はてなキーワード: 佐藤太とは
佐藤太郎は、静かに夜が明けるのを待つように、いつもの朝を迎えた。枕元の目覚まし時計が一日の始まりを告げると、彼は重く閉じた瞼をゆっくりと開け、僅かに冷たい空気を吸い込みながら、ベッドから体を起こした。薄暗い部屋の中で、手を伸ばしてカーテンを引く。途端に、柔らかい光が部屋に差し込み、無音の世界に静かな生命を吹き込むようだった。
窓から見える空は、まだ青と淡いピンクが混じり合う静かな朝焼け。太郎は窓を少し開け、朝の冷涼な風を体に取り込んだ。新鮮な空気が胸の奥まで届き、彼は深く呼吸をした。胸が次第に温かくなり、瞳の奥にまで光が届いたかのように、心も体も満たされていく。
「今日も良い一日になりそうだ」
静かに呟いたその言葉には、確かな実感がこもっていた。太郎はゆっくりとリビングに移動し、コンロで湯を沸かす。穏やかな朝のルーティンの中で、彼の心は変わらず平穏であった。トーストが焼ける香ばしい香りが部屋を満たし、湯気の立つカップを手に取った時、彼はふと、自分の毎日がいかに満ち足りたものであるかを感じた。
朝食を終え、彼はいつものように駅へ向かった。歩き慣れた通りには、すでに多くの人々が行き交っていたが、太郎はその一人一人の顔に、特に注意を払うことはなかった。彼にとって、通勤風景はただの風景であり、日々の当たり前の一部だったからだ。
ホームに立ち、到着した電車に乗り込む。混み合った車内で太郎は窓の隅に立ち、周りを見回した。スマートフォンの画面に視線を固定する者、何気なく本を開く者、目を閉じて休んでいる者、皆が自分の世界に閉じこもっているかのように思えた。それはいつもの光景で、何の変わりもない日常であった。
しかし、ふとした瞬間、太郎の胸に言葉にならない違和感が生まれた。周囲の人々の目がどこか虚ろに感じられたのだ。まるで彼らがそこにいながら、実際には存在していないかのように。ある女性が微笑んでいたが、その笑顔には不自然なものを感じた。感情の伴わない形だけの笑顔。それは、どこか機械的なものに見えた。
会社に着いた時も、その違和感は消えるどころか、ますます増していった。同僚たちは普段通りに業務をこなしていたが、その動きには滑らかさがなく、まるでプログラムされた動作をただ繰り返しているかのように見えた。彼らの目に宿る光も薄く、生命の躍動を感じることができなかった。
その日の夜、太郎は家に戻り、テレビをつけた。何気なくチャンネルを回していると、奇妙なドキュメンタリー番組が彼の目に留まった。そこでは、「意識の世界」という名の仮説が語られていた。
番組は、現実世界とは別の次元に存在する「意識の世界」の存在を主張していた。多くの人々の意識は実際にはその異世界にあり、そこで過酷な苦しみと絶望の中で生きているという。そして、現実世界にいる我々が見ている「他人」とは、実は意識を持たない哲学的ゾンビに過ぎず、ただ現実世界を歩き回る空っぽの殻なのだと。
太郎は凍りついたようにテレビ画面を見つめた。番組の内容があまりに荒唐無稽であるにもかかわらず、彼の心には強烈な共鳴が走った。リモコンを握りしめる手が震え、全身に冷や汗が滲んだ。その瞬間、全てが繋がったのだ。なぜ自分だけがこんなにも平和で幸福な日々を過ごしているのか。そして、なぜ周りの人々が皆、虚ろな目をしているのか。その答えが、今目の前で語られていた。
彼は特別な存在だったのだ。唯一、意識が現実世界に留まっている者であり、他の人々は全て、別の世界で苦しんでいる。彼らが現実世界に存在しているかのように見えるのは、ただの錯覚に過ぎない。
太郎は、この恐ろしい真実に直面し、恐怖と罪悪感に押し潰されそうになった。しかし、やがて彼はある種の使命感に目覚めた。自分が特別であること、それに伴う責任を感じ始めたのだ。彼は思った。自分が幸せであることを最大限に享受し、また他者—空っぽの殻たち—に対しても、可能な限りの思いやりを持って接するべきだと。彼らの本当の意識が苦しんでいるのであれば、少しでも彼らに温かさを届けることが、意識の世界での苦しみを和らげる助けになるかもしれない。
太郎は窓の外を見つめた。冷たい夜風がカーテンを揺らし、街の灯りがちらちらと輝いている。何も変わらない日常の風景がそこには広がっていた。しかし、彼の目にはすべてが新鮮に、そして尊いものに見えた。
[質問]
"""
その台風は、各地に虹をもたらした。
[回答]
その台風は、各地に虹をもたらした。まるで空の巨大な絵筆が、風雨に晒された空にカラフルなアーチを描いたかのようだった。台風が過ぎ去った後、街は一変した。破壊の跡が残る中、それでも、希望の象徴である虹が空を埋め尽くしていた。
その日、町の住人たちは互いに連絡を取り合い、被害状況や支援の必要性を確認しあっていた。そして、夕方になると、多くの人々が家族や友人と共に虹を見に外に出てきた。特に子供たちは、虹の美しさに目を輝かせながら、その下で遊んでいた。
佐藤太郎は、妻と2人の子供と一緒に公園に来て、虹を見上げていた。彼はこれまでに何度も虹を見たことがあったが、こんなに美しい虹は初めてだった。彼はしばらく虹を眺めていたが、やがて、その美しい虹の向こうに、何か物語があるような気がしてきた。
太郎は、その気持ちを妻に伝えると、彼女も同じような感覚を持っていたと言った。夫婦は、虹の向こうにある物語を子供たちに伝えることに決めた。子供たちは興味津々で、太郎の話に耳を傾けた。
「昔々、この街には優しい巨人が住んでいました。彼は虹のような美しい心を持っていて、誰もが彼を慕っていました。しかし、ある日、悪い魔女が現れて、巨人の心を闇に染めてしまったんだ。」
「それから、街は暗闇に包まれ、人々は恐れて暮らしていました。しかし、巨人の心の中には、まだ虹のような美しい光が残っていた。それに気づいた一人の少年が、巨人の心に光を取り戻すため、勇気を持って魔女に立ち向かったんだ。」
「そして、少年と巨人は力を合わせて、魔女を倒し、街に光を取り戻しました。巨人の心も再び虹のように美しいものに戻りました。街の人々は喜び、感謝の意を込めて、巨人と少年に感謝祭を開催しました。それから、毎年、台風が過ぎ去った後に虹が出ることがあると、街の人々はこの物語を思い出すのです。」
子供たちは夢中で物語を聞いていた。彼らは、勇敢な少年と優しい巨人の話に感動し、自分たちも勇気を持って困難に立ち向かうことが大切だと学んだ。そして、その日以降、子供たちは虹を見るたびに、心の中にある美しさや勇気を大切にすることを誓った。
太郎は妻に微笑みかけながら、子供たちの輝く瞳を見つめた。台風がもたらした虹が、彼らの心にも希望と勇気をもたらしていることを感じた。そして、太郎はその瞬間、家族と共に過ごす時間の大切さと、困難を乗り越えて得られる喜びを再認識した。
その年の台風は確かに甚大な被害をもたらしたが、同時に家族や友人とのつながり、そして心の中に秘めた勇気と希望を見つめ直す機会をもたらした。街は団結し、復興を進めていく中で、空に現れる虹は、人々に力を与え続けた。そして、次の世代にも、勇気と希望の物語が語り継がれていくのであった。
[補足]
基本的には「半年に1回くらい読み直したくなるページ」をブックマークするのが多い。言論には加わるつもり全くなし。スターも基本付けてない。
じゃあある程度ジャンル別に分けたから以下どうぞ。当然俺しかブクマ付けてないのでニッチなもの多数。
一つの記事に全部入れると反映されないみたいだから、3つに分けた。
みんなも自分しかブクマしてない良ページ挙げよう。俺も挙げたんだからさ。
バランスポリシー あるいはTSFが持つ暴力性に対する一考察 - 送りバントブログ
…俺もバランスポリシーはTSFの最高傑作だと思ってる。秘密基地に行く回とか、すごく好き。
佐藤太志 - 全ジャンル主人公最強議論スレまとめ@wiki - アットウィキ
…俺達のデブジさん。真面目に強さ議論してるレスで笑う。「催眠術使ってイケメンからヒロイン寝取りたい……せや!イケメンに催眠かけて心を女にしてイチャイチャしたろ!」という発想は未来に生きてる。
【咲-Saki-】 県予選 決勝 清澄(長野)vs龍門渕(長野)vs鶴賀学園高等部(長野)vs風越女子(長野) 得点収支MEMO
…数字だけで見ても楽しめる咲-Saki-県予選決勝。むしろ数字だけにしたことで「ここまでヤバかったのか……」ってキャラが結構いることに気づく。
nerdy World order キルミーベイベーの魅力~初級の続き・アニメの魅力編~
…前後の記事はそこそこブクマされてるけど、俺はこの記事が一番好き。「アニメには原作にはなかった「時間の流れ」が生まれている」という指摘には唸らされる。
勝手に読書伝説Vol.14 久住昌之・水沢悦子インタビュー&『花のズボラ飯』ガイド | ひかりTVブック
…久住昌之と水沢悦子のインタビュー。2ページ目以降の水沢悦子パートが男らしくて好き。「ダメ出しをされるたびに「うるせえ、このアマ!」とか「細けえんだよ小娘!」とか本当によく思ったものです。」
【4月1日追記】「進化の可能性感じた」“ポケモン”イーブイが新日本プロレス入団!デビューはEVIL(イービル)戦 | 新日本プロレスリング
…イーブイが新日本プロレスに入団するエイプリルフール記事。かわいい。退団の経緯好き。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R23JUKGU13V8TP
…ウイニングポスト9のAmazonレビュー。面白い上にレビューとしても要点が伝わってわかりやすい。俺の中でのオールタイムベストレビュー1位。
好きな人の名前をGoogle検索するってムーブメント、昔からあるじゃないですか。
え? ない?
いやまあ有るんですよ私の中では。好きな人に限らずいろんな人の名前を暇にまかせて調べたりするんですよ。
そうするといろんなことがわかるわけですね。例えば私の場合は、バスケットボールの大会で活躍する同姓同名の知らないやつの存在がわかります。いやだからなんだよと言われてもそれだけですけど。私の同姓同名はすごい奴なんだなってわかるだけです。
多くの場合は調べても何も出てきやしないんですよ。姓名占いのサイトとか、この年に生まれた人の名前の一覧のページとかそういうページしか引っかからないとか。あるいは、佐藤太郎さんとかそういう同姓同名の多い人は逆に不特定多数の誰かが引っかかって本人かどうかとかそういうのはわからなくなるわけですね、はい。
逆に言うと、ちょっと珍しめの名字の人とかは、検索にひっかかった情報のすべてが本人のものである可能性が高いんですよ。出てくるか、前述のような名前一覧ページだけか。
好きな人ではないですけど、昔のクラスメイトの名前を入れたら、同じ名前のエロゲキャラが出て来て笑った事はあります。ちょっとそれはかわいそうだな、と。本人何にも関係ないのに、同じ名前の人が犯されているssとか出てくるのはあんまり気分良くないだろうなって。
んでまあ、好きな人をたまにググってたんですが、ずっと何も出と来ない方の人だったんですね、その人は。検索してもお名前一覧しか出てこないような。多すぎず少なすぎない程度の珍しさの苗字と、名前の組み合わせで。1年に1回くらいのペースで調べていても、特に何も出てこない人だったんです。
ほら、今の時代SNSとか発達してるじゃないですか。私もLINEとか顔本とかそういうアカウントは知っているので、もしそこにいろいろ載せているタイプの人だったら近況含めていろいろ推し量ることができるわけですよ。LINEのアイコンが顔写真だったら最近の顔の感じがそれこそわかるし、顔本なら仕事先から既婚かどうかとか家族とかまで下手するとわかるわけじゃないですか。急に子供の写真とか載せ始めてなんだよいつの間に結婚したんだよこいつみたいな。
でもまあその好きだった人って言うのは、特に自分の写真とかを載せるタイプの人ではなかったんですね。他の人のアカウントでも写真が出てこないタイプ。ついでに10年くらい前に引っ越しとかしているので、そもそも何しているのかとか良くわからないタイプ。でもたまにアカウントの写真とか変えてるし生存確認は出来ていたんですよね。
そういうタイプの人。
だからこの間酔っぱらった勢いでまたその人の事をググった時に、ガッツリ顔写真がヒットした時にはそれはもう驚いたわけですよ。
目を疑いましたよねさすがに。なにせ10年ぶりくらいに顔を見たわけですから。でもまあどこをどう見てもその人でしたし、名前も一致しているわけですよ。だからすごく驚きましたよね。
今まであらゆるSNS等に顔写真すら載せてなかった人の画像が急にネットの海の中に投下されているのを見つけたわけですから。
ああなんか全然見た目とかは変わってないなって思いましたね。どんな人になってるのかとかは知らないですけど、なんか普通に旧来の友人に久々に合った時のような感覚になりました。画像元をたどっていくと、どうも就職したらしい会社の紹介ページにインタビューが載ったようでした。大学時代の話も載っていました。
リアルではそんなに仲良くなかったですけど、だからこそですよね。人の人生を除き見てるようなそういう感覚。
まあやってることはストーカーのそれに近いんですが。
インターネッツな世の中ってすごいもんですね。これからも私は好きな人の名前をググり続けるでしょう。こういうこともあるわけですから。mixiのように足跡がつくサービスが流行りませんように。
中学校のあいつら。ギリギリ高校入学のお祝いに買ってもらえたガラケー(という呼び方もない時代)持って赤外線通信してメルアド交換しあったあいつら。もう何年も連絡をとってないあいつら。
高校のあいつら。ケータイ持ってるのは当たり前。赤外線通信しあった友情の入り口。まだLINEもTwitterもないときのお前ら。異性とのメルアド交換は部活の先輩が最初だった。ウブだった俺は先輩に童貞を奪われた。ような気がした。先輩は俺の恥部とも呼ぶべき「名字+名前+生年月日」という佐藤太郎なアドレスを先輩同士で俺の断りなく共有した。恥部拡散であった。拡散先のアドレスには「彼氏+Love+彼女+初キス(結合?)記念日」と思しきアドレスもあった。別れたらアドレス変えるのだろうかという俺の期待は虚しく卒業するまでその先輩のアドレスは変わらなかった。怒張した、あるいは豊満なそれを想起させかねない文字列を、その先輩が俺にメールを送るたびに見せびらかしてくるのであった。屈辱である。このような屈辱が、性の早期化に拍車をかけるのである。
大学のあいつら。・・・は、Twitterやら始まりつつあったのであまりメルアド交換せず、TwitterIDの共有がご挨拶となったが、さすがにサークルの連絡共有では未だにメールが現役だった。とはいえ、そのメールもPCからのメールへと移行した。学生一人ひとりにメールアドレスが交付されることで、学生と講師陣との円滑なコミュニケーションが期待されていたわけだ。この頃にはGmailも本格的に使い出す。ゼミの飲み会などはこちらを利用する。つまり、個人のガラケーのメルアドなどは、この時点で大して知る理由に乏しいというか、極めてプライベートなものになったのである。思い返せば私も自分から相手にメルアドを聞くことはしなかったはずだ。聞かれることもなかった。ちなみにこの年リーマン・ショックである。私は内定先を得られずに卒業することとなる。ゼミの仲間も半数は内定できずに卒業、留年、院進と歩を進める。
私がスマホを買ったのはこれから2年後の話である。長い付き合いだったが、昨日、突然再起動を繰り返すようになった。
・・・とまあ、このようにして蓄積されてきた私の青春の一部であったものが、昨夜、すべて失われた。厳密に言うとクラウドに移行しつつあった大学以降のメンバーのアドレスは直ぐにわかるのだが、それ以前、ネットが普及しつつあった時期のあいつらのアドレスなどはすべて取り戻せない。本日キャリアのショップに足を運び、考えた結果、データ復旧は無理という結論に達した。
基本的には、私が悪い。スマホを買った時点でバックアップを取るべきだったのだ。それを数年も疎かにした私のツケだ。
高校までに知り合ったあいつらもいい年だから、まあ半分以上は結婚し、出産もし、良い家庭を築いているのだろうし、当然俺の顔を覚えている奴は殆いないだろう。俺自身も、今町中であいつらを見かけても記憶と一致できる自信がない。近いようでいて、俺とあいつらはいつの間にかこんなにも遠いところまで来ていたのだ。あいつらも、俺に今更メールや電話を送ることも掛けることも全員がしないだろう。できないやつもいるはずだ。例えば私と同じコトになってバカを見たとか、例えば津波に飲まれて死んだとか。
だいたい、小学校の頃に知り合った友達はどいつもこいつもケータイのケも知らなかった。電話帳だ電話帳。学校で遊ぶ約束したら準備して直行。その場には必ずあいつらが来る。そしてあいつらとゲームボーイで遊ぶんだ。いや、もちろんサッカーもする。サッカーもするが、ポケモンをするんだ。ゲームは男女平等。小学生でサッカーとなると既に体力差が見えるが、ゲームでモノを言うのはサッカーとは別なところ。女子はゲームもするけど男子とサッカーしたがったから一緒に遊んだ。そこから女子の家にお邪魔したことも何度かある。
まったく、いい年していつまでこんなものに執着してるんだろう。新しい出会いの少なさもそうだが、社会人になってから会う者どこかみんな余所余所しいというか、皮を何枚も被ったかのような付き合いだ。いつしか私もそれを当然のこととして他人に仕掛けている節もある。こんな大人のなり方なんて、誰が望んだんだ?
正確には、そういう付き合いができる人がいないわけではないが、圧倒的に少なくなった。
また、あの頃のような付き合いがしたい。何もかもが瑞々しくて、眩しい。出会いばかりで別れのない幸運な日々。この生なら、飽きの来ない無限を謳歌できる。
どうして俺たちは、かつてのような付き合いができなくなったんだ?
gmailで新規にメール送信するとき、To欄で半角で名前を入れると適当に候補が出てきて連絡帳をたどる必要がなくて便利だ。ところが、まれに、この候補に出てこなくて困ることがある。google+のプロフィールが邪魔をすることがあるのだ。
たとえば佐藤さん(sato@hogehoge.com)にメールを出そうとするとき、sato…と入力した段階で、この佐藤さんのアドレスが表示される。私の連絡先リストに佐藤さんのメアドが乗っているからだ。(gmailには過去に一度メールを送ったら自動的に連絡先リストに掲載されるという機能もある)
ところが、佐藤さん本人がgoogle+にプロフィールを作ってて公開していて、そのうえ本名情報として「佐藤太郎」とか日本語で入力していると、不思議な事に上記の候補に表示されなくなっていまう。To欄に「佐藤」と全角日本語で入力しないと候補に表示されないようなのだ。なんという余計な機能。ネットで調べても情報がなく、試行錯誤してもgoogle+とのリンクというか情報の上書きは強力でどうやっても解除できなかった。それがとりあえず解決できた。
その方法だけど、