はてなキーワード: 寝言とは
大昔のフェミニズムは、「自由に恋愛する・性向を表明することを社会的に禁じられた女」という社会のなかで育ったが、今はそれはかなり解消されているからというのもあるのでは。meetooの迷走やエマ・ワトソンへの非難なんかは、そもそもフェミニズムの流れ自体が次のフェーズの手前で迷走しているから結果的に怒ったことという気がする。
ちょっと話はずれるが。
今は、牧歌的でシンプルな男女間の対立ではなくて、「リッチ・男女」vs「貧困男」vs「貧困女」という三すくみ状態になっているような気がしている。性別差ではなく経済格差がより問題意識としてクローズアップされる、一方で簡単に覆せない規模の社会・経済格差において上流(ワインスタインのセクハラ事件のような)はまだ男性優位である、というマダラ色になっているからこそのカオスというか。
おばちゃんの個人的な意見としては、「経済的に自立してるけど好みの男はマッチョで頼れるタイプ」、とか寝言っぽいことを言えることは、むしろ大事だと思っている。ただしこれは経済格差の緩やかな解消が社会で共有されていく未来が前提ではあるけど。
社会・経済的な自立度合いと性的な好みが直結する必要はないし、むしろ、「社会的に自立している=養いたいタイプが好み」であれ!と押しつけるのも違う。典型的なジェンダーロールの押し付けだから。
男だって稼ぎの多寡とは関係なく、守ってあげたいタイプの女だろうが自分で生きていけそうな野性味ある女だろうが、どっちがタイプとして表明したっていいし、そうあってほしいと思うし。
実際、昨今の2、30代の上流男性は、同じ社会階層の(社会・経済に自立的な)上流女性とカップルになるケースも増えているしね。そうすると社会階層も固定化しやすくなるし、あんまり好ましくないなーと思ったりはするが、これも男女論ではなくて貧富論になっちゃうから、フェミニズムの中だけで話す話ではなくなるというか。
女性がこの分業を外れたのに、男性に外れるのを許さないことを非難しているだけ。
これは見方による。「体(命)をかけるものしか国の舵をとるに値しない」という価値観の元では、妥当。
そして、その価値観を脱して選挙権を得たのが、女性の性別役割分業からの離脱の第一歩だったと思う。
なぜ省くのか不明。
あと、「男女平等」の社会において、「力仕事など女性に向かないから」などという理由が許される訳がない。
それは「軍事」「政治」であるとか或いは「仕事」全般を「女性に向かないから」といって男性が占拠してた時代のロジックにほかならない。
都合がいい部分だけ「女性には向かないから」は許されない。力仕事するべき。
これは気になる。例えばどんな現場?
見ていたらご教授頂きたい。私にはそれこそ性産業くらいしか思いつかない。
これからは変わっていくと思うよ。
女性の上方婚指向が今以て続いていることを考えると、これからも変わらないと思う。
「お年寄り」「子供」は基本的に誰もがそうであった存在だったり、そうなる存在だが、
女性が「体力がない」理由で優先されるべきではない。それは女性が放棄したロールに含まれると思う。
これらの部分に関しては、「男性は守ってきていない。寝言をいうな」と寝言を言われたので返しただけであります。
以下が本題。
私も女性にはもうすでに社会的強者と弱者が存在しているから、女性という理由で一辺倒に守られてしまうと、強者女性はフリーライドということになると思う。
ただいかんせん、腕力ということでは女性は弱者寄りの存在であるし、犯罪は腕力でもってするものだから、
女性が男性と同程度の腕力を持つようにならない以上、犯罪や暴力などからは弱者として、子供やお年寄りなど、女性より弱い者の次に守られなければならない場合が多いだろうと思うよ。
しかし、フリーライドしているのは強者女性のみならず、弱者女性も弱者男性にフリーライドしているのだ。
その理由として用いられているのが、ここにも書いてある「腕力」。
確かに、犯罪の多くは腕力を持ってなされるだろうが、犯罪者に非ざる大半の男性は人に腕力など向けずに一生を終える。
そのあっても使わない「腕力」をまるで男性の原罪であるかのように振りかざすことこそ、女性からの暴力。加害。
女性はその「腕力」によって守られるロールを自ら脱した。にも拘らず、その「腕力」を逆手にとってすべて男性に自分を守ることを強いる。
性差を考慮した性別役割分業を放棄した以上、性差に甘えることは許されない。
女性は、「腕力」をつけるべき。無理だとしても、それが「男女平等」。
痴漢に関しては、正直私はそれなりに対処できるし、私自身には女性専用車両は必要ないと思ってる。
けれども恐ろしくて声を上げられない女性、高校生などまだ効果的な対処ができないかもしれない年齢の者、そういう人たちのためには心強いことだろうと思う。
「恐ろしくて声を上げられない女性」は「声を上げられる女性」に代わるべき。さもなくば泣き寝入りするほかない。
「声を上げられない男性」が現状そうである以上、「声を上げられない女性」だけが保護されるべき理由は何もない。
ただし、「高校生などまだ効果的な対処ができないかもしれない年齢の者」はまた別の問題で、保護の必要はあるかもしれない。
男女問わず、「高校生などまだ効果的な対処ができないかもしれない年齢の者」である時期は存在するので。
その際は「未成年者専用車両」等が妥当であろう。間違っても「未成年女性専用車両」であってはならない。
社会側の立場から、というのであれば一定の必要性は理解できるが、それでもやはり女性だけを守る理由もない。
それと私としては、男性には私の父や夫、友人に会社の上司や同僚が含まれるので、それらの男性には本当にお世話になっているし感謝しているし、
もっと言えばその他にも色々な方にお世話になっているから、男性というよりお世話になっている方々として、していただくことは何も当然だと思うことはないよ。
先にも述べたが、私は「感謝せよ」とは言ってないんですよ。
ただ、「もう男性に甘えるな」といっているだけ。「守られる存在」ではないと自覚せよと言っているだけ。
だから、世話になっている男性にだけ感謝するというあなたのスタンスは正しい。
腕力や暴力を持って男性に庇護を求めることの暴力性は、上に述べた通り。
元増田。
社会が「女性(だけの)保護」を目的として施策を打ったらばそれは男性には負担でしかなく、そして今まで男性はそれに耐えてきた。
有史以前から、女性を外敵の侵略から守り食料を供給していたのは男性。
もっと言うなら、戦後女性に選挙権が認められるまでは社会≒男性だったし、
現代でも、自衛隊員はほとんど男性。警察官も9割男性。原発作業員も大半男性。
タイタニックが沈んだ時にもボートに先に乗れるのは女性。ディカプリオは死んだ。
そもそもの議題にあった女性専用車両すら、男性の慈悲によって作られ、運用されている。
子供が自発的意思で欲しがっているものを禁止するのは、ゾーニングの問題としてクリティカルなんだよね。
ひと口に「子供」と言っても幼稚園児から高校生まで、幅広い年齢がある。
小学生ならば禁止してもいいと思うが、高校生がエロ本を購入・所持することを禁止するのは、はたして妥当なんだろうか?
建前としては禁止にしておきながら、実質的には黙認している部分もある。
しかし、建前と現実が乖離している社会というのは、その方がよっぽど不健全ではないのか。
そもそもセックスをしている高校生はいるし、それをやるためにコンドームを買うことが自由なのに、一方でエロ本やアダルトグッズを買ってオナニーすることが禁止というのは謎すぎる。
セックスをやるのは愛だからOKで、オナニーは愛がないからダメってこと?(゜゜)
このagricolaみたいな奴には、ゾーニングにまつわる、この微妙な問題が分からないんだろう。
不適切なコンテンツを子供に見せないための配慮は必要だが、子供が自発的意思を持っているものまで禁止するのは、人権侵害となりうる。
いくら子供を守るためとはいえ、そこは慎重に行わなければならない。
id:agricola お金を取れば見たい人しか見ないからゾーニング!じゃあ金を払えば5歳の子供でも成年コミックや18禁ゲームを買える状況は「一種のゾーニングが機能している」わけか。寝言は寝てから言え。
現実には起こりそうにない仮定の話を持ち出してまで、年齢制限をかけたいという情熱だけは伝わってきたwww
だがそもそも、ふともも展は多少エロティックではあるものの、過激な性表現とまでは言えない。なので、未成年者が自分でお小遣いをためて、観覧を希望するくらいの年頃に成長したならば、我々はその子供の意思を尊重するべきではないか?
なお、ふともも展がマルイを去って、小規模の会場に移り、対象年齢を掲示するという配慮をしたところで、そこに子供が入ってくる可能性を否定できない。
入口で身分証明書の提示を義務づけて、一定の年齢以下の子供を強制排除する措置を取らないかぎり、クレーマーに見つかったら難癖をつけられるだろうか?
ほんと、こいつらは自由の敵だわ。
さてさて。さてさてさて。
句点が「。」だそうです。
一日中布団の中にいたら毛布が汗で冷たくなっていました。
悲しいことです。
ままならないなあという感じです。
ただ生きているだけで何でこんなにも雑事が発生してしまうんだとため息をつきたいです。
たいやき食いたい。
あんこはそんなに好きじゃないので中身がチョコレートのたいやきがいいです。
ぼくごのみの文章を書く人には稲垣足穂好きの人が多いのですが僕は稲垣足穂が読めません。
あと彼らが稲垣足穂のどこに影響を受けたのかもよくわかりません。
読んでないので当然です。
それを知りたいので今一度稲垣足穂に挑戦してみようという気持ちです。
最近ダンボールで本棚を作ったのですがすぐにへたってしまいます。
ダンボールを重ねてみたりもするのですが本の重みで上の棚がどんどん前傾してきます。
朝起きると本が床に散乱していたりします。
ユカに産卵です。
意味がわかりません。
野菜ジュースが好きなのですがペットボトルを洗うのは苦手なので部屋中に野菜ジュースのペットボトルが散乱しています。
いろんなことを後回しにするからこういうことになるんです。
ぼくはいつもそうでした。
トイレが面倒だからとペットボトルに尿を排出するような人間になってはおしまいです。
みなさんも気をつけてください。
やる気は行動しないと起きないといいますが行動したからといってやる気が出るとは限らないわけです。
諦めて寝ましょう。
やる気は行動しないと出ないとかいう寝言を言っている人のことを信じてはいけません。
しかし僕はまだ眠くないので寝ることすらかなわないのです。
今はえらいやる気がない状態なんですがこういう状態で楽しめることといったらオナニーくらいしかありません。
勉強なんてできませんしアニメを見るのもしんどいですし本を読むなど無理です。
しかし今日は既に二発発射してしまったのでオナニーもしんどいです。
もう何もすることができません。
仕方がないので布団の上に仰向けになって何も考えずに体を横たえます。
しかし明日のためといってもいったい明日にぼくは何をしたらいいのでしょうか。
わからないのでとりあえずエビオスと亜鉛を摂取して明日のオナニーに備えることにします。
あとの欲求は残り滓みたいなもんです。
なんという。
フェミニストが乳製品を摂ることは矛盾か、という議論が喧しい。
https://togetter.com/li/1194767
http://sutaro.hatenablog.jp/entry/2018/01/29/162209
http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2018/01/30/152800
はじめに言っておくと、わたしはヴィーガニズムやアニマルライツには明白に反対である。しかし、それらを一部のバカによる寝言だとは思わない。むしろヴィーガニズムは正しいと思っている。いや、より正確に言うならば、ヴィーガニズムは正しすぎるがゆえに問題なのだ。
ヴィーガニズムへの反対に理屈をつけようとすると、かなり高い精度でブーメランとなって戻ってくる。人間と動物は違う! 白人と黒人、男と女を代入して同じことが言えるだろうか? 人間は他の動物より賢い! 男が力強いことを男性が優越していることにしたい性差別主義者は、古今東西どこにでもいる。人間が動物と違うのは社会の常識だ! アメリカ南部の奴隷主たちも、同じことを思っていただろう。
10年ほど前、はてなで「本当の本当に大切なことには、理由があってはいけない」というフレーズが話題になった。まったくその通りだ。「同じ人間を差別してはいけない」にも理由はない。理由はないが、道徳律とはそういうものだ。差別はいけない、なぜならそれは差別だからだ、という主張は空虚だが、しかしその正しさを疑う人はいないだろう。差別は正しくない、これは自明です。
ところで、「同じ動物を差別してはいけない」という主張は、「同じ人間を差別してはいけない」と論理的に同型である。空虚である。空虚であるが、ではそれゆえに正しくないと主張することは可能だろうか?
人類の平等への闘いは、「同じ○○」の範囲を広げてゆくことだった。「同じキリスト教徒を差別してはいけない」という議論に対して異教徒が声を上げることは必要だった。「同じ成人男性を差別してはいけない」という主張では、無産階級の男性のことは救えても婦人参政権は実現できなかった。ようやく今、人種差別や性差別が「同じ人間を差別してはいけない」として斥けられる時代になったのだ。
しかし牛や豚からすれば、その「人間の平等」は、「白人のなかでの平等」や「男性のあいだでの平等」と寸毫変わらぬであろう。
それがヴィーガンやアニマルライツの訴えの核心である。これを安易に「人間と動物は違うんです。以上」で切り捨てることは、安易に「だって男と女は違うじゃん」と切り捨てることと、いったいどこが違うというのだろうか? このふたつの主張をまったく別物だと切り分けること、それ自体が彼らの批判する種差別なのだ。
何でフェミニストにばかりそういう要求や追及がなされるのか? と疑問を呈する人もいる。断言するが、それは最悪の戦略である。
第一に、ヴィーガン界隈を見ればわかるが、彼らは一般人に対しても肉を食ってさえいれば無差別にマサカリを投げつけている。それが今回たまたま件のフェミニスト氏に向けられただけであり、構図としてはセクシーな萌えキャラの出てくるポスターをフェミニストから批判されたオタクが「何でオタクばっかり叩くんだ?」と過去の女性運動の蓄積も知らずに愚痴っているのと寸分違わない。やめておいたほうがいい。
第二に、差別に反対する運動の中で別の差別が行われていたとき、それを厳しく追及してきたのはフェミニストたちだったではないか。人種差別に反対する運動の中で性差別が起きたとき、人種差別だけでなく性差別にも反対すべきだ、そうでなければ真の反差別とはいえない、という主張はそれなりの説得力をもって受容されてきたように記憶している。であるとすれば、性差別だけではなく種差別にも、という主張が向けられることは自然な話であろう。
つまり、既存の反差別運動の側は、迂闊にヴィーガニズムを揶揄しているとブーメランが帰ってくるわけだ。反差別、正確には、反人種差別および反性差別を支持する者として、味方がブーメランに撃ち抜かれて斃れていくのを見るのはやるせない。
ではどうするか? わたしはまず、敵対関係を認識すべきだと主張したい。
フェミニストは男性優位社会の敵である。奴隷解放論者は南部社会の敵であり公民権運動の闘士は白人中心主義社会の敵である。それと同様に、ヴィーガンは人類社会の敵である。
このことは、現在のヴィーガニズムの支持者が全員人類であることと何ら矛盾しない.家父長制と闘う人びとの中には男もいた。奴隷を逃がしたり黒人とともに座り込みに参加した白人もいた。そして彼らは、男でありながら男性中心主義の敵であり、白人でありながら白人至上主義の敵だった。ゆえにヴィーガンが、人類でありながら人類社会と敵対するのは何ら矛盾ではない。
わたしたちにはふたつの選択肢がある。ひとつめの選択肢は、敵が提示する平等のテーゼを受け入れることであり、つまりはジャイナ教徒のように虫の一匹も殺さぬようマスクをし箒で道を掃きながら歩く生活を選び取ることだ。もうひとつが、平等と敵対することである。種差別の何が悪い、人間は動物とは違うんだ、人間の都合で動物を搾取することは当然だ、と傲然と言い放つことである。
最悪なのは、この敵対性に対して目を瞑ることだ。敵を「なんか頭のおかしい人たち」として片付けることだ。そうではない。彼らは正しいのだ。彼らは正当な抗議者として、つまりはわれわれの敵として扱われるべきなのだ。
この敵対性を隠蔽してしまったら、他の敵対性が隠蔽されることに抗えなくなる。それは平等への闘いの自滅だ。敵対性がそこにあることを明るみに出すことは、常に闘いの出発点なのであるから。
なのでわたしは宣言する。肉うめぇ。これはヴィーガニズムが提示する平等への敵対だ。朕はたらふく食ってるぞ、汝畜生食われてろ。数百年後、あの世代は動物差別と動物大虐殺を何とも思っていなかった民度の低い連中だ、人類の進歩を阻害してきた、と糾弾されるかもしれない。それでもわたしは、種差別を正しいと信じる。人間は動物とは違っており、この差別は当然だと主張する。未来の子供は、わたしのこの言明を醜悪なスピーシシストの声明として読むかもしれない。ユダヤ人は劣等だと言い放ったちょび髭の指導者や、女は男よりも劣った生き物なのだと公言してきた家父長たちが扱われるように、動物を殺して恥じなかった我々現代人も扱われるかもしれない。ひょっとすると数十年後に革命が起きて、人道に対する罪で訴追されるかもしれない。自己批判を強要されるかもしれない。それでもわたしはヴィーガニズムに敵対する。この差別は正しい差別だからだ。
さあ、みんなもそう叫ぼうじゃないか。種差別は必要だ! 種差別は正しい! 今ここで種差別を! 明日も種差別を! 永遠に種差別を!