はてなキーワード: 進化論とは
間違い。BLは専門家も認めるポリティカリーにコレクトな表現です
溝口 BL作家のすごいところは、ゲイの人に気を遣ってとか、ゲイの人に一生懸命たくさん取材をして、というわけではない人がほとんどで、自分たちの楽しみを追求しているだけ、という人が多いのに、それでも、リアルなゲイの方から見て、ポリティカリーにコレクトな表現にたどり着いている人が大勢いることです。
大学非常勤講師。ビジュアル&カルチュラル・スタディーズPhD。著書『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』(2015)、『BL進化論〔対話篇〕 ボーイズラブが生まれる場所』(2017)が2017年度「Sense of Gender」賞特別賞受賞。
菜食主義・ベジタリアン・ヴィーガンの議論(直近だと anond:20201226231316 に対するコメントとか)において、特に肉食側からの倫理的な議論が少ないように思えるので、簡単ではあるが、倫理的な観点からの肉食擁護を書いてみたい。
私はあくまで素人であり、以下の文章は個人の見解以外の何物でもないことは最初に断っておく。
肉食を倫理的観点から批判する際の最も大きな論点は「種差別」である。種差別とは、「単に種が違うからという理由だけで、ヒトとそれ以外の動物を差別すること」である。肉食が相手の"命"を奪う行為であることは万人が認めるだろう。また人間同士では相手の"命"を奪う行為に大きな制限をかけるべきであるということも大多数は認めるだろう。であれば、「"命"を奪うことについて、相手が人間以外の動物だからという理由で人間と同じだけの制限をかけないのは差別である」というのが種差別の考え方である。
この考え方は性差別や人種差別の形式と近い。例えば、男性の利益を"男性だから"という理由で優先して、女性には"女性だから"という理由で配慮しないことや、白人の利益を“白人だから”という理由で 優先して、黒人には“黒人だから”という理由で配慮しないことは現在では大多数の人が差別であることを受け入れている。同じ用に、人間の利益を"人間だから"という理由で優先して、人間以外の動物には"人間以外の動物だから"という理由で配慮しないことは差別であるというのが主張になる。
一方で、関係する全員に対して平等な考えに基づいた適切な理由によって、ある存在と別の存在の取り扱いを変えることは差別ではなく、倫理的に問題はない(※ここでいう差別とは”不公正な扱い”を意味しており”不平等な扱い”ではない)ことも重要である。「菜食主義者だって植物の"命"を奪っているじゃないか!」という批判はよくあるが、多くの菜食主義者は"苦痛を感じる能力(sentient)"の有無を理由にして動物と植物を区別しておりそこに倫理的な問題はないと考えている。(なお、植物本体を傷つけない果実のみを食べるフルータリアンはこの点で他の菜食主義者を批判する)
このように倫理的な観点から肉食を擁護するためには、人間が動物を食べることについて、すべての生命に対して平等な考えに基づいた適切な理由を検討して採用する必要がある。
すべての生命に対して平等な考えに基づいた適切な理由を検討といっても、何から手を付ければよいのかは難しい。考え方はいくつもあるが、ここでは、伊勢田の「動物からの倫理学入門(2008)」の議論を元に進めていく。余談だが、この本は倫理学の入門書としてはかなりオススメである。タイトルからは菜食主義の本のように思えるがそうではなく、各主張を紹介した上で応用の一つとしてそれを動物に当てはめるとどうなるかを検討している。また、伊勢田自身は菜食主義者ではないとのこと。
伊勢田はこの本で下記のように主張している。
④認知能力や契約能力等、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)
これらの組み合わせから容易に「動物にも「人権」があり、危害を加えてはならない」という結論が導ける
(p320 終-3 結局動物とどう接すればよいのか)
「①~⑤を認めると動物に危害を加えてはならない」ことが正しいとすると、肉食を擁護するためには少なくとも1つを削除する必要がある。それは①~⑤のどれにすべきだろうか?
普遍化可能とは、簡単に言えば"ある状況である倫理判断を善いとするなら、同じような他の状況でも同じ倫理判断を善いとしなければならない"ということである。例えば、私が借金を貸す側のときに「借金を返さないことは悪いことだ」と言うならば、借りる側のときも同様に「借金を返さないことは悪いことだ」と言わなければならない。
これを削除すると、多くの倫理判断や社会のルールが無効化されてしまう。例えば、貸し手のときは「借金を返さないとダメ」と言いながら、借り手のときは「返さなくても問題ない」と言えてしまう。こうなると強者が弱者を思い通りにできる(少なくとも倫理の観点から批判することは出来ない)社会になるが、それを良いとする人は少ないだろう。また「人間と動物はお互いを殺してよいし、両者ともそれに抵抗してもよい」という方向で普遍化することも可能だが、それでは「人間は人間を殺してもよい」を否定する理由が難しい。
(双子を除いて)完全に同じ遺伝子を持つ人間がいない以上、遺伝的差異を差別の理由とするのは難しい。例えば肌の色を黒くする遺伝子を持つから差別していいとは多くの人は賛成しないだろう。生物学的種を考えて、交配して子孫を残すことが可能かという観点で区別するという主張はあるかもしれない。だが種差別の議論を考えると、交配の可否を"なぜ"差別の理由としてよいかを説明することは非常に難しい。また、(進化論を認めれば)すべての生物は連続しているので、AとB、BとCは交配可能だがAとCは交配不可というA, B, Cが絶滅種も含めれば必ず存在する。Aの立場で考えて、Aと交配可能なBは差別してはいけないが、差別してはいけないBと交配可能なCは差別して良いとするのはルールとしての一貫性を欠くだろう。
確かに、例えば未来の概念や愛の概念の有無などによってその苦しみの程度は異なるだろうし、動物の権利を主張する人たちも犬と人間が溺れていた場合に、より苦しみが大きいであろう人間を優先して助けることを否定するわけではない。しかし、多くの動物が少なくとも痛みや苦しみを感じる(sentient)ことは事実であり否定はできない。
先にも書いたように、多くの菜食主義者はこの③について、「脳を持たない植物(主張によっては一部の貝なども含む)は人間を含む動物と同じようには苦しみを感じない」として植物と動物を区別し、植物を食べることに問題ないと考えている。「植物も実は苦痛を感じているかもしれないじゃないか」というのもよくある批判だが、これはあまり意味のある問いではない。確かに植物も苦痛を感じている"かもしれない"が、動物は"明らかに"苦痛を感じている。何かを判断するときに、よくわからないことが1%あるから残りの明らかな99%も無視して良いとはならない。また、将来もし植物が"苦痛"を感じることが明らかになった場合は、菜食主義者の多くはフルータリアンなどに態度を改めるだろう。
これも事実であり否定はできない。人間の知能を動物の知能と直接比較すること(牛は人間でいうと何歳程度の知能か?など)はほぼ不可能であるが、それでも例えば0歳児や重度痴呆症、ある種の知的障害者などの限界事例の人たちと比較して牛や豚や鳥のほうが"賢い"と考えることは大きく間違っているとは言えないだろう。
③に関係して、動物も人間と同じ用に苦しむのは事実だが、動物を苦しめずに殺すことは問題にならないと主張できるかもしれない。未来の概念がなければ生活計画を持たずにその時だけを生きているので、殺害して未来を奪うこと自体は倫理的に問題がなく、苦痛を与えることだけが問題であるという主張である。また、④に関係して、認知能力や契約能力などの"賢さ"によって人間と動物を区別でき、"賢くない"動物は殺しても良いと主張できるかもしれない。
しかし、これらの主張からは、未来の概念がない人間や"賢く"ない人間=限界事例の人たちを殺しても良いという主張が直接的に導かれてしまう。もし、限界事例の人たちを殺すのは良くないと考えるならば、その根拠は人権であろう。であればこれを否定することも難しい。そして限界事例の人たちに人権を認めるなら、動物たちに「人権」を認めないとするのは一貫性に欠ける。
以上のように①~⑤を検討してきたが、どれも削除するのはなかなか大変そうだ。「現代の代表的な倫理学者で動物の問題について発言している人はほぼ例外なく動物が直接の配慮の対象になるべきだという立場である(伊勢田, 2008)」というのもよく分かる。
しかし、倫理的な観点から肉食を擁護するためにはどれかを削除する必要がある。私は差別者であるという批判を受けることは承知の上で、⑤を削除することを提案したい。
ウイルス進化論なんてのもあるがすべての変異が人間にとって好ましい変異では無い
ヒトパピローマウイルス(HPV)によって引き起こされる中咽頭扁平上皮癌は予後が良好であることと関連しているが、
腫瘍のHPV感染ステータスが独立した予後因子かどうかは未だ明らかでない。
https://www.jastro.or.jp/medicalpersonnel/journal/journal-club/post-30.html
あまりに暇なので忙しいふりをすべく、
本当は本当に忙しいんだけど。
私毎日お仕事何やってるのかしらと振り返りの術を呼吸を整えて鬼滅の刃なんだけど、
なにかカッコいい犬を描く田辺誠一さんばりに
カッコいいエクセルもといスプレッドシートの表はないかな?っていろいろ見ていたら、
ガンチャートってのがあって、
それ横軸をチクチクとカッコいい犬を描く田辺誠一さんばりにタスクを書き込んでみたの、
そしたらなんとなく表が埋まってくると、
もう今さら誰も言わない、
私の年収低すぎお姉さんやエンジニアなのにFAXも直せないのお姉さんを踏襲するかのように
なんかすごくやってる感出るのよね!
当たり前だけど、
表を書くのが仕事にならないように、
仕事をするために表を書き込んでいるだけであって、
鶏か卵か先かは
まあ私はそんな新しい表の書き方を覚えた進化論的な日々を継続できるようにしなくちゃって、
もう早2日目で夕方急に失速して記憶喪失になってる事例案件勃発中なのよ。
もうこれも今さら誰も言わないレヴェルでの小保方さんばりに言いたいところだけど、
思い出だけじゃ夕方まで乗り越えられないわ。
知らない間に寝ちゃってたわ!
こうやって「見える化」を欧米化してみると意外とあぶり出して見られて発見できることに気付いたわ。
今頃よ。
あぶり出しで思い出したけど、
個人で作る圧着方式のめくったら次のページもあるダイレクトメール的なハガキを年賀状にしてみたい気もするけど、
絶対にダイレクトメールだと思われて捨てられる始末の悪い話しほどないわよね。
いろいろと今年は年賀状の思考を凝らしたいと思ってなかなか出来ないのを言い訳にするのはやめなさい!って
自分にも言い聞かせたいところだけど、
なによりも
でもさ、
2年連続同じ干支の動物が続くってミラクルなとしもあっても本当にいいと思うのね。
だってさ、
だから
2年連続3回目の優勝!みたいな
奇跡の年もあってもいいと思うし、
今年は該当者なし!みたいなハプニングもあってもみんなビックリするわよね。
あと絶対ハーレーダビッドソンにのったおっさんが優勝したら、
来年はハーレーダビッドソン年でーす!ってのも
実際ハーレーダビッドソンは速いこと請け合いだから
出場したら優勝堅いわよね。
そう思うわ。
まあとりあえず何事にも
うふふ。
読んでみたシャキシャキレタスサンドは実は秋の季語って笑ってしまうわ。
これじゃ川柳じゃなくて、
まあそんなことより、
冷たい物をゴクッといきたいところね。
和歌山県産のレモン見つけちゃったので珍しいから買ってみたところよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
は?もなにもないだろ
大統領の人種とセクシャルは問題にならないけど無神論者は問題になると思うぞ
ドーキンスが『あらゆる宗教は人類の進歩にとって有害なもの。全ての宗教と神秘主義に批判的になることこそ科学』とか言おうが現実は現実だし
キリスト教圏にキリスト教をおちょくるなんて発想自体ないと思うよ
↓ フロリダ教育委員「私は、どの学校でも事実として教えられている進化論をまったく支持しません。」
http://www.flascience.org/?p=3494
フランス人は「教会離れ」がすごいらしいが風刺画ならばともかくそれ以外のところで公然とやらかすとかあるのかな?
特定の宗教を信仰はしていませんがアニミズムな日本で先祖崇拝と万物の霊的な概念を自然と受け入れ
他宗教に関しても神の存在に対してもそんなキリキリすることか???って思いますが
いまこの瞬間、下記の増田↓ を見て思うことは
ドーキンスと同じく、
『あらゆる宗教は人類の進歩にとって有害なもの。全ての宗教と神秘主義に批判的になることこそ科学』と思うわ
実際、アメリカじゃ「進化論を事実として教えることを支持しない」という教育委員もいるくらいだ
http://www.flascience.org/?p=3494
リンク切れてもいいように繋げておこ(anond:20200926151532)
コヘレトの言葉はすごく好きなんですけどね。結局、科学も宗教じゃないですか。なんかよくわかんないけどそれを信じると生活が良くなったり、救われたと感じて生きやすくなればいいんですよ。別に進化論だって一つのフィルターを通した見方に過ぎないしねぇ。オリバーサックスとかテンプルグランディンくらいのアカデミックさでokです。
ウェブ編集者の中川淳一郎さんが、ついにセミリタイアするという。著書「ウェブはバカと暇人のもの」(光文社新書)から11年あまり。たまに「ウェブはバカと暇人だけのものではない」なんて言い張るジャーナリストを見かけるけど、現実のネットはより一層バカと暇人のものになっている。
「ウェブはバカと暇人のもの」は、終わりのない進化の過程にあるのだ。そこで、肝心の本は倉庫に預けて手もとにないままではあるのだが、記憶をたどりながら(詳細は追って訂正したり肉付けしたりすることを前提に)ざっと書いてみる。いろいろ突っ込んで事実誤認を補正してほしい。
実はウェブ、あるいはインターネットが「バカと暇人のもの」であったのは、中川さんが指摘するよりずっと以前の、それこそネット誕生のころからの性質だった。もちろん、バカと暇人の性質はずいぶんと異なる。
そもそもインターネットは、ロシアからの攻撃に備えた分散型情報ネットワークとして、アメリカで軍用に開発されたものであった。それが、冷戦終結とともに商用活用が検討され、90年代の終わりに民間に開放された。
そのころには、インターネットが将来どのような姿になるか、影も形もなかったのだが、その得体のしれないものに情熱を注ぎ、いまから考えれば信じられないほどレベルの低い機材を使いながら、インフラを整えていった人がいた。
学歴は高いが身なりの汚い若者が、寝る間も惜しんで延々と何やらやっていたのである。傍からは、何をやっているのかまったく分からない、バカなことをしている暇人に思えたのではないだろうか。
商用プロバイダのインターネットサービスが始まったとき、最初に飛びついたのはインテリだった。教養とは、何もないところでの楽しみ方を自ら思いつけることなのである。教養のないやつは、出来合いのエンタメでしか楽しめない。
インターネットを最初に遊び場にした人たちは、学歴は高かったかもしれないが、好奇心と遊び心のある「バカと暇人」だった。
さらにその中から登場したのが梅田望夫さんの「ウェブ進化論」(ちくま新書)だった。要するに「インターネットが世界を変える」という主張で、そこに新しい創造性の夢を抱いた人たちが増えていった。
しばらくたつと、現実世界でイケてない非モテたちが、インターネットを新しい居場所として見出した。ネットは匿名で楽しむオルタナティブな現実となった。
参加者は好奇心が強く、知的水準も低くなかったが、STEP.2のインテリのように自分で居場所を作ったというよりかは、作られた居場所の中で傍若無人な振る舞いをしたバカと暇人といっていいだろう。
典型的なウェブは、2ちゃんねるだ。そこは素姓を隠しながら、ウンコの投げ合いのできるバトルロイヤルなリングだった。
その後、現在に至るまで、匿名での発信に対する批判が跡を絶たないが、ネットが非モテたちの限られた居場所であり、いまもそうであるという歴史を忘れるべきではないだろう。
STEP.3と並行して、一般の人たちがネットに流入してきた。「逝ってよし」だの「半年ROMれ」だの「ggrks」だのという言葉は、何も知らずに2ちゃんねるに入り込んでフルボッコにされた素人たちの存在を証明するものだ。
中川さんの「ウェブはバカと暇人のもの」は、こういう現実に対応したもので、3年前に出版された梅田さんの「ウェブ進化論」が仮想敵となった。
中川さんは少年のころにアメリカで過ごし、人間という存在がいかにバカでありうるかということを目の当たりにした。
そして広告代理店で働いたり、ネットでウンコの投げ合いを見たりして、匿名のネット空間で露わになる人間のバカさ加減に呆れたのだと思う。
言い換えると、ここからはネットだのウェブだのは関係なく、リアルの世界のある要素がネットによって視覚化されたという段階になる。ウェブ以前に、人間はバカで暇人なのであって、ウェブはそれを可視化したに過ぎない。
現実の人間は、梅田さんがいうような利口で立派な人ではなく、いかにそう見えたとしても、一皮むけばエロや美人や芸能人に目がなく、匿名のネットメディアでそういうコンテンツがウケるのは当たり前――。そういう身も蓋もない現実をあらためて提示したわけである。
ここまでは、ネットにリアルが侵食してきたときに、匿名という要素が、もともとあった人間の愚かな面を可視化したという段階に過ぎなかった。
次に現れたのが、ウェブあるいはネットが、人間のバカと暇人を加速する段階である。
中川さんの本に「インフルエンサー」という言葉が出てきたかどうか忘れたけど(ブロガーという言葉は出てきたような気がする)、インフルエンサーがなぜ成り立つかというと、そこに集る「バカと暇人」たるザコあるいはハエが存在するからである。
インフルエンサーは、自分に魅力があるから人が集まり、影響力を行使していると勘違いしているが、あれば「バカと暇人」がたかっているだけなのである。
だから「インフルエンサー・マーケティング」とか言ってるけど、そこで捕まえることができるのはウンコに集るハエのみであって、ハエを顧客にするビジネスでしか成り立たない。
試しに見てみればいいが、インフルエンサーの投稿に「なるほどです」「そうですね」「さすが」などと応じている“囲い”たちは、すべからくバカだ。そういうハエどもに集られて喜んでいるインフルエンサーは、ウンコにすぎない。
もうひとつネットが加速したのは、エンタメとしての反権力である。
反権力は、もともと一大娯楽、エンタメではあった。朝日新聞が市場にしていたのも、反権力を生きがいとする人たちであって、新聞の内容も取材によって「問題の真のありか」を突き止めるジャーナリズムとは無縁のものだ。
反権力エンタメ市場は、ツイッターなどのSNSと非常に親和性が高い。中川さんはその点について「非常に意見が鋭いもの」「モラルを問うもの」という言い回しをしていたけど、ダイレクトに「正義」や「義憤」がエンタメになるとは指摘していなかった。
60~70年安保のころからそうだけど、反権力とか義憤をエンタメにするのは、バカと暇人だった。普通の人はそんなヒマもなく働いてるし、正義だけで世の中わたっていけるわけがないことを知っている。
まあ、主義とか理念とかを持ち出して、現実を問題化しなければ生きがいを感じられないというのも、ある種「バカと暇人」な人間の側面なのかもしれない。
ということで、他にもあるかもしれないが、きょうはこんなところにしておこう。
言いたいことは「ウェブはバカと暇人のもの」(タイトルは天才編集者・柿内芳文との共同制作なのだろうけど)には、中川さん以前~中川さん以後の歴史があり、これからも進化を続けていくのだということだ。
進化論者だ!ひっとらえろ!
キリスト教などの宗教が文化や科学に与える影響が今もなお強いだからだろう
アメリカじゃ「進化論を事実として教えることを支持しない」という教育委員もいるくらいだ
欧米が同性愛者の牧師をプロテスタントが許したのもここ10年くらいの話
他にも上げたらキリがないがドーキンスブチギレもまぁ納得
http://www.flascience.org/?p=3494
日本においてはオウムや某新興宗教のイメージの影響じゃないかな (危ない・なにか買わされる)
あとは宗教に無知で日本が文化分離不可能なレベルの宗教大国という自覚がない
教典が無いだけなんだよなぁ