見たことのないアニメ、読んだことのないマンガ、遊んだことのないゲーム。
どこの、誰が書いたのかわからないエントリー。
あなたは何を知っていますか。何がわかりませんか。
あふれ出る情報の泉から、「答え」という名の水を、疑わずに飲み干していますか。
さんさんと降り注ぐ情報の光を、部屋の中から見ていますか。
空がどんな色か知っていますか。満月の夜の明るさを知っていますか。
あなたの好きなものは、あなたにしっくりきてますか。
まだ見ぬあれも、触れ得ぬこれも、あなたにしっくりきてますか。
他人が見捨てたあれも、これも、あなたも見捨てていませんか。
あなたの好きなものは、あなたが選んでおりますか。
私は自分で選んでいます。
結果が失敗でも、何も得られなくても、いいんです。
だって自分で考えて、想像して、いいって思ったんですから。
思い込むことは、いいことでも悪いことでもないのです。
でも、それで楽しみが減ってしまうのは、少し寂しいのです。
あなたは楽しみを、手放していませんか。
どうしてそんなに―――必死なカンジ なんですか?
部落と言う言葉で自分の田舎を説明した>>1ですけど、両親は四国です。
いわゆるブラクのことは、現地人は地名で表現します。
東京育ちの私にはあまりピンとこないんですけども。
損得を意識しているか無意識下でやっているかの違いでしかない。
その場で得か損か考えるだけが損得勘定じゃないよ。
だから誰が観察するのか、って問題に尽きるわけでしょう。
第三者が勝手に読み込む観察は客観的たりうるのか、ってこと。
たとえば、第三者がそこに何かしらの広義の損得勘定(=合理性)を見出したとする。
しかし、そもそも、その第三者はなぜ、そんな観察をするわけ?
その第三者を、同じ基準によって観察するとすれば、
彼は、そうすることによって何かを得るものがあるはず、とされるわけだから、
すなわち利害当事者であるということになる。
従って客観的な観察は不可能ということになる。
この手の問題は、社会学なんかではけっこう論じられていると思う。
参照してくれ。
使ってみるとそう悪くもなかった。切る時の感触がよいし、紙への書き味も良い。値段なりの価値はあるかも。
http://anond.hatelabo.jp/20070329014921
このへんから伸びている話題だけども。
たとえば、
と、二通りに記述できる。あるいは、
と、記述できる。んで、
と、記述できる。
まあ、例がイマイチだが。
要するに、どのレイヤーに着目するかによって、記述の仕方は変わる。
そうしないで、「愛」だの「善」だのってファクターを取り入れることもできる。
ちなみに、ぜんぶ損得勘定で説明しようとすると、究極的には
「得なことを追求することには、いかなる『得』があるのか?」という自己言及に至るね。