はてなキーワード: 無味乾燥とは
私は理系の男が性的な意味で好きだ。物理数学を愛する理系の男が物理への愛を込めて色気も素っ気もないような無味乾燥な教科書を書き上げたんだと思うとドキドキする。アメリカの生物の教科書とかに比べて圧倒的に分かりづらい不親切な記述。そのくせ書いた本人はとっても分かりやすいと思っている馬鹿さ。物理の教科書はとってもえっち。
【論文】
もう一回言うが私は理系の男が性的な意味で好きだ。若干社会不適合者な一面や、独特の言い回し、そして飛び切り有能な頭脳にきゅんきゅんする。だがしかし彼らの国語力は微妙である。ああ、ここもっと親切な言い回しがあるでしょうに。と読むたびに思う。しかし大切なのは親切であることよりも一意的であり誤読の余地がないことだ。よってそういう言い回しにならざるを得ない。という窮屈な枠組みの中で書かれたちょっと読みづらい文章、堅苦しい言葉選び、あ、この人普段はあんななのに論文だとこんな文章も書けちゃうのね、ってギャップ萌え。全てが愛しい。
理系の男が作るパワーポイントはダサい。学会用スライドから講義資料、メーカーのおじさんが出してくる資料までとってもダサい。色使いもおかしい。情報量を詰めすぎである。そういうところが私は好きだ。そもそも内容上コンサルみたいなスマートな資料を作るのは不可能である。目盛りと単位までばっちり書いたグラフを載せれば資料はダサくなる。ダサいが必要なものは全て揃っている。しかしダサい。だがまあそうとしか言いようがない気もする。実用上十分であるが見た目がヤバい、というのはなんともまあ彼らの存在を象徴しているようで、はあ、好きだなあ。と思いながらいつも見ている。
【授業】
頭のぶっとんだ理系の男が好きだ。教授なんてその最たるである。本人は一生懸命分かりやすい説明をしてるつもりなんだろうけど、全然分かんないよ。なんだお前。本人は分かりやすいと思ってるとこが本当に好き。学生に分かってもらおうと頑張ってるところが好き。その頑張りが全く報われてないとこが好き。応力場が見えるとか言ってくるの意味わからんが。エロい。
【Web授業】
Web授業の何がいいって顔が見えないことだよ。いい声のエリートが耳元で永遠に知的なセリフを囁いてくるとかポルノか?????心がぎゅんぎゅんする。Web授業はアニメと一緒。すなわち二次元。好き。
理系の男が書いた文字はエロい。精緻に並んだ筆記体の数式とかオシャレ過ぎて泣く。いやお前そんな字書くの???逆にめちゃくちゃ優秀な人がクソみたいな字を書くのも本当に好き。めちゃくちゃ頭いいのに小学生より字が下手な男。しかしノートのまとめ方って言うのかな、書き方は頭いい人のそれだったりして、ただ字だけがひたすらに小学生。なんだお前は。好き。
あと頭に手が追い付いてない人。こいつのノートは読めない。そういうのもえっちだ。好き。ノートだけで永遠に萌えられる。試験期間中にノート貸してくれた男に何回恋したか。字がエロすぎて。
まあ基本的に学生の書いたプログラムなんてクソクソ読みづらいんだわ。うわー、意味わかんねーって思いながら不親切なコメントアウトを見てプログラムを読み下したりして、分かったときの「ああでもこうとしか書きようがなかったよね」って共感。あなたのことを分かってしまったときのキュンキュン。でもまあよく考えるともっと他に分かりやすい書き方ない?って思ったりして、でもやっぱりなくて、みたいなね。ずっと引き継がれてるプログラムってそういう歴史が詰まってるじゃん。それを辿りながら読むの、え、えっちー。エロすぎる。凄いものを作れてしまう頭の良さ、しかし自分が賢いがゆえにそれを分かりやすく伝えられないところ、親切心と少しの遊び心を含んだコメントアウトを読むの、とっても好き。
コロナ禍になって初めて医者になった一人であり、その流行り病を診ていたものです。
正直もう臨床現場に対してうんざりしつつも二年間の初期研修だけは終わらせないといけないという義務感でのみ、今は仕事しています。
一般の方からすると医者になればいいと思うでしょうが、医学部の大学6年間を卒業し、卒業試験と国家試験の2つを合格して初めて医師免許がもらえます。
またその後2年間は厚生労働省が定めた病院にて2年間の初期研修という見習い、みたいなのをやって初めて医者として自由に働くことができます。
ストレートで行って初期研修が終わるのは26歳~であり今は私ももう20台も後半であります。周囲の非医療職の同期はいろいろなプロジェクトに参加していたり、自分の人生のために努力してます。
そんな中で自分はあまりやりたいことがないためにくいっぱぐれの無い資格を取るために医師免許を取っただけであり、ただただ無味乾燥な仕事をこなしているだけです。
学生時代、医学という勉強は膨大なのですが、様々な科を満遍なく勉強することが実は好きだった私は「総合診療科」か「救急科」を志望していました。
それは大学の実習で田舎の診療所で息が苦しい人から猫にかまれた人までよろず相談的に診ていた先生に憧れていました。
自分もそうなりたいと思いハードな初期研修先を選んだのですが、実際は夜通し来る不要不急の救急要請であったり、家族が意思決定をしていないために98歳の余命いくばくもない人の心臓を夜通し押していたり
全く寝れないまま次の日の労働で看護師さんに「指示がおそい」「使えない」と罵倒されていて、「こっちは昨日の朝7時から今まで働いてるんだけどもな」って思う日々でした。
そんな中コロナの患者も続々と受診されて感染防御をしながら日々重圧に耐えながら臨床をしていくことに疑問をもっています。ワクチンの接種は進み始めていますが、第2第3のコロナ騒ぎが今後新たに出てくることは容易に想像できます。
諸先輩方や同期はみんな真面目であり患者さんが良くなったことを心から喜んでいて、私にも「よかったね」と言ってくれますが私は「それが仕事なんだから当たり前でしょ」としか思えません。
三年目、後期研修にて自分のやりたい科を決める時期が一年目もそろそろ終わるにつれて来ていますが、正直患者さんを診る科や病棟のある科は自分を守れないと思っていて志望をしないことにしました。
周囲の環境は忙しい中で頑張る人が評価されるので、村八分にされる可能性が強くあまり大きく言えない状況です。
ハードな研修先を選んだ自分が悪いのですが、一生懸命働いて少なくともほかの研修医よりかはスキルは得られたと思いますが「この仕事を自分がしなくてもいい」と
思ってしまっているのは疲れて正常な判断が出来ないためなのでしょうか。よろず診療所で憧れていた先生も寝れない夜を何十年も過ごしてあの立ち位置になっていたと考えると私には無理だと思います。
あと一年気が重いです
良いあらすじは期待度を高め、おもしろい小説をさらに良いものにしてくれるから好き
一方、くだらない小説なのにあらすじだけはおもしろい作品もある
ウソはなにも書かれていないけれど、それは期待度上げすぎだろうと
そりゃあ売るためにはくだらないですよと言うわけにもいかんだろうけど、あらすじ読んだだけで終わっときゃ良かったとマジで思う
血わき肉おどる内容を無味乾燥に紹介する文章もままあるがそれはそれで趣ぶかい
私が書いたらもっとおもしろくなるのにと思うけど実際やったら難しいのかもしれない
小説の公募を見ていたら本編以外にあらすじを求めるのが多いけれど、あらすじだけは大作家レベルに書ける人とかいるのかもしれない
https://news.livedoor.com/article/detail/19513038/
これを読んで、とても悲しくなった。
この死んだ人は時代に取り残されて、自分の時はある時期から止まって
それ故、バイトから抜け出せないし趣味もアップデートできない、そんな金銭的余裕もなかったのかもしれない。
時代に取り残されていく自分を思いながらも日々時を重ねて、孤独死。
結局どうだかだなんて本人以外分からないのだけど、この記事では彼を幸せであったと評する。
はてブとかの反応を見ると、勝手に決めつけんなとかいう意見もありながら
こういう生き方、死に方に好意的とかあこがれを持つ人が相応にいる様だ。
わからない。
何が幸せなんだろう。
自分自身も40代も直前となったここ数年を振り返る大学を卒業して就職、
それから30位までは環境の変化とか立場の変化もあって時代とともに進んでいる気がしていた。
だけどここ数年は何も変わらず、今の立場、今の状況に足踏みをしている気がする。
仕事もそれはそれで経験を重ねるたびに小器用に立ち回れるようにもなった。
だけど、趣味だとか興味が徐々に新しいものに向かなくなって、インスタとかtiktokとかまぁやらないよね。
思考とかもそうだ。経年を経て自分の思考が熟成されていった感があったのは30位まで。
そこからは何も変わらない。日々を消化して、過去を見て徐々に足踏みをしていく。
人それぞれとはいえ、徐々にそうなっていくんだろう。
そういう状況を実感している中にこの記事を読み、他人ごとではないなと思う。
自分自身、そこまで結婚を望まなかったけど、これでもう自分の世界が変わる契機ってないなぁ、と。
40前にしてこう思うのは早いとも思うけど、未来ってのが見えないというか、現在を淡々と過去にしていくというか。
そうして徐々に徐々に、時代に取り残されて、いつかはこんな孤独死をするのか。
なんだろうなぁ、追いつくために頑張る気もしないし、死にたいほどの絶望もないし、ただ生きることを消化する日々。
消化する日々の輝きは徐々に薄れて、これ以上に無味乾燥になり、時代から取り残されるとどうなるんだろう、どう思うんだろう。
なんだろうなぁ。
元々私は保育士志望なので初めから教員には全く興味がないが、卒業条件なので取らざるを得なかった。
おもんない。
そういえば小学校時分ではそんなんやったな~とか、そういう意味合いがあったんだなと懐かしさもあって随分気楽に受けていた。
四年になって急に「副免」なるもののおかげさまで小学校へ実習。
おもんない。
元々こういう閉鎖的な空間や押し付けられる価値観と考え方の風潮が合わない。
小中高とロクに学校生活を送れている気がしない。
しかも今年はコロナの関係で児童たちとのかかわりも最低限で、実習生は横で突っ立って授業を見るだけ。
果てには後期に教員養成な講義があり、「教員とはかくあるべき」といったご立派な教師像を突き付けられる。
リフレクションには不祥事を絶対起こさないという決意を書けなどどいう。
何を言ってるのだろう。この方たちは。
どうやって言葉を尽くし、教材研究を行い、児童・生徒たちを導くのか。
このこと自体は非常に面白いと思うが、学級経営の基本的な指針が腐っている。
子どもたちの能力ややる気を伸ばすだとか思考力がどうだとか言っているが。
俺はそう思えん。
早いでしょその方が。
一対多でどれだけ効率よく子供たちを六年ないし三年いなすか、そんなことしか考えてないように感じる。
加えて、教師像が精練な聖人かを作るべきだとでも思ってんだろうか。
「宿題?やってきたのえらい!」
「宿題忘れたの、じゃあ成績は下がるだけだねえ」
これでええやん、もうはっきりと言えばええねん。
無論そんなことが分からんような子どもに行ったって無駄だからそれをしろと言ってるんじゃない。
「○○のため」
「みんながそうしてる」
この文句が本当に嫌い。
その言葉の裏に見える「俺はめんどくさいことしたくない」という言葉が見え隠れして嫌い。
本心で話せや。
言い方で何とでもなるでしょう?こんなものは。
言わせたい言葉を引き出すような言い方止めろ。
はっきりと、何を主張したいか、言え!!!!!!!!
あーダル
ご存知のとおり、「名は体を表す」とは、名前がその人の実態を表しているといった意味のことわざだ。
そのわりには、「名前負け」(=実態が名前に追い付いていない)なんて言葉もあったりして、その有効性はいまいち疑問符が付くところではある。
しかし、「名前」というのは親からもらう本当の名前だけではない。
実は、「名は体を表す」ということわざは、本当の名前ではなく、あだ名に関して極めて有効なのである。
すなわち、適切なあだ名を付けることによって、身近に居る他人の性格を上書きすることができるのだ。本当である。
そういう問いを持ったのならば、そもそも他人の性格というものに対するお前の認識が間違っている。
お前が変わるんだ。
ところで、私には「増田っち」とか「増田ぴー」とか「増田りん」とか、かわいらしいあだ名を他人に付ける習慣がある。
いや、家族や友人、同僚にそういうあだ名を付けるわけではない。
怖そうな上司、疎まれている他課の人間など、嫌な人間にそういうあだ名を付けるのだ。
親しい相手ではないので、もちろん面白半分でそんなことをしているのではない。
先ほど挙げた「名は体を表す」の機能を期待してのことだ。
さて、なんであだ名ならば「名は体を表す」ということわざが有効なのか。
それは、他人の性格が自分というフィルターを通して知覚するものだからである。
そのことは、「本当は良い人」が悪い人、というよく知られた事例でわかるだろう。
他人の性格のうち、自分に知覚されない部分(=「本当は~」)など、自分にとってはまさにどうでもいいのである。
そうなると、他人に対する自分の知覚を変えることと、他人の性格を変えることは、自分にとっては全くのイコールだ。
あだ名は、他人の性格を直接操作するわけではない。お前自身の知覚を変える道具になるのだ。
自分にとって嫌な相手を、「増田さん」や「増田課長」などの無味乾燥な呼び方で呼ぶと、その嫌な性格が何のフィルターもなく、自分の知覚に飛び込んできてしまう。
すなわち、柔らかいネーミングを付けて、相手の性格まで「名は体を表す」のだと錯覚すれば良いのだ。
そのネーミングにより、相手はゆるキャラか何かのように知覚され、その本当の実態は見えにくくなるだろう。
(ちなみに、その相手本人に、その珍妙なあだ名を伝える必要は無い。
要は自分の知覚さえ変わればいいのだから、本人に伝えなくても、同僚とのおしゃべり、なんなら独りつぶやく中で、そのあだ名を呼べば十分だ。)
あだ名を呼ぶたびに、嫌な存在とのギャップに滑稽さを覚えるようになる。
そうやって滑稽さを覚えると、そのあだ名をまた呼びたくなる。
すると、自分の会話や想像の中で、その人物の登場回数が増えてくる。
そうでなくとも、嫌なはずの本人に会った際、含み笑い(「増田っち」のくせに生意気な!)を感じられるよう、自ら習慣付けられる。
すると、その相手に怒りを感じるのも本当に馬鹿馬鹿しくなり、コミュニケーションもいつしか苦痛ではなくなる。
「バカの壁」と言われる通り、コミュニケーションの壁となるのは、本当は自分の知覚の方なのだ。
しかし、きっかけ無しにそれを自ら認識し乗り越えることは容易ではない。その壁は大きすぎて、壁であることさえ気づかない。
その壁を、滑稽さを覚える→また呼びたくなる→含み笑いを感じる→コミュニケーションの苦痛が無くなるという、
あだ名がもたらすラダーによって、壁を壁として認識しないまま駆け登るのだ。
自分には、相手に対する滑稽さという悦楽を感じさせながら、「バカの壁」という自分の思い込みを乗り越えるための道具なのだ。
すなわち、かわいらしいあだ名は、相手を内心馬鹿にしながら、自分を馬鹿な内心から切り離すために有効な手段となるのだ。
その「名」は、お前の認識する「体」を変えるのだ。
お前が変わるんだ。
ふと気が付くとサボテンが枯れていた。
帰宅して、別のものに目をやった際にその枯れたサボテンが目についた。
まるで俺の人生の枯渇の様だ。
俺はそこにすら気をかけることができなくなっていたんだ。
だが、ある程度長期スパンの配慮をもってすることなので、そこの意識が飛んでしまった、そういうことだと思う。
そんなに仕事が忙しかったわけでもない。プライベートなんて特にない。
そこに気を向ける暇は十分にあったはずだ。
であるのにも気も向けられず、サボテンを枯らし、そしてそれがいつ枯れたのかすらも分からない、曖昧でクダグダな人生を送っている。
すべてへの興味を失い、ただ無為に生きることを消費している。
乾いた口内に食パンを詰め込み思考停止で咀嚼する様に、乾いた人生をただただ淡々と消化している様だ。
すべてが良くも悪くも大きく振れることはなく、寝て起きてうんこ製造マシンとして無為に生き、幾ばくかの寿命を消費する。
なんだろうか、この渇きは。
かといって潤すために動くつもりも努力するつもりも毛頭ない。
あと十年、数十年これを続けていくのか。
死にたいとは思わないが、このままのこれを続けていくことに何の意味があるのだろうか。
最近、死についてよく考える。
友人や親せきが死んだなんて話を聞いて、葬式に出たりでなかったり。
泣きはしないが、とたんに存在しなくなる彼ら彼女らに戸惑いながらも数日たてばそんなことは忘れている。
死ぬってなんだろう、この意識がふっと消えるのはどんなだろう。
そうすると、今寝て突然死したら、一生起きられないそういう意識なのか。
なんて考えて眠れなくなり、明日の仕事という気にしても意味のないことを気にかけて、寝れなくなり寝るために深酒をする。
俺は結局このサボテンの様に気が付いたら枯れるような、そんな人生を送るのだろう。
これは、このサボテンは燃えるゴミでいいのだろうか、多分そうだろう。
サボテンは枯れて、今週には燃やされるのだろう。
俺もいつしか枯れて、燃やされるのだろう。
贅沢は言わない、せめて燃やしてくれ。
自分は何をしたいのか、どうしたいのか、どうなりたいのか、わからない。
自己啓発とか、自己肯定とか、自分軸とか、キーワードになりそうなものはネットでも調べればたくさん見つかる。
ああしてみては、こうしてみては、色々な事例も出てくる。
いくつかは実際に試してみた。
しかし残念ながら自分の悩みや問題は解消しない、解消したような気にはならない。
やり方がよくなかったのか、そもそも問題と解消法の愛称や組み合わせを見誤っていたのか。
やはり本当に解消しようとするなら、カウンセラーなどの専門家を頼ったほうがいいのか。
自分は何をしたいのか、どうしたいのか、どうなりたいのかがわからないと、毎日が本当に無味乾燥でつまらなく、何のために生きているのかわからなくなる。
そして考えるのも面倒になり、何もかもがどうでもよくなる。
この日記を読んでいる人へ。
そうだな、とりあえず最初に聞くなら『発光体』(https://www.youtube.com/watch?v=IOa-nZiIeiw)『ズックにロック』(https://www.youtube.com/watch?v=GXqZ5EXE9ho)『ゆらゆら帝国で考え中』(https://www.youtube.com/watch?v=M9CM44MohAs)らへんがおすすめ。
どの曲もそんなに長くない。ストリーミングでも聞ける。
さ、早く。
聞いた?
ほんとに聞いた?
「なんだ、増田民の提案になんて乗らねえぞ」って人にも一度は聞いてほしい。
というわけで、以降の記事は「ゆら帝を一度でも聞いてくれた人」に向けて書く。
というか、日本人の大部分が上ふたつに当てはまると思う。
私の周りの友達もみんなそうだった。
ただ、心をぐっと掴まれて、早送りボタンを押せなかった人もいるはずだ。
誰かの心にズドンと響く音楽っていうのは、諸刃の剣みたいなものだと思う。
ある人にとっての神曲が、他の人に全く響かないなんてこと、日常茶飯事だし。
もしこれを読んでいる人の中にゆら帝のファンがいたら、こんなに嬉しいことはない。割合的に厳しいと思うけど。
新参がイキってすみません。でもね、このバンドがもっともっと広まってほしい。
正確にいうと、ゆら帝を聞く星のもとに生まれた人たちが、ゆら帝を知らずに死んでいくという事態を防ぎたい。
もうね、頭の中では今たいへんなことがおこっています。
手と足と胴体がそれぞれバラバラに動き出しそうで、それを押さえつけてジッとしているだけでやっとの状態です!
再結成とか、メジャーシーンでの再評価とか、どうでもいいんだ。
届くべき人に彼らの曲が届いてほしいだけ。これは完全に自分のエゴ。生温かい目で見守ってください。
私がゆら帝の存在を知ったのは2020年夏。彼らが解散して10年が経っていた。
私だけでなく、同世代でゆら帝を知った人の大部分がそうだと思う。
外出できない夏休み、オンデマンドサイトを見漁っているうちに、奇天烈なOPが耳から離れなくなっていた。
コロナ自粛がなければ、ゆら帝には出会えなかったかもしれないということだ。人生というのは分からないものである。
私は結構ロックが好きで、メジャーからインディーズまで広く浅く聞いてきただけに、ゆら帝の曲を聞いたときは、衝撃を隠せなかった。
分類的にはサイケデリック・ロックだのオルタナティヴ・ロックだの言われているけれど、このバンドは「ゆら帝」というくくりでいいと思うくらい特殊である。
ゆら帝の魅力。
まずメロディがいい。前期の渇ききった感じも、後期のしっとりと美しい感じも、最高だ。
個々の技量も素晴らしい。特にベースが好きだ。亀川千代氏のベースラインには中毒性がある。
そして歌詞がいい。非の打ち所がない。
「もう一度頭絞ってにじみ出てきた緑の液体がぼくの全てさ バカだろ?」
「雨が降る日は何もしない 髪がベタベタするから 風が吹く日も何もしない どこか消えたくなるから」
どういう人生を送っていたら、こんなにクールな歌詞を書けるんだろうか。
昨今の音楽はメロディ重視というかなんというか、文字数合わせが目的の物足りない歌詞が目立つ(もちろん例外も存在する。サカナクションの山口一郎氏は歌詞に真摯に向き合っていると思う。私は高校生のときからサカナクションの大ファンだ。魚民諸氏はゆら帝にも興味を示すのではないかと思う)。
ライブもいい。クッサイMCも余計な演出もなく、淡々と音楽だけを届けてくれる。
生で見たことのある人は本当に羨ましい。
とまあ凡庸な言葉で色々述べてきたが、はっきりいってゆら帝の魅力はこんなもんじゃない。
言葉では言い表せない。
サカナクションのライブの理想形はゆら帝らしい。なるほど、と腑に落ちた。
サカナクションのライブは、それ自体芸術作品と言っても差し支えないほど完成度が高い。演奏レベルもCD音源レベルだ。彼らは安っぽい感動でも変な共感でもなく、「音楽」という体験を私たちに提供してくれる。
ゲスの極み乙女。の川谷絵音氏も、『タコ物語』(https://www.youtube.com/watch?v=qbkxCVNsFsY)に影響を受けたとか。この曲はMV含めてとても狂気的だ。ぜひ聞いてほしい。
ゆら帝という存在は、ロック界の『AKIRA』のようなものなのかもしれない。
凡庸な感性しか持ち合わせていない私でも、心を揺さぶられるのだから、大したものだ。
きっと、人間の奥底にある普遍的な何かに響く音楽なのだと思う。
私が心配するのとしないのとにかかわらず、ゆら帝は100年後もその色を保っているはずだ。
色を保てるバンドなんて、昨今それほど多くない。
あまりにも多くの音楽が、産生されては飽きられ、時代とともに消えていく。
彼らが再結成しようものなら、私は大きな失望を抱くだろう。最終回の再放送は無い。ゆら帝はすでに完成してしまった。完成とはまた、終わりを意味するのだ。
もちろん、生で見てみたかったという気持ちはある。こればかりは生まれた時代を恨むしか無い。
ゆら帝が完璧なロックを生み出したことと、私たちが生きている間に彼らの音楽へたどり着けるかということは、全くの別問題だ。
私自身、番組のことを思い出さなければ、絶対にゆら帝を聞こうとは思わなかっただろう。運良く名前を目にしたとしても、有象無象のバンドと判断し、スルーしてしまうと思う。
だらだら書きすぎたせいで主旨がぶれたような気がするので、もう一度。
『昆虫ロック』(https://www.youtube.com/watch?v=MX2W1kNiOcc)も『夜行性の生き物3匹』(https://www.youtube.com/watch?v=n_dk8ChdCA8)も『空洞です』(https://www.youtube.com/watch?v=mKUhq7SYouA)も『グレープフルーツちょうだい』(https://www.youtube.com/watch?v=SaP6Ui93iUM)も最高だぞ!!!
私は彼らに救われた。才能も取り柄もない私が、ちょっとでも頑張ってみようと思えたのは、ゆら帝のおかげだ。
親から暴力を振るわれたり、好きな人が死んだり、正直散々な人生だ。
もしこの記事が奇跡的にバズって、世の中にゆら帝ファンが増えてくれたら、頭ひねって書いた時間も無駄じゃなかったんだなって思える。
客観的に見ると、かなり素っ頓狂なタイトルだと思う。けれど私は、今五目並べに狂うほどハマっている。
ステイホームが続いた連休。極限まで暇を持て余した私は、意味もなくスマホのゲームをインストールし続けていた。何をやってもつまらない。飽きては消し、飽きては消す。終いには、インストールの途中で飽きて消す。もはや何がしたいのか分からない。間違いなく、世界で一番無駄な時間を過ごしていた。
派手なゲームばかり触っていた反動だろうか。おそらく、「シンプル」を求めてだと思う。よく分からないが、私は「五目並べ」を始めていた。インストールしたのは、「五目クエスト」というアプリ。レート制でオンライン対戦ができるようになっている。しかし、UIはかなりシンプルだ。無味乾燥と言ってもよい。派手なエフェクトやキャラの類は一切出てこない。ただ、五目並べをするためだけのアプリだ。
これまでの人生、五目並べに特段の思い入れはなかった。五目並べやリバーシ。誰だってルールぐらいは知っているし、やってみればまあそれなりには面白いだろう。だけど、それなりはそれなり。別に、目の色を変えてまでやるものではない。そんな認識だった。
飽きることにも飽きた。そんな虚無の精神に包まれながらパチパチと石を放つ。ルールぐらいは知っている。それと、初歩的なことぐらいなら分かる。相手の石が3つ並んだら、片方を止めないといけない。4つ並ぶと、もう五目を防げなくなってしまう。その程度のことである。虚無の中、石を放つ。弱いbotも常駐しているから、素人でも勝てる。それに、一戦が短く、テンポもよい。そこまで面白いというわけではないものの、気付けば、虚無のパチパチはだいぶ長く続いていた。しかし、繰り返す中でふとあることに気付く。ある程度レートが高い相手には、ほとんど全く勝てていなかったのである。むろん、偶然そうなっているわけではない。
幸い、このアプリには対局を振り返ることのできる便利な機能が付いていた。そこで、敗れた対局を振り返ってみた。強い人は何を考えていたのか。振り返ると、ぼんやりとだが見えてくることがあった。なるほど、どうやっても五目が防げないように、強い人はいろいろと考えている。例えるなら、罠や伏線を張るようなイメージか。そして、強い人の手は、攻防によく効いている。私の手は、攻か防、どちらかしか考えていない。なるほど、なるほど。
(これに関しては、いろいろと定石なるものがあるようだ。少しずつ調べ始めたところなので、まだ詳細なことは書けない)
私は、おもむろに立ち上がり、お湯を沸かしていた。熱いコーヒーをすする。頭が冴えた。よし、もう少し考えてやってみるか。気付けば、虚無の時間は終わっていた。
試行錯誤、悪戦苦闘。苦労はしたが、着実に勝率は上がっていた。強い人の思考をイメージする。定石は分からないが、ここではこう指す、そんな感覚ができてくる。相手の考えが、少しずつ読めるようになる。
もちろん、強い人は簡単には勝たせてくれない。お互いの狙いをひたすら潰し合う。神経が削られていく心理戦。一手一手が重い。ミスは即死を意味する。手の震えまで出てくる。いやあ、参った。
しばらく黒星を重ねた後、ついにその時は来た。はるか格上相手、長い手数の果てに、ようやく勝ちが見える。相手が投了。私は思わず声を出し、拳を作ってしまった。手は汗で滲んでいた。
何が「別に、目の色を変えてまでやるものではない」だ。気付けば目の色を変えてやっていた。五目並べに夢中になり、勝利に咆哮する男。正直、絵面としてはかなりシュールだと言わざるを得ない。しかし、これは楽しい。楽しいのだから、仕方がない。外に目をやると、いつの間にかすっかり日は暮れていた。
病的な飽きっぽさのある私だが、連休明けも「五目ライフ」は続いてしまっている。小さい頃から、考えることは好きだった。だから、ハマる土壌はあったのかもしれない。そうとはいえ、最近は歯磨きでもするような感覚で五目が始まっている。自分でもなんだか可笑しくなる。
無味乾燥だといった「五目クエスト」。このアプリがまたいいのである。派手な要素は一切ない。ただただ、五目。その無骨さが、かえってクセになる。石を打つ時の「カン」という打音がまたよい。愛想も何もない無機質な音。だからこそ、勝負に集中できる。最初こそ物足りないと思ったが、本当によくできている。対戦に関するストレスはほぼ全くない。唯一挙げるとすれば、接続数が少なく、同じ人と頻繁に当たること。ようするに、過疎っているのである。地味なゲームであることは否めないけれど、過疎というのはやはり寂しい。
突き詰めていくと、五目並べは本当に奥が深い。「棋は対話なり」、これは将棋の言葉だけれど、五目並べにおいても本当にそうだと思う。対戦は声のない対話である。相手の性格のようなものが見えてくる。イケイケドンドンな人がいれば、石橋を叩いて渡るような慎重居士もいる。そして、強い人はいつもナイフで後ろから刺してくる。目に見えない相手のことを考え、声のない対話をする。たぶん、この営みにハマっているのではないだろうか。
長く書いてしまったが、ゲームの過疎っぷりから推察するに、五目並べに狂うほどハマっているというのはかなり希少な人種だと思う。「最近五目並べにハマっててさ」そんな話はまだ他人に言い出せていない。そんなことを言うとポカンとされてしまいそうである。それで、ここに書き連ねることになった。
虚無の連休中に突然目覚めた私はかなり極端だと思うが、五目並べは本当に面白い。ハマる人はハマると思う。そして、やはり過疎は寂しいので、できればもう少しアプリが賑わってほしい。よかったら、遊びに来てみてください。
例の定年延長の話だが、みんないつの間にそんなに政治リテラシー高まってたの?と思った
まず問題になってる法案だが、俺はそんなものが存在していることすら知らなかったが、
俺が知らないだけで、世の中にはなんと300万人以上の人が知っていたらしい
更に、要約を読んだが、俺には何が問題なのかさっぱりわからなかった
しかし、俺がわからないだけで、世の中の人はあの無味乾燥な文章から、
安倍政権が企む国家の根幹をも及ぼしかねない巨大な陰謀の匂いを既に嗅ぎ取っていた
凄い。俺はふーん、公務員も定年上がるんだ。高齢化社会だしな。としか思えなかった。
そもそも、あんな文章がネットに公開されていることも知らなかったし、
世の中の人はまるでアマゾンかヤフオクのように、手慣れた手つきであっという間に必要な情報にたどり付いているようだった。
凄い、凄すぎる。
俺が何も考えず家でぼーっと増田書いたりツイッターやってる間、
みんなしっかり勉強して、ネットを使いこなし、日本を良くしようと日々努力していたんだね。
俺はそんなことにもちっとも気がついていなかったんだ
僕は旧帝国大学の3年生。私立中高一貫校を出て一浪後に今の大学に合格した。客観的に見て恵まれた環境で育ってきたのは間違いないだろう。
そうなのだ。恵まれているのだ。大した悩みなんて無いはずなのだ。それなのに、死にたくて死にたくてしょうがない。自分で死ぬ勇気もないから、何かが自分を殺してくれるのを待っている。
ああ、二年はあっという間だった。自分の無能さを知るのが怖くて怖くて、何に対しても真剣に取り組むことができなくて、気づいたらもう三年生。二年間、見るのはスマホの画面ばかりだった。スマホに依存する自分が嫌いで、それでもスマホから目を離すと死にたくなるから、ずっと無味乾燥な画面を目で追い続ける。そんな日々。
そうして二年の日々を空費している間、同じ年に入学した人たちは多様な変化を遂げていた。
難しい本をたくさん読んで学問知識をどんどん深めていく人。月に何十時間もバイトをして仕事経験を積む人。サークルや趣味に打ち込んで強固なアイデンティティを築いている人。
彼らのような充実した大学生活が僕にもありえたかもしれない。それなのに、今となっては一生届かない。
え?今から一念発起すれば間に合うかもしれないだって?無理だ。もう取り返しはつかないんだ。僕はどうしても小さなプライドを捨てられない。自分だって彼らに追いつくことができたはずなんだ。そうじゃなきゃいけないんだ。そんな思考に取り憑かれている。どうしても振り払うことができないんだ。心の奥ではそんなことはもうできないってわかっているのに。現実の彼らに追いつけない自分を僕はどうしても許せない。現実を意識した瞬間に死にたくなる。だから、スマホに逃げる。そうしてますます自己嫌悪が募っていく。
もう勝ち目のない戦いから降りたい。勝てない自分を許したい。けれども、どうやらそれがどうしてもできないらしい。きっとこれからもずっと僕は自分が嫌いで退屈なスマホいじりに逃げてまた自分が嫌になる。そんな人生の繰り返しに違いないだろう。
虐待とか生活苦とか何か苦しさに理由があればまだよかった、と思うときがある。自分の苦しみに意味を見出せるからだ。
特に何か理由もあるわけではないのに精神をすり減らすのは心底疲れる。なんとなくだけど、30歳になるまでに自殺するような気がする。いや、自殺を結構するほどの実行力が自分にあるとも思えないな。死という形でこの苦しみが終わるならそれでいい、と思うのだけれど。
私は山手線に乗って、疲れきった体を椅子に預けて携帯を眺めていた。
新宿駅にたどり着いた電車から大勢の人が降り、その後マレー系のお母さんがベビーカーに子供を乗せて乗車した。
なぜマレー系かわかるかって?あの顔つきと肌色でヒジャブをまとっていたからに決まっている。2年間、シンガポールのころごまんと見ていた人の姿だ。忘れることもあるまい。
とにかく、彼女は子供と一緒に電車に乗り、旦那さんと思われる人が外からスーツケースを手渡し、中に入れ始める。
スーツケースが一つ入ったところで、ドアが閉まる。
母は大慌てでとっさに腕をドアに差し出したが、間一髪で逃し、ドアは冷たく閉じられてしまった。
ホームで見かねた誰かの所業だろう。非常停止ボタンが押された。
母はとても困った顔をしていたので、電車の中にいた私は拙い英語で、とにかく通じればいいなというレベルで彼女へ声をかけた。
「Send the message to him that you can ride next train what should come in 3 mins so far.」
(3分後に次の電車が来るから、旦那さんにそこに乗るようにメッセージしてね。)
「You'd better to ask staffs to help you in next time。They can help you.」
彼女の表情が和らぎ始めた。英語わからなくても、私の意図は少しは伝わったのかなと思った矢先だった。
私も彼女も初めて出くわす場面だが、手慣れているだろう。ドアを外からこじ開けようと力む姿が見えた。
スーツケースを入れてもらうのかな。
とにかくうるさいブザー音を消してくれとばかり、心の中で思っていた私が次に観た光景は、そんなことどうでもいいと思わせるようなものだった。
駅スタッフは、ドアをこじ開けては電車に乗り込み、ありったけのしかめっ面で、母とベビーカーを引きずり下ろした。当然スーツケースは眼中にない。
それもそうかも。何せ車いすのスペースに突っ込んだわけだし、その荷物が隣に立っていた人のものかもしれない。母の携行品はベビーカーしかないと思われても仕方はない。
それでも、荷物はただそこに置かれてあっただけ。
荷物は無事に外に母と一緒に追い出され、ドアは閉まり、駅スタッフは「一つの仕事をやっつけたぞこの野郎」と言わんばかりに、安全確認終了を知らせるランプを高く振りかざす。
これは、一日利用者数世界一を記録している駅で起こった、外国人観光客が起こした小さなトラブルだった。
仮にも世界一の駅スタッフが、観光客をマニュアル通りに、いつも通りに追い出すのか。
彼女がその時感じたであろう感情がどうだったか、想像すらつかない。
旅行って、旅っていつもそうだ。
どこかしらで必ずトラブルは起こる。
喧嘩だってするかもしれないし、財布だって落とすかもしれない。
はたまた決まったはずの宿が決まってないかもしれない。
今まで述べたトラブルと比べたら、電車一本逃して一行とはぐれるなんて、些細なものに過ぎないだろう。
その記憶が後で振り返ったとき楽しいハプニングとして残るか、散々な目に会ったという苦い思い出として残るかは、その場そこにいた人達がどう接したかにかかっている。
彼女(とその家族)は須らく、その類の数知れないトラブルのうちの一つを、須らく経験してしまった。
少なくともこの国の誇る鉄道の、いちばん誇らしい駅のスタッフは、間違いなく彼女に後者の印象を植え付けたのであろう。
なんてことを思う間にふと考えた。
仮にもオリンピック公式輸送スポンサー企業のスタッフがこんな対応でいいのか?
もしかしたら、彼女が私のアドバイス通りに、あらかじめ対応ができたら、駅スタッフだって乗車案内できたはずだ。
彼女は頼るすべを知らなかっただけ。
できるはずのことができないのは、観光客に対するおもてなしが全くできていないという証拠であろう。
いくら上っ面だけ広告宣伝に金を落としたところで、こういう実務的対応一つままできず、塩対応してしまっては元も子もないだろう。
無味乾燥な日々の清涼剤としてか、どこからともなく沸き上がった
「草を食みたい」
というわけ隔てない野生が、僕に200円弱の出費を強いた。
しかし、その袋詰め野菜(非野生性)は胃袋にのみ込まれることなく
これはどういうことか。
買った時点で満足したというならそれも良いだろう。
そういった動機が時折むくりすることは当然御存じであることと愚考する。
飽きもせずにまた同じサラダを、小銭尽き果てるまで買い漁ればいい。
食べるかどうかが問題ではない。やるかやられるか。世は大購買時代。
などと鼻息荒く断行したわけではないのだ。
むやみに健全性を失おうとしている僕にもまだまだ残っている生理的反応なのだから。
ではなぜ故か。問われると嗚呼制限時間はどうだの部分点を稼ぐにはと試験最適化機構が騒ぎ始める部分を
押し込めつつ答えをこしらえると、それは畢竟時間の無さ、と思しき存在による認知の歪みであると言えよう。
ふふん、わからんじゃろ。僕にもわからないさ。この話はいったいどこへ行くんだろうね。
うん、投げてくれても構わない。って馬鹿、そんな振りかぶってまで寄越す奴があるか。
あーあ、中身がこぼれちゃったじゃあないか。きっと空気中で彗星体に衝突して
どうしてくれんだ。このままだと大宇宙物理警察機動交響楽団がかっとんでくるぞ。
物性の不正な改竄は懲役17分の刑だ。まずい、あそこで年明けを過ごすのだけは御免なのに。
え、まさか自分だけ逃げるつもりか?待て、勝手に逃げると僕の産地直送平手を喰らわせるぞ。