はてなキーワード: ナスとは
実家にいた頃の私は、出されたものは大抵なんでも食べれる子どもだった。過剰に辛いものや酸味の強いものは敬遠したが、眉間にしわを寄せもずく酢を飲み干したことは数え切れないほどだ。母は料理上手であったがちょっと味覚がバグっていた。酸味、辛味、苦味などの子どもが嫌いがちな味覚への耐性が異常だった。蛇足だが熱さにも強かった。塩味の食べ物をつくれば、レストランにも勝るとも劣らないものが出てくるが、辛いおかずが出てくる度、私は白米を味噌汁でかきこんだ。妹は辛いものでも食べれていたため、私に耐性がなかっただけなのだろうとも思う。カレーが出る日は私だけ別メニューだったから辛いものが嫌いだった。味以外にも家族で自分だけカレーが食べれないという状況は少しトラウマになっていて、今でもカレーは少し苦手だ。甘口だろうとも。
母は私や妹が食事を残すと「私が作った料理食べられないんだ」「せっかく手間暇かけて作ったのに」「もう明日から作らないから」と脅す。食欲旺盛だった私にとってそれは死刑宣告のようなものだった。だから嫌いなものでも食べた。味噌汁やお茶で流し込めばさほど苦痛ではなかった。妹は嫌いなものは嫌い、と平気で食事を残すので、母が不快にならないようにそれも私が食べた。腹を押せば中身が出そうでも押し込んだ。結果、妹は標準体型か痩せ型くらいで、一人暮らしになった今でも完食する癖が治らない私は立派な肥満体型である。
この季節を代表する野菜といえばナスだ。漬物に麻婆茄子、夏野菜カレー、揚げナスと何をしても美味しい夏野菜の主役にふさわしい。スーパーに並んだ袋詰めされた5つのナスを買った。私は幼少期からずっとナスが嫌いだ。理由は明確でないけれど、多分幼稚園児くらいのときに口に合わないナスを食べたのが始まりだと思う。それからずっと今日まで自分は「ナスが嫌いだ」と思っていた。母親に何度「おいしいから食べてみなさい」と言われても、ナスだけは拒絶してきた。けれど、ついこの間後輩が作ってくれた麻婆豆腐がとても美味しく、また友人がナスがおいしいと言っていたことに影響されて、とてつもなく麻婆茄子が食べたくなってしまった。私は高校時代に心から好きだと言える友人が1人しか居なくて、大学生になってから仲良くなった友人たちとバカ騒ぎできていることを不思議に思っている。バカ騒ぎ連中の好きな食べ物を自分も共有したくて、ナスを買った。簡単に作れるレトルトパウチの麻婆茄子のもとも買った。最近は友人宅を転々としていてまともな自炊をするのも久しぶりだった。出来た麻婆茄子は少し甘いくらいで、辛味が欲しいと思った自分にびっくりした。しかしその驚き以上に、ナスはずっと美味しかった。
母はよく「素直になりなさい」と言った。主に母の指図を聞かない妹に対してだった。妹が朝起きれないのに夜更かしをすれば、「素直になりなさい」といい、母の指図に腹をたてて妹が機嫌を損ねれば「素直になりなさい」と言った。数え切れないほどに。私は母のいうことは不本意ながらも半分聞いてご機嫌を取り、半分聞かずに馬鹿にしていた。母が妹にする指図は従ったらプライドが傷つきそうなことばかりだった。素直ってなんだろう、と私は何度も辞書を引いて、「ありのまま」という文字を見て、母が日本語を理解していないのだと考えた。「従順」の意味合いで「素直になりなさい」と言っているとは考えたくなかった。「素直になりなさい」が私に向けられるのは、ナスとカレーが食卓に並んだときだけだった。私は頑なに拒絶した。絶対に美味しくないから、吐くかもしれない、と。それ以外のものはたいていなんでも食べた。私のナスとカレーに対する拒否反応は、味が嫌いなだけじゃなくてただ母に従いたくなかったのだと今ならわかる。友人と好きなものを共有したくて食べた麻婆茄子はこんなにも美味しい。素直になりたくなかった味は少し甘ったるくて柔らかだ。今が夏で良かったと思う。
近所にカレー屋さんがあることは、ひとり暮らしをはじめてすぐから知っていた。美味しいと評判だ。誘ってくれた友達に、カレーは好きじゃないんだと言い、何度か断ってきた。けれどきっと今なら食べれる気がする。あの匂いで孤独な食卓を思い出すことはないのだと信じたい。もう私は食べ物に対して素直になっていい。きっとこの夏は好きな食べ物がいくつか増えるのだろうな、と思う。
鳥類というのは翼を持ち、飛ぶことができるというのは皆が周知の通りだが、その中でも飛べない鳥というのはいくつかいて
ペンギンというのは知名度で言ってもその代表と言って差し支えないだろう。
リーナスは別にオープンソースコミュニティにバリバリ参加していたタイプではないから企業に対するアンチテーゼという意味合いでペンギンのマスコットが使われているのは
妄想しすぎだろうが、何からかのマイノリティとしての意識が飛べない鳥たるペンギンに代表されているというのは考えすぎだろうか。
鳥なのに飛べない進化を遂げるのは天敵がいないからと言われている。ソフトウェア開発は天敵だらけだ。だから類似しているとはとても言えないが、
ふと思い立ったので書いて見た。
いわゆる平天とかさつま揚げといったああいう種類のものって子どもの頃から好きだった?
自分はそうでもなかった 嫌いでもないけどあってもなくてもいいものの代表だった
肉とも魚ともつかないほの甘いもので、食事のメインにするには微妙かなって
でもある一定の年齢を超えたら突然しみじみとうまいなあ…と思うようになってしまった
世の中にこんなに油と相性のいい野菜があったのか!?
って衝撃受けるくらいうまいと思うようになった ナスほんとにうまいな
「おつまみ」という選択肢が増えたことも理由の一つのような気がするけど
酒はそもそもあまり飲まないし、単純に味覚や好みが変化したんだろうなと思う
(7.10 20:25追記)------------------------------------------------------------------------------------
たくさん反応があってびっくりした
教えてくれた方々ありがとうございます やっぱり味覚の変化ってあるよね
共通点や傾向がある一方で本当に人それぞれだな~って思うものもいっぱいあってすごく面白い
人によってはその転換が正反対なこともあるだろうし、ほんとに千差万別で楽しい
それでもブコメやトラバを読んで、おおまかに大人になってから好きになるものの傾向として
薬味やハーブ、山菜、香辛料、他に香りや臭みの強い食べものなんかが当てはまるのかなと思った
逆に味がそんなにしない食品もそうかな 豆腐とか湯葉とかこんにゃくとか
ということがわかると同時に「好き」に傾いてくるのかも
納豆は小さい頃ひき割りしか食べられなくて、今は大粒じゃないと物足りない
味の好みは変わるけど食感の好みってそんなに変化がないような気がする
好きな食感は増えても嫌いな食感は嫌いなままというか、
医者に「肝臓あかんくなってるで。酒やめやな。」と言われてやめて1年と3ヶ月ぐらいだった。
無気力になった。
正直、酒依存してたんじゃないかってぐらい酒(焼酎)が大好きで、毎晩毎晩飲んでたので、仕事を早く終わらせる目的が仕事終わりの一杯だった。
ただ、依存症なのかな?と思ったけど、普通に酒を見えない所に置いておくことでやめられたのでそこはよかったし、別に「酒飲みたい」と焦がれたこともない。というより、普段ニコニコしてフランクな感じの医者に真剣な顔で多少怒りを含んだ言い方で言われたのがかなりショックで「酒飲みたい」とその医者の表情や言葉を天秤にかけた時、医者の言葉のほうが重かったのかもしれない。
食欲が減った。
肉が食べにくくなった。魚もそこまで食べない。
よく食べるようになったのはじゃがいもやれんこん、大根などの根菜と、トマトやナスなどのナス科の野菜と、卵になった。
それに食欲があれば肉なり、魚なり。どうやら自分は鯖が好きらしい。食べる魚は大体が鯖。
夜寝にくくなった。
というのも、酒をのむのはいつも寝る前だったので、ウトウトして寝落ちってこともなくなったし、寝る前に酒を飲みつつ飯も食うような生活だったので、夜に腹が鳴って仕方ない。
仕方がないからと腹の中になにか入れようと豆腐なんかを食べようとするが、あまり受け付けない。
なので、夕ご飯を8時ぐらいにして9時ぐらいになるようになった。
今日、医者に行ったら「だいぶ良くなってる。薬に頼らなくてよかったやん。」と言われた。
もちろん今後は程々にする予定だ。
https://anond.hatelabo.jp/20180417001503
を書いた増田です。今回は前の記事の続き。愚痴にならないように頑張るよ。というか前の愚痴記事にすごい勢いでブクマついたので意図的に期間をおいてました。繁忙期だったのは確かだったんだけど感情に任せて書きすぎたなあと反省してたのです。感情的には今でも大差ないんすけど言葉遣い悪かったよねえ、ごめんなさい的な気持ちです。
前回の記事はあれはあれで追加すべきところは特にないんだけど、何点か先へ続く話題があるのでその辺を書こうかと。自分だけじゃなくてこの辺の記事に有用性がある気がするので。
ある意味正論で、もちろん出来る限りはやってます。軽減されたダメージも皆無ってわけじゃないっす。
しかしながら業界的にそこまで贅沢な組織になっていることは非常にレアで、現状それが解決になってる事例を増田個人は知りません。編集者は偉大だっていうコメントがトップで、それそのものは増田も否定しないし、知り合いの出版社の方は非常に勤勉で偉いと思ってるんですが、その一方で「作者は自分でTwitterに露出して書籍宣伝する時代なんだから積極的に発信しないとだめだよ」なんていう出版社側の発言がニュースになる時代でもあるわけですよね。つまりそれは出版社とか「編集ー作家」って言うシステムがそこまでバリアにならない時代の証左でもあるわけだとおもいます。
また、「nという工夫をすればいいじゃないか」っていうのは結局「nという工夫をすれば(その工夫で意見の取捨選択して俺たちユーザーの意見を聞き続られるので)いいじゃないか」であって、その本質は「公式は追加コストを支払って意見の取捨選択をしろ」なわけです。
商売なので、そういう意見は(前回記事基準で言えばなりかけモンスターだとは思いますが)それはそれでいいです。
一方で、じゃあ、そのコストは誰が払うのかって話なんですが、結局そのコストってサイレントで善良なユーザーが支払うことになるんですよ。前回記事では触れられなかった視点なのですが、これが本当は、一番きついです。
商売的な話で言うとクリエイターは金のために作品を作ってるんですけれど、精神的な部分でいえば善良な大多数のユーザーに喜んでほしくてモノをつくってるわけですよね。にも関わらず、利益の少なからぬ割合が、大きな声でゴネるユーザーの対策費として消費されていて、本来できるはずのクオリティアップやコンテンツ追加っていう恩返しに使えていないって言う事実が、めっさ精神を削るのです。「わいは一体誰のためにモノ作ってるのか」みたいなのは作る上でなんのプラスにもならないので封印するわけですが、じゃあそういう疑問や失意を感じないのかといえば多分みんな多かれ少なかれ感じていると思います。
ほんと。楽しいとか美しいとか格好いいとかすごいとかそういうコンテンツを全力でブッパして「わーたのしかったよ」でいいんですよそういうのがやりたいんですよ。にも関わらず、変なユーザーに配慮したりカスタマーに予算吸い上げられたり「公式はゴネたユーザーにたいしてのほうが手厚い世話を」ってなってしまう事実そのもので、購入してくれて無言で応援してくれる皆様に対して罪悪感をおぼえるのです。
なんか愚痴っぽくなってしまった。すんません。要するに「対策nをすればいいじゃないか」ってのは、現実的にはそれしかないんですけれど、もうすでに対策した時点で負けというか、精神的にはいろいろキツイとこがあるという話です。
そうして対策をしたとしても、防げるのは公式に対する一部のファンの凸だけであって、本当に狂ったファンがファンコミュニティで大暴れして他の善良なファンの人を傷つけるのは防ぐどころか関与もできません。ひとりの気の利いたファンの人が100人のユーザーを増やすことは至難ですが(それでもファン活動を通してそれをやり遂げる偉大なファンはいます)、ひとりの狂ったファンが呪詛と瘴気をまきちらかして100人のユーザーをその作品から離れさせることは、その何倍も何十倍も簡単です。
10年以上の経験から言うと、最もいいのは予防です。「雰囲気の良いファンコミュ」ってのが一番効果があります。
ファンコミュの雰囲気が良くて「俺らはそんな馬鹿なことをするファンはいない」「もしいたら一声かける」「同じファンである俺たちは作品のどこを愛するかという点で意見の相違があっても分断しないしされない」「好きなものを好きとつぶやいても俺たちは同じファンを叩いたりしないし、むしろ褒めるし、どんどん発言していこうとする」。
そういう雰囲気を持ったファンコミュは強いですし、そういう支援を受けたコンテンツは栄えるし寿命が伸びます。
公式に凸をするような狂ったファンは多くの場合、視野狭窄で公式が絶対悪にみえてます(じゃなきゃ自分が神に見えてるか)。
それはなぜっていえば孤独で疑心暗鬼が膨らんじゃってるからです。業界人として語りますが、ファンのみなさんがコンテンツに対して(アニメや漫画やラノベの物語展開や人間関係に対して、ゲームなどはシステムや新規要素の導入に関して)「公式の邪悪な陰謀で――」と語っているとき、そこに陰謀なんてないです。皆無です。
30%くらいはそもそもただの取捨選択の結果(ヒロインAがBより出番が多いのはただの選択)ですし、30%くらいは他の要素からの玉突きでそこにどうしようもなく歪が出ちゃったせい(設定Aはたしかに変だけど設定BとCとDが先行であるのでこうするしかなかったんや!)ですし、30%はリソースの不足(予算が仮にあったとしても指揮ユニットの数は希少なのでそんなに追加コンテンツばかすか作れないねん)ですし、30%くらいは需要の見切り(その要望を上げてる人は特定ユーザーから見て全員に近く見えてるかもしれないけれど、実際にはほんの僅か数%にすぎない)ですし、30%くらいはうっかりミスとかよく考えないでそうしちゃっただけです。足し算が溢れちゃってる部分は二個以上の重複だということにしてください。いま頭悪くてすいません。
まあとにかく、そんな邪悪なプロデューサーがユーザーを虐待してせせら笑うためにわざとそうしてるとかないです。見たことありません。どっちかっていうと被害担当のプロデューサー(とかDとか脚本とか原作者とか)がインタビューとかで、引っ込みがつかなくなってイキリ系の発言をしたのが炎上になってるくらいです。これはもうほんとすんません。シルバーアクセとかこれみよがしにつけてるやつがいてすいません。
てなわけで、柔らかくて暖かく、好き好き発言が自由なファンコミュが、凸ユーザーの抑止には一番効果があります。陰謀論とか視野狭窄による孤独の時点で緩和されます。公式がいったんボケナスなことをしちゃったときも「続報まとうか、続報でもボケナスだったとき改めて意見表明してもいいやろ」くらいの信頼感を公式が持っている意味は、ユーザーのみなさんが思うよりとてもとても、重いです。
前回記事へのコメで「自分もクレイジー側だったらどうしよう?」と言うものがありましたけれど、これが答えでもあります。公式への最低限の信頼感が残っているうちはクレイジーではありません。また信頼感が残っていないので離れるという判断ができればクレイジーデーはありません。公式は信頼してないし大嫌いだけど絶対に離れない、というのがクレイジーです。
こういうことを言うと反発を受けるかもしれなくて怖いのですが、公式が「この作品はユーザーに恵まれている」「ファンコミュがいい雰囲気で助かる」という発言をする事例がありますよね? あれはもちろん本音でもあるのだと思いますが、本音以上でもあるんです。ちょっと汚いたとえ話ですけど、トイレに「キレイに使え」って書くよりも「キレイに使ってくれてありがとう」って書くほうが、結果としてきれいになるように、あれは「ファンの大多数は、ファンコミュの雰囲気を柔らかく暖かくすることに協力してくれてありがとう。今後も頼む!」という意味の発言なのです。もちろん増田個人も公式側の人間として、そういうコミュづくりへ支援していきたいと思っています。たぶん多くの運営公式はそう思ってるんじゃないかと思う……たぶん。
――前回は精神的にこう……アレな時期だったせいで、対策の部分でちゃんとした説明をできなくて申し訳ない。ブコメしてくれた人、励ましてくれた人、ありがとうございました。繁忙期ぬけました。また頑張ってやっていきます。本日の記事は以上です。