はてなキーワード: 収集癖とは
3TD のディスク容量がいっぱいになってきた。IT の技量もライフハック的な知識も乏しいので知恵をお借りしたい。
ことアダルト系の事となると語られなくなるけど、こういう事をもっと人と共有していきたい。
データ選んで捨てるだけならできるのだけど、元々収集癖があり、tumblr の画像なんかも全部ローカルに保存していたりする。できる限りのものを残したい。ただどこかで線を引いてファイルを減らすという行為は必要になるかと思うので、自身のお気に入り度や視聴頻度などのデータから必要性の低いものを減らしていくというようなことが、効率化・半自動化できたらいいな、というのが最終的な目標。
iMac 3TB HDD、それに Wi-Fi 接続の 2TB 外付け HDD。rsync コマンドを打ったり crontab を書いたり、GitHub からツールを拝借してきて先述のような tumblr のダウンロードなんかをする程度の事はインターネットで調べながらできる。
動画フォルダ内にメーカーごとのフォルダを作成、その中に作品毎にフォルダを作り、そこに動画ファイルと dmm.co.jp から持ってきたパッケージ画像を置いている。パッケージ画像には avpackage.jpg みたいなファイル名を一律してつけており、例えばこんな感じになっている。
adult │ .. ├──プレステージ │ ├── ftn018 寝取らせ 02 │ │ ├── avpackage.jpg │ │ └── ftn018.mkv │ ├── jbs015 働くオンナ3 Vol.12 │ │ ├── avpackage.jpg │ │ └── jbs015.mkv │ └── kil024 仕事中にエロ妄想が止まらないOLは、欲求不満解消のために男をトイレに誘惑して… │ ├── avpackage.jpg │ └── kil024.mkv ├──ブレスト │ ├── mgen015 山本美和子が本性さらす不倫旅 │ │ ├── avpackage.jpg │ │ └── mgen015.avi .. ..
視聴するときはメーカーやレーベルから探したりもするし、ルートになるフォルダから "avpackage.jpg" で Spotlight 検索するとパッケージ画像を一覧して探す事もできる。AVショップで選んでいるような感覚になる。
アダルトコンテンツとの付き合いも青年期を通過する中で様々な段階を踏んだ。CPZオンライン等でのファイルサイズの小さなサンプル動画や、xvideos などの動画配信サイトでのストリーミング視聴、色々な時期があったが、生DVDやHD配信の質がどうしても切り捨てられなくなり作品まるまる一本をこのように管理するスタイルになって落ち着いた。
Filesystem Size Used Avail Capacity ... /dev/disk2 3.1T 2.3T 801G 75% ...
このうちアダルトコンテンツが 1.5TB、それ以外の動画全て(映画など)が 330GB、iTunes ライブラリを含む Music フォルダが 85GB。
あと別で持ってる外付け HDD なんだけどこちらがあまり活用できていなくて、TimeMachine での使用もしておらず、iMac 上のメディアファイル全てのバックアップ先となっている。iTunes ライブラリをそちらに置いてみたり、adult フォルダをそちらに置いてみたりもしてみたのだけど、無線のためか再生などの制御を行う度に動作が停止し使用にたえるものではなかった。結局 iMac 上の Movies、Music フォルダを rsync -avz でコピーしているだけ。今はこんな感じ。
Filesystem Size Used Avail Capacity ... //backup 2.0T 1.9T 89G 96% ...
視聴するときにはもちろん iMac の方で、先ほど述べた通り Spotlight 検索から選んだりしているのだけど、やはり最近入手したものの方が使用頻度は高くなる。けれどもそれだけでなく昔からのお気に入りを久しぶりに観たりとか、改めてあまり観ていなかったものを観たりとか色々。その中で色のタグとか(昔で言うラベル)をつけてきちんと管理できればいいのだけど、そこまでまめじゃない。できるかぎりの事をITに外注して効率的に行いたい。
あまり使っていないものから圧縮していけばいいかなと RAR 圧縮とかしてみたのだけど 100MB くらいしかサイズ減らなかった。Automator とか使えるかなぁと思うんだけどあくまで他ツールを活用するための手段かなと思うし、じゃあ何をどう使ってやるのが良いかというのが思いつけない。
管理方法についてや Automator なんかのツールの活用例、思いつき程度の事などでも良いので何かあればお聞かせいただきたい。ちなみに最大容量フォルダは SOD クリエイトで 262GB でした。
状況をよく解説していると思ったので転載。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1394709614/
■小保方晴子 メモ ①
・1983年生まれ
・実験時には白衣ではなく、祖母からもらったというかっぽう着を身につける、というキャラ作り
・研究室では指輪を日常的に着用、見せびらかして自分で女子力()アピール
・研究室にアメリカのころから愛用しているソファを持ち込んでいる
・実験室だけでなく、おふろのときも、デートのときも四六時中、研究のことを考えている(本人談)
・ムーミンヲタク 研究室のあちこちにアニメ「ムーミン」のグッズやステッカーを貼っている
・収集癖がある
・ポエマー
・松戸市立第六中学2年生の時、青少年読書感想文コンクールにて 『ちいさなちいさな王様』 で教育長賞受賞
・千葉県松戸市、最寄り駅から徒歩10分新興住宅街の一角にある一戸建て黄色い壁の豪邸
・父は海外に10年以上赴任していたので長い期間女4人で裕福に放埓に暮らしてきた
・父:一夫 韓国三菱商事株式会社常務理事・機械 事業本部長 母:大学教授 (心理学) 姉:大学准教授
■小保方晴子 メモ ②
・成績はピカイチではなく真ん中か、それより少し上ぐらい
・2002年、早稲田大学理工学部応用化学科に、AO入試(学力不問、面接と作文、人物重視で選考する)の1期生として入った
面接では、「再生医療の分野に化学からアプローチしたい」 と主張。
幼き頃より、研究者を志し、特に再生医療に強い興味を持っていたという。
父母のコネで入ったと自ら言ってたという話も
院生時代の2008年には学振研究員DC1(書類申請と面接で選考)になり、以降3年間に渡り 『月20万円の奨励金+年150万円の科研費』受領
・東京湾の微生物等を研究をし、2005年に院進学後は常田(捏造D論主査で共著論文あり)の指導を受ける
・2007年、専門を再生医療に転向し女子医大の研修生にもなり大和(捏造D論副査でSTAP共著)や
岡野(共著論文あり/TWIns所長/日本再生医療学会理事長)の指導を受ける
・東邦大東邦の同級生によると、彼女は思い込みが激しく、好きな男子と付きあってもいないのに付きあっている記憶になっていた 「不思議ちゃん」
「当時は、後に国立医学部に進学したバレー部の秀才にずっと片思いしていました。彼にはその気がなかったようですが、彼女はとても思いが強く、
『もう諦めたほうがいいよ』と忠告する友人たちに『もう彼女だもん!』と泣きながら食ってかかり、ハラハラしたほどです」(同級生)
■小保方晴子 メモ ③
・ハーバード大に留学し、悪名高い麻酔科バカンティ(STAP共著)に師事し
「全ての面で成功し皆が憧れる人生を送りなさい」 と助言され、小島(STAP共著)の指導で万能細胞の研究を始める
・ハーバード大では、 「ドクター・バカンティーズ・エンジェル」 と呼ばれて(自ら名乗って)いた
「博士号もない学生を雇用するのは無理だ」 とも事務員に言われたのに、不思議な力で2009年冬までの1年半ほども滞在する
バカンティ教授が 『アイ・ニード・ハー(彼女が必要だ)』 と言って引き留める
・ハーバード大に滞在中の2009年8月、STAP論文の原型となる論文が完成し投稿するが2010年春に却下され
審査した研究者、ネイチャーから 「細胞生物学の歴史を愚弄している」 という趣旨のメールが届き、酷評されて泣く
・博士学位取得要件の雑誌に投稿した査読付き学位申請用論文3本で、不適切なデータ処理・加工・流用・捏造行為
・Ph.Dの肩書きを使って再度ハーバード大に行くつもりが就労ビザが得られず諦める
・ハーバードで知り合った若山(当時理研所属でSTAP共著)に口利きを頼み、
理研CDB次期所長で35歳の若さで京大教授(京医卒)になったES細胞の権威である理研の副センター長・笹井芳樹の推薦を受けて理研入り
(左から小保方晴子、笹井芳樹、若山照彦 ttp://imgur.com/Fz5xqlC.jpg)
「化学系の出身で、生物学の先入観がなく、データを信じて独自の考えをもっていた。真実に近づく力と、やり抜く力を持っていた」
「僕はケビンコスナー、小保方さんのボディガードだ」 と、笹井から支援を受け、強力な後ろ盾を得る。
■小保方晴子 メモ ④
・2011年末、「酸に30分浸すと初期化する万能細胞(STAP)を作製」 (本人談) とノーベル賞級大発見世紀の大発見()をする
「渡された細胞の万能性を何度も確認し間違いないと告げると小保方さんは泣いていた」 (若山談)
・2013年3月、29~30の若さで、理化学研究所発生・再生科学総合研究センター・細胞リプログラミング研究ユニット・ユニットリーダー(教授級)になる
・「(STAP細胞は)マウスのリンパ球を弱い酸性の溶液に30分浸すだけで作製に成功した。
細胞を細い管に無理やり通したり、毒素をかけたりしても作製できた」(本人談)
・STAP細胞の名前を本当は「王子様にキスされて目覚めるお姫様」になぞらえた 「プリンセス細胞」(P細胞) と名付けようとしていた
・STAP細胞の優越性を説き、比較対象の山中教授のiPS細胞を貶め風評被害を与える(発がん性、研究の停止など)
小保方の誹謗を受けて、山中教授はiPS細胞の安全性を弁明する羽目に陥った
・「あきらめようと思ったときに、助けてくれる先生たちに出会ったことが幸運だった」(本人談)
「女」を使ったのか、権威ある男性に取り入るのが上手いのか、親のコネなのか
・現在は、小保方が笹井をセクハラで訴えている、との未確認情報も さんざん権威に媚びて取り入ってコネを利用して、用済みになったらポイ捨てか
・脊髄損傷のサルをSTAP細胞移植で治療したと発表したチャールズ・ヴァカンティ教授のグループの小島宏司の論文における不適切な画像流用が発覚
■小保方晴子 メモ ⑤
・小保方晴子が第一著者のNature Protocol誌の論文と、第二著者のTissue Eng Part A誌の論文において、利益相反事項の隠蔽の疑惑
・小保方晴子による博士号論文 『三胚葉由来組織に共通した万能性体性幹細胞の探索 (2011年2月)』
その33枚、ほぼ全部がコピペだったことが判明 (3月11日)
米国立保健研究所(NIH)が幹細胞の基礎知識を一般向けにネット上に掲載している文章から、ごっそり剽窃している
論文の冒頭、研究の背景を説明する部分がネット掲載の文章と単語の並びから句読点までほぼ同じ
文章の前後入れ替えや、見出しの変更、ネットで「この文書」と書かれていたのを論文で「この節」と書き換える、などの
つじつまを合わせた変更はあった。
小保方博士号論文のPDF: ttp://stapcells.up.seesaa.net/image/Background.pdf
剽窃された米国立保健研究所(NIH)の元の文章: ttp://stemcells.nih.gov/info/basics/pages/basics1.aspx
テキスト比較ツール difff《デュフフ》ver.6 : ttp://altair.dbcls.jp/difff/dev/obokata_copypaste.html
・博士論文、参考文献リストもコピペか、参考文献リストが他の論文と酷似している
第3章では38件の文献リストがあり、著者名、論文名、雑誌名、ページが列挙されている
これは10年に台湾の病院の研究者が医学誌に載せた論文の文献リスト53件のうち、1~38番とほぼ一致した
博士論文では一部文字化けしている文字があり、切り張り(コピペ)の可能性がある
リストは著者名のABC順で、元論文の38番はPで始まる姓のため、ありふれたSやTで始まる著者名が博士論文にはない不自然さがある
普通の論文では本文で文献を参照した箇所に(1)などの番号を添えるが
図を除いて 5ページある第3章の本文にはこのような番号はつけられていない
・小保方晴子による博士論文 P53, Endoderm(Figure 10)の実験画像は、コスモ・バイオ株式会社のホームページ掲載の画像からの盗用(3/13)
ttp://jump.2ch.net/?pbs.twimg.com/media/BijJAfvCcAAFE3d.png
■小保方晴子 メモ ⑥
・STAP細胞論文(Nature誌のArticleとLetter)
Stimulus-triggered fate conversion of somatic cells into pluripotency (30 January 2014)において、不適切なデータ処理・加工・流用・捏造行為疑惑
・120日でSTAP細胞を10^60個(ベテルギウス750個分)もの増殖に成功したというデータグラフが存在
グラフc: ttp://www.nature.com/nature/journal/v505/n7485/images/nature12968-f5.jpg
(山中教授の論文に間違って10^60になっているグラフがあったらしい。それを丸パクリしたから悲惨なことになった?)
・自分で文章を作成せず、他の論文(ドイツの研究者らが2005年にIn Vitro Cell Dev Biol Anim.誌で発表した論文)からそのまま文章を剽窃した疑惑が
しかも、正しい表記が無意味な言葉に変わってしまっていたり、誤記誤用がたくさん (意味が解かってない?)
例)
盗用元論文(正しい表記): 塩化カリウムを意味する「KCl」 → 小保方論文(誤った表記): 「KC1」という無意味な言葉に
盗用元論文(正しい表記): 二酸化炭素を意味する「CO2(シーオーツー)」 → 小保方論文(誤った表記): 「C02(シーゼロツー)」という無意味な言葉に
EDTA (EDTA) と、ethylenediaminetetraacetic acidの略称であるEDTAを誤って連続して記載
■小保方晴子 メモ ⑦
・2005年のドイツの研究者らの論文からそのまま文章を剽窃した為に、現存しない機器やWindows98環境でSTAP細胞の実験をした状態になってしまっている
新規に購入する事が出来ない古い実験機器、Win98、と
論文を剽窃した対象と思しきドイツの研究者らと同じ道具やOSをわざわざ全部集めて、STAP細胞の研究をしていたとでも言うのか
小保方のSTAP論文の文章の中には、ライカ社(Leica Mikrosysteme GmbH)の DM RXA RF8 落射蛍光顕微鏡 (epifluorescence microscope )と
フォトメトリクス社(Photometrics)のSensys CCDカメラの実験機器名も含まれているが、
これは、小保方が剽窃した疑惑のある2005年のGuo Jianliらドイツ人研究者が用いた実験機器と同一のもの
ライカのDM RXA 顕微鏡も、フォトメトリクスのSen sys CCDカメラも、1990年代末~2000年代前半に販売されていたもので既に製造中止の機種
さらには、Sensys カメラのウェブサイトには、「Then turn your computer back on and boot Windows 98/2000/ME/XP again.」と記載されており
Win 98が現役だったような時代の懐かしい製品
小保方らが研究室を立ち上げるときに、このような古い実験機器を新規に購入することは不可能であり、また中古品も出回っていない
■小保方晴子 メモ ⑧
・STAP細胞論文を、論文の価値を高めるために「簡単」と誇張していた (3月1~2日? 若山が毎日新聞の取材に対して告白して発覚)
・小保方晴子がSTAP細胞再現実験に成功した()と発表 (3月5日 理研発表)
・STAP細胞の公開した作成手順に新たな矛盾が浮上 (3月8日)
「一度T細胞に分化した細胞が初期化された結果生じた」(TCR再構成という“証拠”が「STAP細胞」のキメ手になった)という内容が
今回公開された作製手順では、「なし」と書いてある
・論文データ上のSTAP細胞とマウスのES細胞のDNA配列がほぼ同一だと判明
撮影した生の画像データではなく、紙の文書をスキャンするなどしてデータ化したものを切り貼りか (3月12日)
論文から写真だけを取り出して分析すると、写真の上の部分に別の写真の一部とみられる紫色などの線が入っているのが分かる
・STAP細胞論文の画像流用の問題を、1ヶ月前には、小保方と、理研の副センター長・笹井は把握していた (3月13日)
把握していた上で意図的に隠蔽か
・STAP細胞論文疑惑が生じると
「指摘されて初めて(ミスが)分かった。 全く気付かなかった。研究そのものを疑われるのは悔しい」 と
科学者なのに感情論を持ち出して悲劇のヒロインぶって若山に泣きつく
・弁明等はすべて他者に丸投げして、自身はファーストオーサー・ユニットリーダーの責任と義務を放棄して逃亡
理研神戸の広報担当者 「論文を書いた小保方晴子ユニットリーダーは休暇をとっており、同日中に結論を出す状況にはない」 (3/11)
スペックを書いて行くような人で、平均点3〜5点くらいでしょうか。
それぞれの項目で○が付く人がどれくらいいるのか?気になったのでざっくり推定してみました。
と、このへんで面倒になりました。この評価項目ですが割りと良い線というか、各項目で成人男性を並べた場合、その項目上位20〜40%くらいに入っている人をカテゴライズしているように思えます。
仮に各項目が上位30%くらいの人が○をつけることができると仮定して、存在比率は0.3^11であり、日本人男性を6000万人とすると90人程度は全項目が○となりそうです。
それが楽しみだってのは分かっているんだけど、度が過ぎる。よく分からないオブジェを買ってきては、玄関付近にずらずらと陳列するもんだから、ジャマで仕方ない。それに加えて、よそで戦力外通告を受けたものを救済することもしばしば。ゆえに来客はまず、大量の障害物に歓迎を受ける格好になる。野村再生工場には、程遠い。
往時の読売巨人軍を彷彿とさせる、怒涛の収集癖だ。補強ポイントが偏りすぎている。スリッパだけで、何足あるのだろう。少なくとも家人の足の数では、到底足りないことは確かである。
こちらから、やめさせようなどという気はない。人の趣味に水を差すのは気が引けるものだ。しかし、ジャマなものはジャマだという事実に変わりはない。葛藤ばかりが膨らんでいく。
「父親なくして、金の負担かけたくないから、京大に入りたかった」
両親による子どもへの早期教育、子どもの未来の押しつけ、それを礼賛してきたメディアなど、まず自分の側に思い当たる点はなかったか、大人の側こそ真剣に考えてみる必要性がありそうです。
この事件も一週間で国民の皆様からは忘れられると予想されます。
私たちの側でできる対策としては「テレビ(ニュース)を見ない」ことが挙げられます。
ですので、一次情報である通信社(ウェブサイトで無料配信もしている)を見るのがおすすめです。
共同通信、時事通信、ロイターなど名前だけはご存じかも知れません。
こういう時、体制側(国家擁護側)と反体制(国家を疑う者)で罪の問われ方が変わってきます。
相撲協会や現行のマスメディア、国立大学は体制側です。浪人生や無職は反体制として扱われます。
前者の罪は軽く、後者の罪は重くすることで今の国家が成り立っています。
これが逆になったら、どうなるでしょうか。
【疑問点】
・カンニング者は精神を病んでいた事実の隠蔽(当人の質問履歴参照)
・両親による子どもへの早期教育、子どもの未来の押しつけ、それを礼賛してきたメディアなど、まず自分の側に思い当たる点はなかったか考えようとしない点
・何かが起こるときには、その背景に要因となるものが存在するが、その点について報道を自己規制している点
【この現象への推測】
・メディアが彼を予備校生、浪人生と呼ぶことで国民の皆様は自分からある種のイメージを連想してくれます。報道側・国家(体制)の側にとって都合の良いイメージを。(国家・体制に疑問を持ちやすい人格で排除すべき対象者)
・反体制抑圧政策の一環(エジプト革命の無報道・サブカルチャー展抗議団体の要求で中止・NHKの行ったニコニコ生放送を独り飲み会と称して陰鬱さを強調したイメージダウンと孤独死との関連づけ・ニュースといえば犯罪報道となっている日本の現状…)
こうしていくら述べても、暖簾に腕押しなので国民の皆様は何も述べなくなります。
そうしてお笑いを見て笑わされることで、気を紛らわせているのでしょう。
意志だけはあるんだけど、整理整頓とかの行動が伴わないんだ。ご指摘通り、確かに捨てられない。かつ、収集癖もあるので困りもの(きちんとしていない以上、溜め込んでるだけとも言えるか)。まずは地道にコツコツ捨てて行こうと思います。
「ネットとメールくらいならネットブックで十分」のような話があるが、実際にはそれどころかもっと色々使える。なので実際に自分がネットブックでしている事と出来ていることを上げてみたい。使用機種はHP mini 1000
画面が狭いのでタブファイラx-finderを使用するといくつもExplorerを起動しなくて良いので便利。常時起動でも省メモリ。
高スペックなゲームや映像編集などをしない限りスペック不足は感じない。(すごいのと比べればもちろん遅い)
あれもこれも起動するとメモリ不足を感じる複数作業はしないほうがいい。(自分はGDI++を使っているからメモリが不足してる面が大きい)
重いソフトはそれなりに重いが実用範囲。
大抵のモデルに光学ドライブがない事はデメリット。仕事でCDからソフトを入れる必要がある場合は外付けドライブが必須になる。
(ただし上に記載したソフトは全部DL出来るので趣味で使う分には大抵何とでもなる)
以上から重いゲームをせず、クリエイティブ系(特に映像)の制作もしない、収集癖の(サイズの大きい物を大量に集めすぎ)ない人はネットブックで良さそう。高いノートPCやデスクトップPCは必要性がない。メーカー製の拡張性もなくゲームも出来なかった一昔前のデスクトップがそのままネットブックに置き換わったと言えそう。
春の日射しが穏やかな日は、祖父がにこにこ笑っている顔が目にちらついて、私は少し辛くなる。祖父はアルツハイマー型痴呆症になり、特別養護老人ホームにいる。もう二年くらいになると思う。祖父が施設でにこにこと笑うようになってから、父も母も笑えるようになった。私も弟妹も笑えるようになった。
それまでの日々は、家族にとって、特に父と母にとって、地獄のような日々だった。
祖父は、元々厳しくて頑固なところのある人だった。成人する前に両親を亡くし、大人に混じって農家を切り盛りしていたから、気が強くなってしまったのだろう。祖母と結婚して、父の姉と、父が生まれた。その後、警備員と農家を兼業するようになった。祖父も祖母も厳しい人で、昔の農家気質だったから、母は嫁入りした当初から辛い思いをすることもあったようだ。ただ、祖父も祖母も、孫である私たちには多少甘い部分をみせていた記憶がある。
祖父が定年になる前、私がまだ小学生だった頃、祖母が亡くなった。五十代後半の死は、あまりにも早かった。母には、祖母の役目と母の役目、両方がのしかかった。今から約二十年前で、家事は女の仕事、女は男を立てるもの、という価値観はまだまだ当たり前にあった時代の話。祖母が亡くなってから、祖父の母に対する当たりがきつくなったと父は言う。また、この頃から酒量が増えた、とも。
それから一年経って、私や弟とは歳の離れた妹が生まれた。母は仕事をやめた。祖父は歳の離れた末の孫を溺愛した。しょっちゅうかまうものだから、母は機嫌を悪くして、時々父や私に愚痴を言った。
祖父と母の関係が決定的に悪化したのは、私が高校生になり、妹にある程度手がかからなくなって、母が再び働きに出るようになった後だ。祖父はとっくに定年になっていて、ずっと家にいるようになった。趣味の合う友人と連れだって遊びに出かけたことも時々はあったけれど、家にいることがほとんどで、昼間は自室に籠もっているか、畑で仕事をしているかだった。祖父には、母が五時過ぎに仕事から帰ると同時に台所の自分の席に座ってお酒を飲み始める習慣があった。母が夕食の支度をしている後ろ姿の、その後ろで二時間くらい、じっと座っているのだ。六時になる頃には私も弟妹も家にいたけれど、居間でテレビに釘付けだったから、その状態には気づけなかった。七時も過ぎて父が仕事から帰ってくると、夕食。六人で食卓を囲む。私と弟妹は思い思いにおしゃべりをする。ひとしきり話し終わった頃、祖父が口を開く。ときどき意味の分からないことを言う。話が通じないことに、私たちはイライラし始めて黙ってしまう。父が間に入って話すけれど、お酒の入っている祖父は興奮しやすく、時々興奮しすぎて母に当たった。祖父が母に当たると父も頭に血が上って、怒鳴り合いになる。しまいには祖父が「そんなに邪魔なら殺せ!包丁で刺せ!」などと叫んで、部屋に籠もってしまう。こんな日々が続いた。
今思い出すと、この頃にはまだらボケが始まっていたのかもしれない。それで執拗にいろいろと尋ねたのかもしれない。私も弟妹も、学校がお昼頃で終わった日は居間でテレビを見たり、宿題をしたりしていた。そのとき、祖父がいつも居間にあらわれて話をしようとするのをうっとおしがっていた。なにも分かってない子供なんてワガママなもので、無視して自室に籠もることもあった。食卓を囲んでいるとき、怒鳴って気分をめちゃくちゃにする祖父の理不尽さも大嫌いだった。
学校でもいろいろあるというのに、「殺せ!」と怒号の響く家は気が休まらなくて大嫌いだった。弟は、高校生になると、わざと夜遅く帰ってくるようになった。父が叱ったが聞く耳を持たなかったし、男の子だと言うこともあり、いつしか容認されていった。私にはそんな要領のよさはなかったし、妹はまだ小学生だったから、毎晩のように繰り返される怒鳴り合いをそばで聞いているしかなかった。
私が大学への進学を考えた頃、両親は地元大学を勧めたけれど、私は県外の大学に願書を出した。願書を出す直前までは、後期試験は地元を受けると言っていたくせに、結局後期試験の願書も県外の大学に出した。今思えばふざけた話だが、初めての反抗らしい反抗だった。県外の大学に進学した後は、部活、バイト等、わざと忙しくして下宿にいないようにしていた。家からの電話が憂鬱だったからだ。下宿に居ないのを両親に詮索されるのも嫌だったし、なにより、家族の誰かが別の誰かを殺したという電話がいつか入ることを本気で心配していたのだ。講義がない時期には帰省が憂鬱だった。夏も冬も理由をつけて、一週間くらいしか家に帰らなかった。家に帰るとおなじみの怒鳴り合いの日々だった。帰って一、二日は静かだが、三日目を過ぎると怒鳴り合いが始まる。家から下宿に戻った後はますます電話が怖くなった。酷いときは電話線を抜いた。
一歳下の弟も大学に進学して、家を離れた。家は、祖父と両親と妹だけになった。私たちは両親と妹を犠牲にしたのだと思う。
大学三年の夏、父から電話がかかってきた。この時は不思議と電話を取る気になった。電話の内容は中学生の妹のことだった。食事を全く取らなくなったという。父は毎晩のように妹の訴えを聞いていたけれど、最後には「頑張れ」と言うしかなく、なにもできないまま悪くなったという。妹に対しては罪悪感があった。夏休みはほとんどを家で過ごした。
家に帰ってすぐに父と話した。母にはもう無理だからと言われ、母のお薬手帳を見せられた。そこに並んでいる処方薬の名前を調べると、抗精神病薬ばかりだった。母は頻繁に被害妄想を訴えるようになっていた。最初は、家に祖父と二人でいる間、いつも祖父が後にいるから怖いという訴えだった。それがいつの間にか、家の中で誰かに監視されている、家の中に盗聴器がある、近所ぐるみで監視している、警察に狙われている、と徐々に変化していった。祖父の行動ひとつひとつが、何者かによる母への攻撃であるかのように見えていたようだ。父は祖父に、母を刺激しないように何度も言ったが、祖父はその場では返事をするものの、すぐに忘れてしまうらしく、全く変わらなかった。
その日会った妹はどこか異様だった。何を聞いても無表情で「うん……」と、けだるそうに返事をするだけ。本当に食事を取らなくなっていた。一口食べて箸を置き、体がだるいのかすぐ居間で横になる。重症だと思った。その日の晩、私が自室でうとうとしかけている頃、妹が枕を抱えて部屋に来て「一緒に寝ていい?」と言った。招き入れると、妹はしばらく黙っていたが、突然堰を切ったように話し始め、もう無理だと訴えた。妹は、いつか家の中で殺し合いが起こるといって怯えていた。母の被害妄想が始まってから、夕方の台所で母と祖父の言い争いが起こるようになった。妹はなるべく早く学校から帰り、食事の準備をしている母のそばにずっといた。妹がいる間は、母は穏やかで、祖父の機嫌もそう悪くはならないから。妹は毎日のように母の愚痴を聞いた。しかし状況は変わらず、母は夜中に突然飛び起きて、怖いと言って泣くようになっていった。妹の部屋は両親の寝室のすぐ隣だったから、母の泣く声で眠れないこともしばしばあったという。学校の人間関係は、妹にとってあまりよくない状態で、妹の気が休まる時間はどこにもなかった。妹は、父には何かしてくれるようには言えないという。父は毎晩のように祖父と戦っていたし、母をなだめるのでいっぱいいっぱいだから、これ以上無理はさせられないと。
父に遠慮している妹には悪いと思ったが、現状を父に伝えた。その上で、父にはしばらく黙っていてもらうことにした。妹の体調があまりよくないこともあり、病院に連れて行った。妹は検査で採血をされ、胃カメラを飲み、点滴を打たれて「病人みたい」と笑った。「検査に異常はないから精神的なものだと思う、食べられないのが続くようなら精神科を紹介するから様子を見て」と言われた。その日からしばらく、妹は私にべったりと甘えていた。何をするにも一緒だった。帰省してきた弟は、帰ってくると真っ先に「おい大丈夫か?」と言った。進学して家を出てから、これだけ長い間弟妹と一緒にいたのは初めてだった。三人でくだらない話ばかりした。「この家、超不幸だ」と言いながら笑った。妹は、プリンやゼリーから始めて、普通の食事も少しずつ摂るようになった。妹が笑うようになった頃、大学の講義が始まって時間切れ。私はわざと忙しくするのを止め、電話を取るようになった。
その後もしばらく膠着状態だった。祖父も母もあいかわらずの調子で、間に立つ父は本当にたいへんな思いをしただろう。
私が大学を卒業した頃、状況がますます悪い方に動きはじめた。昼間のうちに家のあちこちに水たまりができ、家族がしばしばそれを踏んづけるようになった。水たまりの犯人は祖父。時々失禁をするようになったのだ。何度注意しても改善せず、おむつを勧めても頑として受け入れない。以前は熱心に畑に出ていたのに部屋に籠もることが多くなり、同時に食事や入浴を忘れるようになった。部屋に籠もる一方で、ふらっといなくなることもあり、連絡をもらった父が慌てて迎えに行って頭を下げるのだ。時々真夜中に近所の家を訪ねることまであり、消耗した父は何度も祖父に「勘弁してくれ」と土下座したが、状況はまったく変わらなかった。祖父は自分の状況が分かっていなかったか、分かっていてもどうしようもなかったのだろう。他にも、庭先に祖父がどこからか拾ってきた妙なガラクタが増えたりもした。捨てようとすると祖父が怒るので、だんだん量が増えた。祖父は車の免許を持っていたけど、ちょうどこの頃に庭先で車をぶつけたこともあり、危ないので免許証を取り上げて車の鍵を隠した。祖父が車の鍵に執着して家じゅうを探しまわるので、母が影響されて荒れることもあった。
さすがに近所にも親戚にも隠し通せなくなり、父は、隣県に住む伯母に相談した。伯母はその何年か前にヘルパーの資格を取っており、福祉関係の仕事も長いのでしばらく預かることを父に提案した。父も母も限界だったから、一ヶ月程度ということで祖父を伯母に預けた。庭先のガラクタを片づけ、荒れ放題になっていた祖父の部屋を片づけ、少し落ち着いたところで事件が起こった。伯母に預けた後、二週間も経っていないうちの出来事だ。伯母はその日も祖父に声をかけ、パートタイムの仕事に出かけた。伯母が帰ると、祖父がなにも持たずにいなくなっていた。すぐに探しに出かけたが、祖父は見つからなかった。警察やご近所に連絡し、数日経って、祖父が警察に保護されていると連絡があった。伯母宅からはずいぶん離れていた。祖父は警察に、家に帰せと主張していたそうだ。
父はこの時、もう自宅で見るのは無理だと思ったそうだ。病院で検査を受けるように祖父に勧めたが、祖父は昔から親は子よりえらいと思っている人で、このときも言うことを聞かなかった。父は、祖父が唯一頭の上がらない祖父の友人に状況を話し、祖父を説得してもらうことにした。祖父の友人は「もうずっと前からボケておかしくなっていることが分かっていたけど、言われるまで言えなかった」と、父に頭を下げた。祖父は友人の説得でしぶしぶ承諾し、父と友人に付き添われて病院で検査を受けた。
アルツハイマー型痴呆症には、根本的な治療薬がない。当時あったのは進行を抑えるだけの薬で、祖父を「治す」ことはできなかった。介護施設を探すことを医者から提案されたが、老人病院にも介護施設にも空きがなく、どこも順番待ちの状態で、診断がついても状況は変わらなかった。祖父の友人の協力を取りつけられたおかげで、祖父を説得しなければならないときにその人から強く言ってもらうこともできるようになったのはよかったが、祖父が内容を忘れてしまうことが何度もあったため、どれくらい効果があったのかは分からない。
注意して祖父を観察するようになると、物事をしっかり認識できているときと、そうでないときがあることが分かった。普通に過ごしていても、時々どこを見ているのか分からないような様子でいることが、しばらくの間続くのだ。その直後の祖父は決まって難しい顔をした。どこか悲しそうで、戸惑っているような表情。話しているときも、前後の文脈が分からなくなっている様子があった。つい一瞬前に話した内容を忘れてしまうのだ。そして何度も直前の話を聞き返す。説明しなおして話が繋がるときもあれば、辻褄が合わないままのときもある。その時の祖父の表情は、やっぱりどこか悲しそうで、戸惑っているようだった。いわゆるまだらボケと呼ばれる症状だ。頭がしっかりしているときは、その直前まで自分が呆けていたことを分かっていたのかもしれない。
診断がついてから何ヶ月も経って、家からそれなりに近い場所に介護施設が見つかったので、祖父を入居させる手続きをした。これで一件落着のはずだった。ところが、一週間後には「無理なので引き取ってください」と連絡が入った。何度も頼んだが、手に負えないから無理だと断られた。手に負えない原因は、主に精神的な症状だ。場所や状況を認識する能力が低下しているので、そこがどこなのか、なぜそこにいるのか理解できない。家にいたはずがいつの間にか知らない場所に連れてこられたと思いこみ、何度も脱走しようとした。止めようとしても、自分は被害者だと思っているから暴れる。祖父は身体も大きく、農作業で身体を動かしていたこともあり、暴れると抑えるのは難しかった。収集癖の悪化も災いした。他の入居者の部屋に入りこみ、物を自分の場所に持ち帰るのだ。職員が返すように言っても、自分のものだと言い張って返さない。そして他の入居者とトラブルになる。こんなことが入居直後から繰り返されたので、ついには断られたのだ。
それからは施設探し。祖父の身体疾患のこともあり、施設からは精神的に安定するまでは介護施設よりは病院に入った方がいいと言われた。受け入れてくれる病院などそうそうないから、しばらくは再び悪夢の日々。次の病院が見つかるまでに数ヶ月かかった。
鍵のかかった病院に入ってから、祖父はぼうっとしていることが増えた。薬の影響もあったのだろう。週に一度、一時間かけて病院に行き、洗濯物を預かり、祖父と少し話した。最初の頃は、よく歩いていると職員に聞かされた。その後、車いすに座ってぼうっとしていることがだんだんと増え、歩くことも減った。話しかけると「よく来たなあ」と笑った。祖父から話しをすることはあまりなく、もっぱら私たちの話を聞いた。しっかり話を聞いていると思うと、急にぼうっとしてしまうこともあった。もう慣れていたから、そんなものだと思うようになった。祖父の顔は、だんだん穏やかになっていった。
入院から半年ぐらい後のことだと思うが、祖父の状態が落ち着き、特別養護老人ホームに空きが出た。すぐに祖父をそちらに移すことになった。ホームには病院と同じように鍵がついており、入居者が自由になれるエリアは鍵の内側だけだったが、病院に比べると明るく開放的で、入居者が昼間に集まっているロビーの雰囲気も、なんとなく暖かみを感じるものだった。祖父をそちらに移してからも、週に一度、洗濯物を取りに行っている。施設に全部まかせることもできたが、父がその程度の面倒は見たいと言って譲らなかった。祖父は他の入居者とは少し離れた場所、ロビーのそばにある職員詰め所の入り口に、椅子を置いて座っている。職員は「いつもあそこに座ってますよ。よく分かりませんけどお気に入りみたいです」と言う。昔、警備をしていた名残だろうか。守衛として座っている時間も長かっただろうから。祖父に声をかけると「よく来たな」と私の名前を呼んで、にこにこ笑う。私が久々に祖父を見舞ったのは、ちょうどこの時期、少し暖かくなってきた頃だ。
その後も現在まで、父は週に一度は祖父を見舞い、祖父の洗濯を愚痴もこぼさず楽しそうにやっている。母は「お母さん、ノータッチだから楽でいいわ」と、のほほんとお茶をすする。一時期の被害妄想は、ほとんどなくなり、よく笑うようになった。家に寄りつかなかった弟は、遠方で就職したくせに「家の方が落ち着く」と、長期休暇のたびにぎりぎりまで長居する。妹は地元で大学に進み、家の中ではよい意味でワガママな振る舞いをするようになった。弟妹はときどき、父について祖父のところに行く。以前とは違う意味で家の中がやかましくなった。みんな、笑えるようになった。
私は結婚して家を出た。ときどき、父と一緒に祖父のところに出かける。このごろ祖父は私のことがわからなくなった。祖父は私を、祖父の娘の名前で呼び、話しかけてくる。私はにこにこしている祖父のために、にこにこながら受け答えをする。内心はかなり複雑だが、もしそれを表に出せば、また祖父を難しい顔にさせてしまうかもしれないから。同じ時間と場所を共有していても、祖父が見ている景色と、私が見ている景色は多分違う。それを共有できることももうないかもしれないが、いつも難しい顔をしていた祖父がにこにこと笑っているのだから、これでよかったのだと思いたい。