はてなキーワード: 吾妻ひでおとは
80年代あたりから90年代にヒット作を出して作品が映像化もされてるけど、そこまで大ヒットというわけじゃない。
作家になれなかったら自殺するというくらいだから、本業があって作家は副業ってわけじゃないよな。
どうやって生活してるんだろう。
ちょっと前に吾妻ひでおが、某ベテラン漫画家の名前をだして「〇〇くんがバイトをしてるコンビニに行ったら~」と言っていてショックを受けたわ。
その漫画家も、大ヒット作はないけど、けっこう有名だと思うんだけど。
漫画家のほうはツイッターで見るけど、作家のほうはネットで検索した限りでは消息不明。HPも更新が10年以上前に途切れてる。
漫画回に関しては吾妻ひでおとかが暴れてた頃から酷いもんだったからまあしょうがないにしても、アニメの方がここまでロリコンになるとは思ってなかったよ。
まあ結局は深夜アニメって枠が出来たせいなんだろうな。
衛星放送ってのも良くなかった。
あっちこそまさに何でもありだ。
おっぱいボインボインのちゃんねーが風呂入ってるのをテレビで放映しちゃ駄目っていうなら水戸黄門だって放送しちゃ駄目だかんな。
でもツルペタ(これももう死語かねえ)が風呂入ってるのをお色気シーンとして映すアニメがこうも多いのはどうも座りが悪いね。
全体の5%ぐらいがそうなら別にいいんだが、今はロリコンアニメの割合がだいぶ増えてる。
こりゃよくねえよ。
何がよくねえのか上手く言えねえけど何か不健全だ。
LGBTの連中はどうにも凶暴でよくねえよ。
敵に回したくねえ。
つうわけで今日はこのへんで終わりだ。
東京在住の30代男だがアルコール依存の治療開始から六ヶ月が経過し、一定の回復をしたのでその過程を記録してみたい。
γ-GTP 589→69 AST 84→31 ALT 106→68 TG 1015→178
まで回復した。
数字で言われても大多数の人はさっぱりわからないだろうから単純化すると入院レベルの人間がとりあえず正常な体になったと思ってもらえればいい。
さて多くの文章がそうであるように、大抵の人は最後まで読まないだろうから最初に自分なりのこの文章の結論を書いておくと
「アルコール依存から抜け出したいのなら自分の抱えた問題(アルコールに限らない)を率直に話す事ができる相性が良く優秀な精神科医を見つけ、よく話し合いながら治療を進めるといい。ただそれがあなたの人生を良くするかはわからない」という身も蓋もないものになる。できることなら「まだアルコールで消耗してるの?」「アル中は精神で克服できる」とか頭の沸いた自己啓発本でも出して一儲けしたい所ではあるが、残念ながら現実というやつは概ね散文的で面白みがない。
確かに肉体の調子は非常にいい。自分という存在からここまで充実感を感じ取れる日が来るとは思わなかった。
アルコール依存を抜けだした僕自身が未だに「抜けだしたのは良かった事だろうか?」と自問自答を続けている。だから他者に断酒を勧めたりはしない。この文はあくまでひとりのとあるアル中の回復記録として、参考程度に読んで頂ければ幸いです。
まずこの文章を書くにあたって自分がかかっていたアル中の定義をしておきたい。アル中は貧乏旅行なんかと一緒でγ-GTPの高さでマウンティングする人もいるし、wikiなんかでも色々と書かれているが、自分の場合は「アルコールによってQOLが下がっている」というシンプルなものにする。世間のアル中のイメージは吾妻ひでおのマンガのように連続飲酒をし、手が震え、幻覚をみたり暴れたりしている人のイメージが強い。
しかし自分はそれとは全く異なるタイプだったので自身がアル中であるという自覚すらなかった。仕事に普通に行き、帰宅するとビールの500ml缶を一日6~8缶淡々と飲み、翌日二日酔いで仕事へ行く、という事を繰り返していて入院レベルまでいった(似たような壊れ方をする小説の人物からとってユージーン型と呼んでいる)。世の中には様々な不幸な家庭があるようにアル中にも様々なタイプがある。
20代の半ばから不眠に伴う飲酒量の増加により、何件か精神科に通っていたが、自身の抱えた問題を率直に打ち明けられる医師に中々巡りあうことは出来なかった。
マッチョイストだのミソジニストだの差別主義者の豚野郎と言われればそのとおりなのだが、性格的にどうしても同年代の医師や、女性の医師に悩みを打ち明けられなかった。基本的に精神科医は患者の情報を当人の発言から得る部分が多いので、深刻な問題を抱えていても話せないとどんな名医でも対処が難しいのではないだろうか。
今回僕は精神科に通い始めてから八人目の精神科医の先生であたりを引いたわけだが、もし相性が悪いと思ったら拘泥せず別の医師を頼った方がいいのではないかと思う。
この先生は四十代半ばの男性で学校教師を経て精神科医になった異色の経歴の持ち主で、僕よりも遥かに精神的な地獄を抱えているが、持ち前の頭の良さでそんな自分にすら醒めているような超然とした空気をもった人で非常に問題を話しやすくてありがたかった。
■基本戦略
とりあえず入院は拒否し、通院で治療を選択。基本戦略は抗酒剤シアナミドの服用により飲酒の可能性自体を排除、アルコールに対する身体的な欲求は断酒補助剤レグテクトで抑える、いままでアルコールに頼って来た睡眠は睡眠導入剤で、アルコールでごまかして来た精神面の色々は精神科でぶちまけつつストレスを減らし、抗不安薬で抑えるというスタンスを取った。そしてこれらでどうしようもなくなった時は先生から勧められたレボトミンを飲んで長時間寝倒す「寝逃げ」を行っていた。これも自分の置かれた状況から選択したものなので、人によってはちゃっちゃと入院して治した方がいい場合もあると思う。
■登場薬品について
これも精神科医同様相性によって全く評価が変わるので自分に合っていたものを挙げるが、これらの評価は全て自分の体感だし、当然の事ながらそれが他の人の適解であるとは言えない。シアナミドにしてもアレルギーによって服用できない人はいるらしいし。とりあえず相性が悪いと思ったら我慢せず、状況を報告できるような関係を築けるような人を担当医として選ぶといいと思う。
本編の主役にして宿敵
一応は由緒正しい歴史を持つ薬でもある。精神、肉体両面に凶悪な依存症を持ちながらもコンビニ行けば変えてしまう恐ろしいドラッグ。歴史上の薬物による死の統計をとれたらヘロインコカインなんぞ足元にも及ばないぶっちぎりのトップになるだろうが、同時に文化的な面やコントロールできる人にとっては素晴らしく、評価が難しい方。政治家でいうならロバート・ムガベとかだろうか。自分は後述のゆれ戻しの時にアルコールが自分の肉体と精神を徐々に蝕む代償としてどれだけ精神深くの暗黒から目をそらさせてくれたかに気づかされたので愛憎半ばしている。
抗酒剤
簡単に言ってしまえば人を強制的に超下戸にする無味無臭の液体の薬。持続時間は人によって異なるが朝夕食時の一日二回の服用が基本。アルコールを飲むという選択肢自体をなくしてしまうので自分のような意思の弱い人間には非常にありがたい薬だった。僕の場合、仕事の後の飲酒欲求が強いので二度目の服用はまだ気力のある15時にしていた。懲罰効果によって飲酒を止める薬である以上、罰がどの程度の効果かわかりたかったので一度7時に服用した後、15時にビール1Lを入れてみた。効果は覿面で、悪寒、動悸が早くなる、湿疹、なにより全身の細胞が一斉に反逆を起こしたような気持ちの悪さで立ち上がる事すらできなくなり嘔吐をぶちまけた。寄生獣の後藤の最期の気分や喧嘩稼業で梶原さんに屍を入れられた工藤の気分を味わいたい人はやってみるといいかも。死んでも知らないけど。
脳に作用し、アルコール依存で高まっている神経活動を抑制することで「飲みたい」という飲酒欲求をおさえるお薬との事。初期は有り難みを感じなかったが、二ヶ月目くらいから地味に効果を自覚。なんだかんだで大変役に立ってくれていた。地味だけど。
影の主役。元々不眠からアルコール依存になった人間なので飲めば確実に眠れる安心感は何にも変え難かった。先述したように薬は人それぞれ相性があるが、以前の別の精神科で処方されていたマイスリーよりもこちらの方が朝、遥かに快適に目覚められた。
本来は向精神薬だが、睡眠導入剤の効き目を強くする効能もある。自分は、先述した「寝逃げ」用にサイレースと一緒に服用していた。その効果は絶大で昼に飲んでも落ちるように眠り、翌朝まで目を覚まさなかった。ただし朝のダルさと眠気が非常につらく、飲酒欲求が高まりすぎた時や、ネガティブな精神状態に呑まれそうなとき、そして翌日が休日である時意外はなるべく服用しないようにした。
・ホリゾン
一番軽度の抗不安薬。事務作業などに与える影響はほぼなし。自分はボクシングのジャブのように「とりあえずホリゾン」な感じの基本として使っていた。メタルギアソリットで狙撃時の手の震えを抑える為に出てきたアイテムのジアザパムでもある。
やや強めのお薬。事務作業においては能率が約20%低下する印象。
かなり強めのお薬。事務作業の能率に関しては50%以上低下する印象なので特に精神的につらい時、仕事終了後に服用していた。
■治療記録
最初に断酒補助剤のレグテクトによる治療を試みるも、精神依存が酷かった為にあまり効果が感じられず失敗。一週間目でシアナミドを処方してもらう。使用開始から三日間は常に頭の中身を酒が占めているような状態だったが、「飲む」という選択肢自体がなくなっている為に飲まずにいられた。ちなみに肉体的なアルコールへの依存は断酒から三日目で、精神的な依存は約三週間である程度消えた。この時期は全ての気力を「酒を飲まない」につぎ込んでいたので基本食事は外食、もし家で食事する時は洗う手間を省く為に使い捨ての紙皿を使うなどして乗り切った。バランスのとれた食生活なんてする気力も残っていなかったがとりあえず楽に摂取できるリンゴやキウイなんかは食べるようにしていた、
・第二期(一ヶ月目~二ヶ月目)
断酒の継続により心身ともに調子が良くなり、ハイになる。この時期は今思い返すと穴に入りたい気持ちになるが、友人に酒のない生活の素晴らしさをドヤ顔で語りウザがられていた。定期的な飲酒欲求はあったもののレグテクトと気力で無事やり過ごすことができた。代わりといってはなんだが、甘いものに対する渇望が極めて強くなり、体重はそれなりに増加した。
・第三期(二ヶ月目~三ヶ月目)
NHKの集金のように頼まれもしないのにある日唐突に今までとは比較にならない負の感情が襲ってきた。ハイになっていた揺れ戻しと精神にかかっていた霧のようなものが晴れた事で自分のアル中になった根本の原因である「家族への憎悪」がどれだけ強烈だったを自覚する。全て投げ出してアル中に戻ってしまいたい誘惑に何度も飲み込まれかけた。もし家族ブチ殺しても罪にならない世界だったら本当に殺しかねなかったと思う。この時期はいままで週1ペースだった通院が最大で週3になり、薬の量も増え、診療時間中ずっと先生に対して家族への憎しみをぶちまけ続けていた。王様の耳はロバの耳ではないが、この時期の先生のサポートがなければアル中に戻るか、ムショ行きにでもなっていたかもしれない。アル中からの回復は三ヶ月がひとつの山らしいが、とにかくこの時期は本当につらかった。
・第四期(三ヶ月目~四ヶ月目)
揺れ戻しが終わったのか精神面の憎悪は小康状態に落ち着きある程度楽になるが今度は代わりに虚無感が強くなり、「なんで自分はさっさと対策をとらずこんなに人生を無駄使いをしていたのか」といった大量の「たられば」 に捕らわれることが多くなり、第三期ほどではないが飲酒欲求が高まるときは多かった。通院はほぼ週一に戻ったが、今度は先生に対して「たられば」の話ばかりしていた記憶がある。ただ小旅行をする気力くらいは戻ったので休日は鎌倉に行って観光するでもなくひたすら海を眺めていたりした。
・第五期(四ヶ月目~六ヶ月目)
「たられば」状態が少し落ち着いてきて気力もある程度戻った事もあり、これまでは考えもしなかったペットを飼うという選択肢を思いつく。僕個人に関してはこの選択はとても正解で、無聊が大分慰められ、大いに助けてもらった。自分のような一人で夜を過ごす時間をもてあますタイプには犬や猫、小動物でも爬虫類でもなんでもいいが、余計な事を考える時間を減らせる存在は大事なのかも知れない。そして大分生活も落ち着くようになった。家族への憎悪も「できるなら殺してやりたい」から夜寝る前に朝起きたら携帯に警察から「あなたのご家族がみんな死にました」という連絡が入ってくれますようにと願う程度には整理された。体調に関しては非常に良く、生活も充実している。時折強烈な負の感情が出てきているがなんとかやり過ごしつつ今にいたる。
■まとめ
アル中を回復して以来、めんどうくせえ事に友人知人に「アル中の事ならあいつに聞くといいよ」な感じで広められ、たいした面識もない人から相談を受けるようになったが、正直言ってこちらに言える事なんぞ冒頭に書いた「アルコール依存から抜け出したいのなら自分の抱えた問題(アルコールに限らない)を率直に話す事ができる相性が良く優秀な精神科医を見つけ、よく話し合いながら治療を進めるといい。ただそれがあなたの人生を良くするかはわからない」 という結論くらいしかない。世の中には「アルコールに逃げるのなんで心が弱い証拠、他人のせいにせず自分の人生を見つめなおし、責任は自分自身で追うべき」なこの糞馬鹿はよほどおめでたい人生を生きてきたんだろうなと思わせてくれる発言をかましてくれる人もいるが、もし自分の人生に率直に向き合ったら他殺や自殺に行く人間なんざざらにいると思し、その人の人生に責任を負うことも自分にはできないので積極的にお勧めはしない。自分に関しても肉体は問題なく健康になったが、精神面に関しては断酒前には起きることがなかった唐突に強烈な憎悪がとまらなくなるという事態が未だにある。ただ、自分が家族に全く愛情を感じた事がなく、憎悪しか持っていなかったという事に気づけたのは自尊感情の回復に非常に役にたってくれたし、これからの自分の人生にとって何よりの収穫であったとは思う。とりあえず、アル中から回復したいと考える人々がいい医師に出会え、回復して楽しく人生を送れるようになってくれるよう元アル中の一人として願っています。長文にお付き合いありがとうございました。
■おまけ
読んだ本
「禁煙メソッド」でも有名なアレン・カーによる著作。もの凄く端折ると「酒は凶悪なドラッグなのだから自己管理するなんて無理。味が美味しいと思うのも広告会社の宣伝やら依存症状によりそう思っているだけ。断酒の禁断症状なんて少し耐えれば治ります。さっさとやめましょう」というある種の極論。周りにもこれを読んですっぱり酒を断ち切った人がいたが、その人は肉体的な依存はあっても精神面には深刻なトラブルを抱えていない、というかむしろ鋼鉄のメンタルを持った人だったので、そういう人には役に立つ本かもしれない。ただ精神面に問題がある自分のような人間にとって、医師に頼らずこれ読んで一人の力でで禁酒しようとすると、第三期の時のような強烈な揺れ戻しの時にいささかならずやばいことになるのではないかと思う。
このエントリーを読んで、どうしても萌え絵フォビアについて言いたくなったことがあります
http://anond.hatelabo.jp/20151203015340
それは「一部の女性は母親、特に娘のいる母親になると、一部の萌え絵を嫌いになる」ということです
うちの母と友人がそれでした
しかも彼女らはギャルゲーなどソフトな男性向けコンテンツも楽しむような元オタクです
親になってから子供を傷つけそうな大人、例えばロリコンを許せなくなった
吾妻ひでおの描く女の子は子供に見えるので、吾妻ひでおのエッチな漫画がロリコン漫画に見えるようになった
だから吾妻ひでおの漫画、ひいては頭身の低い幼児体型の萌え絵が嫌いになった
例えば、まどマギの頭身と体型はアウト、けいおんの頭身と体型はセーフ
また、頭身があっても10代の女性キャラが男性に媚びるような描写やパンチラにはドン引きする
例えばけいおんだと、あざといけど小動物的なかわいさが目立つうんたんはセーフ、萌え萌えキュンはアウト
ジブリアニメだと、男性に媚びない思い出ぽろぽろはセーフでパンチラだらけの魔女宅はアウト
友人は、子供が生まれても「かわいい」「ほっこりする」と言って非オタの旦那に隠れて萌えアニメを見ていた
ある日2ちゃんねるのまとめサイトを見ていて、10代のキャラに欲情する男たちの存在を再確認した
しかし学園ものの萌えアニメを見ながら「うちの娘もいつか学生になるのか」と感慨にふけっていたところ、そのキャラを性的な目で見る男たちを思い出した
そして自分の娘も男性から性的な目で見られる可能性にも気づいた
それ以来、10代の萌えキャラが好きな男たちと成長した娘を性的な目で見る男を重ねてしまい、萌えアニメを楽しめなくなった
母も友人もオタクでしたが、母になったがゆえに萌え絵フォビアになりました
お盆だからというわけでも無いが、昔読んだエロ漫画のタイトルと作者名が分からず悶々としているので、誰か助け舟を出して欲しい。
・絵柄は吾妻ひでおっぽい。
・ヒロインは高級娼婦の家系の美少女で、主人公の学校に転校してきた所から始まる。
・ヒロインの見た目は清楚な美少女だけど、並の男はすぐに果ててしまう身体の持ち主。
握手しただけで男を射精させる。童貞なら100パーセント。非童貞でも60パーセントの確率。
・主人公がヒロインと握手してみんなの前で公開射精してしまうのが最初のエピソード。
・不良たちに輪姦されそうになるが、手足を抑えつけている男が射精してしまう始末。
・最終的に全身コンドームを使ってやろうとするも、数秒で果ててしまった。
・主人公とヒロインは惹かれあいSEXするも、特異体質の所為ですぐにイってしまうので、要求不満に。
・中盤で相手の意識が無いときは特異体質が無効になる事が判明。気絶したヒロインに挿入する主人公。逆に気絶した主人公を逆レイプするヒロイン。
・先に気絶させようと、でかい木槌で殴りあうシーンあり。
・ヒロインのお母さんもフェロモン満載の美女。ヒロインを結婚させようと登場。
・ヒロインの結婚相手の条件が特異体質に耐えられる男なので、母親は男漁りをする。
・見つけたのがヒゲもじゃの先生で、母娘の特異体質が効かない剛の男。ヒロインの旦那候補なのに、自分が楽しむ母親。
・そんな中、主人公とヒロインが初めて普通のSEXに成功する。理由は、相手に夢中になれば耐えられるとの事。
・ラストは主人公とヒロインの結婚式。ヒロインの花嫁姿でオナニーする招待客達でオチ。
記憶違いがあるかも知れないけど勘弁してほしい。
もう一度読んでみたいのに、探す手がかりがなく、悩んでいるのです。
電子書籍などいつか『電獣ベバリイ』が侵略してきて電気が使えなくなれば消えてしまう。— 吾妻ひでお (@azuma_hideo) 2015, 2月 12
だから私は紙の本にこだわっている。— 吾妻ひでお (@azuma_hideo) 2015, 2月 12
文章が書けなくなりました。
「ここに書いてるやんけ」と思うかもしれませんが、それはここがほぼ完全に匿名だから。
正確に言うと「自分のブログを更新できなくなってしまいました」ってことです。
ネタがないわけじゃない。
時間がないわけでもない。
書こうと思うといやな気分になる。
なんでだろうか。
以前はもっと楽しんで書いていたはずなのに。
「ここ変えたらもっと面白くなるんじゃね」とか独り言言ってました。
完成した文章を見て一人で笑っていました。
ええ、とても痛い子でした。ほんとうに。
でも面白かった。
他人が見て面白いかどうかはよくわからないけど、知り合いには好評だった。
記事の没が増えた。
記事を書いていても楽しくない。
理由はわかっている。
痛い子じゃなくなったからだ。
じゃあ自分との違いは何なのか?
以前はそれを痛い解説をつけることでなんとか面白くしていた。
だがそれができなくなって文才で勝負しなくてはならなくなった。
それが今の状況。それはわかっている。
そして解決法もわかっている。文才を上げればいいだけだ。
だが、はっきり言ってそれは無理だ。
いや、無理というより文才がつく前に心が折れてしまうと言ったほうがいいか。
ここまで読んでいただいた方には感づかれてしまったであろうが、自分には文才以前に語彙力が足りない。
語彙力は日々の積み重ねだ。
他人と会話し、小説を読み、映画を鑑賞し、自分に還元していく。
漫画やゲームでも多少は語彙力はつくだろうが、やはり状況説明が画として示されてしまうので、どうしても差がついてしまう。
もうすでに遅いのかもしれない。
いや、もう遅いのだろう。
今から多少小説を読んだくらいでどうもこうもならないのは間違いない。
だがブログをやめたくはない。
さて文才がつくのが先か、心が折れるのが先か。
どうなることやら。
実は
人間何にもなくなったほうが強く生きれるってもんです。
吾妻ひでおみたいに失踪してしまおうかね?すぐ帰ってくるタイプの失踪ね。
本いっぱい持ってどっか行ってしまおうか?
俺は三十歳なんだが、吾妻ひでおといえば、私の記憶は小学校高学年の頃(1989年ごろ)に読んだ新井素子のSF作品の挿絵を思い出す。
当時、それはすでに図書館に格納されて5年以上経った古い書物であり、新井素子の「絶句……」や共著「ひでおと素子の愛の交換日記」に挿絵を描く吾妻ひでおは、例えば萩尾望都や楳図かずおと同じような「70年代という過去」の作家だった。手塚治虫や藤子不二雄、横山光輝やちばてつやが歴史に残るような過去の漫画家で、高橋留美子や鳥山明、ゆうきまさみが過去に1作のヒットがある実績のある漫画家で、冨樫義博や青山剛昌、椎名高志が気鋭の新人だと思っていた頃のことだ。ロードス島戦記のリプレイはやってたけれど、テーブルトークRPGはさほど流行しておらず、カードゲームといえば「モンスターメーカー」しかなく、ライトノベルという分類はまだなく、スニーカー文庫が創刊されたかどうか、富野由悠季がガンダムの小説を書いていたのが唯一アニメの小説だった頃。おれら小学生が争ってドラクエ3を遊んでいた頃の話だ。
それから二十年経って、あのころ新井素子を読んでいた俺は、「サマーウォーズ」を見てぼろぼろと泣く微妙な大人になったけれど、吾妻ひでおは相変わらず二十年前と同じようなスタンスで「けいおん!」を見ていて、俺はそれがすごく嬉しいのだった。
今回の騒動は、海のトリトンを見て育ち、イデオンとかダンバインが好きだったうちの母(幼稚園に入る前の頃に俺は毎週イデオンを見せられていたらしい。記憶してなくて本当によかった)が、俺が中学の頃にはまっていた「ぼくの地球を守って」を読んで、「なんだ。こんだけ長いのに、ただの痴話喧嘩じゃない」と言い放ったのに対する反発みたいなもんかなあと、なんとなく思う。その後母が俺に勧めてきたのは「百億の昼と千億の夜」であって、まあなんだ、昔はものを思わなかったことであるなあ。
なんか、日記を読むと「俺は吾妻ひでおは知らないけど、「けいおん!」に関するコメントは分かるぜ」とか「むかつくぜ」みたいなのばっかりなので、ちょっと気になっていた。俺よりあと十歳年上の人なら、こんなすれ違いのような世代の話としてじゃなく、吾妻ひでおの最盛期を知る人の話として語れるような気がするんだけど、その世代の人はたぶんカジュアルに「けいおん!」を見てはいないんだろうなあ。
そういう「オタクもすでに2~3世代を重ね、ファンの世代がすでに分断されているのに、作家本人はその断絶を乗り越えた場所にいる」という意味でも、吾妻ひでおの今回の発言は「すげえな、おっさんいくつだよ」と思ったわけだが、そういう「長い時間の感覚」はどうしても若い人には伝わりづらく、そこが非常にはがゆく感じるので、俺はこうして増田に描いたわけだ。
俺には、吾妻が
拗ねて斜に構えてる子供にしか見えなかった。
皆が盛り上がるタイミングに上手く合わせらんなくて
「なんだよ、あんなの。先生までいっしょになってハシャいじゃって、みっともない。
みんな普段の授業がそんなに嫌なのか?」
なんつってね。
っていうのはすっごく同意だ。
でも、食うモンが違う人間は、あんな風には言わない。
「皆が美味そうに喰ってるから、興味津津だけど、
流行の後ノリは気分悪いし、
ちょっと構えちまったもんだから、上手く消化できなかった。
それがつまんないし、なんか悔しい」
そんだけの話に見える。
以前、読書などで読むのにエネルギーを必要とするものをカロリーの高いものと称して、軽く読み流したりして簡単に鑑賞できるカロリーの低いものと対比させて論じている記事をネットで見た覚えがあるのだが、うまく検索して探し出すことができなかった。
吾妻ひでおのけいおん!に対する感想とそれに対する反発は、おっさんが何か言ってるよ、と若者が反発する世代間の対立ではなく、カロリーの高いものを摂取する事を好む層(吾妻ひでお)とそれを好まない層(けいおん!ファン)の対立なのでは、と思った。
おそらくこういう対立は同世代間でもあるんじゃないだろうか。
ただあまりこの辺りを単純化して述べるのも良くなくて、高カロリーの作品をあまりエネルギー消費することなく軽く流して鑑賞する人もいるだろうし、けいおん!をエネルギーを使って鑑賞する人もいるかもしれない。
当然高カロリー低カロリーあわせて両方楽しむ人だっているだろう。
吾妻ひでお本人も案外けいおん!のような作品を楽しんでしまう素養は十分に持っているのではないだろうか?ただし自分が創作者なので心がけとして志を高く持つというか、低カロリーの方向に流されてはいかん、というような意識があり、あえてあのように発言してしまうという事もあるのではないだろうか、と思った。
ロリコン(萌え)漫画の始祖である吾妻ひでお先生が、けいおんのことを批判した発言が物議を醸し出しています。
ただ、吾妻氏が「気味が悪い」とまで酷評したのは、あくまでもアニメ版。原作版はまあまあと一応それなりとはいえ、評価していますが、登場人物のフィギュアを話題にしているので、キャラクターや原作自体はまんざらでもない様子です。
だったら、いったい何が吾妻先生のしゃくに障ってしまったのでしょうか?
原作では、
主人公の唯がギターを買う→15万円→登場人物の父親経営の店だった→親族特権で5万に値引きだったのが、
アニメでは、
ギター購入→なぜか25万円にアップ→みんなバイトして買おう→私は自分で買える範囲のギターにするよ→やっぱり欲しい→登場人物の父親経営の店だった→親族特権で5万に値引き
という展開になっています。そりゃ、「ハァ?バイトの意味ないだろ」とカチンときてもおかしくはないでしょう。しかも、後で原作通り「こんな重たくてネックの太いギターじゃ演奏できない」(大意)と愚痴をこぼすシーンまでご丁寧にありますから、ますます「ハァ?」と思われても仕方がないです。
アニメ版は、原作の骨格しかない話を膨らませるのは良いとして、不評を買った登場人物のけんかに代表されるように、膨らませた展開が前後や原作との整合性があまり考えられていない節があるような気がします。
原作では、軽音部として、大きな挫折を経験します。それは、2年生の学園祭で失敗することなのですけど、アニメでは成功してしまうのですね。しかも、思いっきり感動的な演出をして。最終回だから割り引かなければならない点はあるんですけど、挫折させなかったというのは「何でこいつら成功しかしてないの?」という疑問を抱かせてもしかたないと思います。特に人生挫折しっぱなしの吾妻氏であれば特に。
後番組の「大正野球娘。」も敗北ENDなんだし、別に演奏失敗ENDでも最終回的な展開にいくらでも持って行けるでしょうし、けいおんという作品の最終的なゴールはおそらくメンバーの卒業であって、あくまでもアニメで最終回として描かれた学園祭は単なる通過点に過ぎないんだし、主人公が「私たちの武道館はこの講堂です」とまで言い切って、完全燃焼という感じの展開には少し違和感すらありました。成功成功成功の連続じゃ「空虚だ。ストーリーらしきものも何もない。」とため息をつかれても仕方がないでしょう。
(追記)挫折といえば、主人公も、妹が完璧超人で、「良いところを吸い取られた」と作中で評される「劣った姉」という設定なのですが、一夜漬けしたらすぐ100点取れ、絶対音感を持ち、食べても太らず、作詞の才能もあるなどなにげに妹ばりの天才肌だったりします。(ちなみに原作から)これが「ひだまりスケッチ」や「GA」であれば、主人公が凡人、トラブルメーカーのキャラが天才肌という設定で、その対比で主人公が悩むシーンがチラッと(本当にチラッと)描かれることがありますが、「けいおん」の場合はほぼ皆無でした。4コマであればそれでいいのかもしれないけど、ストーリーものに改変するときには天才肌の主人公って不向きな気がしますし、そこが挫折しない話となってしまった一因なのかもしれません。
あのくらいの文章量じゃ結局何に不満を抱いているのかが全く理解できません。単に馬が合わなかった程度の話かもしれませんし。そもそも吾妻氏は来年還暦で、吾妻氏の子供や、下手したら孫の世代がみるようなアニメですし、そもそも理解できないとなっても仕方がないのかもしれません。
『吾妻ひでお「けいおん観た。空虚だ。何もない。作る方も観る方もそんなに現実イヤか?」:アルファルファモザイク』
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51518538.html
吾妻ひでおとアニメ「けいおん」に熱中するような人たちとは相容れないところがある。アニメや漫画(あるいは映画、音楽、文学など)作品に求めるものが違うのだ。いったい吾妻ひでおのような人種は漫画などの作品に何を求めるのか?そのあたりの事を作家のカフカが実に的確に表現している文章がある。
僕は、およそ自分を咬んだり、刺したりするような本だけを、読むべきではないかと思っている。僕たちの読んでいる本が、頭蓋のてっぺんに拳の一撃を加えて僕たちを目覚ませる事がないとしたら、それではなんのために僕たちは本を読むのか?君の書いているように、僕たちを幸福にするためにか?いやはや、本がなかったら、僕たちはかえってそれこそ幸福になるのではないか、そして僕たちを幸福にするような本は、いざとなれば自分で書けるのではないか。しかし僕たちが必要とするのは、僕たちをひどく痛めつける不幸のように、僕たちが自分よりも愛していた人の死のように、すべての人間から引き離されて森のなかに追放されたときのように、そして自殺のように、僕たちに作用するような本である。本は、僕たちの内部の凍結した海を砕く斧でなければならない。そう僕は思う。
吾妻ひでおの作品を読んだことがある方はご存知だと思うが、一見かわいい女の子がたくさん登場し、時には夢うつつのような世界が描かれる彼の作品は、実はあまり登場人物に感情移入をしたり作品の世界に安易に浸って気持ちよく癒されるような種類のものではない。徹底的に情緒を排し、醒めた意識によって構築された作品なのである。そして彼は基本的には、熱心なSF者らしく、今まで見たことのないような世界を作品によって作り出してやるという気概をもって創作に取り組むようなタイプの作家である。
あえて乱暴に言うと萌えアニメに感動しているのは単に(吾妻が指摘するように)フェティシズムと情緒に浸っているにすぎない。子犬が死んだら泣く式の条件反射だ。韓流ドラマに興奮するおばちゃんと一緒だ。傷つかない、ゆるふわな世界で気持ちよくなりたいだけだ。作る方にも読む方にも冒険を強要する吾妻ひでお(やカフカ)のような人種がやっている試みとは別の世界なのであり、萌えを求める人たちにとって、そのような冒険などは作品に必要ない要素なのだ。
吾妻ひでお「でも俺は描く前にもうひとつ考えるよ。マンガとは何かと。」
とりみき 「と言いますと。」
吾妻ひでお「マンガはこれでいいんだろうかということを1時間ぐらい考えて、それで明日締切りだからとりあえず描き始めるわけ。」
とりみき 「自分のマンガはこれでいいんだろうかということですか、それとも……。」
吾妻ひでお「マンガという表現がこれでいいんだろうか、まだ何かやれることがあるんじゃないか、というのを。」
『失踪するなら家のローンが終わってから』より※2
※1フランツ・カフカ著・吉田仙太郎訳(1981)『決定版カフカ全集第9巻・手紙 1902-1924』新潮社(P.25〜)
>ちょっとしたフェティシズムがあるだけ。
フェティシズムなんてあったっけ?
「さすが、吾妻ひでおは俺なんかとは見るところが違う」って思ったよ。
『吾妻ひでお「けいおん観た。空虚だ。何もない。作る方も観る方もそんなに現実イヤか?」』
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51518538.html
ギャグもナンセンスもユーモアもエログロもストーリーらしきものも何もない。
ちょっとしたフェティシズムがあるだけ。
このアニメ作ってる人も見てる人々もそんなに現実イヤなのか?』
考えてもみてほしい
トミノハゲがMGフリーダムを抱えながら満面の笑顔で「福田君!このロボットアニメ日照りの時代に、主人公のガンダムのオモチャが100万個も売れるようなガンダムアニメを作ってくれてありがとう!君の作った『新世紀のガンダム』のおかげで、サンライズはあと10年は戦える!」みたいな事を言い出している構図を
ありえないよね?トミノハゲはいつまでも新しいガンダムが出るたびにグチグチ子度とを言う小姑でいてくれたほうが「健全な姿」であるように思える
…と考えると、やはり吾妻氏がけいおんに関して批判的スタンスを取るのは「でかい口きく資格の持ち主」として許されることだと思うしもっとやって欲しいものだとも思うのである
文章が書けなくなりました。
「ここに書いてるやんけ」と思うかもしれませんが、それはここがほぼ完全に匿名だから。
正確に言うと「自分のブログを更新できなくなってしまいました」ってことです。
ネタがないわけじゃない。
時間がないわけでもない。
書こうと思うといやな気分になる。
なんでだろうか。
以前はもっと楽しんで書いていたはずなのに。
「ここ変えたらもっと面白くなるんじゃね」とか独り言言ってました。
完成した文章を見て一人で笑っていました。
ええ、とても痛い子でした。ほんとうに。
でも面白かった。
自分で楽しんでいたころの文章は今見ても面白い。
他人が見て面白いかどうかはよくわからないけど、知り合いには好評だった。
でもある時期からぜんぜん面白い文章がかけなくなった。
記事の没が増えた。
記事を書いていても楽しくない。
書いた記事を見ても面白くもなんとも無い。
ブログを書くことが苦痛になってしまったのだ。
理由はわかっている。
痛い子じゃなくなったからだ。
自分は大人だと主張するようになったからだ。
そんな文章が面白いか?
いや、もちろんそういう文章でも面白くすることはできる。
はてなにはそういった文章が日々集められているじゃないか。
じゃあ自分との違いは何なのか?
おそらくは文才なのだろう。自分には間違いなく無い。
ただの紹介文なんかが面白いわけがない。
以前はそれを痛い解説をつけることでなんとか面白くしていた。
だがそれができなくなって文才で勝負しなくてはならなくなった。
それが今の状況。それはわかっている。
そして解決法もわかっている。文才を上げればいいだけだ。
だが、はっきり言ってそれは無理だ。
いや、無理というより文才がつく前に心が折れてしまうと言ったほうがいいか。
ここまで読んでいただいた方には感づかれてしまったであろうが、自分には文才以前に語彙力が足りない。
語彙力は日々の積み重ねだ。
他人と会話し、小説を読み、映画を鑑賞し、自分に還元していく。
そういった基礎的な行為を自分は怠ってきてしまった。
漫画やゲームでも多少は語彙力はつくだろうが、やはり状況説明が画として示されてしまうので、どうしても差がついてしまう。
内容も子供向けになってしまいがちだから、なおさらだ。
もうすでに遅いのかもしれない。
いや、もう遅いのだろう。
今から多少小説を読んだくらいでどうもこうもならないのは間違いない。
だがブログをやめたくはない。
もうすでに自分のアイデンティティのひとつになってしまった。
アイデンティティがこれ以上減るのはもういやなのだ。
さて文才がつくのが先か、心が折れるのが先か。
どうなることやら。
実は
「もうアイデンティティなくしちゃえばいいんじゃない?」
とかいうのもいいかもしれないとちょっと思った。
人間何にもなくなったほうが強く生きれるってもんです。
吾妻ひでおみたいに失踪してしまおうかね?すぐ帰ってくるタイプの失踪ね。
本いっぱい持ってどっか行ってしまおうか?
でもやっぱりへたれなので、やるとしても暖かくなってからにしよう。