はてなキーワード: 医学とは
残りあと50年生きるとする。
後半の20年は年金暮らしになるだろうが、体が自由に動かなくなることを考えると労働と同じレベルでそれらとの戦いがあると身構えた方がいいだろう。
そして20時に家につく。
24時に寝る。
8時に起きる。
24時に寝る。
休日が125日あるが、用事で潰れる日が5日あるとして120日。
残りの平日が245日。
120*10=1200
245*2=490
そりゃそうだ。
1年1690時間のうち730時間も漫画を読んでしまっているんだから。
漫画だとやや非現実的だが、これがテレビゲームなんかになるとだいぶ現実的になる。
これだけで日々が終わっていく。
そこまでハマれるのなら幸福ではあるのかも知れない。
だけど、そこまでやっても「ゲームを遊び尽くした」と呼べるかは怪しいものがある。
趣味で遊ぶゲームなんて、年間でたったの1690時間でしかないんだ。
大作ゲームのレビューをみれば2000時間や3000時間遊んだプレイヤーがボコボコ出てくる。
そういった時間の使い方は人生でたった30作程度にしか出来ないだろう。
100時間で妥協しても年間17本、10時間で妥協すれば170本遊べるには遊べるが、その遊び方が「十分なやりこみ」と言えるとは思えない。
SNSで流行りを追って、流行りの映画を見て、流行りのイベントに行って、一通りのメジャーソングを聞いて、一通りの名著を読んで、一通りのゲームで遊んで、一通りのスポーツに触れて、冠婚葬祭を一通り味わい、子育てや立身出世に精を出すなんてことをやりきれるほどに人生は長くない。
何かを切り捨てないと無理だ。
だけど私にそんな自制心はなさそうだ。
毎日30分アプリのスタミナを使い切ろうとして漫画を読み、毎日30分アプリのスタミナを使い切ろうとしてソシャゲをやる。
毎日30分トレンドを追うためにインターネットを眺め、毎日30分孤独を癒やすためにSNSや掲示板に書き込む(今やってるなう)。
そして休日は溜まったドラマやアニメを見て、ソシャゲのイベントを進め、話題の映画を見に行ったり、趣味の買い物、オフ会、LIVE、飲み会、たまにアウトドア、話題作が出た直後は引きこもってひたすらゲーム。
気づけば人生があっという間に失われていった。
結婚もしないまま過ごしてきて、未だに「遊び足りない!人生が足りない!あといい加減ちょっと創作活動に手を出したい……あともうちょいキラキラした仕事につきたいから転職……その前にスキルアップとか……」とばかり考えている。
ヤバイ。
しょうがないじゃん?
な?
https://note.com/f_overseas_info/n/n317c1246e1e6
https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/0092623X.2022.2160396
100人以上の臨床医や研究者からなる国際研究グループによると、現在のところ「ジェンダー・アイデンティティ」の生物学的エビデンスはいっさいなく、トランス自認者とそうでない人とを区別できる実験室的な基準も存在しない。にもかかわらず、「ジェンダー・アイデンティティ」に対する信念は、何千人もの子どもや青少年を医学的に性別移行させるための根拠として使われている。
3年間大騒ぎをした。
国民の大半が自宅に引きこもり、老人介護施設は面会禁止になり、じいさんばぁさんが死んでも葬式も上げられず、火葬にも立ち会えない。
夏頃に通勤電車のマスク無しが過半数を超えたように記憶している
だーれもその話題を口にしない
まるでコロナ騒動は無かったかのような、過去を議論してはいけないムード
失敗だったと薄々気づいてるんだよね?
で、また同じような疫病が流行ったらどうするの?
また場当たり的にパニックになるの?
アホなの?
あらゆる財源から予算をひねり出したのでブラックボックスになってる
そういう議論もない
命に値段はつけられない、うんそれはわかる
でも8兆円をまったく別の事業に使ったらもっと大勢の(コロナではなく)別の人たちの寿命や健康が伸ばせたのではないか
そういう議論もやらない
ワクチンが始まった時にワクチンメーカーとは別に国主導でコホート追跡をやるものだと思っていた
いや、できない契約条件になっていたのだろう、やらなかった
自宅待機、外出禁止、他者との接触リスクもきちんとデータを取れば貴重な疫学データが残ったはずだが
そのような研究もされてない
過剰に対応した人と、そうではなかった人の5年10年の生存率、致死率
2020年の夏に被害データ、医学データがまとまり始め俺はそれを見て判断し、
タダの風邪と見切りその後はコロナ対策を一切やめてマスクを外して日常生活を再起動させた
随分と世間様から白い目で見られたものだ、ワクチンも当然打ってない
コロナには二度感染したが、一度目は高熱がでて4日で終わり、二度目は軽い発熱
やはりただの風邪だ
それをドヤるつもりはない
だけど世間でちゃんと議論して欲しいの、できれば反省に行き着いてほしい
しかし、いまだにあの狂乱を正当化している連中が多数派なのが、絶望
私が「理解のある彼くん」という立場に置かれていないにも関わらず、なぜ「理解のある彼くん」のように、他者との関係を自然現象のように認識しているのか、という疑問が湧いた。
彼くんがこのような思考に至ったのは、ひとえに彼女とのディスコミュニケーションの結果である。はじめこそ彼くんは彼女とコミュニケーションを取ろうとしただろうが、彼女自身が自らの意思を放棄しているのだから、そこでのコミュニケーションは当然成り立たない。彼くんは、彼女自身がそうしたように、いわゆる「人間」としての関係を諦め、自然現象を操縦する係に自らを安住させたわけだ。
ようは、「コミュニケーションの放棄」が人間をこのような思考に至らしめるのであろう。私は発達障害の診断を公的に受けたわけではないが、一般に ADHD/ASD的傾向と呼ばれるものを(それは健常者とされる人であってもある程度持っているのかもしれないが)恐らく持っている。子供のころから、私には自分の気持ちばかり考える癖があり、人の気持ちを察したりその場の雰囲気を感じ取ることが苦手なのである。こんな私が人とコミュニケーションを取らざるを得ない中で編み出した考え方が、やはり「医学化」である。私は遺伝的にこのような性格で、親にこういう教育をされて、それは改善しようもない宿命なのだ。私の脳内ではたらく物質たちが偶然そのような動きをしているがために、私はこのような考えをしてしまうのだ、というふうに結論付ける。さらに、私の「医学化」は他者にも及んだ。彼らがあのような思考をするのは、彼らがそういうふうな遺伝子を持ち、そのように脳がはたらいているからだ、と。
このように、私はすべてを自然現象として解釈することで、文化人たちが生み出した「意思と責任の社会」やその上で成り立つ「コミュニケーション」を完全に否定するような、「干渉不可能な自然の相互作用」という世界観を構築した。つまり、ゲームから完全に降りたということである。
どちらの世界観が正しいかというのはわからない。自由意志が本当に存在するのかは疑問だが、人類は私達のすべてを医学化出来るほど発展していない。しかし、健常者と言われる人たちが生きる自由意志の世界の他にも、自然現象ですべてを片付けてしまえる世界があってもいいのではないかと思う。
とはいえ、この時代の日本に生きている限り、「意思と責任の社会」から完全に逃れることは難しい。この中で生きるためには、やはり「いい塩梅」でゲームに乗っていかなければならない。だが、コミュニケーションに問題を抱える人にとって、「いい塩梅」でゲームから降りることは得てして難しいことだ。また、どの程度ゲームを降りてもコミュニケーションが成立するのかという尺度も、相手次第である。発達障害の有無に関わらず、この社会に生きづらさを感じる人や、コミュニケーションに苦手意識がある人などは、このようなゲームの構造や、今自分がどれほどゲームに乗っているのか、降りているのかを考えてみたりして、出来る範囲で調節してみるのもいいかもしれない。