本題:「宇宙よりも遠い場所」vs「スタンド・バイ・ミー(原題:「THE BODY」)」
比較 | 宇宙よりも遠い場所 | スタンド・バイ・ミー |
行き先 | 南極 | 30km隣の町 |
方法 | 観測船 | 歩き |
期間 | 3ヶ月 | 数日 |
目的 | 青春する | 有名になる |
メンバー | JK | 悪ガキ |
死体 | 母親 | 他人 |
上の表から分かる通り、宇宙よりも遠い場所(以下「よりもい」)は主要な要素のほぼ全てがスタンド・バイ・ミーと比べてスケールが大きなものとなっている。
そのスケールの違いは単純な距離の比較だけでも500倍という途方もない差となっている。
そもそもジャンルが違うじゃんと君は言うかもしれないが、この2つの基本骨子は極めて似通っている。
「見知らぬ地にて死体との邂逅を果たす4人組の冒険譚であり、その時代を代表する青春活劇の一つとして親しまれている」
スケールこそ全く違うが「よりもい」も「スタンド・バイ・ミー」も、目指す姿は若者たちにモラトリアムの間にだけ訪れる青春を描き出すことを目ざしているという点において、ジャンルとしては完全に一致しているといって差し支えないのだから。
さて、この両者は基本骨子は同じでありながら圧倒的にスケールが違う。
そして、それぞれの作品がそれぞれの時代において「バズ」っている。
これは私の根拠のない言い分に過ぎないが、もしも「スタンド・バイ・ミー」の時代に「よりもい」があったとしてもキャピキャピしていながらもときおり妙にまじめぶった歪な作品としてカルト的には話題になっても、今のように国民的な認知を得られるような立ち位置には来なかっただろう。
同時に、現代の世の中に「スタンド・バイ・ミー」が作られていても、感性下劣な不良物語として消費されるだけで、それを青春のスペクタクルとして感じ取れたのは、昔を懐かしむ半グレ親父やレトロスタイルの不良ぐらいだったのではなかろうか?
なぜこのような偏見を私が持つに至ったかというと、私にはどうも現代の世の中が「意味」を求めることに必死になりすぎているように映るからだ。
近所の街ではなくて南極に行くのも、自分たちだけではなく観測隊に同行するのも、数日の旅ではなく三ヶ月の大旅行であるのも、一時の名声ではなく青春というキラキラした影を追っているのも、冴えない悪ガキではなく美少女混じりのJKたちであるのも、たどり着く死体が肉親であるのも、時代が「意味」を求めてやまないその声に応えたものなのではないだろうか。
少なくとも、この作品がこの時代に成功した原因は、作り手がこの物語の中にいくつもの「意味」を盛り込み、それが受け手の心にフックしたからであろう。
「よりもい」という作品において主人公たちは南極での意味多き青春を通して何度も成長していく、物語が終わって家に帰ったとき、彼女たちの前に広がるのは暖かな日常であり、そこにいるのは一皮剥けてなおモラトリアムの時間を残す未来輝く若者たちだ。
「スタンド・バイ・ミー」はそうではない。物語が終わった後、彼らが疎遠となっていき、久しぶりに再開を果たしたときには4人のうち2人が帰らぬ人となったことが語られる。冒険を通した成長は、命の終わりという形で失われ、色褪せぬ青春の思い出すらもそれが二度と手に入らぬ時間であったことの自覚と共にセピア色に染まっていく。小さな青春は思い出の中に封じられ、この先の彼らの人生からは失われてしまったことが語られることで物語は終わる。
「よりもい」を見終えたものは希望と共に自分の人生へと帰るだろうが、「スタンド・バイ・ミー」を見終えたあとに残るのは哀愁である。
ここまで書いて、ようやく私も気づいた。「意味」の求められ方は確かに時代と共に変わったが、一番変わったのはそのスケールではなく有り様なのではないか。
現代の世の中が求めるのは人生に活力を与えてくれるような、希望を手にできるような意味であり、端的に言えばパワーに満ちた物語を人々は欲している。
対して、過ぎ去った時代の中で求められた意味は、人生というものを静かに俯瞰するような、落ち着きを与えてくれるような意味であり、それは見るものから余分なパワーを奪いクールダウンさせるような物語なのだ。
意味、というよりも求められる「青春のイメージ像」が変化しつつあると言ったほうがいいのだろうか。
『現代人の中にある青春は「まだ続いているもの」であるが、青春とは「既に過ぎ去った物」であると捉えられていた時代があった』
多分。