はてなキーワード: 姓名判断とは
占いに興味はあるけど、自分を占ってもらうというのは絶対にやらない
占って、当たらなくても占い師はなんの罪にもならないし
スピリチュアル的な力があり、占いの的中率が高い占い師は企業の社長や政治家に囲われて、金のない一般人は一生お目にかかることはない
でも、姓名判断だけはやる
姓名判断というのは流派によって考え方違うし真剣に考えたらむちゃくちゃ難しいが
名付けはとにかく親のセンスを求められるし
子供が名乗れば親の性格はわかる。古風な名前なら真面目な親だなと思うし
古風通り越してシワシワネームだと、名前のセンスもないし価値観が古い親なのかなと思う
姓名判断的に悪い名前の子供が不幸になっているニュースを見ると
親の姓名判断の知識が浅くて、親が一生懸命調べてつけた名前でも、姓名判断師が見たら「んん?」と首を傾げるような名前の子供はやっぱり不幸になっていたりする
「うちの子の名前は完璧につけたのに亡くなってしまった」という親の子供の名前を見たら、画数はよくても姓名判断のルールを無視してることがある
姓名判断はネットのサイトだけチェックして、理解できるようなもんじゃないんだ
書籍を何冊か読むのがいいと思うのだが、本屋に売ってるほんわかしたパステルカラーのかわいい本ではなく、おじさんが読むような地味な、仰々しいような、古そうな本がいい
新夫妻子 を姓名判断することは今からでも簡単にできるじゃん?
んで、どっちがより運勢のよい姓名になるかで決めればいんじゃね? 伝統的で公平な判断方法wwww
一つ言いたいことは、こんなことでつまづいてたら
もう別世帯になる親やら
社会で出会う人々をうまくコントロールしていけないけどそっちのほうが結婚して大丈夫なのか?ということです
ここで甘やかしたら味を占めてまた増田にきて妻が子供にキラキラネームを~とかコロナで学校が~とか不妊治療が~とか投稿するんだろうし
ま、「オレはこうしたい」という目的がまずあって、じゃあいい言い訳だの抜け道だのを探すってんならまだいいよ、だから今回は適当な言い訳つくってやった
でもさ、動機がどうでもよすぎ。親の涙程度で動揺してたら奥さんの涙で死にそうになるんじゃないか?
妊娠後、こどもの性別が分かる前から男女の名前の候補を考えて、妊婦健診で子供の性別はわかるんだけど、いざ産まれたとき健診で言われてたのと違う性別の子供がうまれたとしても最高の名前がつけられるように準備していた
名付けって仲の良い友達の子供の名前や、親戚の名前とつけたい名前がかぶってしまったり
自分の身近な人のこどもと自分が子供につけたい名前がかぶってしまったとしても
相当親しくない限り
自分が子供につけたかった名前をそのまま自分の子供につけてほしい
私が子供につけた名前は、私の幼なじみがつけたかった名前だったらしい
私の子供の名前が「ひより(例)」だとしたら私の幼馴染みは本当はひよりと名付けたかったのだが自分の子供に「ひまり(例)」と似た名前をつけていた。ひまりは私の子供と被らないようにつけた第二候補の名前だ
幼馴染みの親は「ひよりと言う名前をうちの子もつけたかったんだ」と私の親に話していた
わたしがもし幼馴染みと同じ立場だとしたら例え周りの人に「真似をした」「パクった」と言われても第一候補の「ひより」を子供に名付けていた
良い名前、良い漢字というのはどうしても被りやすいのでみんな使いたがる
男の子の名前の「陽」なんてみんなどれだけ使いたいんだよ人気すぎるだろってぐらい使われてる
自分自身、子供は好きでも嫌いでもない。可愛がる対象としてはともかく、庇護対象と見た途端、面倒臭いと思ってしまったのが正直なところ。妻にはずっと「自分はどちらでもいいけど、望むなら作ってもいいよ」くらいの、消極的同意スタンスを伝えていた。単純に気持ちいいことをした結果として、妻が妊娠した、ただそれだけくらいの気持ちだった。
今現在、妻はものすごい勢いでつわりに苦しんでいる。食べたら吐くの繰り返し。妻は近所でバイトをしている。体調悪いならバイト辞めたほうがいいんじゃないか、と声をかけたものの、動いている方が気が紛れるそうなので、やんわりと僕の心配は固辞された。
今のところ、子供に対して、生まれてくるのが楽しみとかいう感情が全くない。かといって後悔もしていないが、妻の体調不良の原因になっている、と思うと「困ったなぁ」という気持ちになってくるばかりで。こんな自分が父親になる。それがただただ恐怖でしかない。
妻は妻で、二人の時間が近い将来に終わりとなることを考えると、複雑らしい。妻は、結婚前から「自分もどちらでもいいけど、できるなら子供は欲しい」と言っていた。子供が欲しかった理由は、よくある「好きな人の子供が欲しかった」だったそうだ。少なくとも、今の彼女も、本当に自分が望んだことなのかわからなくなってきているようで。
ところで、最近……というか、ずいぶんまえから子供の名前を考えている。男の子ならこう、女の子ならこう、といったぐあいで。響きだったり、字の意味だったり、姓名判断だったりを組み合わせて、名前の候補を少しずつ上げている。さんざ子供に対しては何の感情も、と書いたものの、こうして名前を考えたりするってことは、自分の中でも子に対する何かが芽生えてきているんだろうか。
結局どうしたいのか、自分でもわからない。どう向かえばいいのか。お世辞にも裕福ではない我が家で、子を立派に育てられるのか。遠く先の出産予定日を思えば思うほど、不安感ばかりが募ってくる。
いや、コックリさんに子供が怯えてたら、信じてはいけませんとかじゃなくてまず寄り添うでしょうよ…
経験が少ないから怯えてるのであれば、道理を伝えることで安心させるのも大事
でもそれ以上に、その分別がつかない年齢のうちは不要な恐怖から遠ざけてやれよと思う
姓名判断もそう
理屈としては無意味なオカルトでも、幼い子供が気にすることが想定できるなら悪運のレッテルを回避してやろうって思うのは別に信仰の肯定ではない
ってやつ。
姓名判断を信じてるから大吉ネームをつけてるっていうか、子供を無駄にがっかりさせないためのリスクヘッジな気もする
子供が友達とキャッキャしながらネットで自分たちの名前の姓名判断して遊んでたら、ある子だけ大凶とかだったらなんかかわいそうじゃん…?
自分は大吉ネームの不幸な人・不幸凶運ネームの幸運な人のデータを某所に貯めてるけど
姓名判断サイトで画数調べられる時代になってから大吉ネームの人が増えている
結局お前ら姓名判断信じてるじゃんって思う
『男の人ってなんで占い嫌いなんだろ』というのは性差別とまでは言わないけれど「あなたが観測している範囲」の話でしかないと思います
しいたけさんは男性ですし、鏡リュウジさんも男性であるように著名な占い師の中にも男性はいることは覚えておいてください。
『男の人ってなんで占い嫌いなんだろ』の正体は、自分が嫌い・苦手意識を持っている・忌避しているものがマジョリティであることへの嫌悪感です。
男女は関係ありません。そういうとこに性別を入れないでください。
テレビで話題になった食べ物に行列したり、話題だというだけで映画を観に行ったり、アイドルに熱を上げている人を見て冷笑するのと同じ心理です
ここからが本題です。
ヨッピーさんもそうなんですけど『占いほんと気持ち悪い、エビデンスもないのに』って言ってる人がどのくらい占いの事を知ってるのかなって思います。
占いは科学でも統計でもないということは誠実に占いに携わっている人間であれば知っていますし、そう発言しています。
鏡さんはご自身のTwitterやブログ、著書などで何度も「科学ではない、統計ではない」と主張する一方で「でも当たる」と仰っている。
テレビや雑誌の占いを規制したら「本当に」カルトに対して規制が掛かるのでしょうか。
オウム真理教の入り口としてヨガサークルがありましたしオウム真理教と無関係であっても「オーウームー」と詠唱することは知られていますが、ヨガは禁止されるべきなのでしょうか。
今回問題になっている統一教会の「入り口」のひとつに姓名判断や手相があるのは事実ですが、それ以外の勧誘方法(例えばテニスに誘われたなど)もありますし、テレビや雑誌の星占いを規制したらカルトの活動が弱まるというのはそれこそ「エビデンス」に欠失した発言だと思います。
統一教会のようなカルトにとって「占い」は勧誘の入り口のひとつに過ぎず、占いだけを敵視し、あるいは「叩いて」も何の解決にもなりません。
鏡さんが書いた『占いはなぜ当たるのですか』P128~に1975年、アメリカでおきた「反占星術声明」に対し、カール・セーガン氏が述べた言葉を孫引きではありますが引用します
”私は「占星術反論」声明を承認することができない---占星術には何らかの妥当性があると思うからではなく、声明の語調が権威主義的だと思ったし、いまもそう思っているからである
鏡リュウジ(2020),占いはなぜあたるのですか,説話社,p130”
鏡さんは、セーガンの文章に続き、以下のように持論を展開しています。
"この署名に加わった科学者のうち、果たして何人が占星術を真剣に研究してみただろう。初めからそんなものはあたらない、研究するにも値しない、と決めつけていたのではないだろうか。彼らはいわば頭ごなしに否定しているに過ぎなかったのだ 前掲著,P131"
オウム真理教が問題になったとき、ヨガに携わっていた人たちがとても苦労をされていたのを良く知っているので、今回のヨッピーさんの発言は「危険」だと感じていると同時に、手相でも占星術でもカード占いでも良いので「占える」ようになってから、占いというものを知ってから批判してほしいと私は思います。
エビデンスがないなんてい占い師なら誰でも知ってるんですよ。それでも「あたる」から不思議なのであって、それを学びもせずに批判するのはおおよそ言論に携わる人の態度として不適切だと私は思っています。
「勧誘を受けても私は騙されない」と思っている人も沢山いると思いますけれど例えば『統一教会の研究 (一) 入信・回心・脱会 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/34984 』という論文に記述されたコンテキストを見ると実に巧妙に出来ていて、勧誘されたら最後、断れる人がどのくらいいるだろう、と思う内容になっています。
私は今年35歳になる。
人生でただの一度も他人に「母親が統一教会信者である」と言ったことない、言えるわけがない。
今回の安倍元首相の事件の話でフラッシュバックしてしんどいのでせめてここで吐き出そうと思った。
母親は多分、結婚後の私が生まれるかその後か、1990年前後に入信している。
きっかけは知らない。
ただ、限界集落のようなド田舎出身で、結婚して街に出て友人もいなかった母にとって、統一教会の存在は心の拠り所だったんだろうなという想像はできる。
物心ついた頃には教会と呼ばれる施設へ連れて行かれ、ビデオを見せられたり、お祈り場に参加させられたりした。
そのせいでお経?のようなものを覚えてしまい、うっかり父の前で唱えて怒られたことを覚えている。
ちなみに教会ではよくメッコールを飲まされていた。同じ経験をした人はあれをそんなにマズく感じていないと思う。
ある程度自我が強くなってからはそういった場所には行かなくなったが、母は教会へ足繁く通い、献金や水行や断食をしていた。
高麗人参のエキスを買わされていたり、姓名判断ができたり(多分印鑑を売るための手段の一つ)、ハングルを覚えたりしていた。
そういったことがバレるたびに父とはよく揉めていて、深夜にDVや家具の破損はよくあった。
朝起きて、物が壊れたり部屋中に暴言が書き殴られていたり、顔を腫らした母をみる日が定期的にあった。
いつだったか、母が私を含めた兄弟を祖母の家に預けどこかへ行こうとしたことがあった。すぐに父に見つかって、また大変なことになっていた。
献金がとにかく大変だったようで、借金をしたり、定期契約の集金のパートをしてそのお金を回したりしてやりくりしていた。
父はもちろん母にお金を渡さず、切り詰めた生活を強いられていた。ご飯が足りないということはなかったけれど、贅沢や外食は一切なかった。宿泊するような旅行も帰省以外ほぼなかった。
高校生になるまで両親の喧嘩は絶えず、母の信仰も続き、早々に家を出られるよう努力した。
無事国家資格を得て、21歳で就職と一人暮らしを始めることができたが、家を出る直前まで両親の喧嘩は続いていた。
家に残っていた兄弟たちからそれ以降どうだったのかは聞いていない。
私がお金を得るようになってからは、貸してほしいと言われることが何度もあった。
献金のためとわかっていたので貸さなかった。父か自分の親に頼めと言い続けている。
先祖の行いが現代の我々に降り掛かってくるから祈らなきゃいけないだとか。(祈りには献金が必要らしい、なにそれ。)
サタンがどうだとか、酒はサタンのおしっこで、タバコはサタンのおならだとか。あほか。
家庭連合ということもあり、結婚しろとよく言う。天国は二人で行く国だから、独り身でいることは未熟な人間でいることだと言う。
両親の喧嘩を見て育ってきた私が結婚にいいイメージがあるわけないだろうに、無責任に言ってくる母が嫌だった。
今両親だけで住んでいるが、今回の事件で実家がどうなっているのか怖い。
そういえば選挙のたびに母が自民党に投票してと言っていたことを思い出した。
今回の事件で、ああそういうことかと納得できた。
共通の女友達が夕方私の家に来て、そのあとに彼が来て3人で鍋をした。
なもんで、その日の朝方、みんなが来る前に部屋を片付けているときは
彼が泊まるなら、彼が風呂でも入っている間に
いつも通りクローゼットに隠せばいい。
そう思ってしまったのだ。
私はこんなにもウッカリ者だというのに。
ぬいぐるみこと、わんころべえとは、恐らく小学校2、3年生からの付き合いだ。
別に某漫画のキャラクターでもなんでもなくて、本当にただの犬のぬいぐるみ。
私はわんころべえと名付けて大切にした。
毎日一緒に寝た。
わんころべえがいなければ、本当に私はどこかで死んでいたかもしれない。
人が家に来るときは今までずっとクローゼットに隠し続けてきた。
ずっと大切にしているなんてどん引きする以外にないだろうと、
恋愛面においてわんころべえの存在をにおわせたことなんて一度もなかった。
なんて考えていたのに、友人を駅まで送って、
家に二人で戻って彼と片付けをして、
眠り支度をして、「さー寝よ寝よ」とシーツをめくり、
「!!!!」
普通に忘れていた。
私にとってはいつもの光景。彼にとっては「ナンダコレ」というところだろうか。
言い逃れはできないと、大事にしているぬいぐるみで、普段は隠していたと白状した。
彼は普通に「そうか」と返して、そのままその日はいちゃいちゃして寝た。
予想よりも普通だった。もう早くいちゃいちゃしたかっただけかもしれない。
でも、内心はわからない。どっちか判断がつかないまま翌日彼は普通に帰った。
まあもうバレちゃったししょうがないか。どん引きされたらそのときはそのときだ!
そんな風に考えていたら、後日、電話していたときに彼はこう言ったのだ。
あんなに隠していたのに、自らしっかりと存在を主張してしまう。
その会話をきっかけに、私たちの間にわんころべえは普通に存在するようになった。
「いぬじろう元気?」「いぬじろう今日はどこおるん?」「今日は椅子の上か」
そうやって彼から存在を確認されるたび、なんか、もう隠さなくていいかな……と私も段々と隠さなくなってきた。クローゼットの暗闇の中ではなく、ベッドの上や棚の上など、ひっそりと見えるところにちょこんと座らせている。
彼の反応は、私の人生を受けて入れてもらったようで、とても嬉しかった。安心した。
彼となら、もし一緒に暮らすことがあっても、連れて行って怒られたりはしなさそうだ。
いられる間はずっと一緒にいたかったので、本当に、泣きそうなぐらい嬉しかった。
そのとき、ふと彼が「いぬじろうでもやってみよう」と言ったのだ。
「わんころべえだよ!!」
もうその頃には、私が正式名称を返すのが定番になりつつあった。
姓名判断は名字と名前で区切られるので最初「わん・ころべえ」とかでやっていたのだけど、いまいち運がよくない。私がどうすれば運がよくなるかを唸っている間に、彼は私の名字とわんころべえを組み合わせはじめ、そのうち私の名字といぬじろうをいろんな漢字にしてやりはじめた。
と、彼が見せたのは私の名字に、犬治郎という漢字表記の組み合わせ。
そして、なるほど確かにいい。めちゃくちゃいい。
唯一家庭運だけ凶だったけれど(笑)わんころべえよりめちゃくちゃ良かった。
あんなに訂正していたのに、うっかり「いぬじろう、ありかもしれん」と思ってしまった。
そのあと、私はうっかりと、彼の名字でもわんころべえの姓名判断をやってみそうになったのだけど、彼の名字が画数的に何をやっても凶になってしまうのでやるのをやめた。でも、もし私の名字が変わることがあったら、わんころべえも私と一緒に変わって欲しいなと思った。
彼とも、わんころべえとも、ずっと一緒にいられたらいいなあ。