はてなキーワード: 東大卒とは
※「全部が全部そうじゃないが」「ごく一部のことではあるが」等の文言を逐一入れるのは面倒くさいのと冗長になるのとで入れてないだけです。断定調の方が論旨がはっきりするからです。
知っている人からすれば当たり前のことなんですが、「大学院」において「学校名」というのはその院生のレベルを知るためには全く意味をなしません。東大の大学院?学士の資格等必要だろうけど、入試なんてザルです。実際に問題を見たことありますか?普通に勉強した人なら通ります。実質定員割れ(=合格者数が定員より多い)もあります。入試問題が基本的に研究科別になっていることが一つの要因だとは思います。
この「大学院で学校名を基準に資質を判断するのは無意味」という事実、企業の人事の方もほとんど知らないんですよね。「東京大学大学院、修士2年の○○です」ってだけで、「おー、東大生かー」って思っちゃう。確かに「東大生」なんでしょうけど、東大大学院の学生に「東大生」とは名乗って欲しくないですし、一般的にそういう認識を持って欲しくないですね。
なぜか。
そう、「ロンダ」が横行しているからです。ことさら「東大生」を強調するような東大の院生ほど、いわゆる「ロンダ」の確率が非常に高い印象です。
東大の大学院に入り最終学歴をそこにすることで、「東大卒です」と主張する(正確には「修了」だが)。在学中は「東大生」を誇り高そうに周囲に流布する。誰でも入れるような大学(学部)から、誰でも入れる東大院の研究科(研究室)に入って、東大学部生のレポート程度の修論を書いて修了し、自尊心を満たす。そんな人に「東大生」を名乗って欲しくないです。
ロンダは知っている人が見れば(現状、少ないと言わざるを得ないが)すぐにバレますし、恥ずかしいは自分だと思うんですが、世の中、医者じゃない「医学博士」が医者みたいに思われている現状もありますので、実際は「東大生」「東大卒」で通ってしまうのでしょうけれども。
現代日本において、未だに「学校名」にこだわっているの時点で苦笑してしまうのですが、それは置いておきます。そのためか、今は嘘か誠か、中学高校の学歴を見て人物を判断されることもあるようですね。いわゆる「地頭」というやつだと聞いています。この基準も確かなものではないでしょうけれど(10年も経てばその人は変わるでしょう)、「ロンダ」を見抜くためにはあってもおかしくないかなとは思います。
話が逸れました。繰り返します。「大学院」は「研究室」に所属するものであって、そこに「学校名」は関係ありません(専門職大学院等除く)。「たまたま」その研究室がその大学院にあった、というだけのことです。確かに東大・京大・東工大等にはレベルの高い研究室が存在する「確率」は高いですが、一般論として、「東大」という名前が神聖視されすぎです。
「ロンダ」の人たち(表面的にそういう経歴の人たち)全てを貶す訳ではありませんが、一部の「ロンダ」組は本当に徹底しています。絶対に学部の名前を自ら進んで言いません。自己紹介でも言いません。聞くとものすごく嫌な顔をされます。笑ってしまうぐらいに。
彼(彼女)らは何のために大学院に来たのでしょう。「東大卒」の肩書きを獲得し、就職やこれからの人生に有利になればいい、と思っているのでしょうか。真剣に研究をしたくて進学してきた他の学生に対して失礼ではないでしょうか。もちろん同様のことは学部についても言えますが、学部は「入学試験」が適切なフィルタになっているため、そのような「肩書き」目的の進学でもそれが目的的に働いていると思います。学部は「勉強」をする(受動的)場である側面が大きいのも、「肩書き」目的で入ってきても容認される理由の一つでしょう。
一方、(東大の)大学院は前述のように入学は容易です。そして一度入ってしまえば、研究科毎の違いはあれども、修了それ自体は最低ラインを超えることはそこまで難しいことではありません。大学院の責務の一つである、「研究」らしい研究が行われないまま、「学歴」のみを取得して修了することができます。
研究科別では、理学系・工学系・情報理工学系にはさすがにこのような例は少ないと思います。しかしそれ以外の研究科では、特に文系と理系を融合したような研究科ではそれはひどい有様です。文系でも理系でも中途半端な人材が集まります。ロンダ目的の学生のいいターゲットです。入試も、文理双方に配慮するので、問題のレベルが下がります。
先生方も授業が学部よりレベルが低くて苦労しているようです。よく聞くのが統計(数学)の話です。バックグラウンドが違いすぎるので、結局、「確率」の話から(極端な話、高校教科書のレベルから)始めないといけません。「多様なバックグラウンドを持った学生による、革新的で斬新な分野の研究」という理想を実現する環境とはほど遠いです。たいてい、研究テーマだけは壮大ですが、その実質は適当に「アンケート」を取って「統計処理」をして「有意差」をむりやりひねり出すという、学部3年生のレポートみたいな修士論文ができ上がります。それでも修了できてしまう。そうしないと、みんな修了できないから。
学部から(中高時代から)しっかりと知識を育み、学部の継続で修士に進み、毎日うんうん唸りながら一生懸命に「研究」をし、ポスター発表やペーパー投稿も積極的に行い、晴れて修論発表会で発表して修士号を得る。こういう「東大生」であった僕(や周囲)にとって、「ロンダ」組には眉をひそめるしかありません。
自分の観測範囲が狭い、母数が少ない、と言われればそれまでだが。
先日、自分の母校(神戸市東部にある某中高一貫男子校)の卒業生の同級生A君(40歳台)と会話したが、
「同級生の●君、京大出て年収1、200万円もあって、でも独身・・」てな会話をしていた。
A君の周りの同級生たち(東大卒京大卒医学部卒)を見渡しても、軒並み独身があふれている。
かくいうA君も、国家公務員キャリア職だが、ようやっと最近結婚した有様。
「高学歴・高年収は結婚しやすい、日本の非婚化は非正規雇用で低収入若者が多いから」
「高学歴だろうが、高収入だろうが、女性との交際スキルに乏しい輩は、なかなか結婚できない」
という感じなのだが。
自分も女性との交際スキルは不得手で、だから大学時代とかには女性交際経験はゼロ。
統計学的には、「男性年収と婚姻率、男性学歴と婚姻率の間には正相関が存在する」のだろうが、
世間で思われているほどの強い正相関は現れていないのでは?
年収300万円、400万円レベルであれば、確かに正相関は認められるだろうが、
700万円を超えると、そこから先は、あまり正相関は見られないのではないか?
一定レベルの年収(700万?)を超えた時点で、婚姻率は別の因子、
それこそ「高校時代の女性経験の有無」とか「イケメン度」とか、そういう因子との正相関が、より強くなってくると思う。
要は、世帯年収500万円の主婦でも、世帯年収1,000万円の主婦でも、
バリバリのキャリアウーマンでも、いざ妊娠してしまうと、頼ってしまう情報源が
「たまごくらぶ・ひよこくらぶ」と共通してしまう、という現象。
昔であれば、妊婦の中のアッパークラス10~20%と、普通の妊婦80~90%とでは、
アッパー妊婦は「主婦の友」辺りを妊娠情報源にしたり、姑や実母を妊娠情報源にしていた。
しかしいまや「たまひよに頼らない妊婦」というのは、全体の1%程度のスーパーアッパークラス、
東大卒のキャリア卒程度の女性だと、結局「たまひよ」に頼んでしまう。
なぜなら、それしか情報ルートがないし、産婦人科へのたまひよの営業攻勢が物凄いから。
彼と私のこと
・彼は忙しい、私は暇
・一緒に暮らし始めて数か月、私が一緒に暮らしたかったからそうなったのだと思う
・家事は8割方私がしている
・生活費は折半
・彼は家にいれば家事に積極的な方
・お互いに大学生
私の母親のこと
・努力家
私のこと
・初めての恋人
・家事は好き
彼が忙しくて泣いた。
・構ってほしい
・用事の方が私より大切なようで癪に障る
・イベントの度に水を差される
・いつも彼の予定に合わせなければいけない
・私ばかりが家事を負担して、彼のいない時間に彼のことを考えて、彼のために動いている
・私が忙しくて彼が暇なときにも、私がしてきたのと同じことをしてもらえるわけではなくて、してほしいわけでもないけれど、がっかり
自分が嫌になる
・「してくれ」と言われたわけじゃないのに「彼のために」して、見返りを求めてしまう
・そういうところが母に似ている。ある種の男尊女卑?古い体制が身に染みついていて、それは嫌いだと思ってきたもの
・泣く。気持ちの浮き沈みが激しい
・要求がないのに不満を抱く
・彼とのセックスに不満がある
一緒にいてほしい。家事を半分してほしい。私のことを好きでいてほしい。求めてほしい。
私は母を尊敬しているけれど、自分の意識しないところでどんどん母に似ていくのは嫌だ。怖い。母のようになりたくないと思うところもある。
たとえば、私は週に5日夕飯を作る。メニューを考えて買い出しに行って作って、洗えるものは洗って彼の帰りを待つ。一緒に食事をとって、ごろごろする。彼と付き合い始めるまで夕飯をとる習慣はなかったのに。ダイエット中なのに。でも食べる。食べろと言われたわけではないのに。それはそれで幸せだけれど、ときどき嫌になる。私が出かけて彼が家にいた5日間、最初の2日は夕飯を作ってくれて、あとの3日目は私が友人と外食、最後の2日は自分で作って食べた。後で言ったら「だって夕飯いらないかなと思って。だからアイスとか買っておいたのに…」と。確かにと思って申し訳なくなったけれど、じゃあなんで毎日ご飯作らせてるの?私、要らないのに。
彼が忙しいのは悪いことじゃない。むしろ推奨されるべき生活態度かもしれなくて、一緒に暮らしたがったのは私だ。だから家事を私が負担すべきということになるかどうかはともかく、彼がそうしろと要求したわけではないのだから、彼に非はない。ないけれど、こんな主婦みたいな生活、彼の多忙が私に利することはないのにとも思う。彼の多忙が仕事であったなら内助の功と認められるような家事労働を、構造的にだって、私がしなきゃ立ちゆかない。……立ちゆかないわけではないところもある。カレーやうどんで夕飯を済ませてもいいんだし、彼が作る夕飯はそんな感じだし。それでいいと彼も言った。勝手に一汁三菜をと思う私に問題があると思う。それで不満を抱くとか人にも求めるとか馬鹿みたいだ。でも、カレー一品で済ませられない。母がいつもサラダを用意してくれていたからだと思う。サラダとなにがしかのおかずとお茶とデザートと。そこまでなかったかもしれないけれど、なんだかいろいろあったような記憶。4人家族だったからかな。
もう、ばかばかしい。
つまりなにが嫌なのかわからない。なにか嫌で、でも別れたくなくて、我慢するしかないという結論なのだと思う。彼は悪くない。悪くないのに昨日もアイスを買ってきてくれた。
私も悪くない。泣くのは私の自由だ。なにも要求していない。うちなる願望くらいいいじゃないね。
でもやっぱり、私ばかり不満を抱えて泣いて、美しくない。したいことをして帰ってきたら料理ができていて悠然と構えていられる彼が羨ましい。アイスひとつがなんだっていうんだ?何百時間を彼のための家事に費やしたと思っているんだろう。……そんなことを考えている私は惨めだ。惨めな気持ちになるから嫌だ。母を連想する。耐えて耐えて尽くして尽くして不平をこぼせば怒られて育って、やがてもうけた娘には蔑まれる。「お母さんはいつもお父さんの言いなりになって」「なんで文句言わないのよ!」どうしたらいいんだろう。母に相談したいけれど、きっと返ってくる言葉に苛立つ。どうしたらいいんだろう。尽くすと、不満が生まれて、それを腹に溜めて、増幅させてしまう。でも尽くさずにいられない。いつか不満を口に出してしまって、私だけが汚れて行く。彼はなにも悪くないままで、ずるい。
一緒に暮らすのをやめたらいいと思うんだけどね。そうしたら、どうなるんだろう。
もちろん恥だと思っている。就職できなくてそうしたわけでなく自分でえらんでそうしたんだけど。半分しかたない事情もあったが。
ニートなんだけど最近は半分ニートじゃなくなりつつある。つまり微妙に求職活動をしている。
しかしなんだ。東大というレッテルで全て見られるのが嫌なんだよな?「東大のくせに」とか「東大もたいしたことねーな」とか「だから東大卒はつかえない」とか。
あれはカンベンしてもらいたいもんだよな。おなじ大学の人達にももうしわけない。予定通りなので働くのは嫌じゃないけど。
1つ書きたいこと思い出したからついでに書く。望月新一さんがABC予想の証明したかもーってことで脚光あびてる。
京大数理研の有名人。でHPには「宇宙際幾何学者」とあるんだけど、これについてネットでは
「望月さんの異色の天才ぶり、超人ぶりを表わしたぴったりな肩書きだ」みたいなことが言われてた。ん?勘違いしてない?
数学畑の人でもあんまり知られてないけど「宇宙際幾何学」って分野があるの。IU幾何。
http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~motizuki/Kako%20to%20genzai%20no%20kenkyu.pdf
[引用開始]
注目すべき対象は、特定の数論幾何的設定に登場する個々のスキーム等ではなく、それらのスキームを統制する抽象的な組合せ論的パターンないしはそのパターンを記述した組合せ論的アルゴリズムである。
このような考え方を基にした幾何のことを、宇宙際(Inter-universal=IU)幾何と呼ぶことにした
[引用終了]
同じく東大卒40代、子供は1人、小学生。年収は10万ドル台半ばだから最近の円相場ならあなたと似たようなものかなあ。釣りじゃないとして、同窓生としてマジレス。
子供がまとわりついてくれるなんてほんの数年のことだし、接する時間が少ないからなおくっついてくるってことはあるかもよ。平日については、6時半に帰宅して8時半に一緒に寝て、3時〜4時くらいに起き出して何かするってのはどうかな。自分はそうしてたし、子供が小さい同僚もだいたいそんな感じ。
家族の理解だけど、まず育児のしんどさを理解すべき。うちは女房が出産後身体壊してたんで子供の面倒もかなり見たが、正直、仕事よりきついよ。何がきついって、全く目を離せないのが一番きつい。週一回でも、「誰かに完全に任せて目を離していられる」だけでものすごく助かる。奥さんもそれを期待してるのかもしれない。例えば「土曜日は丸一日オレだけで子供を見るから、日曜は外出させて」っていうのもだめ? あるいはベビーシッター雇うとか。自分は仕事の関係で週末空けたり出張入れる時はベビーシッター雇ってた。
それから、出かけられないから人脈作れないっていうのは、この時代、どうなんだろ。ネット使って何かしらアウトプットしてれば自然と広がるもんじゃない?それで、「どうしても出てくれ」って他人から声がかかるようになれば、家族も説得しやすいでしょ。人脈作って世の中に出てから世界を変えるんじゃなくて、一人でこつこつと世界を変えている人に人脈が出来て世の中がその人を引っ張り出すんだよ。どうも順序が逆なような気がするな。
まあでも、正直、「卒業生を中心に幅広く人脈を…」ってあたりの感覚が私にはわからないんだけどね。人脈って「一緒に何かつくること」でしか広がらないと思ってるんで。国外にいるから、同期生がたまたま出張で来てる時には会ったりするけど、人脈づくりとか考えたことないなあ。
しかし、些細な、というか、贅沢な悩みを抱えている。
先日土曜日、東大で卒業生を中心とした交流会、勉強会のようなものがあった。
自分も出席して人脈を拡げたいと思ったが、
「子供のお守り」で、家にいなければならなくなった。
「もっと活躍したい、世に出たい」という欲求が、心の片隅にある。
「自分の行動で、世の中を多少なりとも変えたい」という、
少しエリートっぽい潜在欲求があり、そのために
「卒業生を中心に幅広く人脈を広げて、政治的に自分の存在をアピールしたい」
という欲求が、どこかにある。
しかし、これって、家内からすれば、理解できない欲求、となる。
「別に今の仕事で普通に喰えてるのに、今更人脈開拓に労力を割いて、どうなるの?」となる。
まして、家内に言わせれば、
「DINKS家庭ならまだしも、幼子を抱えているなら、土日は幼子の面倒を見るのが、父親の務め」となる。
(因みに専業主婦)
経済的必然性もないのに、人脈開拓だの勉強会に出るのは、親業放棄、ということなんだろう。
勉強会を主催している東大の先輩も、確か自分の子と同じ年齢の幼子がいた筈だが、
うまいこと家庭の理解を得ているのだろう、ほぼ毎週のように勉強会で活動している。
それが何とも羨ましいのである。
20時前に帰ると、どうにもいけない。
この時間に帰ると、子供がまとわりついて、「一緒に寝る」と言ってきかない。
一緒に寝ると、なかなかベッドから出れない。
こっそり寝床から抜け出そうとしても、どういうことか、「気付かれてしまって」、泣かれるのである。
「子供が父親の帰りを待ちきれずにネンネしてしまう」21時以降の帰宅にしなければいけない。
下の子がいわゆる「パパっ子」で、土日も、就寝時も、行動が制約されてしまう。
これで経済的に困窮しているとか、仕事で忙殺されている、という「正当な理由」があれば、
家内も子供に言い聞かせるのだろうが、幸か不幸か、「子供と一緒にいられないための正当な理由が存在しない」
そのため、パパっ子の相手をせざるを得なくて、
http://anond.hatelabo.jp/20110202035306
論理操作能力が低い自分でも、論理操作能力が高い人間が多く集まる東大という環境にいられたおかげで、こういう論理操作能力が高い人間の中で立ち回る技術を身につけることが出来た。人類の大半は、論理操作能力が低い人間だ。みんなで、共闘して奴らを追い落とそう。
この増田の文章力を見る限り「東大卒」という自称は極めて怪しいと思うのですが…、
(無駄に長い割に言いたい事が全く伝わってこない部分を見ると二次試験で国語を受験した人間のようには思えず、せいぜい地方駅弁レベルではないかと思えます。あと職業的にあまり文章を書く訓練を受けてないような印象を受けます。「シンフリ」とか「シケプリ」・「シケタイ」・「シケ長」とかいった言葉は伊東乾氏の著書やブログを読めば出てきますので、これだけでは東大卒の証明にはなりません。そもそも進学振り分けの事はふつう東京大学の内部の人間は「進振り」と内部の人間は表記します。)
結論が「人類の大半は、論理操作能力が低い人間だ。みんなで、共闘して奴らを追い落とそう。」という部分にこの人物の人格の最低さが現れています。要するに、自分より優秀な人間が世の中に存在する事が気に食わないのでいじめのような手段で排除しておきたいということでしょう。こういう人間の屑が社会に一定数存在して、誰かを妬んでいじめ殺したりするんでしょうか。
こういう人間がチームに存在すると、他人の足を引っ張って集団のパフォーマンスを低下させてまともなOutputが出てこなくなります。最悪です。そもそもこの人物が言いたいらしい「論理操作能力」というのは、もっと一般的な言葉で言い換えると「国語力」のことでしょう。別に遺伝的な能力でも先天的な能力でもありません。地道な学習によって向上させる事ができます。(この元増田の文章を読む限りでは、まともに勉強を積み重ねてこなかったように思えますが。)
この人間の屑のように、自分の他に優秀な人間がいる事が気に食わないので他人の足を引っ張る事に生きがいを見出している人間には、フィギュアスケートで浅田真央選手の跳んだクリーンなトリプルアクセルを執拗にダウングレードし低い点数をつけるテクニカルコーラーの天野真氏が有名ですが、このような人間が存在すると、その分だけ集団のパフォーマンスや技術・文化の進歩が停滞する事になります。最近の家電業界・音楽業界・TV業界などで面白い物が生み出されていないのは、このような考え方の人間がグループダイナミクスによりある程度の地位を確保し、優秀な人材を共闘して追い落としているからではないでしょうか。
結論を書いておきます。
そもそも「論理操作能力が高いヤツの前では、自分のやっている仕事を面白そうに見せない。論理操作能力が高いヤツが自分の仕事を持って行くからだ。」という事態を招いたのは、貴様の過去の言動に(詳細は書けないが非常に重大極まりない)問題があるからだろうが。
http://anond.hatelabo.jp/20120723040048
ここは夢見がちサロンではありません。
内定が無い人が持論を見せびらかす所ではありません。
分かりましたか?
いや、うん、すまなんだ。申し訳ない。言い過ぎた。ごめんなさい。
本当は、東大現役合格とか、東大卒なんかに丸っきり価値がない事なんて分かっているよ。将来がなくなってしまうと、それぐらいしか自分に誇れるものがない。
既に会話になってないが。
お前の汚名は既にお前が思ってるより遥かに拡がってるよ。
twitterではみんな(良くも悪くも)大人だから、当たり障りの無い事しか言わねーからな。
お前の人間性がクソだってことはみんなちゃんと分かってるから。
それを広めたのはお前自身であって、お前以外の人間は誰も悪くない。
お前はどんな状況になろうとパパの金でのうのうと生きるんだろうけどな。
何が自殺だよ。臍で茶が沸くっつうの。
東大卒。東大時代を思い返すと、学生も教員も、二割ぐらいは、超優秀な上に人格者で、遺伝子レベルで優れているとしか思えなかった。自分も東大に入れたが、単なる劣等種の一員にしか思えなかった。自分のような劣等種の存在こそ、諸悪の根源であり、劣等種が滅び、彼らのような優等種が我々にとって変わるべきであると確信した。
東大はたまたま比率が多い方だっただけで、優等種は、どの世界にも多かれ少なかれ存在している。優等種は、優等であるが故に人をあやめない。だから、優等種が我々劣等種にとって代わるためには、我々が率先して自殺しなければならない。人口の大半を占める劣等種にとって、自殺は世の中に貢献する善行なのだ。
考えてみて欲しい。自分は社会に必要とされている存在か?自分の子孫を残す価値があるか?この世界は本当に、何がなんでも生きたいほど、面白い世界なのか?
大半の人間にとって、答えは否なはずだ。多くの人間は、社会にとって生きてようが死んでようが大差ないはずだし、そこまで面白いものでもない。すべての原因は、自分が劣等種に生まれたから、劣等種である自分が存在するからだ。
自分が劣等種であると自覚したものは、自殺する事が望ましい。そうすれば、優等種が我々にとって代わり、より良い社会が実現できる。
内部障害者で東大卒だが、弱者の自殺を社会は望んでいると強く感じる。
自分の障害は先天性心臓病(内部障害)なので、見た目には全く分からない。見た目で障害が分かるかどうかが、社会に歓迎されるかどうかの分岐点だ。
人は予想より出来れば歓迎し、予想より出来なければ憎悪する。
障害が見た目で分かれば、人は健常者より出来ないと予想して歓迎する。
見た目で分からない障害は全く逆。勝手に健常者であることを前提に期待され、そして、跡から障害者であることを言うと、失望される。
自分は障害を持って生まれてきたから、頭が良くなければ社会に抹殺されると思って東大に入った。言っちゃ悪いが、東大に入れる障害者は少ない。自分と同じ疾患で入ったのは、おそらく自分の他にこの10年で1人いるかどうかだろう。この疾患を持つ者の中では、学歴はトップレベルのはずだ。
そのトップレベルの自分でさえ、障害を他人に伝えれば失望される。自分の障害は先天性だ。生まれつきだ。つまり、日本社会は東大を出ようが何だろうが、私と同じ疾患を持つ者には生まれてきてほしくないのだ。存在して欲しくないのだ。日本社会は、自ら手を下して我々を殺すのも面倒くさいから、ただ自殺して欲しいのだ。手がないとか足がないとか、目が見えないとか耳が聞こえないとか、そういう分かりやすく、健常者を事故満足させるような障害者以外、障害者は要らないのだ。それが社会の本音だ。
私の疾患は生後すぐに手術しなければ数歳で死ぬ。私はこの社会に望まれて生まれてきたのだと信じてみたこともあったが、実態は違ったというのが結論だ。珍しい症例だから大学病院でモルモット的に直されただけだ。私に限らず、手術しなければ死ぬことが確実な疾患を持って生まれた者は、どうせ育った所でこの国ではマトモな職に付けないのだから、赤ん坊の段階で処分しても良いのではないだろうか。その方が、日本社会と本人の双方のためになり、win-winだ。なにしろ、そういう状況に生まれた私自身がそう感じるのだから、実体験一票だ。よく検討して欲しい。