はてなキーワード: 参政権とは
日本国憲法第四条に曰く、天皇は「国政に関する権能を有しない」という。
戦後日本は立憲主義の民主主義国家となったのだから、血統による継承を行う地位に付随する政治権力を持たせないのは当然のことである。
しかし、同時に日本は自由と平等の国となったはずなのだ。憲法に、特定個人の権能を制限する条文が堂々と書かれている。まったくもって自由とも平等ともかけ離れた事態だ。
真に自由と平等を指向するのであれば、法に特定個人の参政権を制限する条文があってはならない。
こんなことを書くと、多分不敬だなんだと騒ぐ者が現れるだろう。題に掲げた通りだ。私は天皇に敬意を抱かない。
私の持論では、戦後日本の天皇という『機関』(今更天皇機関説かよ、と言われるかもしれないが)は、日本国挙げての人権侵害装置である。
職を選ぶこともできず、生まれた時から人生を決められて、一生を縛り付けられる国の奴隷制だ。
だから私は、"天皇"に敬意を抱かないし、抱いてはならないと考えている。
究極の貧乏籤をひかされた"天皇"に対し、敬意を抱くということは、この悪しき制度を次代へ、さらにその次へと引き継ぐ力となってしまう。
私は、それを許容しない。
つまり、はっきり言ってしまえば、私は天皇制を廃止すべきだと考えている。
たとえ建前であっても、現実がそうなっていなくても、人間には平等に権利が存在する。
現実に流されて理想を語ることをやめたら、世の中はそれ以上良くならない。そして、私の理想とする社会には、生まれで権利を制限されるような人がいてはならない。
一方で。
30年という長きに渡って、自動的に背負わされた重責を、言動の一つ一つが見張られているような状態で勤め上げた明仁という方に対して、私は敬意を表したい。
これは、天皇に対する敬意ではない。私という人間が、明仁という人間に対して対等の立場で抱く気持ちである。
天皇と対等だなどと思い上がりも甚だしい、不敬だなんだという声もあるだろう。だが私はそれを聞き入れるつもりはない。
もちろん、私は彼のことを知っているが、彼は私を知らないだろう。会ったこともない。
そうだな、会ったこともない人に対して呼び捨てをする行為は、立場がどうであれ普通に失礼かもしれない。
だから、こうしよう。
ヒプマイコミカライズの解釈違い問題を取り扱ったブログがバズってる事で外野が「へぇ、ヒプマイファンの解釈違いはこれが原因なんだね」みたいなファンの総意扱いされている事が地獄なんで書く。この日記での要点は
・ヒプマイってそもそも女尊男卑を取り扱った超社会派コンテンツって謳ってましたっけ?
・それ以前にファンタジーに現実の尺度を持ち出す人間とは分かり合えない
の二点である。件のブログがバズった後で今更だと思うが、それでも黙ってはいられなかった。
あと、外野の人が読んでるか分からないけど、外野の人は件のブログは一個人の意見であってあれが総意ではない。もっと言えば解釈違いに関する個々の意見が多すぎてファンである私ですらこの点が解釈違いと言われているとピンポイントでまとめきれないのが現状であることをご理解いただきたい。
要点の女尊男卑設定問題と現実の尺度はについて重なっている部分が多いので纏めて書く。
女尊男卑というデリケートな描写に触れてしまった公式は確かに安直だと思う、というのは私も同意見である。
ただ、そもそもこのヒプノシスマイク自体HIPHOP×二次元というプロジェクトである。
そう、だから「取ってつけた」あるいは「ガバガバ」な女尊男卑設定でもある意味間違いではないと思うのだ(間違っていないけど正解でもない、というニュアンスです)。
ここでHIPHOP×二次元×超社会派プロジェクトまで謳っていたらそりゃブチ切れるのも仕方ないと思う。
そんな中、件のブログで引っかかるのは第三次世界大戦、西暦、日本という設定だけで現実世界の未来として扱っている様な書き方だった。
いや同じ西暦だし日本だけど、私たちが生きてる現実とは違う歴史を紡いでいたとかそういう補完でいいんじゃないのかなって…。ヒプマイってノンフィクション作品でしたっけ?
あと女尊男卑のガバガバ設定として「女尊男卑といいながらも税金が10倍とられることと中央区に入れないだけ」という旨を述べているけど、彼ら参政権が無いんですよ。政治は女性しかいない中央区でしかやらないから。(『アニメージュ』2018年1月号参照)
アニメージュまで読んで無いというのならこっちからしたらそれこそ「取ってつけた」非難としか受け取れない。参政権が無いことについて描写がーという反論もありそうだけれど、設定はありますよという説明であって、描写云々は別の問題。
他に散見するガバガバ設定として、看護師とウェイターを女性がやっていることについてだけれど、その点を言及している人たちは無意識に「現実では看護師とウェイターは女性の仕事」と思っているから言及するのかな?というのが私の所感。
あと女尊男卑ガバガバ設定について言及している人はあなたの考えるヒプマイ女尊男卑設定の詳細を教えてほしい。煽り抜きでそれはそれで読んでみたいので。
…ここまで書くのにとても労力を使って疲れたので件のブログの人凄い。半年前からすでに設定ガバガバじゃんwwwwと笑っていたのにコミカライズされた途端1ページずつ懇切丁寧に自分の気に入らない箇所を説明していくんだもん。その根気と熱意に対しては脱帽する。
発生当時の時代状況と欧米の文化においては、まあ、意味はあった、のかなあ。そのへんは論者の評価によるけれど俺個人は意味があったと思うよ。
そもそものはなし欧米の文化のベースである一神教(ユダヤ、キリスト、イスラム)において、神は「父なる神」だし、イブはアダムから作られた劣化神造人間だし、ノア(男性)が家父長であり一族のリーダーだと神からはっきり示されてるわけ。つまり、文化の大前提として家父長制=男性優位社会がインストールされてるわけよ。アメリカ南部の教会ではつい最近まで「女性にはテレビとラジオを禁止しておけ、娯楽をあたえると家事をサボるようになる」とかそういう説教を牧師が言ってたとか、まあすげえわけ。
当時はリベラル・フェミニズムはもうすでにあったわけだけど、女性参政権程度じゃ、文化や宗教の制約(つまりは既存社会の慣習)が打破できなくて、そこで、血に飢えた狂戦士みたいなフェミソルジャーを戦線に投入して食い破らなければいつまでも家庭内家事奴隷だろみたいな思惑もあった。宗教的権威に対する挑戦であり、血まみれで戦わなきゃ一歩も前に進めねえので、そこでラディカル・フェミニズムなわけよ。「父権社会によって長い年月をかけて洗脳に近い刷り込みをされた女性は女性自身も気づかぬうちに搾取されてる」「全ては父権社会と権力勾配が悪である」「女性は無給家事労働者とか公的な娼婦として隷属化させられてる」あたりの思想で、「既存の男性主導文化そのものを打倒」しようとしたわけだ。その歴史的経緯を踏まえないと、ラディカル・フェミニズムは理解できないとおもう。
なんつうか、もうこの時点で天照が女神で天鈿女命がおっぱい揺らすとノコノコでてきちゃう日本民族的には理解しがたいのよな。とは言え、「俺には理解し難いんでお前らのやったことは全部無意味で無価値」とはいいたくないんで、だから前述の通り「個人的には意味があったと思うよ」なわけだけど。
だから、そういう状況で戦った女性はそれなりに道理もあれば正義もあったわけ。
上記のような宗教的抑圧の地獄で発達した過激思想を、現代の恵まれた(この恵まれたって言うのに和フェミの皆様方は噛み付くわけだけど、上の記述を見てそれが理解できないのは馬鹿だと思うのでもう話したくない)日本の女性社会において、ラディカル・フェミニズムってのはもう圧倒的に過剰で馬鹿げた思想なわけよ。でも、男性叩きの理論的背景には便利だから、遊び半分でネットのキチガイどもが振り回してるってわけ。
フェミニズムが社会運動なのか学問なのかって部分で、フェミニストは随分甘えがあるように思うんだよね。
社会運動家としての一貫性を追求されると、これは学問であり個人の思想や要求ではないと逃げるし、学問としての透明性や検証の担保をもとめられると社会運動家としての被害者論に逃げ込む感じ。
おそらく今現在の多くのフェミニストは、フェミニズムがなんで学問を経由しなきゃならなかったのか、そこが本当にわかってない。
フェミニズムが、暴力の次元で既存社会と戦うと負けるからなんだよ。この場合暴力っていうのは、いわゆる肉体的だったり経済的だったり権力的だったりするようなぱっと想像できる暴力だけではなく、民主主義的な、多数決の暴力によってもフェミニズムは負けちゃうんだ。なにせ、以前の社会では「女性の権利が男性より劣るのは当たり前」だったから(女性参政権、この文脈では多数決に参加できる権利ですら日本ではまだ100年たってない)。聖書にすら男性の劣化品として描かれちゃうように、古代から封建社会経由で、女性は社会的弱者だったから「それが当たり前の社会」で多数決やっても、フェミニズムは負けるし負けてきたんだよ。
そういう状況をなんとか改善するためには、(民主主義的多数決を含めた)暴力を退ける必要性があって、そのためのテコとして、社会正義や公正を味方につけた、いわばフェミニズムの理論的背景構築が必要だった。「そのための」アカデミズムだった。だから過去、多くのフェミニズム論者たちは、必死で理論化を進めてきたんだよ。「私たちの求めているのは、ただの自分たちの私利私欲で行う権利拡張要求ではなく、社会正義の実現なのです。だから私たちの言うことを暴力で押しつぶさずに、どうか耳を傾けてください」というために、理論が必要だった。
「暴力ではない力」として、自分たちの主張の公正さや社会正義をきちんとアピールして、権利のゼロサムゲームという次元では利益相反である男性サイドにさえ「公正な社会の合理的な発展のためなら」ってことで譲歩する機運を作り出すのに、長い長い時間を掛けた。
にもかかわらず、現在Webで散見されるツイフェミのみなさんは、なんだかすごく後退しているようにみえる。お気持ちドリブンで暴力上等、殴り合いよっしゃこい、多数決で社会に圧力を掛けて、キモい連中を排除しようって、それ、暴力ですやん。「そういうレイヤーの勝ち負け」にしちゃって本当に良いんすかね? それやったらフェミ負けちゃうと思うよ? ってのが最大の疑問なんだよね。キミらその勝負の分が悪いから、100年近くかけて「お互い暴力はやめて、まずは理屈で話し合いましょうよ」ってがんばってきたんじゃねえの? っていう。
アカデミズムの使い方間違いすぎでしょ。フェミにとってアカデミズムは自分たちを律することによって相手の(既存社会の)暴力を自制してもらう装置だったのに、都合のいい棍棒として利用し始めちゃったら、相手も同じ棍棒持ち出してきて袋叩きにされるよそりゃ。
どうもツイフェミのみんなは、暴力の認識が甘い気がする。「みんなが嫌だと思ってるんだから、それを拒否するのは暴力じゃない」「多数決主義は暴力じゃない」「みんなでキモい奴らを吊るし上げるのは暴力じゃない」とか思っている節がある。もっとはっきりいうと「男性が女性に不当な要求をするのは暴力だけど、私たち女性(実は女性の中のごくごく一部なんだが)がオタクを排除しようとするのは暴力じゃない」とでもいうような。いやいやそれ暴力ですから。「多数派によって少数派の意見が封殺され、隷属的立場に置かれる」って、女性が不利益を被ってきた、悲しい歴史そのものでしょ。どうしてそこ忘れちゃうんだか。
そういうセリフを言っちゃった瞬間、フェミニズムが築き上げてきた「社会正義の実現としての男女同権」ってのは吹き飛んで、今まで色々言ってきたのはただの権力闘争でした〜☆、男性殴って女性の地位を向上させたいだけでした〜☆、になっちゃうんだよ。まあ、それが真実で正しいのかもしれんけれど、それを言っちゃったら今後暴力の応酬になるし、その応酬で勝てる目算たってるかっていえば、たってないでしょうに。
何が悪いって、一連のこういう動きは、その個別の案件で勝ったり負けたりする以上に、フェミニズムが築き上げてきた信頼を損なうって話なんだよ。たかが100年で得た権利でしかないのに、どう暴れても喪われないって慢心しすぎだと思うよ。「ああ、フェミってのはただの権力闘争で、公正さも透明性も正義もないんだな」ってなったら、過去に得た女性の権利でさえ後退する可能性はあるんだよ。せっかく積み上げてきた実績なのに、目の前の感情的発散のためになげすてるのはもったいないでしょうに。平塚らいてうが泣くわ。
①社会学は学問ではありません。まずそこを履き違えないでください。単純に興味を引いて金になるからあるだけです。
これは、先ほどのフェミニズムの議論が役に立ちます。お茶くみとかの補助業務に当たっていたということは、先の説明でもしましたが、今日でも、「相づち」をする役割は、女性となっていることが多いです。例えば、新春の、一体誰がみるのかよく分からない県知事が語る!みたいな番組がありますが、あのとき大抵女性アナウンサーが話を聞いたりしていないでしょうか。このとき、女性アナウンサーは、多くは男性である知事に対して、その発言がしやすいようさまざまな配慮をしながら、質問を重ねていきます。
まず、県知事=男性、としているのが、(社会学者らしい)頭がおかしい典型例です。社会学者は、これが学問だ!とか言いながら「歴史的経緯」とか説明します。女性の参政権取得からもう何世代立ちましたか?再現性のない記述を学問とは言いません。少しぐらい頭を使ってください。
結局、別に女性に参政権があろうとなかろうと、ほとんどの女性は政治に参加しないし、ノーベル賞も取りません。これがずぅ~~~~っと再現され続けています。この再現を無視して、自分の妄想を「学問だ」などという人間は学問的ではありません。
現実にはそうね。文化なんてのは結局そのつもりがあるプレイヤーによって上書きも防御も何でもありなわけ。
んで持ってフェミニズムってのもその一種なわけよ。それ以前はそういう文化だったものを「女性は男性の都合の良い従属者ではありません」って上書きして、今は、その改定した文化を防衛してさらなる上書きを防止しようとしてる。その部分の防止は今のところうまく行ってるしいく予定だ。いまさら女性の参政権取り上げようとか結婚先は家父長が決めるとか、そこまでイカレた声はまず聞かなくなった。
一方で別の部分の防御は今まで想定しなかったので当然弱いわけ。もし仮に「女性の社会的役割は乳袋で性的魅力を振りまくことです」ってなったら、そういうことしたくない女性はいやだろうし、その価値観で劣等だとされる女性(まないた?)はつらいだろうね。だからそういう危機感を覚えれば、防御反応として、声を荒げて、そういう文化醸成(先の記事で言うハッキング)には抵抗する。それは、まあ「お気持ち的には」理解できないことでもない。キズナアイにいちゃもんつけてる人は、キズナアイという図像そのものが嫌なわけではなくて、彼女らの言うキモオタの性的搾取創作によって「女性は性的商品であるというのが一般常識の社会の到来」を恐れてるわけよ。
つまりいま見えてる言論は、女性側であれ男性側であれ、攻撃というよりは過剰防衛なんだよ。殴られる予感に怯えて、相手を射殺してるような状況。
なぜなら、キズナアイが「女性の社会的役割は乳袋で性的魅力を振りまくことです」っていう主張の走狗なのか? っていう話をすれば「自意識過剰な被害妄想じゃね?」って反論も来るだろうし、さらにいえば、自分の望む文化や価値観を守るために、他者の表現を禁止するっていうそういう規制思想そのものがどうなのよ? ってのも当然あるわけだからね。
ぶっちゃけてしまえば、キズナアイがTVに出ようがラノベの表紙に大きなおっぱいが描かれようが、「女性は性的商品であるというのが一般常識の社会」なんてこないし、来るとすればそれはもうとっくに大部分の女性の同意の元到来してる。女性雑誌で「男受けするファッション」が特集され、婚活の想定問答が検討され、専業主婦が人気な時点で、フィクション程度の後押しなんていらないほどにそうなってるわけで。
しかし、例えばだ。『女性参政権を認めないことは、社会に不利益を与えます』と言ったとしよう。それに、データがないから無価値、と判断を下したとしよう。それは『女性参政権はないほうがいい』という意味になってしまう。保留とか不明という意味にはならない。
だから、データはないから無価値、という言説は社会科学において無意味。価値はあってしまうから。
ただ、妥当っぽい理論かどうかの差異は生まれるからな。再現実験はできないとしても。
それに、データが取れないなら仕方ないだけであって、データが取れるならもちろん取るよ。あとは、間接的なデータや証言ぐらいなら、たいてい取れるので、それを使うかな。それも、私がエビデンス、とか、濫用されちゃってるが。