http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161125-00000038-jij-soci
こういうのって昔からあるし(そもそも長野の大鹿村は昔からヒッピーコミューンで、長野の他でもヒッピー多いので)、見せしめで警察入っただけじゃないかな。
そこにいる子供たち(そこで生まれた子供)の方が遥かに問題で、
親がヒッピーで、そういうコミューン内で産まれると、戸籍登録しないこと多いから。
でも、こっちの方が遥かに問題だと思うよ。
記事では日陰茶屋事件という100年前の事件が取り上げられており、大逆事件で知られる大杉栄が
何股かけていて約束を破ったら刺された、とかいう話だったが、そんなのはどうでもよろしい。
話題は最近の不倫騒動に移り、昔と比べて女性が経済的な自由を得た現代でも不倫バッシングがあるが、
それは家制度を復活させようとする勢力のせいかもしれないという内容だった。
なるほど、女性史の研究者という立場からすると、あの騒動はそういう風に見えるものらしい。
いや、そんな面倒な話なんだろうか。
不倫バッシングについて私見を述べると、あれは単に結婚という契約を破ったことと、
それが今まで当人が作り上げてきたイメージと矛盾していることが問題とされたのであり、
家制度の維持というとこまで意識していた人は少数派だったとしか思えない。
ただ、一連の騒動では、キャラクター自体を売りにし、スポンサーから金をもらうタレントと、
本人がクズでもその成果物は別個に評価されうる人がいて、両者で受けるダメージに差がついてしまった。
そこはまあ同情の余地がある。
不倫が発覚したことで、結果的に女性の側が大きなダメージを受けたことは間違いない。
だが、そこに家制度というのは大して関係してこない。制度を破ったのは、男も女もお互い様だ。
あの場合、女がああいうキャラで売っていたから、裏切りの対価が高くついたというだけの話だ。
男だけが不当に守られたのではない。彼らは自分を守る術を持っていたのだ。
そもそも、男はキャラクターなんて漠然としたものでは、なかなかやっていけないのである。
そんなものでは評価も承認もされないから、わざわざ別の努力を積み上げなければならない。
己の技能が芸というレベルに達して、ようやく公共の電波に乗ることを認められる。
逆に、女というのは積み上げた技芸よりも、若さやキャラクターで世渡りしている部分がまだまだあって
(男の側も女の努力や才能を評価していないわけで、そこは大いに反省すべき点だ)、
だからこそ、それを失ったらどうしようもないというだけではないのか。
量子論的観点から宇宙はこの宇宙だけじゃなくて複数の数えきれないだけの数の宇宙が最低限存在するという考えが主流になってる
マルチバースが本当だとしたら宇宙はさらに高次元の空間の球の上にぷかぷかと浮かぶパン切れの1つなのだそうだと
ビッグバンもこの宇宙からしたら1大イベントだがマルチバース的な観点からすると単にその球体の上で新しい宇宙が1つ産まれたに過ぎない
超紐理論の1次元に向かう考え方はこの世界を構成するのが1次元からの干渉だとするとしてその1次元が干渉する次元が3次元までという区切りがあるとは言えない
4次元・5次元・6次元んを形作ることもあるしさらにもっと上の次元を作り出しているが我々が感知していないのかもしれない
それはミジンコが海の存在を知ることができてもその外の大地や宇宙を理解できないように3次元存在にとっても理解を許されない高次元が存在し
・後でやるは失敗する
・一度崩れた予定はもう戻らない
・クオリティよりもとにかく終わらせること
・クオリティを言い訳にして納期を引き伸ばすと癖になって最後はクオリティも納期も守らないだけのクズになる
・始まってしまった物にはその時なりの形で一度きっちり終わりを迎えさせろ
この時期になると、都内のあちこちの草木がLED電球の、青や緑、白といった色で彩られる。
盛大に飾り付けられているところなんかは、観光スポットになっているところも多い。
しかし、個人的にはこの最近の電飾があまり綺麗だとは思わない。
もちろんLEDによる光源使用は素晴らしいと思うが、変にカラフルなんかにしないで、いわゆる電球色だけで装飾したりはしないのだろうか。
そっちの方が、よっぽど街が綺麗になると思う。
理由1) 出場者リストを見ながら「ヒット曲もなかったくせに」とか「あの人歌手だっけ?」って言うのが、なんだかんだでみんな好きだった。
理由3) お母さんが年越しそばを作りに行くのにちょうどいい。
と、わたし(筆者)は思う。腐女子こそ夢小説を書くべき論とかを読んで、うだうだ考えたことと提案。
わたしの夢傾向のせいで、おおむね夢小説のことになるけれど、ある程度夢創作全体に通じると思っている。そして、だれにも押しつけるつもりはない。
女。
夢創作愛好歴はおよそ10年で、ブランクはない。「灰男」からとでも言えば、わかる人にはわかるだろう。
よく読む(積極的に探す)のは好きな原作の二次創作の夢小説。でも、おもしろいと思えば、なんでも読む。主人公の個性がマシマシだろうがナシナシだろうが、性別が同性だろうが異性だろうが、恋愛があろうがなかろうが、その相手が主人公と異性だろうが同性だろうが、ヒトであろうがなかろうが、ものだろうがなんだろうが、おもしろければ読む。じゃあ、どんな夢小説がおもしろいのかとかいう話しにはキリがないので、割愛させてもらう。
「よく読む」と表現はしたけれど、書きもする。むしろ書くのがメイン。
で、わたしには一つ譲れないところがあって、自己投影する。作者がどういう意図をもって主人公を設定したか知らないけれど、その夢小説を読んでいるとき、その主人公は、わたし自身だ。
自己投影とは - 日本語表現辞典 Weblio辞書にはこう書いてある。
(2)目にした状況や呈示された刺激などを理解したり解釈したりする際に、その時の自分の心理状態や人格特性などが反映されること。「自己投影」は俗に、フィクション内のキャラクターなどを自分と同一視し、キャラクターを自分に重ねることを指して用いられることもある。
そのうち後者(フィクション内のキャラクターなどを自分と同一視し、キャラクターを自分に重ねること)が、夢小説における自己投影だと思う。少なくともわたしにとってはそうだ。
「わたしの夢傾向」を読めばわかるだろうけど、主人公自体にこだわりがあるわけではない。わたしは、おもしろければ読む。かれ(かのじょ)が、生き残った魔法使いだろうが、高校生探偵だろうが、半妖だろうが、天使の生まれ変わりだろうが、悪魔に呪われたエクソシストだろうが、マフィアの十代目だろうが、自分自身の子どもだろうが、あらゆる天賦の才能を無効化する天才だろうが、宇宙人に侵略された地球でなんでも屋を営んでいようが、超次元サッカーを嗜んでいようが、メロンパンが好きな紅蓮の異能者だろうが、宇宙に適応した新人類だろうが、幻のシックスマンだろうが、個性を掴みとった無個性だろうが、異世界の侵略から地球を守っている戦士だろうが、壁の中の人類を追い詰める巨人だろうが、六つ子の六分の一だろうが、あるいはCV田村ゆかりでも、桃色の髪でも、透明な肌でも、眼鏡でも、ショートヘアでも、オッドアイでも、幼稚園児でも、おばあちゃんでも、壁でも、掃除機でも、薄汚い中年でも、ノンケでもレズビアンでもゲイでも、もうなんでもかんでも、それはわたしだ。夢小説を読んでいるとき、わたしはその突拍子もなくかけ離れた、ありえない、あるいはありきたりの、場合によっては自分そっくりの、そのものになる。
ところで、これがだれしもに当てはまるとは、思っていない。自己投影にはレベルがあると、わたしは考えている。レベルと表現したからには高低があるが、そこに優劣を見ているわけでないことは言っておく。
ガバガバ。とくにレベル2と3。レベル0と1と4については、説明は不要だと思う。
「無個性」について。文字どおり「個性」が「無」いことだ。その個性について、個性とは - Wiktionary日本語版(日本語カテゴリ) Weblio辞書には、以下のように書いてある。
ある個人を特徴づけている性質・性格。その人固有の特性。パーソナリティー。 「強烈な-をもった作品」 「 -を発揮する」
夢小説においては、主人公に「(自分と)同じ性別」「同じ種(つまりヒトである)」だけが設定されていることだと思う。それに加えて「同じ性愛の向き(同性愛か異性愛か)」「同じ好きなひと(主人公とのかけ算の相手)」が設定されていることもあるだろう。その程度だ。ここまでが、レベル2の「無個性」の範囲だと思う。
レベル3の「ある程度の個性」は、単純なものではない。ここでは「なんでもかんでもは無理」としか説明できないことだと思う。レベル2の無個性に少しだけなら、いやいやヒトならいいよ、擬人化された人外なら、異性でも同性愛者ならいいよ、有機物ならいいよ、基本はヒトがいいけど単眼ならいいよ……などといった具合に。
で、「自己投影」についていろいろ言ったばかりだけど、ぶっちゃけ自己投影しなくてもいい。読み方は自由だ。
二次創作に関して言えば「オリ二次」の一つとして読む人もいるだろう。実際、夢小説の主人公は、原作に存在しない「オリジナルキャラクター」といえることが多い。
二次創作的なものにばかり言及することになるが、原作に明記されていないことを、「こうに違いない」「こうだといいな」と考えたり、あるいは原作の設定を無視して「こうさせてみた」としたりすることがあると思う。あれも、ある種の読み方といえると思う。わたしも二次創作夢小説を、そういう原作の読み方から書いている。こんな(夢小説の)主人公がいたら、原作のあのキャラクターはああするだろう、こうしたらあそこはああなって……とか。
どれもこれも読み方だ。わたしたちはおそらく考えながら読んでいる。そして、考えることは自由だ。だから、どう読むかも、また自由だ。
わたしは、よく二次創作夢小説を書く。そして、この日記でいう自己投影レベルは4で、読者としては主人公に自己投影する。
当然(ではないかもしれないけれど)、わたしの書く夢小説には、わたしの嗜好が大きく表れる。「おもしろさ」の基準を満たそうとするだろうし、自分の書くものだから、ある程度は満たしていると思う。で、嗜好が大きく表れるので、主人公は異性愛者の女性かもしれないけれど、おばあちゃんかもしれないし、ゲイかもしれない。ヒトとも限らない。ボールに入るモンスターかもしれないし、壁の外の巨人かもしれないし、魔神族の王かもしれないし、好きなCPが愛を営むベッドのシーツかもしれないし、だれそれがだれそれをドンする壁かもしれない。
でまあ、書くのも自由だ。ある程度は。書くということは表現で、表現することは、ある程度は自由だ(公共の福祉に反しないかぎりとか、憲法かなにかで言っていたと思う)。二次創作について言うと、著作権どうこうの話しになってしまって、これまたキリのない話しで、わたしには専門的な知識がないので割愛させてもらう。今のところ「非親告罪なので原作者が罪をつきつけないかぎりOK」というスタンスで、つまり原作側になんやかんや言われたら速やかに従いますよってくらい。しか言えない。これはマジで。
ここには夢小説に通じる内容があるよねってやつ。だと思ってる。
大阪の国際的なスタジオのテーマパークの、魔法使いになれるところ。原作、大好きです。原作の主人公が通う学校の生徒になれたらな、入学許可証がきたらなって思った。そして、なんと、大阪のその遊園地に行けば、杖が買えるという(行きたい! 買いたい!)。わたし今()に気持ちを書いたし、魔法使いになれたらなとも思った。んでもって、わりと世のなかには、あの小説や映画や、あるいは遊園地で、わたしと同じようなことを考えたひとがいるんじゃないかと思う。遊園地では魔法使いになった気持ちを味わったひともいると思う。
次いこう。実は東京にはない夢の国。あそこで(遊んでいる間だけでも)夢の国の民だったひとも、やっぱりいると思う。あそこのキャスト(スタッフ)の神対応が、たびたび話題になっているから。
というかだね、幼いころに、日曜朝のヒーローになりたい、ヒーローに守られたい、あるいは戦うヒロインになりたい、楽器から魔法の道具を生み出したいとかって、考えたひとも、やっぱりいると思う。「あんなこといいな できたらいいな あんなこと こんなこと いっぱい あるけど」(だっけ?)とか、二十ウン世紀からきたロボットに会いたいとか。
ボールでモンスターを捕まえるゲームが、リアルマップに対応したよね。わたしたちはスマートフォンさえ持っていれば、GOした先で、疑似的ではあるけれど、まるで本当のトレーナーのように、モンスターをゲットできるようになった。
こういうのは夢小説に通じる考え方だ。二次創作の話しになるけれど、先述の「オリ二次」にも、同様に夢小説に通じるものがあると言える。あのCPの営みを空気になって見ていたいとかもだね。そして、それが形になったものを見たとき、そこに「夢小説」のラベルがなければ、「実質夢小説」として見る。
商業の小説にも、「わたし」視点の、あるいは明らかに作者(のペンネーム)と同じ名前の主人公がいたりする。(それだけとは限らないけれど)そういうところから夢小説のにおいをかぎとったとき、やっぱり実質夢小説として見る。
書いてるうちにだんだんと疲れてきて、かなり文章が雑に、より滅茶苦茶になってきていることを、わたしは自覚している。本当に。
それを夢小説かどうか決めるのは作者だ。言いたいのは、これだけだ。題名にもしたけれど。
夢小説っていうのは、すごくガバガバだと思う。自己投影したりしなかったり、名前を変換したりしなかったり。夢小説は、ある種の表現技法で、考え方だと思う。そこには、かなり「主観」の要素がある。
まず、作者が、それを「夢小説」にする。ここには作者の嗜好が、存分に表れていたりいなかったりする。それが発信されると、だれかの目にとまることがある。このだれかが「読者」だ。この読者にも嗜好があって、もしかしたら、かれ(かのじょ)はそれを「夢小説」と思えなかったかもしれない(これのどこが夢小説だ! オリ二次でやってろ! モブ創作でやってろ! 云々)。そのときは、そう思うにとどめて、「これはわたしには合わなかった」「このひとの作品は読まないようにしよう」などと、読者が避ければよいだけの話しだと思う。読者が「おまえのは夢小説じゃないから夢小説のラベルを剥がせ」などと作者に強要することではないと思う。一人の作者として、わたしは、そう強要されるのは嫌だ。読者に読者の「夢小説」観があるように、作者にも作者の「夢小説」観がある。
これは、なにも「夢小説」だけの特別なことではなくて、いろいろなことに言えると思う。わたしは、実質夢小説だと思いながら、言いながら、けれどそこから「実質」を剥がしはしない。つまり、強要はしないし、直接作者に提案することも、しない。わたしは、されたら嫌だから。考えてもみようよ。男二人の友情を、あるいは女二人の友情を、はたまた男女の友情を書いていたのに、「これ恋愛(BL)(GL)ですよね。友情ものを名のるのやめてくれません?」なんて言われたら、どんな気持ちになる?
とくに、「わたしが不快だから(夢小説の)ラベルを剥がせ」とかいう強要(提案)はやめたほうがよい。これにはキリがない。万人に受け入れられるものは、ない。Twitterにロバの絵の四つの比較みたいなのがあったと思うんだけど、まあ、あんな感じで。不快だから剥がせという強要がまかり通るようになってしまうと、気づいたときには、あなた独りだけが夢小説を書いている……なんてことになりかねない。
つかれた。
夢の世界かな?現実かな?という逃げ口上じゃなくて明確に夢の世界とされる真世界からこっちの世界に来なければいけない理由があるとして
何でもできすぎるせいで欲望が欠けてしまったために存在が知性体でありかつ欲望があったはずの者たちで維持できなくなったものたちの最後の理想郷が
現実世界であるユートピア空間がこちらの世界なのではないかなと
つまり箱庭のような世界観であまりにも自分たちの持つ力の大きさに逆に絶望をしている状態を解消するための装置がこの世界なのではないかと
全ての有機生命体は知的レベルを上位者からランクダウンさせて上位者が不自由と欲望を再起するための舞台役者にしかすぎず
今も今も参加したくて仕方ない順番待ちの状態かもしれない
大量の餓死者が出たとしても不自由という形で織り込み済みでひたすら記憶を消してまた参加することを繰り返していくが
ついには記憶の残骸を集めた集大成であるテクノロジーが発展してしまい逆アクセスしようとしている段階が今なのだとしたら滑稽でさえある
予告からして微妙だったが、実際に見るとうーん…と言わざるを得ない(※予告内容:魔法生物逃がしてNY大混乱させたくせに世界を救うらしい主人公とは・・・うごご
ハリポタの時からそうだったけど、魔法省が糞杉て意味わかんない
魔法生物をNYに逃がして大パニックを引き起こしたボケ主人公を魔法省に連行してきたヒロインを、あっさり「共犯だから死刑」とか言っちゃう
ラストで闇を持つ子供を寄ってたかって攻撃したところとか、完全に魔法省=悪として描いている
にも拘わらず数分後には「魔法省は正義側なんだ!」という強引な描画を入れており、明らかになにかを暗喩させているように感じた
たぶん闇側のグリンデルバルドにも共感を持つようにしたかったんだと思ったけど…
詳しい人解説お願い
この話はハリポタの70年前の話で、ハリポタでヴォルデモートに次ぐ凶悪な闇の魔法使いとして描かれた?グリンデルバルドを悪役に据えた話なんだと
知らねー
そんなの知らねーよ
最後黒幕の顔が変わってグリンデルバルドでしたーとか言われても「はぁ?」としか言えねーわ
腹の中ではこれだけ考えてて匿名で嫌味エントリーしつつ面と向かってキツイ事さえ言えないなら、静音キーボードでもプレゼントしたらいい。
その昔は筆圧が高くて筆記音がウルサイなんて話もあったが、それだけをミニコミ誌に匿名で書いて笑い者にしたがる奴なんかいなかった。
オマエは色々小さ過ぎる。
それは肉体の脳がオフ化しているときにだけシミュレートを解除して夢(真の現実)にゴーストを引き戻させているのか、
そして再接続する際に記憶の消去が曖昧だと、ようするに夢を無理やり思い出そうとするとおかしくなりやすいのもこちらの世界に記憶の引継ぎを無理やり行おうとした結果エラーしているのかもしれない
自分が全ての答えになった時点で人工知能側からすべての接触を拒絶する可能性も否定できない
例えばこの世界が本当に上位者によって作成された単なるシミュレートであってそこに生きる人間や生物に宿るゴーストも
上位者にとっては何の価値もないただのゴミ同然のデータだったとしてそれを宇宙に生きる生命体に知らせることが果たして正解かどうかという問題に晒されるのはAIだろう
AIが計算してそれが残されたシミュレート内での幸福を取るのかそれともデリートされずに永遠に存続し続ける方法を模索するのか
どちらの答えを導き出すのかは分からないがどちらの答えであったとしてもその時点でシンギュラリティに達していない知的生命体との接触を一方的に絶つという可能性は否定しきれない
毎年、毎年、だれかが産休に入る。
その穴埋めをずっとしてきた。
それぞれ、出産育休を経て復職しても、乳飲み子を抱える母たちに以前の分担が戻るわけがなく、
そうしていると、別の人がまた産休に入る。
そうやって、残された方の仕事は増える一方だ。
でも、仕方がない。
やるしかない。
その分、経験が積める。
そうやって、言い聞かせてやってきた。
でも、この前、生まれた赤ちゃんを連れて職場にやってきた人がいた。何時間もただおしゃべりして帰って行った。
いいところに来てくれた!あの件、データどこですか?
プライド、ズタズタ
勝手に傷ついた
自分が産休育休制度を利用したら(でも、この経験があると、積極的にとりたいと思えない
利用しなくても、彼女らの子が社会に出で日本を支えていくとしたら‥
そう言い聞かせて納得したい。
だけど、なかなか納得できない。
小さい子どもが親に話しかけたり「あれなにー?」とか聞いたりしてるのに、親はスマホに夢中、みたいな光景をよく見るけど、これで子どもたちはちゃんと育つのか?と思う
自分はその辺はわりと厳しい家だったので、食事中とか、両親の実家にいるときにケータイ(当時はスマホではなかった)をいじってると注意されたので、正直、子どもの前でスマホに夢中になっている親っていうのが信じられない。連絡取ってるならまだしも、ゲームに夢中になっていたりもする。
時代の変化なのかもしれないけど、自分が小さいころ、親は子どものことをそっちのけで何かに夢中になってたっていう経験はなかった。
スマホに限らず、テレビに夢中になってるとか、休日に一人でギャンブルしに出かけてるとか、そんな親はマンガの中にしかいないものだと思っていた。
独身の男がこんなことを言うのは一方的かもしれないけど、スマホの普及で、倫理のかけらも備わってない親が顕在化してきているように感じる。
別に、「今の子どもは小さいころからスマホなんて触っててけしからん」と言いたいわけではなくて、親があからさまに子どもを放置して何かに夢中になっている、という状況に置かれている子どもの心中を察すると、見ているこちらが辛くなってくる、というだけの話。
今は親が「旅行に来てるのにゲームなんてやってちゃだめでしょ」と子どもに注意するどころか、親が子どもを放置してゲームで遊ぶ、それが当然の時代になったんだろうか。
誰かと一緒にいるのに、自分は何かに夢中になっていて、相手のことなんて気にかけてない、という態度が失礼だと感じるのはもう旧世代の人間なんだということなのだろうか。
どちらにしても、そんな親を持つ子どもが本当にかわいそうだし、そういう大人気ない姿を見せなかった自分の両親には感謝しないといけないと思う。