はてなキーワード: 科学論とは
超わかる。
あいつら「いかにイケてる(と俺らが思う)論文タイトルをつけるか」に命掛けてるから。
タイトルに何の情報量も無くて科学論文としての体裁保ってねーだろって論文いっぱいある。
競争が激化しすぎて一発芸の世界みたいになっちゃってるんだよね。とにかく初見でインパクト与えた奴が勝ち、みたいな。
査読システムもなんか大学受験ゲームみたいな感じになってきちゃって、ルールブック丸暗記してきましたか?みたいな評価になってる。
とにかくなんでもいいからstate-of-the-art出せばオッケーだしstate-of-the-artじゃなかったらクソだよね、学問的に意味のある積み上げ?そんなもんはstate-of-the-art出してから言えよカスwwwwwって感じになってる。
そんでサクっと一発インパクト出して(情報系なら)GoogleとかFacebookとかMicrosoftあたりに就職すればOKっていう。
この先生は、常に声が裏返っており、目は焦点があっていない。話も脈絡がない。
見るからに危ない人であり、正直、怖かった。
確か、科学史・科学論という講義だったと思うが、面白そうなので取ったが意味不明な授業だった。
内容はほとんど覚えていないが、少なくとも科学に関することは何も言ってなかった。
野球の話や最終日だけ来たら単位はあげるとかそんな話ばかりだったと思う。
ということで授業にでたのは3、4回だった。
翌週、野球の試合かなんかで授業どころではなかったことを明かしてくれた。
そして、最終日のテストの内容は、自分の死に方、この人は本当に大丈夫かと思った。
20個くらい黒板に死に方の候補を書き、それを選んで回答用紙に番号を書くだけ。
基本は80点で選んだ死に方によって加点される方式であった。切腹を選んだら90何点かで合格した。
当時ですら大学って変なところだと思ったが、今だったらこんな講義やったら問題になるんじゃないか?
この先生はクビになるかもしれない。
なんか、こういう変人たちの受け皿がどんどん無くなっていっている気がする…
こういう変人たちは、大学にいられなくなったらどうなるんだろうか。
まともな社会では相手にされないだろうし、引きこもりまたは犯罪者になる、それか自殺するくらいしか道はないんじゃなかろうか…
「県が科学的な根拠を示して反証し、偏らない客観的な事実を基にした表現とするよう強く申し入れたのは当然だ」(http://www.minpo.jp/news/detail/2014051415643)と美味しんぼ騒動に憤る新聞が、つい数週間前に掲載したコラムでは「科学論文として不正かどうかなど、どうでもいい視野の狭い研究者の内輪での話」(http://www.minpo.jp/news/detail/2014041615130)と「こまけぇこたぁいいんだよ!!」とばかりに、化学的検証作業など下らないとバッサリ切り捨てて小保方擁護してたのって素敵やん…
科学は「あるべき」論を欲しない。それが求めるのはただ「である」の集大成であって、科学が科学者に「あるべき」姿を望んだことなぞ金輪際ない。「あるべき」姿を求める行為は常に人と社会の関わりの間でのみ起こりうる現象であり、すなわちそれを求めるのは科学でなくて社会なのであるからして、まるで科学そのものの原理として、「あるべき」姿のごとき、ともすれば宗教のタブー・律法のようなものが存在するかのような議論は、極めて非科学的と断ずる他ない。
ノバルティス社の臨床試験データ偽装は何が問題だったのか。言うまでもなく、効果の不確かな薬品をそうでないと偽って売り出そうとした商業的な詐欺の片棒をかついだことであり、すなわち社会的行為としての罪であって、決して科学として「あるべき」姿を犯したからでも、タブーを破って神の怒りを買ったからでもない。科学はいついかなるときもその「あるべき」姿を自ら求めることはなく、従って「あるべき」ように見える科学のあり方に反したことそのものが罪になることなどあり得ない。
論文の剽窃もまた、何故か当たり前の様に科学そのもののルールに反した行為のように語られているが、実際のところそれの何が問題であるのかと言うと、単に労働市場の競争原理にもとる行為であるからに他ならない。誰が誰を剽窃し功績を偽ろうと、それは科学の「である」ことの積み重ねそのものには何の直接的な影響もないし、それを利用するものにとって、正しい知識が誰から得られたものであるのかを気にする意味はない。ただ、金銭や名誉という社会的なインセンティブが人間としての科学者に間接的な影響をもたらすのみである。
不思議な現象は、科学哲学の立場からこれらの「あるべき」論を押しつける風潮のあることである。しかし、科学哲学は科学がどう「である」かを論じるものであって、科学がどうで「あるべき」かを論じるものではない。哲学に出来るのは、それが「科学と呼べるのかどうか」を「哲学の外」(主に科学の現場)から持って来た観察を元にすりあわせることだけであって、「哲学の中」で決まった「あるべき」論を元に「これは科学」「これは科学でない」と勝手に現場の事象を振り分ける様になってしまっては、宗教原理をもとにありとあらゆる森羅万象を解釈する妄信と何ら変わらなくなってしまう。
科学論文の不正、捏造が批判されるべきでないなどとは言わない。言うはずがない。しかし、このように本当のところ何が問題であるのかは社会的行為として誰が誰に罪を負うのかを個別の事例として見なければはっきりとは言いがたいものであって、それが「科学」であるが故に「いかなる瑕疵も許されない」、「たった一つの不正が信頼を揺るがす」などとヒステリックに騒ぐのは、ナイーブと言うか原理主義的と言うか、非常に危うい日本人の知的状況を浮き彫りにするだけのものに見える。科学をもって「信頼を損ねる」などと、信じるか信じないかの問題にしようとしてしまう勢力を前にして、「科学も所詮現代の宗教」とシニカルに眺めていれば良い状況とは、自分にはとても思えない。
生物系の研究室に所属したものならわかると思うが、多くのラボで大なり小なりあの手の異常を経験してるだろう。
自分自身さすがにあそこまで酷いのは見たこと無いが、表に出てこないだけであのレベルは必ずある。
早稲田だからじゃないよ。東大にも京大にも旧帝大地方国立大どこにでもある。バレてないだけで。
だから、小保方はじめあいつらの罪は変わらないが、あいつらだけの問題ではない。構造的な問題が原因だ。
振り返ること1980年代。分子生物学による遺伝子クローニングが技術的に可能になった時代。ハードワークで遺伝子をクローニングすればCellやNatureに載った時代。
アメリカにわたったハードワークだけがとりえの脳なし研究者は華々しい成果をあげて凱旋帰国し、大学院重点化とあいまって次々とアカデミックポジションを獲得していった。
彼らはハードワークこそが研究だと微塵も疑わず科学倫理や科学論理を考慮していない。というかその本質を理解できていない。
ポスドク一万人計画によって生まれた大量の過剰ポスドクは団塊ジュニア世代なので今40前後であり、脳なし教授が帰国したころに学位をとってる。
なので、彼らはギリギリその上の世代のまともな教育を受けてきてる。なかには脳なしに感化されて脳なしになったのもいるが。
だが、脳なしが教授になってしまったら、その下につく准教授や助教は当然脳なしハードワーカーになる。ポスドクも学生も脳なしハードワーカーが好まれる。というかまともなのは淘汰されてしまう。ピペドという揶揄はこいつらのせいで生まれたとも言える。
つまり、現在35歳以下では、稀に存在する素晴らしい教授の下で教育を受けていないかぎり、脳筋ハードワーク病におかされておりCNS絶対教を狂信しているのだ。
そして盲目的な信仰によって病をこじらせていき、”要領”という名の不正をはじめる・・・。まじめにコツコツやっている学生やポスドクを「要領が悪い」とバッサリ切り捨てるのだ。では何をもって「要領がいい」とするのか?その答えがSTAP問題にあらわれている。
多くの人は、あの女がおかしかったんだ、と思ってるかもしれない。たしかにおかしいけども、おかしいのはあの女だけじゃないんだ。
今の日本の生物系は構造的に腐敗している。崩れ落ちるのを待つだけだ。
外の人は、いやいやそれでも日本を信じようって言うだろうし、信じて欲しいとも思う。自分も中の人だが信じていた。
でもね、この一連の状況を見て愕然としたし、本当に本当に日本の科学の終わりが始まってたんだなって。いや、終わりの始まりじゃなくて、すでに終わってた。
久しぶりに来てみたら、
この前書いた記事にたくさんブックマークついていた。
twitterのコメント見てると、批判であっても的を得ているので元気がでるのだけど、
・エビデンスを示せ
・一般論で語るな
というコメントがとても多いのだが、
証明しても反応なし、
エビデンスを示しても反応なし。
時々長々と反論書いてあると思ったら、
途中で間違いに気づいたのか削除されてたり。
そもそも科学論文じゃないんだから一般論なんか最初から書くつもりねーし。
こういうコメントするやつって、
何考えてるのか、何したいのかよくわからんけど、
言動から察するに、
少なくとも人を負かすことに喜びを感じているように見える。
かと言って議論は時間がかかって面倒だし、
誤字脱字とか、一般論言うなとか、勝ち目がある(?)コメントだけしていく。
議論する能力がないので、戦って負けそうになると逃げる。
政治やビジネスにおける責任の所在の曖昧性は長らく日本批判として存在しているが
その分野なんて全く知らないからあれだし、これ、別に科学論文雑誌みたいなもんじゃないみたいだし。
程度の低い心理学なんかもこの程度だったりするかもしれないけど、
インタビュアーが勝手にbeautinessをつけたり無理矢理複雑な式を作ったりしてるけど、
実際どういうサンプルが選ばれたかも単にrandomとしか書かれてなくてよくわからないし、
どれくらいの人数を調べたかすらぱっと見分からなかったんだけど。。。(流石にそれはあるのかもしれないけど、軽く見た感じで分からなかった。。。)
で、つまり、益田は容姿が良いほうが優秀だから取ってる、と言いたいんだろうが、
元増田の言ってることは
なんで女の容姿で業績が上がる
かどうかだ。
んで、引用してる話は、
だ。つまり、女ができるかどうかは関係ない。女が可愛いことによって男のやる気が上がり、取引先も色目に負ける、と言うだけの話。
実際女が優秀かどうかは別として、話として出てるのは、
「コンパニオン要員の女がいれば簡単に業績あげられるのに何でお前らそんな簡単な事やらないの?」
と言ってる、というだけの話で、
小一から夏休みは科学論文やらせて、毎年、市の科学作品展に出品されて銀賞とか佳作もらっていた。今年こそは金賞&県への出品を目指して春から毎日記録とらせてやらせていた。今回は写真とグラフの量が多かったからA4の紙100枚近くになったんだけれど、夏休み明けて、提出して2,3日後に「○○さんの科学論文は残念ながら校内選考で代表に選ばれませんでした。しかしながら、とても素晴らしい作品なのでしばらく学校に展示させていただきます。」とのお手紙を先生から頂戴した。
この夏休みに転校した先の学校に提出したんだけれど、前の学校は選考に落とされる作品というのは、いわゆる勘違い作品だけで、様式さえ科学論文ならとりあえず出品されていたし、科学工作だってけっこうボロボロでも磁石とか空気とか科学っぽい物が入っていさえすれば、出してくれる学校だったから、「マジで??選考もれるって、ウチの子、そんなに酷いの出した?他の子の論文と間違ったんじゃねぇの?」ってな感じで、その夜はダンナと二人でかなり落ち込んだ。
とくにダンナは普段から休みの日は娘と化石探しに行ったり植物標本作らせたり科学館で実験教室があれば参加させたり、今回の科学論文も熱意が凄かった分、ガッカリ感も凄かった。それで、土日に公民館に出品作品が展示されるから、どんな作品が校内選考に通ったのかを見に行ってやろうってことになった。
昨日、科学作品展を見に行ってきた。
いくら探しても子どもの学校の作品が見当たらない。受付の人に出品学校の一覧を見せてもらったら、他の学校は工作と論文と標本合わせて1学年20作品もだしてる所があるのに、うちの子の学校から一人も出品してねーでやんの。
学校が、学校の都合で子供の作品を出品しないとかって普通、ありえないよね?なんで出品がないのか気になって仕方が無いんだけれど、そんなこと聞いたら転校して早々「なんで優秀なうちの子が選考通らないんですか!!」みたいな感じでモンペ扱いされたら嫌だから聞けない。
そういえば夏休み明けの提出の時に、他の子がどんな論文やってきたか気になってうちの子に聞いたら「うーん、わかんない、けど工作は何人かいたけど、科学工作かどうかわからない」って言っていたから、そういうのにあまり熱心な学校じゃないのかなっていう悪い予感はしていたけど、まさか、先生が面倒でださないとかってないよね、って信じたい。
公立高校は偏差値と教師の質の相関はさほどたかくないからね。国私立だと卒業生が母校で教師になったりセレクションをかけるのでそれなりのレベルの人はいる。
俺の母校の理科教師で東大修士卒の人がいて、毎回のレポートを科学論文の形式で書かせるんだけど、内容がひどいのはともかく形式に少しでも不備があるだけで評価くれなかった。その時は科学者になれなかっただせえ若造が何気取ってんだかとか思ってたけど、大学入学後はその時の経験で大分楽が出来た。知識も確かだったし教え方も上手かった。なんかスカしてて取っ付きにくい先生だったけど、今では尊敬してる。
だったら、どう違うか相対的な整合性を仮定しなきゃ
まったく意味がないよな。
個人的な経験則は無効だぞ。
まあ本格的なバカみたいだから簡単に設問すると、
僕はその問題に少しだけ詳しいので知っていることを説明します
あなたもご存知の通り、
風俗がオナニーよりなぜ気持ちいいのかという設問は長らく論争の的でした
いまだに決着していないといってもよいその議論は
とりもなおさず生命とは何かということの定義あるいは自己複製へのイデオロギー的確信に
世界中の科学者、研究者がこの人類に残された究極にして最後の謎、
暗い闇の中を手探り状態で開拓しはじめたのが今から70年程まえです
著者はサイモン・プライマー、題名が「断片の創造性にかかる自己複製への影響の解釈」という
この科学論文が英国科学研究機構に提出されたのが今から71年前のこと、
当時この論文にはさほど科学的に重大な発見が記されているとは思われていませんでした
そこに書かれていたのは、自己複製の連続性つまり人類の生命誕生における
遺伝子決定に関してたんぱく質が影響をおよぼす断片的な創造性の思想的な解釈でした
それはDNAの2重螺旋構造をセントラル・ドグマとした当時のある種流行とも呼べるテーマでした
この全体としていささかインパクトにかける無名の生物学者が書いた論文に
たった一行それはあまりにもさりげなくしかし後の科学にとっては非常に重要な示唆が挿入され
それをあくまで直感的に解釈するプライマーの言葉が短くしるされていました
それが以下、
私はこの等式記号がただちにオナニーの快感を否定するものではないことを承知するが
さしあたって風俗での射精との関連についての演算的なゴールであることを定義するものであること
でした。
ここに風俗とオナニーに関する科学史の始まりとそして同時に終末が同時に記されたのです。
あるいは当時この示唆はあまりにも大胆な飛躍ととられたのかもしれない。
しかし、このほんの小さな一陣の風の前に
一人の研究者が現れることで科学史は大きなうねりを持ち始めるのでした
意味はわからないかもしれませんけど、まだ始まったばかりですから
最終的に風俗がオナニーよりなぜ気持ち良いのか科学的に証明するところまで
行くのにあと300レスは必要なんだしその頃には分かるんじゃないかと思います
ごめん終わらせちゃっていい?
天才だなお前
ちょっと待ってくれ。
>>37がやろうとしていることは生命科学だよな。
おまえがやろうとしているのは疑似科学だ。
捏造することもできない。
僕はそれを証明しようとしてるだけだし
それを疑似科学だとか言うならそもそも君の設問がナンセンスだってことになるよ
それに僕はオナニーでの射精から得られた精液から得られた微量のゲノムDNAサンプルと
風俗での射精から得られた精液から得られたゲノムDNAサンプルのRCA解析の結果を2次元下で
モデル化することで余剰次元の素粒子標準の不明点は切り離せると考えてるし
あくまで演算的に設問を証明しようとしてるわけだから可視化の力学的性質だけで
検出できない微小なプロセスは物理的な効果も無視されるのがふつうだ。
君の考えていることとはベクトルがまるっきり逆だと思う
射精のメカニズムを解析するのではなく射精された精液に含まれるDNAのふるまいによる
観察結果がおのずと回答を導くんだ。だから300レスで十分に証明可能なんじゃないか。
間違えたPCRでの解析だ。RCAじゃヒッグス機構と階層性問題の内部対称性が示せない。
超対称性を取り入れた標準モデルの拡張性の大きな強みは、粒子とスーパーパートナーの
双方から仮想の寄与があるとき、超対称性によって仮想フェルミオンと仮想ボソンそれぞれの量子補正が
実現できるてことになるから。とにかくRCAじゃなくてPCRでの解析を比較します。
読んでて頭が割れそうだ。
それこそ自然科学の世界では英語支配が長く続いているが、英語がほとんどできない益川先生でもノーベル賞を取れたよ。しかも自然科学で英語支配が成立した理由は、結局科学論文なんてどの言語からでもたいがい直訳できる(この世界では日英機械翻訳がかなり実用に近いレベルで動く)という理由もある。
ノーベル賞をとった研究って30年以上も前に論文になったはずだけど
まったく信じられないんだが
それこそ自然科学の世界では英語支配が長く続いているが、英語がほとんどできない益川先生でもノーベル賞を取れたよ。しかも自然科学で英語支配が成立した理由は、結局科学論文なんてどの言語からでもたいがい直訳できる(この世界では日英機械翻訳がかなり実用に近いレベルで動く)という理由もある。
理系アカデミアで用いられている英語は、「英米文化」や「欧米教養人の文化コード」とはまったく異質な
知識格差と言っても、ヨーロッパ中世ほどの断絶にはならないだろうし、非英語熟練層の知識レベルが落ちるわけでもない。
それは結局「英語の支配」になってなくて現状が続いているだけでしょ。
はてなとか見てると勘違いするかもしれないが、別にMBAとかに興味があるのはエリートの中でもさらにごく一部でしかないわけだからね。
それこそ自然科学の世界では英語支配が長く続いているが、英語がほとんどできない益川先生でもノーベル賞を取れたよ。しかも自然科学で英語支配が成立した理由は、結局科学論文なんてどの言語からでもたいがい直訳できる(この世界では日英機械翻訳がかなり実用に近いレベルで動く)という理由もある。
グローバル化が最も容易な学問の世界でも、例えば日本史とかドイツ文学とかの世界が英語支配になるなんて馬鹿なことはあり得ないし、結局現状が大きく変わることなんてないんじゃないの。
今年でゼロ年代が終わる.2000年が始まったときはミレニアム!と晴れ晴れしい気分であり,まさかゼロ年代なんてカタカナで時代が表されるだなんて思っても見なかった.そんなことを近頃思っていると「そういや,2000年とか2001年ってどんな本が平積みにされてたっけ?」と思ったので,簡単にまとめてみた.これは客観的な統計データのまとめではないし,選んだ本やその解説には恣意性だって含まれてると思うけど,はてブ等でフォローしてもらえたらと思う.
一般書では『だから,あなたも生き抜いて』がベストセラーであった.閉塞感のあった90年代において日本は経済も社会システムも崩壊が始まり,これまでのような一億層中流社会は望めなくなった.そんな時代に単なるサクセスストーリーとしてだけでなく,「生き抜く」ことを薦めるこの本がゼロ年代最初の年のベストセラーであったことは興味深い.
経済書では『経済ってそういうことだったのか会議』がよく書店に平積みされていた.お金のことは銀行や専門家にまかせておけばよい,といった価値観から自分の身は自分で守ろう,そのためには少しずつでも知識をつけようという価値観へ既に変化し始めているように思える.
また,9.11以前に文明の衝突論を展開していたという点でハンチントンが後にもてはやされた.『文明の衝突』は1998年.
また,ソーカル事件を発端とする科学論者と科学者間の間の論争である『サイエンスウォーズ』『知の欺瞞』が出版された.一連の流れにより,科学は正しいものという固定観念が崩れ始めるが,その悪影響として疑似科学が隙間に入ってくることとなる.
2001年は一般書・自己啓発本として『チーズはどこへ消えた?』や『金持ち父さん貧乏父さん』がベストセラーとなった.これらは自分探しブームの終焉でもあり,ありのままの全肯定でもある.その他の一般書では『声に出して読みたい日本語』のような日本語ブームが始まる年である.
ゼロ年代を象徴する批評家,東浩紀が『動物化するポストモダン』を出版し,アカデミズムからサブカルへの転向,遅れてやってきたエヴァ批評として有名となった.その後の現代思想,批評界は東浩紀とそのフォロワーによって進められることとなる.
また,疑似科学論争の大きなきっかけとなる『水からの伝言』がブームとなり,教育界では道徳の授業で使われたり,科学者集団がその疑似科学性を啓蒙したりする騒ぎとなった.
2002年は一般書では『生きかた上手』や『声に出して読みたい日本語』,『常識として知っておきたい日本語』がベストセラーとなった.また,『本当の学力をつける本』で陰山メソッドが有名となり,公立校の進学校化など各々が一律である必要がなく,教育にも個性や多様性を認めるような社会風潮となっている.とはいえ,これらの風潮は後の格差社会と繋がらないとは言い切れない.
格差社会といえば,玄田の『仕事のなかの曖昧な不安』は社会安定を失った日本の将来を予見する内容であり,当時の日本社会の空気を表す本としてピックアップすることができる.
不況下における人々の意識を表すかのように森永の『年収300万円時代を生き抜く経済学』がベストセラーとなった.この年を前後してエコノミストと呼ばれる人々が盛んにマスメディアに出るようになり,銀行に預けるのではなく,個人が投資する時代になったと盛んに喧伝した.
9.11以降の社会を分析するかのように,ネグリ・ハートの『<帝国>』やチョムスキーの『メディア・コントロール』などが読まれた.特に『<帝国>』は左派に大きな影響を与えたといえる.
2004年は『バカの壁』が大いにベストセラーとなり,養老孟司ブームが到来する.その続編でもある『死の壁』も同様にベストセラーとなり,これらと時期を同じくして,新書ブームが到来.多くの出版社が新書に力を入れ始める.
『仕事のなかの曖昧な不安』を受ける形で『13歳のハローワーク』が出版され,自分探し(何がやりたい?)と自己肯定(何をやっても自分らしい)が同時に薦められるような時代となった.その一方で堀江貴文『稼ぐが勝ち』が売れ,Tシャツ姿で六本木ヒルズで新進気鋭の社長となっているホリエモンが多くの若者の共感と多くの大人の反感を買った.この共感した若者は『希望格差社会』において希望が持てない若者たちであり,株取引による一発逆転という大平光代のサクセスストーリーとは別の形の逆転劇を夢想させた.
新書ブームを背景に『頭がいい人、悪い人の話し方』,『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』がベストセラーとなった.特に『さおだけ屋~』はタイトル売りという技を駆使し,その後多くのフォロワーを生んだ.また,これまで『仕事のなかの曖昧な不安』『希望格差社会』といった「労働」というジャンルのハードカバー本であった内容がついに『下流社会』と新書の形をすることで大衆化し,格差社会というゼロ年代のキーワードを体現した.
また,東一辺倒であった批評界において,『嗤う日本のナショナリズム』によって社会学の北田が登場し,2ちゃんねる批評というものが生まれた.これはゼロ年代が徹底的にサブカル批評へ偏ることを決定づけた.
相変わらずの新書ブームで『国家の品格』『人は見た目が9割』等がベストセラーとなった.『国家の品格』は養老孟司から続く理系人ブームを引き継ぐとともに,後の品格ブームを起こした.『人は~』は『さおだけ~』のフォロワーであるタイトル売りであり,『なぜ、社長のベンツは4ドアなのか?』といったフォロワーも生まれた.
また現在まで続く重要な流れとして『ウェブ進化論』『Google』『「みんなの意見」は案外正しい』といったWeb論が生まれ,Web2.0,玉石混淆,群衆の英知といった言葉がよく聞かれるようになった.これらの著書により,これまでYahooを使っていた人々がGoogleに移行したり,Wikipediaが大衆化したりするようになった.これらのWeb論はあまりにオプティミスティックであると当初から批判されたが,アーリーアダプターにしか知られていなかったWebの様子を大衆化したその社会的影響は計り知れない.また,『フラット化する世界』がベストセラーとなり,インドの台頭が認知され始めた.
品格ブームを引きずって『女性の品格』,○○力ブームを引きずって『鈍感力』などが一般書としてベストセラーとなった.また,理系人による本として『生物と無生物のあいだ』が読まれた.
データが重要となったことを示すような本として『その数字が戦略を決める』がよく書店に平積みされていた.Web時代においてGoogleが大規模DBにデータをため込むようになり,既存の専門家よりもデータが多くを語るような時代が幕開けしたことを告げた.
その一方で,「炎上」という言葉が一般用語化し,梅田らオプティミストによるWeb論に対して,Webの負の面を大衆化させるような本として『ウェブ炎上』や『フラット革命』が登場した.
また,格差社会論は「ワーキング・プア」や「ロスト・ジェネレーション」といった言葉を生み出し,ワープア論壇やロスジェネ論壇と呼ばれるものが生み出され始めた.特に「『丸山眞男』をひっぱたきたい----31歳、フリーター。希望は、戦争。」という赤木の論考は衝撃的であった.
どういう流れからか,『×型 自分の説明書』という血液型本がバカ売れした.これも疑似科学ブームの一端なのだろうか.そして,はてなー大好きの勝間本『効率が10倍アップする新・知的生産術 自分をグーグル化する方法』がついにベストセラー化した.いつの頃からかライフハックという言葉がよく聞かれるようになり,多くの自己啓発本が書店に平積みされていた.また,サブプライム問題までは外資系コンサルが重宝され『地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」』が売れた.
批評界では東にケンカを売る形で宇野『ゼロ年代の想像力』が,東のフォロワーとして濱野『アーキテクチャの生態系』が現れたが,どちらも東の影響を多分に受けており,ゼロ年代批評が東一辺倒であることを決定的にした.
ロスジェネ論壇ではその名の通り『ロスジェネ』という雑誌が創刊し,蟹工船ブームが生まれた.また,秋葉原通り魔事件が起こったことにより,多くのメディアによって事件が消費され,それらは常にロスジェネ論壇,フリーター論壇とともに語られた.
文字ばっかりでごめんなさい.
「水は言葉を理解する」という命題は、「過去の水に関する実験結果は、全て水にかけた言葉と関係なく説明できる」ことから、間接的ではあるが、否定実験をするまでもなく容易に反証可能。
あくまでも、私見になってしまい、パブリックな科学論とはずれるのかもしませんが、私はこのセリフには同意できません。
なぜならば。
昔は、天動説が証明することもなく当たり前でしょう、と言われていましたが、今では、地動説の方が一般的です。
しかしながら、何百億年という単位で見た場合、実は、地球が太陽の周りを回っているというのはたかだか100億年程度の事で、あと200億年後には、別な軌道を描くもっと複雑な運動であったことが証明されないとは限りません。
地球が太陽の周りを回っていると考えるのは十分に合理的であり、天体観測上も問題なく。十分矛盾がない理論である。という事になると思います。
こういう考え方が科学であると思いますので、十分な考察と、十分な実験が無く、肯定することも否定することも非科学的だと私は思います。
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「水は言葉を理解する」という命題は、現在の科学の基本的な実験と、その命題を主張する科学者の実験に不備が見られることを理由に、「水は言葉を理解する」という命題を主張するにはデータ不十分。よって検討に値しない。
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言い方を変えると、査読を拒否するのに十分な理由がある。という言い方でもいいかもしれません。
という分には問題ないと思いますが、反証可能であるとするには、やはりそれも、データ不十分である。ほとんどの人が唱えている「水は言葉を理解しない」という命題もまた、査読を拒否するのに十分な理由があると思います。(他の実験とかいわれても、他の実験は他の実験で条件が違うのに、何か言われても困りますと。もっとも、必ずしもそうでもない事も分かりますけれども。きちんと、論文としての体裁を整え、どの論文のどの実験と、どの実験の結果を基に、どういう風に考察して、けっか、どうである。という条件をそろえてくれないと、査読することが不可能という意味:科学的というならば、そういうことかと。それ以外はディベートかと思います。)
既存の科学に、実験と理論で、新しい1ページを追加していくのが科学かと思います。であるならば、証明可能かどうか?という事は科学に値せず、証明することが科学かと思います。反証不可能な事については、現代の科学では証明・不可能と判断を保留した方がよいと考えています。