はてなキーワード: お茶を濁すとは
横田だけど、話がずれているのでは?
と言うと手作りは材料費ガー!とか言い出す人がいるけど、それは美味しいものを作ろうとするから。
その辺で売ってる手作りキット使って作れば大して手間も金もかからないよ。
あげる方も単に義理を果たしているに過ぎないので、捨てられようがどうでもいい。
或いは元々の菓子作り趣味者が食わせる人間がいない(家族だの彼氏だのも何度も続けば次第に嫌がる)&自分で全部食ってたら太るから
これも捨てられようがどうでもいいと思う。
本命で手作りする場合は、チョコだけではなくディナー全部用意したりするものでは?
それに夫の場合は妻が専業主婦だと「高級チョコ買っても元々夫が稼いだ金だしなー…」、
当方既婚。お客さんの希望にあわせてグループやマンツーマンでレッスンをする仕事をしている。
先日いつものグループレッスンに空きが出て、お客さんと二人きりになった。仮にAさんとする。
Aさんは前々からこの日は来ないと言っていたが、他のメンバーが参加できないとわかったあとで急に出席すると通知が来た。
グループレッスンは単価が安いので、予約がないなら閉めようと思っていたが仕方がない。
教室に通う以外にも、市販の高価なテキストを買ったり、他の語学教室に通ったりもしている。
「いつか先生のように自分も教室を開いて教えたい。でも自信がない」と期待と自信のなさが入り混じっている。
残念ながら理解力と語学のセンスに恵まれているとはいえないが、本人は楽しそうなので、夢が叶うといいですねと応援している。
Aさんはそれがうれしいのか、毎回のように自分では読めないレアな洋書を持参して、「よかったら読んでください」と置いていく。
グループレッスンはなるべく全員のレベルに合わせるようにしている。
今回はAさんだけなので、Aさんの苦手な分野を強化するか、Aさんの得意分野で自信を持たせるか、あれこれ考えた。
「これ、よかったら先生に」
Aさんは以前それを「ブックオフで投げ売りされていたので買いました」と見せてくれたことがあった。
なかなかいい辞書だったので、その場で同じものをネットで探してみたが見つからなかった。
「私が持っていても使わないし、なんで買ってしまったんだろうって。あのとき先生に上げていればよかった」
「いいんですか、ありがとうございます」
感謝して笑顔で受け取ったが、自分でも説明できない嫌悪感が沸いて、落ち着かない気持ちになった。
この日のレッスンでAさんはこちらが出す例題にほとんど答えることができず、ほとんど自分の独演会になった。
いつもはグループの他のメンバーと助け合いながらやっているので、これはある程度は予想していた。
「質問はありませんか」と聞くが、Aさんはごにょごにょとお茶を濁すばかり。
そうかと思うと、はっと思い出したように
「先日、あの先生の語学セミナーへいったらちょうどここで教わったところが出たんです」
と本題に関係ないノートを広げて見せる。がんばっているのはよくわかるが、マンツーマンでこれはきつい。
何より困るのは、Aさんがレッスン終了時間になっても帰ろうとしないことだ。
グループレッスンのあとに他のメンバーが帰ってもAさんが腰を上げないことが何度かあった。
それとなく時間に触れ、何度も出口促すが、その度にレッスンに関係あるような、ないような話をして引き延ばす。
Aさんに個人的な関心はないし、共通の話題もないから、二人きりで話すような話もない。
次のレッスンがあるのでといっても、次の生徒が姿をあらわすまで帰ろうとしない。
困ったことにこの日は自分のミスで入っていると思っていた次のレッスンがなかった。
それも小学生時代の第二次性徴にまつわる嫌悪感といった重い話題である。
とても共有する気になれない話題を前振りなしにはじめるのはやめてほしいが、逃げ場がない。
適当に相槌を打ちながら「そろろ次のレッスンが」と何度も伝える。
そのたびAさんは気弱そうに目を泳がせつつも話をやめない。
終に「これから仕事の電話をかけるので、お話は次回のレッスンでお聞きします。今夜はこれで」と話を遮って出口へ送り出した。
Aさんは靴を履いてもまだ視線を床に泳がせながら話し続けていたが、こちらが電話を手にしていたこともあり、ようやく帰っていった。
ムカつくようなべっとりとした嫌悪感が身体の内にも外にも貼りついているのを感じた。
ただでさえ安く設定しているグループレッスン料金でマンツーマン指導になったのは、まあいい。
他の生徒さんとのあいだでもこうしたことはあった。これもサービスのうちだと考えている。
それにしてもここまでの怒りが、得物で殴りつけたいような、教室を水洗いして清めたいような不快感が沸き上がるのはなぜだ。
長居して話し込まれることにこれほどの怒りを覚える理由がいまひとつわからない。
善意と好意と熱意の塊りのようなAさんに、こんなに激しい嫌悪感を抱くことに罪悪感も感じる。
突然「もしかしてAさんのしていることはセクハラなのではないか」と思った。
あまりにしっくり来て混乱する。
Aさんは自分に性的な好意があるのではないか。ゾッとした。冗談でもそんな風に考えるのは不愉快極まりない。
そんなはずはない。誤解させる理由も、される筋合いもない。そんな話題もしないし、そんな関係ではない。
若い頃、セクハラおやじがロマンス気取りではにかみながら手を握ろうとしてきたり、
妖しい雰囲気で意味深なことをいってきたりしたりしたときの、あの不快感。
そもそもAさんが男性だったら、自分は夜遅くのマンツーマンレッスンなんか絶対に引き受けなかった。
結婚していようが、成人する年齢の子がいようが、部屋に上げることすらしなかった。
あの熱っぽい目。
Aさんが読んでくださいと置いていった洋書の数々をいつどうやって返そうか。
仕事柄、UXとかデータ分析とか、その辺が少し強いと思われているらしい。
職場の人からその辺の勉強の仕方を聞かれたので答えようとしたら、意外と長くなりそうだったのでメモがわりに書く。
そもそも、UXという言葉が流行りだしたのは最近の話だと理解していて、バズワードに近いと思っている。概念自体は遥か昔からあるものだし、何を今更世の中がUXというワードを使いたがっているのかが良くわからない。(が、ここでは面倒くさいので、定義が曖昧なUXという言葉で色々お茶を濁す)
また、UXを勉強するという言葉も、正直なところ違和感がある。
というのも、具体的なケースと紐づいて考えない限りは意味がない気がするからだ。文章の批評ばかりしていても小説家になれないのと一緒で、UXについて本や講義だけで勉強していても、UXに強くなることはないと思っている。つまり、自分たちが作っている(関わっている)サービスの中でUXを考えつくすこと自体が、一番の勉強なんじゃないかと思っているので、UXを本や何かで勉強するというのは効果は薄いんじゃないかと思っている。
とはいえ、体系化出来るメタスキル的なものがあるのは事実だし、その部分の話を書いてみる。
「UXを良くしたい」という話をよく相談されるのだが、そもそもとして、UXが良くなった後の世界をちゃんと考えられていないことが多い。
「そのサービスを使ってユーザは幸せになるの?」という問いにきちんと答えられない場合、黄色信号という印象。
UXUXってバカみたいに唱えている人はたくさんいるけど、自分たちのサービスのUXが良くなることでこんな世界が実現できるよっていう話を、具体的に、鮮明に、誰が聞いても腹落ちする形で話せる人ってどれだけいるのかな。UXを良くしたいと言っているのに、良くした後の先の世界がイメージできていなくて、どうやって良くしていくのか甚だ疑問なんだよね。
なので、UXを考えるにあたっては、「自分たちがどうしても叶えたい世界」があって、それが叶うことによって「世の中の誰かがすごく幸せになる」という確信が必要条件だと思ってる。なので、そこがない時点でUX改善どころかサービスを作ること自体をやめた方がいい。
もし、そんな感じの祈りにも似た思いが少しでもある場合は、自分たちが作りたい世界についてしっかりと考えて、そしてそれらを検証して確信に変え、具体的な言葉に落とし込むというプロセスを徹底的に行うことを、UX改善の前に行なった方が良い。そうやって生み出された言葉が、UXを考えるにあたっての拠り所になる部分になっていくから。
自分たちが作りたい世界を言語化できた後は、ユーザの観察と妄想に尽きる。
課題解決系のサービスなら、ユーザに当たる人が本当に困っているのか、何に困っているのかを見極めるために観察すべきだし、何らかのバリューを付加するサービスなら、「このサービスを使ってもらうことで幸せになるのかという妄想」をいかに具体的にできるかが鍵になる。
これらの観察および、具体的な妄想をしていくこと自体がUXを考えることである。
炊飯器が目に入ったので炊飯器のUXを考えるとした時の例で話す。
多分、こんな妄想をする。
炊飯器とか既に他の製品が存在するものは、ユーザの行動もだいたい想像できるし、何より自分が使うものだから妄想しやすい。
逆に、全く新しいものを作ろうとする時なんかは、妄想も中々大変だと思う。バイアウトして話題のCASHとかは、その辺りの参考になるものが中々なく、妄想もやり辛かったと思うので、それを形にできたUXデザイナーの人はすごいなと思う。会ってみたい。
これはかなり適当に書いたが、自分たちが行なった観察に基づく妄想に対して、それらが意味のあるものかどうかを見極めていく必要がある。これがいわゆる価値仮説の検証と呼ばれるもので、妄想が本当に必要とされるものなのかを見極めるフェーズである。必要とされないものなんて作っても意味がないから、この段階できちんと仮説の検証をしておく。検証については対象によって全く異なるため、都度考える必要があるので割愛。
例はかなり適当に書いたが、ユーザをしっかり観察して、その上でどうやったら幸せになるかを妄想して、それらを検証していくというフェーズを、手抜きせず行うことが大事だ。これが業務系のサービスだと、業務フローを作ったりするのだろうし、C向けサービスだとカスタマージャーニーなんかを作ったりすることになる。その辺りの手法は色々あるが、ユーザを見て、考えて、検証してという基本はどれも変わらない。
ユーザをひたすら観察したあとに、初めて解決策を考えるフェーズに移る。
解決策ありきのプロダクトだと(昔の技術先行型の日本の家電だけど)、あまりいい感じにはならない。
あくまでも、ユーザの観察が先にあって、それに対する「解」としてプロダクトを作っていく。
この、課題に対して適切な解を出していくこと自体が、UXの磨き込みに当たるという理解をしている。
そして、それらが部分最適にならないよう、全体最適も意識しながら解決策を考え、プロダクトに落とし込んでいく。
「ご飯は1分で炊けるけど、風呂釜より大きい炊飯器」とか、誰も必要としないよね。だけど、部分最適だけを考えるとそんなことになりがちである。そのためにも、部分を考えたら、全体を見るということを繰り返し行なっていくことが大切だと感じている。その意味では、捨てるべき部分と、活かすべき部分のバランスをどう取るかが大切になる。ここも結局ユーザが教えてくれるので、事前にしっかり観察できていれば、勝手に答えが出る。
長々と書いたが、自分たちが作るサービスを使ってくれる人たちが、「どうやったら素敵な感じになるかを考え尽くすこと」が最高の勉強方法だと思っている。なので頑張って考えると良いと思う。
とはいえ、何を考えればいいかわからないということもありそうなので、その時は
・誰のためのデザイン
・複雑さと共に暮らす
・融けるデザイン
あたりを読んでみるのは良いかもしれない。少なくとも、何かを考えるにあたっての視野は広がるような気がする。
また、解決策を生み出していくにあたっては、ロジカルシンキングが出来るに越したことはないので、
あたりを読んで見るのも良いかもしれない。後者は分類的にはロジカルシンキングの本ではないのだが、ロジカルに考えた時の解決策って一つだけじゃないよねということを身を以て知るためには良い本だと思う。
また、散々書いたが、UX云々の前に、自分たちが作っているサービス(だったり、炊飯器だったり椅子だったり)で「何を届けたいか」という部分が一番大事だと思う。それ抜きにはUXがどうとか議論するのは無駄というか、意味がないので、しっかり考え抜いてほしい。
データ分析というと、Pythonでごにょごにょやるのがそれだと思われがちだが、一部のデータサイエンティストを除いては、基本的にスプレッドシートで十分なんじゃないかと思っている。むしろ、電卓レベルでも足りるんじゃないかという気がしている。(ここで話しているのは一般的なインターネットサービスを運営していくときの話で、気象予報とか経済予測とかそんな感じの難しいデータ分析の話ではない)
というのも、多くの場合において、四則演算以上のことをしなくてもなんとかなるからだ。
どちらかといえば
といったことの方が大事だし、そもそも「何のために分析するか」が抜け落ちていることが多い。
whyの部分が明確でない分析はそもそも意味がないので、まずはなぜ分析するのかを考えるところから始める方が良い。
データ分析ときいて「統計学」や「Python」を勉強すること自体は悪くないのだが、それよりもまず先に、「なぜ分析するのか」「どんなデータが自分たちのサービスのキモになるのか」といった分析の前提になる部分をまずはしっかり見極めることの方が、統計学の勉強よりも優先されるべきだ。それらがハッキリすれば、手法はいくらでもあるし、だいたいはスプレッドシートの関数でなんとかなるので、難しい計算は特に必要ない。
実務でよく使うデータなんて、売上、利益、利益率、ARPU、CPA、CTR、CV、CVRとかくらいだし、これら全て四則演算のみで出せる。分析といっても、平均だったりそれらをユーザの属性で割り振ったりするだけだし、中学生でも問題なく出来ると思う。ただ、重ね重ねになるが、whyの部分がない場合はいくら分析しても何も生まないので、まずはそこを見極めることに重点をおいた方が良い。
長くなったので無理やりまとめる。
勉強<<<<<実務であることは間違いないので、まずは自分が関わっているサービスについて真剣に考えたり、真剣に考える上で必要な数字が何かを自分の頭で考えることが、最高の勉強だと思う。教材とか、具体的なHowを期待していた人、ごめんなさい。でも、Howの意味で見ても、実践に勝るものはないと思っている。
「こんな○○の授業を受けたかった!」
「こんな風に教えてもらえば、もっと○○が好きになったのに…」
「学校で教えない○○」
…よく聞く言葉だ。こういう世の中の風潮を受けてか、文部科学省も「関心・意欲・態度」を評価せよ、学ぶ意欲をかき立てるような授業を、ということを言う。だがちょっと待って欲しい。本当に「そういう授業」を受けたら、学習意欲が高まり、学習効果は上がるのか?
PISA調査に見る日本の生徒の学力のユニークな点は、【「学力点」は高い/「学習意欲」は低い】…である。つまり『外国』の生徒は「やる気バリバリあるが、頭はそれほどよくない」。対して『日本』の生徒は「いやいや勉強やらされてて、テストの点だけはよい」というわけだ。これを見て、何でも「低い」ことが許せないお役所の方々は「もっと意欲を高めろ」と指示するわけ。だがこれらが逆相関している可能性について彼らは真剣に考えているのだろうか? つまり、【やる気は学力と反比例する】という可能性である。
これは、直感とは相違するので違和感があるかもしれない。やる気のある生徒が勉強できない、とはどういうことなのか? 東大などに行かれた偉い方々には、すとんと落ちないのだと思う。だが、データは正直だ。そして、現場の指導を通して感じる実感としても、上記の可能性は十分に考慮すべきだと考える。なぜなら「指導のリソースは有限」だからだ。
教員にはとにかく時間がないし、生徒も同じく時間に追われている。その中で、限られた授業時間で必要な指導を行う。もし、いまだに時間のリソースが十分にあるならば、「やる気のある子が自主学習や読書に取り組む」ことも、あるいは期待できるかもしれない。だが、部活と塾に追われ、空き時間をスマホでのコミュニケーションに追われる現代の生徒たちには、そういう余裕はない。ひたすらアウトプットを強いられてインプットする時間がない。つまり、「やる気の出る指導を受け、やる気を出す時間」はあっても「出たやる気で他を圧するほど学習に取り組む」余裕がないので、結果、「やる気は出ても学習成果は上がらない」ことになる。もし、短期的に「学習成果」をあげたければ、「やる気」とは無関係に、授業時間に絞って「詰め込み」をさせる方が効果的かもしれない。これが、「やる気」と「学力」が反比例する理由となる。つまり、時間などのリソースが定量だとすると、やる気に時間を割くほど学力は下がり、学力に時間を割くほどやる気が下がる。
実際、現場で指導して「受けたい授業」的な授業をしても、「そのおかげで」生徒の学力が上がったという実感は驚くほど薄い。強いて言えば、「教え込み」をしないにも関わらず生徒の「自主努力」によって、なんとか「教え込み」型の授業を受けている生徒からギリギリ離されない程度の成績を収めているな、という感じがある程度である。大変忸怩たる思いがある。
まあ、教員としては「面白い授業」をした方が楽しいのは楽しいのだ。だが生徒には負担をかけているという思いが否めない。もちろん、こういう苦労をした生徒の方が「将来伸びるだろう」という確信はある。だがその「将来」というのは、たとえば浪人したとき、あるいは大学に入ってからの伸びとかそういう意味になる。浪人をするほどの余裕がない家庭の多い公立高校で教えている限り、現役入学にこだわる生徒たちは、結局力を伸ばしきらないまま本人の行くべきレベルより低めの大学に入っていく。
まあこれは極端な話で、結局のところどちらかに振り切ることなく、どちらもそこそこにお茶を濁す感じで手を打っているのが現状だ。それで、生徒の評判はそれほど悪くない。だがもう少しうまいやり方もあるのではないかという気もして仕方がない。文部科学省の方々には、もう少しそのあたりを考えていただきたいものである。やる気も学力も魔法のように上げる方法というのは、残念ながらない…それが現実なのではないだろうか。
今後、記憶も曖昧になるし人と接することもないため、日記として残す。
ここ数年ヒキニートな仕事のため、15年ぐらい他人と接することがなかった。
友達も欲しかったのもありで、マッチングアプリである女と知り合った。
全体を通して3ヶ月程度だったが毎日通話したりで、仲良くなっていった。
初めてあった日のあともラインで告白して欲しいなどと言われ、その後、好き好きも連呼される。
外見的にはやや太めのブスだったが、何より人は中身、人柄や話しやすかったのもあり
また、人間と何十年も親しくなることがなかった自分には、新鮮で信用してしまい好きになっていった。
最後の日に全てを聞き、この人の本性がわかった。
数ヶ月毎日のように向こうから電話をかけてきて、好き好きアピール
友達のままが良いと言ったが、なぁなぁになるのがいやだからきちんとしたい自分
ある日パッタリと連絡がこなくなる。なぜか?面白くなくなったからとのこと、ようは飽きた模様
何百時間、話しても人によっては情みたいなのすら湧かないらしい
付き合っての告白はして返事は何だったの?と聞くと、その時は多分好きだったんじゃないかなと
あっけらかんに答える。付き合うとか別れるにいつもこうなのか聞くと人によるなど、お茶を濁す
薄情な人と今まで関わったことがなかったため裏切られたような感じでショックを受けた
世の中って付き合うや別れるってもっときちんとしてるものじゃないのか!
23歳なのに9人ほどと付き合ったと言ってたが、容姿からするとおかしいとは思っていたが
この人は付き合うの定義はいい加減でまともな恋愛はしてきていなかったようだ。
どうも、絵をかけることで中学からいわゆるオタサーの姫であり、
人の薦めるものには一切共感を示さないし、興味を持ってくれなかったなそうえば
いや、あなたより3回程度は就職転職しては違う業界にもいたのに…
その後、この人は至る出会い系サイトに登録しており、その時々で遊んでいたみたいだ
自分の生活で会わない人と遊んで嫌になれば会わずに捨てられるからとも言っていた。
プロフィールも嘘ばかりだった。
病歴なし→心療内科通い
絶対、死なない精神だと思うけども、これが唯一の不思議だった。
ただ、やることもなく生きてる人は生きている意味がない
自殺をなぜしないのと言ってたけど、よくそんなこと言えるなと思った。
キミはよくそんなヘラついて生きてるのに何様なんだと…親の家で何もせず絵書いてるだけで
実力やその性格じゃいずれボロが出ますよ今は若さの力のおかげだと思う
凄すぎる
何十年も人とお店に行ってなかったから最初会った日はとても楽しかったな
信頼できて誠実な人と知り合いたかった
25歳位から6年付き合って結婚した彼女と、6年の結婚期間の末に離婚した。子供は一人いる。親権は元妻側。
面会交流は月一程度で会えるようになった。まるで会えない時期が一年ほどあったので子供と会えるのは嬉しい限りだ。
子供はパパと(も一緒に)住みたいと言う。これが辛い。
元妻はいわゆるボーダーというやつで、機嫌が悪くなった時の俺に対する攻撃性は尋常じゃなかった。自分が無くしたものを子育てに忙しいことにかこつけて探せよ!と叫んだり、俺が口答えしてしまうと、泣き叫びながらあんたのせいであんたのせいで!と叩いてくるのを繰り返した。極め付けは子供がいるのにも関わらず、睡眠薬を大量に飲んで半自殺行為をした。救急車を何回か呼んだ。子供は何が起きてるのか分かっておらず不安そうだった。もちろん元妻は浮気もしていた。浮気相手に電話して警告したりして、俺は何をしているのか分からなくなり、あの頃は俺自体が深刻なうつ状態に陥っていた気がする。マインドフルネスや仏道にはまって、諸行無常であったり一切皆苦であることを受け入れようとした。相手の男は俺と同じ会社(元妻も)で別の部署だったが会社を辞めた。いづらくなったのだろう。それは俺も変わらない。俺も色々ありすぎた会社にいるのがしんどくて辞めて転職した。表向きはステップアップで給料も二百万くらい上がったが、本当は現実逃避だった気がする。
一切皆苦であることを受け入れることはできなかった。人生がこうやって妻の激情にビクビクしながら生き、そんな妻をなんとかお茶を濁すが如くに喜ばすことだけが俺の人生なのかと思い悲しかった。それが何年も続いていた。どうにかしてこの終わりゆく世界から出られるだろうか考えた。世界は終わっていた。恐怖の中で奴隷のように生きる世界とはこのようなものなのか。隣の芝生は青いというが、私には現実に青かった。夫婦はお互い正直な気持ちを話し合えるのに、私は正直な気持ちは置いてけぼりだった。正直な気持ちで話すと私のことをあなたは絶対理解しない!!と激怒されるだけだった。その割には腹を割って話したいと言われていた。腹を割って話すと激怒された。冗談でもなく、もうイヤァァァ!!!離婚するーー!!!と大声で叫ばれた。マンションなので恥ずかしかった。エヴァンゲリオンで言えばアスカみたいなものだった。そして一週間以上何も話してくれない、ということが何回もあった。
自殺することは実際にはないだろうと思っていたが、半自殺にかこつけて妻実家に頼ることにした。少し距離を作る必要があると思った。
ある日仕事が終わって夜遅くに家に帰ると泣いていて、理由を聞いても何も言わず、子供には強く当たってしまうと言っていた。これはもう実家に頼るしかないと判断し、義母に電話し事情を説明し「強制送還」した。強制送還された妻は激怒した。私のことをなんだと思ってる!!と言っていた。精神不安定だよ、心の中でつぶやいた。そして帰ってこなくなった。夫婦カウンセリングを受けた。カウンセラーも妻の圧力に困っていた。私のことを理解しない!そんなことでは結婚生活を続けられない!という主張から一歩も譲歩がなく話にならなかった。カウンセリングは妻側から突然打ち切りになった。
義母の様子もおかしくなってきた。明らかに私を攻撃しまくってきた。あんたのせいで娘はうつ病になった。あんたが根暗だからこんなことになった。離婚しろ!と言ってきた。
離婚については子供のことを考えてするとは思っていなかった。でも心の奥では離婚したかったとは思う。幸せはここにはないと悟っていた。子供が生まれて子供からはたくさんの幸せがあった。お世話は大変だったけど一通り一人でなんでもできる。寝かしつけとかたくさん抱っこしてたからか分からないが子供は俺のことが大好きであるのは手に取るように分かる。
離婚すべきかは分からなかった。そして離婚調停が開始された。数ヶ月立って決心はついていた。だが中々離婚させてくれなかった。面会交流させないというめちゃくちゃなことを言ってきた。調停委員も奥さんが落ち着くまでは子供と会わないのも選択肢として良い、と言ってきた。全く許せない。完全に他人事だった。なぜ親子愛のうちにいる俺たちが、妻の精神不安定で会ってはいけない事になるのか。馬鹿げている。ずっと争った。普通は二、三回で終わるところが10回以上続いた。最終的には月に一度会えることになった。回数が少ないのが私には許し難いので、一年後に見直しとなった。
それからは元妻と三人で面会交流することになった。子供がいるとかであるのと月一ということもあり、妻の激情は発露せず、一見普通の親子三人のようになった。ただ面会交流の日時を決めるやりとりなどでは激情に駆られたメッセージが書かれており、俺をコントロールする意思をビンビン感じるので、実態は何も変わってないのだろう。そして今に至る。
一人暮らしして2年になった。妻と争っていた時はそればかり考えていたから寂しくはなかった。だがこうやって落ち着いてきて思うのは寂しいということだ。もしまたなんとかなるなら三人で暮らしたい。そんなことも思ってしまう。なんともならないと分かっているのに。子供には申し訳ない。一生つきまとう悲しみを与えてしまった。苦しい。だが俺が死ぬわけにもいかにい。
俺はこの先どうやって暮らしていけばいいんだろう。友人やお世話になっている人は自分を優先して自分の人生を生きろという。でも子供を置いてけぼりにしてるようでそんなことできない。俺はどうすればいいんだろうか。子供を言い訳にして現実を変えることを拒んでいるのだろうか。そんなことはない。仮に俺が新たな家庭を見つけてもしも幸せになったら、子供はどう思うだろうか。辛い。