもの」「親になったらわかる」ものだといわれているけど、
それって自分の子供なのに手がかかることを許すための方便なんだと思うよ。
電車の中で独り言で会話し続けたり奇声発する人をと同じ反応が出るよ。
自分は立ち去れる状況であったけど、それができない場合には立ち去るのをお願いしたいし、
どちらを優先しろという話ではなくて
ギャン泣きする子供を公共の場で放置してる母親の周囲の批判を回避すべくクールダウン札を置く、ってまとめ
泣く子供にあえて親が関わらないことを選ぶ、ってのは分かる
感情を抑えるのではなく発散させる教育方針というのもあって然るべきだと思う
けど、それを周囲にわざわざ札かけてアピールするっていうのが
なんかもうほんと気持ち悪い
あと子供は泣くのが仕事、クールダウンは子育て方針 それはいいとしても
公共の場でうるさくする、はどっちにしろ配慮が必要なんじゃないか
風邪でひどいくしゃみして周囲に鼻水撒き散らす人がいたとして、そういう人のくしゃみを薬で無理やり止めるのではなく、体の力で治す自然治癒の方針を取っているというなら それはいいけど
初めて海に行ってきたよ。だからどうしたって感じの文章だけど、もし自分みたいに海行ったことないのにツレがなんくるないさー系であまり詳しく教えてくれず不安になってるひとが来年以降にでも読んでくれたら嬉しいなって…今年はもう海水浴の季節終わっちゃったしね…。
・海水浴場までは車移動
・増田は女だけどTPO的に許されるならスッピンで居たいタイプだし近所の買い物どころかゴミ捨て程度でがっつりフルメイクする人はすげーなって思う。右に倣えで普段から日焼け止めやら日傘やら使ってるけど別に焼けてもそれはそれで気にしないタイプ。
・増田は所謂「とくに何も入ってないはずなのに鞄がパンパン」かつ「不要なものは何一つとして持ってないはずなのに荷物が多い」人種。ツレは財布とケータイだけ持って平気で出かけるタイプの人種。むしろ財布さえありゃ近場ならどうにかなるだろ系の人種。
・増田は海ほぼ未経験(物心つく前に行ったかもしれないレベルのうっすらした記憶しか残ってない)だし、プールもほぼ未経験(スク水で公営プールとか親に連れてって貰って近場のちょっと広い屋内プールに行った経験がある記憶はあるよ、レベル)。水着?スク水しか知らないよ???ってかんじ。
・以上を含めてツレに必要なものを聞いたところ「水着と日焼け止め、あとシャンプー。靴は要るけど要らないスニーカーとかでいいよ」程度の答えしか貰えなかった。
・海の家に車を停めて荷物も預かって貰って、最後にそこでシャワーを浴びて帰ってきたよ。駐車代1000円とクローク(?)+シャワーで800円?だったかな?
・日焼け止め(スーパーウォータープルーフどうこうとかで海水浴向けっぽいやつ)
・クーラーボックスに保冷用の氷とペットボトル(氷入れた魔法瓶をコップ代わりにしたらすごく冷たくておいしかった)
・浮き輪(1000円だか500円だかで借りた!貸借品だから持ち歩いてたけどじゃまだった…百均でも売ってるしそれ買っていっても良かったかも…でも持って帰ってもゴミだからなあ…)
砂浜に持って行かなかったもの
・シャンプー類
・フェイスタオル(砂浜に持って行ったのと別に2枚)(シャワー後に拭く用と肩に掛ける用)
・財布スマホとかの貴重品
持って行った方が良かったもの
・ふつうのウェットティッシュ(クール系洗顔シートは持って行ってたけど水99%とかのほうがよかった…)
・パラソル(ツレの家にあるものをあえて持って行かなかったのでレンタルするのもなんだかなあ…ってかんじだった)
・車のフロントガラスの遮光のやつ(名前解らない…帰りに乗ろうとしてすごかった(こなみ))
・やわらかい保冷剤(日焼け後のクールダウン用に、やわらかくてひんやりしたものが欲しかった)
・タオルケット(日除け。パラソルあったら不要だと思うけど、水分補給と休憩で海からあがったときの直射日光の痛さ熱さに対する鎧が欲しかった)
・目薬(海水、意外と、しみる)
・ビニール袋(余るだろぐらいの数持って行った方が良かった)(脱いだ水着を入ってた袋に入れたのにパンパンになっちゃった)
・絆創膏(使わなかった)(けど、怪我をしたらないと不便だろうから…車に積んでるぐらいで持ち歩かなくても良かったかなあ…)
・お金(ふつうのビニールのポーチ?小物入れ?にチャック袋で500円玉6枚入れてネックストラップつけて首からさげてた)(あくまで自分たちの仲では、だけど、ひとりひとつ持つ必要はなかった)(浸水はしなかった)
・クロックス(泳ぎにくい!靴ズレしそうだから早々にマリンシューズに履き替えた)(帰りし靴下履くの面倒だったので割と重宝はした)
・ゴーグル(ツレが持ってきてたけどなんとなく使わなかった)
・ラッシュガード(長袖パーカー)(割と熱心に日焼け止め塗ってたのに焼けたし必要は必要なんだろうけど、どうも着衣水泳感があって結局ほぼ着なかった)(馴染みのないものだから積極的に着ようとしなかったのもある)
朝10時に起きて飯食って、昼頃からこんな時間になるまで寝てた
2月頃から張っていた緊張の糸が最近ようやく切れてなんかだらけたんだと思う
あと、キタムラで頼んだ中古カメラの取り寄せの連絡がなかなか来なくてむず痒い
早く写真撮りに行きたい
露天風呂がちと熱かった
サウナで音楽の日を少し見た、尾崎ひろなんとかさんが歌ってたフォゲットミーノットだかを聴いてたらあまりに豊に似た声についうっとりしたか、はたまたサウナの熱にやられたのか、めちゃくちゃのぼせた
火照った身体をクールダウンするため水風呂に浸かったらすげー頭がグワングワンして最高に酔っ払ってた時みたいになった
帰りにスーパー寄ってヨーグルトを買おうとしたらドラフトワンがお求めやすい価格と飲み切りやすいサイズになっていたためつい買ってしまった。カクテキ・煮卵(うずら)・きゅうり漬けのおつまみセットも同じくつい…
そんなこんなで晩酌しながら追記を書いている。追記の方が長くない?
どうしてもサッポロドラフトワンが飲みやすいということを後世の私に伝えたくて書いた。あとうずらがなんか不思議な味がある…なんかしょっぱさと同時に燻製ぽい風味がしてめちゃウマ…酒進む〜
本題:「宇宙よりも遠い場所」vs「スタンド・バイ・ミー(原題:「THE BODY」)」
比較 | 宇宙よりも遠い場所 | スタンド・バイ・ミー |
行き先 | 南極 | 30km隣の町 |
方法 | 観測船 | 歩き |
期間 | 3ヶ月 | 数日 |
目的 | 青春する | 有名になる |
メンバー | JK | 悪ガキ |
死体 | 母親 | 他人 |
上の表から分かる通り、宇宙よりも遠い場所(以下「よりもい」)は主要な要素のほぼ全てがスタンド・バイ・ミーと比べてスケールが大きなものとなっている。
そのスケールの違いは単純な距離の比較だけでも500倍という途方もない差となっている。
そもそもジャンルが違うじゃんと君は言うかもしれないが、この2つの基本骨子は極めて似通っている。
「見知らぬ地にて死体との邂逅を果たす4人組の冒険譚であり、その時代を代表する青春活劇の一つとして親しまれている」
スケールこそ全く違うが「よりもい」も「スタンド・バイ・ミー」も、目指す姿は若者たちにモラトリアムの間にだけ訪れる青春を描き出すことを目ざしているという点において、ジャンルとしては完全に一致しているといって差し支えないのだから。
さて、この両者は基本骨子は同じでありながら圧倒的にスケールが違う。
そして、それぞれの作品がそれぞれの時代において「バズ」っている。
これは私の根拠のない言い分に過ぎないが、もしも「スタンド・バイ・ミー」の時代に「よりもい」があったとしてもキャピキャピしていながらもときおり妙にまじめぶった歪な作品としてカルト的には話題になっても、今のように国民的な認知を得られるような立ち位置には来なかっただろう。
同時に、現代の世の中に「スタンド・バイ・ミー」が作られていても、感性下劣な不良物語として消費されるだけで、それを青春のスペクタクルとして感じ取れたのは、昔を懐かしむ半グレ親父やレトロスタイルの不良ぐらいだったのではなかろうか?
なぜこのような偏見を私が持つに至ったかというと、私にはどうも現代の世の中が「意味」を求めることに必死になりすぎているように映るからだ。
近所の街ではなくて南極に行くのも、自分たちだけではなく観測隊に同行するのも、数日の旅ではなく三ヶ月の大旅行であるのも、一時の名声ではなく青春というキラキラした影を追っているのも、冴えない悪ガキではなく美少女混じりのJKたちであるのも、たどり着く死体が肉親であるのも、時代が「意味」を求めてやまないその声に応えたものなのではないだろうか。
少なくとも、この作品がこの時代に成功した原因は、作り手がこの物語の中にいくつもの「意味」を盛り込み、それが受け手の心にフックしたからであろう。
「よりもい」という作品において主人公たちは南極での意味多き青春を通して何度も成長していく、物語が終わって家に帰ったとき、彼女たちの前に広がるのは暖かな日常であり、そこにいるのは一皮剥けてなおモラトリアムの時間を残す未来輝く若者たちだ。
「スタンド・バイ・ミー」はそうではない。物語が終わった後、彼らが疎遠となっていき、久しぶりに再開を果たしたときには4人のうち2人が帰らぬ人となったことが語られる。冒険を通した成長は、命の終わりという形で失われ、色褪せぬ青春の思い出すらもそれが二度と手に入らぬ時間であったことの自覚と共にセピア色に染まっていく。小さな青春は思い出の中に封じられ、この先の彼らの人生からは失われてしまったことが語られることで物語は終わる。
「よりもい」を見終えたものは希望と共に自分の人生へと帰るだろうが、「スタンド・バイ・ミー」を見終えたあとに残るのは哀愁である。
ここまで書いて、ようやく私も気づいた。「意味」の求められ方は確かに時代と共に変わったが、一番変わったのはそのスケールではなく有り様なのではないか。
現代の世の中が求めるのは人生に活力を与えてくれるような、希望を手にできるような意味であり、端的に言えばパワーに満ちた物語を人々は欲している。
対して、過ぎ去った時代の中で求められた意味は、人生というものを静かに俯瞰するような、落ち着きを与えてくれるような意味であり、それは見るものから余分なパワーを奪いクールダウンさせるような物語なのだ。
意味、というよりも求められる「青春のイメージ像」が変化しつつあると言ったほうがいいのだろうか。
『現代人の中にある青春は「まだ続いているもの」であるが、青春とは「既に過ぎ去った物」であると捉えられていた時代があった』
多分。
五日ほど前:足スッキリシートっていうのめっちゃ気持ちいい……貰い物だけどこれ最高だ。なんでこんな優れた人類の宝を私は今までスルーしてきたのか。切れちゃったし買ってこよう。
四日ほど前:会社でたからかに足スッキリシートがいかにすばらしいか気持ち良いか同僚に話し、大いに盛り上がって自分の正しさと叡智を再確認。良い気分で帰宅。→ほぎゃあああ!?買ってないよおおお!!
三日ほど前:忘れないようにランチタイムに昼を食べたついでに会社近くのドラッグストアで購入しようと心に決めるが、当てにしていた昼食屋さんが閉まっていて、見知らぬ居酒屋のランチ海鮮丼を食べている間に脳内は午後の回覧書類に専有されて購入忘却。ほみゃああ!?→帰り道に買えば何の問題もないさと自らをクールダウンするも冷静沈着になりすぎ、感情を失ったわたしは当然のように帰途も足スッキリシート購入を忘れてしまう。ほぎゃああ!?子供か。子供なのかわたしは。小学生以下の自分の知能と注意力にふかくふかく絶望する。
二日前:もうわたしはわたしを信じない。信じないつまり不信こそがライフハックなソリューション。スマホのToDoに行動予定を仕込み帰宅時間に合わせて自分に指示を与える遠隔操作。→会社最寄り駅で指示を受取り電車に乗って自宅最寄り駅に到着した時点で全て忘却。→ほぎゃあああわたしがうらぎったああああ。なんで足スッキリシート程度が買えないのおおおおお。
昨日土曜日:一日寝てて夜に起き出しコンビニで飯を買ってもそもそ食う芋虫のようなライフ。→眠りにつく直前。ほぎゃああ!?コンビニ行ったのになんで買ってこないんだよわたし!!
今日日曜日:会社の帰りとか言ってるからダメなんだ。そういう気持ちが足スッキリシートを遠ざけている。むしろ積極的に足スッキリシートを買いに行ってついでに昼ごはんを食べてこよう。→カレーうまかった満腹満腹!ついでに新刊書籍も買えて良いお出かけだった。やっぱダンゴムシのようなわたしでも週末引きこもりは良くないね~たまには出かけなきゃねー。ただいまー→ほぎゃややああああ足スッキリシート買うの忘れてるうううう!!!???ばかばかばかばか、しねわたしーーーーー!!!