はてなキーワード: 悪貨が良貨を駆逐するとは
俺も最近、似たようなことがあったから自戒を込めて言うんだけどね。「はてサの言動がひどい」と批判する文脈で、あなた自身もまあいろんな言葉を使ってるよね。
「吐き気がするほど醜悪。」「幼稚な言い訳」「クズ反論」「バカの戯言」「恥を知れや、ウスラトンカチが。」「日頃の憂さ晴らしに叩ける的を探してるウジ虫だよ。」「全員まとめて火山口にでも落ちてくれれば」…etc。聞きたいけど、君、リアルでこういう言葉、一つでも他人に対して投げつけるかね? おそらくしないだろう? してるとしたら、相当社会的に問題があると思う。「ネットの言動が目に余るほどひどい」という内容で、他者を批判しているという文脈で、あなた自身がこうなってしまっている、そのわけを、やっぱり少し考えてみるべきだと思う。
2chが生んだ(2ch「を」生んだ?)匿名世界における「一種乱暴な言葉遣い」は、虚礼を廃し議論を簡潔に進めるという意味で、役割のある、意味ある振る舞いだった。このことは一応指摘しておきたいと思う。
たとえば、今回のこの書き込み、普段よりも自分の「日常口調」にあえて寄せて書いている。読む人にいろいろ気を遣ってね。仕事の知り合いに見られてもいいくらいのレベルで。ていねいに見えるだろ? でも、それほど中身は無いんだ。こういう話し方、ネットだととても字数を食い可読性が低い。ネットに関わる人が少なかった時代には、こういう振る舞いの非合理性がとても嫌われたんだ。掲示板で議論するなら現実世界のような「立場」とか「配慮」とかをなるべく廃して実質優先で議論をしよう、と。そういう合意の下に、相手を平気で罵る文化が発達したんだ。
たとえば、あまり意味のない議論を延々と繰り返す人に対して、①「○○さんの仰ることはとてもよく分かります。たとえば、~や~ということについては、確かにあてはまる部分も少なくないと思いますし、私自身~というときには、そういう考え方をするかもしれません。しかし~」みたいな(現実社会のような)対応をしていると、実質的な議論はひとつも進まない。実際、言いたいことは②「あなたの発言はズレています。」というだけのことなのだけど、ズレている理由まで説明しなくてはならなくなると、もう多分誰もついていけなくなってしまう。結果、うんざりした「正しい人」たちがその場を離れ、粘着する「愚かな人」たちだけが残る、悪貨が良貨を駆逐する、そういうことが発生する。そこで出てきたのが③「~年ROMってろ」といった言い回しだ。「黙れ/お前の話は場違いになっている/しっかり話の流れを追え/流れをよくつかんだ上で書き込みせよ」…一見厳しいようだけど、「○年ROMれ」は相手の問題点を指摘し解決の方向性を示唆している。さらに言えば「こういう言い回しに傷つくようなら、ネットでのやりとりには向いていないからそもそも見るな」という意味合いも含んでいるという意味では、ネットとの向き合い方の指導までしていた、実に至れり尽くせりの「優しさ」に満ちていたとも言えるんだ。
そういう合意が成立している下では、ある時期まで罵倒語によるやり取りは効率的に機能していた。ただ、そういう「暗黙の合意」というのは残念ながら、ずっと保てるわけではない。あるいは、初期のような発想で罵倒語を使い続けている人もいまだにいるのかもしれないが、残念ながら「普通の社会」がネットと地続きになった時点で、そういう振る舞いが「世間的な」「政治的に正しい」立場からの批判にさらされることが避けがたくなってしまった。罵倒は罵倒でしかないし、実際「醜悪」だ。
古い人にとって、はてなはまだある程度「暗黙の合意」が通用する場に見えているのだろう。(実際、3~4年ほど前まではまだいくらかそういう風であったようにも思う。)だが、増田の書き込みが国会質問に晒された辺りから、はてなもまた完全に「社会と地続き」な風の吹く場所になってきた。そのギャップが、今回のような問題提起になっているのだとすると、その責を「左派」だけに向けるのはやや酷であるようにも感じるのだが、どうだろう。
……というような内容を、まとめて(あまりにも懐かしい)一言で言い表せた(そして通じることが期待できた)時代がもう帰ってこないと思うと、しみじみもののあはれの感にも打たれるね。すなわち
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< オマエモナー
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(__)_)
何の心得もなく文章を書くと、自然に攻撃的に見えるものになってしまうのではないだろうか。
それをカバーするためにかつては手紙の作法があったのだろうし、それに気付いた今の若者は過剰に婉曲表現を使うのだと思う。
結構な割合の人が初めて使った電子メールやパソコン通信で意図していない感情のもつれを経験して戸惑ってきたはずだし、それに適応してきた。
そして未だに新規のネット参加者がその戸惑いを経験中ということ。
他の原因としては、インターネットではクラスに1人レベルの変なやつが目立ってしまうという現象、
普通に書いていたら誰も注目してくれないのでついつい表現がエスカレートしてしまう現象、
はてなや2ch界隈では悪貨が良貨を駆逐する現象、
もあると思う。
珈琲が不味い。固有名称は出さないがMAC開いている奴らが多い場所だ。
この珈琲店を支持するやつらは言う。
「不味いのはわかっている我々は雰囲気を楽しんでいるのだ。」と
確かに珈琲のレベルがそこまでうまくなくてもいい。しかし限度を超えて不味すぎる。
「そもそもお前が俺らの行動に口を出すな」という意見もあるだろう。
しかしよく考えてみてほしい。清朝末期に英吉利人は支那人に大量の阿片を売り付けた。この結果どうなったか?
ゴミは大きな意思を持って駆逐しない限り社会に蔓延し国家を蝕むのだ。
悪貨が良貨を駆逐するごとく悪珈琲は良珈琲を駆逐するのだ。
最近ではこの珈琲店を真似して砂糖たっぷりの糞まずい珈琲をだす店が増えてきた。
まずい珈琲を高い金出してのむ奴らは回りや社会に迷惑をかけていることを自覚してほしい。
話は変わるが、私の知っているアメリカ人たちはこう言う低品質な珈琲は飲まない。アメリカ人は食文化が二極化しておりジャンクフードを主食とするウェーイ層とそういうものを全く食べない金融IT法律医等の分野で働く層に別れる。
初めに断っておくと、僕は広告業界の端っこの方で生きていて、そしてよっぴー氏の大ファンです。
http://yoppymodel.hatenablog.com/entry/2016/11/10/111014
の件について、ファンの僕にしては珍しくよっぴー氏の主張に全然合意できない、というか氏の主張に明確な誤りがある、と感じたのでまとめてみました。
広告業界のエラい人たち、よっぴー氏の言葉を借りれば蹴鞠おじさん、たちにとって「ライター」が「公共の場」でつぶやいた<「ネイティブ広告ハンドブック2017」が取扱説明書レベルに読解大変で涙です>というツイートは、「もっと読みやすくしろよボケ」というクレームとして捉えられた可能性が高いです。よっぴー氏はその後の藤代氏とのやりとりに付記して<「素人でいい」なんて誰も一言も言ってないし、「わかりやすく説明しろ」も誰も一言も言ってない。>と語ってますが、彼らにはそうとしか読み取れないのです。
なぜならばこの人達は世代的にも階層(広告業界における商流上位のレイヤー、あるいは研究者という意味です)的にも、「仕事上の愚痴をカジュアルにツイートする&万人の目に触れさせる」文化に生きていないからです。たぶん彼らは、「は?じゃ、わざわざ公然とツイートしないで日記帳にでも書いとけよ。分かりやすくしろって強制したいから公開してんだろ?」と捉えていると思われます。
どちらが正しいとかではなく、両者に間に横たわっているのは、おそらくデジタルデバイドでしかありません。よっぴー氏はこの誤解に対して「書いてもないことを勝手に解釈してケンカ売ってくんじゃねえ」と憤ってますが、一人さみしくつぶやいたならともかく、公衆の場でさらす、というアクションを経ている以上、読み手の曲解にも相応の理由があると考えるべきではないかと思います。あと、蹴鞠おじさん達が「ライターともあろうものが、自分の読解力不足を晒すとは何事だ」文化に生きている点もあるでしょうね。これもどちらが正しいとかではなく、文化圏が異なるとしかいいようがない。
要するに、この点においては双方に優劣も正誤もなく、互いに差異を認識すべきだけ、のように思うのです。先に殴ったのはおじさんたちなので、その点は擁護しようもないのですが、殴り返しちゃったら同じじゃないですかね。
高広氏がよっぴー氏に投げかけた一連の内容を、単純な「いやらしいおっさんのマウンティング」と捉えているのも事実誤認です。
なぜなら、この振る舞いは、優越感ゲームの手段ではなく、むしろ彼らの「メシのタネそのものだからです」。デザインや文章といったアウトプットに対して、属人的価値を付与して、単価と受注率を上げ、競合を蹴り落とす戦略的な行為です。ちなみに、自分も広告業界の隅っこで生きているので蹴鞠おじさんにはよく遭遇するのですが、彼らはあまりにもこの行為を自然にこなすので、自分が優越感を搾取し相手に不快を強いている自覚が、実は無いんじゃないかなと感じることがあります。
もちろん、これらの行為は批判されるべきではあるのですが、少なくとも「蹴鞠」ではないと思うんですよね。広告人としての生存をかけた削り合いです。蹴鞠おじさん、という語感が良さすぎるので引き続き使いますけど。
また、おじさんたちの蹴鞠的な振る舞いが広告業界をダメにした、というよっぴー氏の批判も乱暴に感じます。
蹴鞠おじさんたちが、彼らなりに意識を高く持ち、マクルーハンを学んだりしながら、一定以上のクオリティをアウトプットしてきたのは事実です。一方で、あまりにも参入障壁が下がり、ゴミのような広告を撒き散らし、単価を下げ、まさに悪貨が良貨を駆逐するようなネット広告の現状を鑑みるに、正直「マクルーハン読んでない奴が広告作るなよ」といった視点は必要悪のようなものではとも思います。参入障壁はむしろ上げるべき、というスタンス自体は悪いものではないはずで、業界全体がその方向に舵を切らないのであれば、個々の業界人としては高広氏のような振る舞いを取らざるをえないのではないかと思います。
ま、とはいえ蹴鞠であってはやはりいけない。貴族的な内輪遊びではなく、きちんと資格化でもすべきです。マクルーハンも「ネイティヴ〜」も体系化して資格試験を設置し、ステマや優良誤認に加担した広告人からは資格を剥奪する、とかの方が、少なくともネット上はキレイになるかと思います。
僕個人としては、よっぴー氏は今、日本で最も力のあるライターだと思っています。あれだけ尖った面白さを担保しつつ、誰も傷つけずに商品価値を高めるコンテンツを作れる能力は、まさに余人をもって代えがたい。旧態然とした広告業界からは、彼のような素晴らしいライターは出てこず、僕たちは未だに蹴鞠おじさんたちのキャッキャウフフを見せられてるかもしれない。
しかしどうなんでしょう。よっぴー氏や彼に比肩するライターが何人いようとも、「障壁が下がったから参入してきたネット系ライター」とくくってみれば、そのクオリティはあまりにもひどい。「売れればよい」「注目を集めれば良い」「検索に強ければ良い」といった、ゴミのようなコンテンツが多すぎる。独善的とはいえ職業的矜持を持つおじさんたちが作るものの方が、どれほどマシか知れません。
ゴミ溜めの中から燦めく才能が発掘される様は痛快であっても、撒き散らされたゴミは臭いのです。まして、ゴミを撒き散らかしている人たちが、それで食べていけてるならガマンもしますけど。
あんな響きの汚い読み方ができるということが信じられない。
重複をジュウフクと読む奴もそうだけど、まずこれを最初にジュウフクと読んでいた奴らはチョウという読み方を知らなかったに違いない。重畳なんかもジュウジョウとか読んでたんだろう。突然変異みたいなやつだ。
ところが教養のなさそうで偏差値の低そうなやつらが挙って同じような読み方するもんで、ついには多数派を握りだすと「間違いも多数派なら正しい」とかいうバカ特有の開き直りが奏功し挙句に辞書にまで登録されるんだから恐ろしい。
世にゴキブリの絶えたためしなしとは言わないが、不快な人間は不快なまま保存されて死んでいくし、不快な遺伝子を後世に残していくんだな、ということが大変お勉強になるということ。
それがシステムとして正しいかどうかははっきり言って疑問なところだと思うけど?
実際には売り買いできない状況が続いてた様な中だから、
もし、FX会社がカバー取引を厳密に行ってれば今回の様な状況では
GMOが今回ストップロスを飲み込んだってんなら普段からカバー取引をある程度ずらして行ってるか
100%行ってないということだろう。
そういう問題じゃないのが理解できないのか?企業そのものではなく、そもそも、世の中全体としてスイスフランの取引が不能になった、と言う状態だったというのに。
ロスカット設定してたのに滑って高額の追証になるような企業もありますが、そうでない企業もあるということです。そこを勘違いしてほしくないですね。
悪貨が良貨を駆逐するようなことになると真面目にやってるところが報われないので。
どちらが良貨なのか、よく考えれば分かることだと思ったけど、残念ながらわからないんだろうね。
電通・博報堂の裏側の構造を攻撃しようと、ブラック企業を攻撃しようと、私にはほとんどダメージがなかった。1回だけ上場企業から「削除しろ」という電話が掛かってきただけだ。その電話の経緯もブログで公開したら私への支持が集まって、今や電話も掛かってこなくなった(電話が掛かってきてもスマホで録音しているから公開するだけだ)。誰が勝つかはネットユーザーの多数意思が決める。
こういう政治活動してる奴が居るからますだに怒った○○員が流れ込んで
○○員がID攻撃しかけて、嫌気さしたまともなマスダーがどっかに消えて
増田の質が低下したわけね。
匿名性がある状況では悪貨が良貨を駆逐するからなぁ。
ここ数ヶ月のもやもやが消えた。
インターネッツは『人の注目を集めるとお金を稼ぐ事ができる場』になってしまった、googleとamazonが口火を切ったアフィリエイトプログラムのせいで。
怒り、説教、バッシング、炎上という類いのモノは、人の注目を集める手段の1つであって、
これらを上手く操作できるような『人としてゴミクズofゴミクズ』が、インターネッツ上でお金を稼ぐようになってしまった。
インターネッツにはヘイトスピーチや一方的な極論ばかりが供給されていく。悪貨が良貨を駆逐するが如く、緻密で有用な議論は駆逐される。
googleとamazonの罪は重い。重い。重い。重すぎる。
ということで
『実際に広告が掲載されるブログなり何なりの内容を精査することを広告提供者に義務づけるような、公的な機関が有れば良いのにね』と提案したい。
ウソを書いてるとか、著作権法に違反してるとか、スパムブログであるとか、そういう場合にはアフィリエイトプログラムを容赦なく打ち切ることを義務づけるべきだし、
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20121107/239157/
↑を読んだ。
悪貨が良貨を駆逐するって言葉がまっさきに浮かんだ。
あと、本物を知らないってことは必ずしも不幸じゃない。
本物を知ってればより幸福になるかもしれないけど、そのぶん、知らなかったことで満足できていたレベルで満足できなくなるから不幸になるともいえるからだ。
一言で言えば舌が肥えることの弊害もあるよねってこと。
激しい価格競争とデフレの中で、比べるまでもなく低品質・低価格のものしか知らず、それに満足してしまう人が増えるのは当然といえば当然。
世の中の大多数がそういう仕組みになるのも当然。
ただ、サービス提供者側でも職人気質の人は絶対にどこかに残るだろうから、↑の筆者みたいな少数派はそこに行けばいいだけの話。
自分が少数派だということを理解してれば、↑みたいな見当違いの少数派の主張を多数派にぶつけることがどれだけ無意味かわかるはずなのに。
ネットで有名になりたいのなら、目の眩むような技術力を持っていても、無意味です。宝の持ち腐れ、童貞の巨根です。
蠱惑的な文章力があっても、無駄です。豚に真珠、いわきノブ子に化粧水です。
豊富な人生経験を持っていても、無益です。大衆は小粒の砂金よりも、「ホッテントリ」という焼印が押してある巨大な糞尿袋に集ります。
ネットで成功したければ、自己顕示欲を持って、しょーもない意見だろうが、サービスだろうが、
ツイッター、はてブSPAM、フェースブック、スパムSEOを使って、大々的に喧伝するべきです。
理由は3つあります。
まともな一般良識を持った人間ならばえがちゃんのように「自殺=悪の意識を徹底しよう」「若手のうちは死ぬほど働け!」とか言いません。
それがバカで間抜けなことだと理解できるからです。けれども、広大なウェブの世界ではバカな意見に共感する蓼食う虫がたくさんいるのです。
はてなーの反論意欲を煽り、ボロクソに叩かれたブクマを見た蓼食う虫があなたのファンになります。
蓼食う虫に蓼を提供している物好きはネット界隈にはあまりいないので、需要と供給の関係から、虫はあなたの大ファンにならざるを得ず、あなたのサービスをせっせと応援してくれるはずです。桜チャンネルという名の精神病連にお金を払って、せっせと視聴する人たちがいるのと同じ理屈です。
50万の無視はネットでは可視化されませんので、特にリスクではありません。代わりに、1000の蓼食う虫が「同意です」とあなたを誉めそやしてくれます。
リアル教祖様の気分になれるので、自己顕示欲を存分に満たすことができるはずです。
一方、まともな意見を言っているギークは特に他との差別化が出来ないので、有名になれません。
蓼食う虫に囲まれる方が、無視よりはマシなのです。
普通の人間なら、躊躇するような内容、サービスをまさか個人サーバーにあげるだけあげて非公開になんかしてませんか?
しょぼくても良いので、宣伝をしましょう。しょぼければ、しょぼいほど、ひどければひどいほど、あなたのサービスは炎上します。
炎上する過程で、あなたは有名になり、結果的に次回からのサービスの成功率があがります。
えがちゃんが有名になったのはAPIを流用した「これ誰が使うねん」という誰得サービスの連発を発端とした炎上事件です。
リリースしたサービスは愚にもつかない、「細木数子のギリギリモザイク!」並の誰得サービスでしたが、西村博之、小飼弾というネットの大御所からの
コメントすら貰えるほどの事件にまでなりました。当然、彼の知名度はうなぎ上りです。
もし、良いサービスをつくれるのならば、さらに死ぬ気で宣伝しましょう。どうも技術力のある人は宣伝というものの効用を舐めすぎています。
どんなに良いものでも、人がしならなければ意味が無いのです。僕のおばあちゃんのつくるたい焼きはおそらく世界一おいしく、世間に公開すればIPOまちがいなしなのですが、誰も知りません。良いものでも、それを知っている人、使う人がいなければ、無意味です。
また、ネットの場合、ユーザー数=力 なので、技術的に優れているものでも、有名なモノに簡単に敗北します。
非モテSNSが成功した理由は、えがちゃんの必死な宣伝です。彼はVixiというVipper用SNSでも会員に手当たり次第に非モテSNSへの勧誘をしていました。
松屋で吉野家がビラを配るような行為ですが、そんなことを気にしているようではネットスターにはなれません。
一度でも、大手2chブログに自分のサービスの広告を打とうと思ったことはありますか?大手2chブログは企業が敬遠する分、冗談みたいにコストパフォーマンスの良い宣伝媒体ですが、えがちゃん以外の人が活用しているのを見たことがありません。
自己顕示欲は自分の姿を忘れさせ、「自分を知らしめたい!」と宣伝行動を誘発します。宣伝は良くも悪くも力を生みます。技術力のある真面目なギークがきちんとサービスをつくっている間に、えがちゃんはネットの覇権を手に入れていくのです。
負けたくなければ、宣伝をしましょう。誰も、知らない隠れ屋的レストランを評価することは出来ません。
あなたがいくらスゴイ人間でも、周りの人があなたを知らなければ凄さは伝わりません。
地下にうまった徳川幕府の財宝を誰もしらないように、宣伝をして知らしめなければ、あなたの実力には誰も気が付きません。
100の絶賛のPVよりも、憎悪の1万PVの方が価値があります。憎悪の1万PVを積み上げていけば、その中から天邪鬼なファンが生まれます。
天邪鬼なファンはたいてい濃い人なので、あなたの動向に注目し、あなたを広める宣教師になってくれます。
ネットは絶対値の世界で、賞賛の1000PVも、罵倒の1000PVも広告主様から見れば同じようなものです。
無難な意見を書くのは絶対にやめましょう。できるだけはてなーの反論欲を鼓舞して、叩かずにはいられないバランス感覚のない意見を書きましょう。
他人の人権なんかに考慮するのは絶対にやめましょう。出来るだけ弱そうな人間を選び、罵倒し、侮辱し、罵りましょう。
人権意識なんて、あなたのネットスター街道に一ミリほどの貢献もしません。
煽ることで、+であれ、−であれ、知名度はあがるので、サービスをリリースすれば、人が集まります。
普通の人間なら「このエントリーアップするのはどうだろう」と思う意見でも安心のセルフ3Usersブクマを繰り返しましょう。
まぐれあたりがあった時に、寛大なはてなーは「やっぱいいとこあるな!」とみなおしてくれます。バカ丸出しですね。
無闇に宣伝するのは悪と思うのはやめましょう。宣伝はまっとうな行為です。宣伝するものがまっとうである限りにおいて。
宣伝をためらう方もいるかもしれません。でも、ソクラテスが毒杯を飲まずに哲学を続けていたら、人類の思想史にどれだけのものを残したか?
を考えれば、そんな戯言は言ってられないはずです。悪貨が良貨を駆逐するのは、悪貨の方が量が多いからです。
良貨をつくれるギークたちがおとなしくほそぼそとやっている間に、うんこスプリンクラーはさらに半径を増大し、世界中にうんこを撒き散らします。
そうなる前に、いいものをつくれる人たちは適切な自己顕示欲を持って、自分のサービスをつくり、宣伝をしましょう。
あらゆる広告チャネルを使って、サービスを伝えましょう。学んだ技術はネットでシェアしましょう。スゴイ技術者として、勉強会をひらきましょう。
ツイッターで何気ない日常を報告しましょう。そうすることが、うんこスプリンクラーに対抗する唯一の手段です。
ヒーローが悪者の技をラーニングするように、えがちゃんのあざとい宣伝の必死さは真似るべきです。
もちろん、このエントリーの本旨は力のある技術者への宣伝のススメとえがちゃんへの皮肉です。
終わり。
<分類>
(a) アニメを長く見ていて、アニメの見方の作法を確立している人たち=オタクエリート
(b) 好きだ!という理由だけで作品を楽しむめる人=非オタクエリート/一般オタク層/ライトオタク
(c) みんなが誉めた作品が良い作品だと思っているだけで自分の意見で好き/嫌いを判断しない、もしくはその勇気がない人=ミーハー?
(d) アニメには興味がない。ネットでみんなが褒めているのにその良さがわらないため、否定する人=ネットが好きなだけの人
私は、(a)と(b)の間に、"ある種の層"が存在し、増殖しているのではないかと感じています。
つまり、オタクエリートに成り損ねた非オタクエリートという人たちです。
成り損ねた、などと乱暴に書くと「貴様はオタクエリートの方が非オタクエリートより偉いと思っているのか!」
と叱られてしまいそうですが、どちらが上か下かという気持ちはなくて、
非オタクエリート>オタクエリートという通常であれば歩むラインから外れたはいいもののどこにもたどり着けない隘路に落ち込んじゃった、という意味です。
ぶっちゃけ、私は、彼ら特有の言説はオタクエリートにとっても非オタクエリートにとっても有害
(あるいはアニメという表現媒体そのものにとってさえ有害)な存在だと思っており、
その危険性をしっかりと指摘しておきたいなぁ……というのがここ一連の作文に至った動機であります。
一昨日、昨日の前置きがないといささか乱暴になってしまうと思いこれまであえて「オタクエリート」という言葉に"ある種の層"を仮託してきましたが、
前置きが完了したのではっきりと書いてしまおうと思います。
「なんちゃってオタクエリート」が、オタクエリートだと勘違いされている状況が多いのではありませんか?
コメントやトラックバックで「君はオタクエリートという言葉を勘違いして使っているのではないか?」という指摘を頂戴し、
我が意を得たりと思いました。
■個人の好悪表明が評論と勘違いされる事の危険性
なんちゃってオタクエリートは基本的には(b)に属しています。つまり、「好きだ/嫌いだ」という気持ちが言論の主体にある人たちということです。
前回、前々回の指摘の繰り返しになりますが
http://anond.hatelabo.jp/20070326142734
http://anond.hatelabo.jp/20070327135230
彼らにはまず「まなびが嫌いだ」という気持ちがあって、それが発言の主体となっている。
「好きだ/嫌いだ」を表明することは大いに結構、キュートで好ましい、それが私のスタンスです(前回書いたとおりです)。
ただ、私は、彼らがその「好きだ/嫌いだ」をそのまま表明したがらないところに――
分析モドキや事実の捏造を含めて見解を正当化・権威化しようという試みがなされているところに歪みと危険性を感じます。
まず、非オタクエリートが、なんちゃってオタクエリートの見解を「権威」だと誤認し、それに流されてしまう危険性を挙げておきます。
「2chで絶賛されていたから面白いんだろう/糞と言われていたからつまらないんだろう」といった発言は、
"嘘を嘘と見抜ける人でないと2chでは有益な情報を得ることができない"というコモンセンスの敷衍によって淘汰されつつあります
(実は淘汰されていないんですけど、まあ、表面上は淘汰されたということにしときましょう。少なくとも、口にしたら恥をかくしね)。
しかし、前述のコモンセンスは"嘘を嘘と見抜ける人でないと『ネットでは』有益な情報を得ることができない"という形にまでは一般化していない。
顕著なのがwikipediaですね。「2chに書いてあったから」と口にするのを恥と感じる人が、「wikiに書いてあったから」と言うことを愚かな行為と思わない。
これはwikipediaがまとう"権威のかほり"が大きいのではないかと私は考えます。
「wikipediaってなんかアカデミックなかんじがするよね!」「なんかエリートなかんじがするよね!」ってことですな。
非エリートはそれを真実かどうか見極めるだけの経験や知識がないがゆえに、権威風のものに幻惑されやすいわけです。
さて。
なんちゃってオタクエリートの感想文は、分析に見えるものやそれっぽい言葉が多用されているので"権威のかほり"だけはまとっています。
そのせいか、実際は一個人の好悪の表明であるにもかかわらず、非オタクエリートにはそれが一般性をもった評論に見えてしまう。幻惑される。
http://anond.hatelabo.jp/20070326142734 この程度の明らかな事実誤認(捏造)さえもが
http://hibizaren.blog93.fc2.com/blog-entry-130.html こうしたニュースサイトなどを経て伝播し、
「ふーん、まなびストレートって結果としてアニオタの大部分に失笑を買ったまま終わる事になったんだ。糞なんだね」
というように非オタクエリートを洗脳してしまうのではないか、という危惧を抱く次第であります。
実際に見たら人生を変えるほどの傑作なのかもしれないのに、見て、自分で判断する機会自体を奪っているのではないかと。
ひいてはモノを自分で判断する思考実験の場を奪い、自分なりのアニメ鑑賞作法を確立する機会を奪っているのではないかと。
こうした「なんちゃってオタクエリートが非オタクエリートをなんちゃってオタクエリートへと導く構図」にもあるように思います。
作法さえ確立してしまえば、ぶっちゃけアニメの出来とは無関係にアニメは楽しめるものです(笑)。
自分ひとりで深く深く井戸を掘り下げてそこに水脈を見出すことができる。あるいは掘り下げる作業自体が楽しみとなる。
それができないとアニメに飽きちゃうわけです。
どんな美人だって三日すれば飽きるそうなので、10年も20年もアニメを見続けていればそりゃ刺激は落ちますわな。
アニメは愛している。
でも勃起できない。
愛しているからアニメと絶縁するわけにもいかない。
自然、「昔はよかった」「今のアニメは」という愚痴ばかりが出てくる。付随して「業界の体質が」「最近のアニオタは」という批判をおっぱじめる。
そんなオッサンをネットの辺境で見かけたことがありませんか?
私はそれをとても不幸なことだと思います。
さて。
これとは別に、「オタクエリートの真に価値ある評論がなんちゃって評論の叛乱によって埋没するのではないか」、という危惧も抱きます。
人間というものは、わかりやすかったり乱暴だったりダークな言説にぴょんと飛びつくものです。悪貨が良貨を駆逐するのではないかと。