はてなキーワード: 大元とは
同人やら二次創作って大元の公式から隠れてやれって20年前くらいからずっっと言われてる。
例えばTwitterで公式タグをつけたままそのジャンルのキャラのリョナエロ画像投稿したらいけない。
理由は公序良俗に反するような画像を不得的多数に見せてるから。
「えっ、このキャラってこんな目に遭うっけ?こんなキャラだっけ…?」
それって考える間もなく不愉快だから。最悪その人は公式から離れるかもしれないから。
あと、これはよく二次創作界隈で聞くものだけど、「ナマモノ」というジャンルも公に出すと混乱を招くとされている。
そりゃそうだ。
例えば好きな芸人の名前で検索したらモブに犯されてる芸人の画像が出てきたら、不快でしかない。
そんなの恐怖でしかない。本人からすればたまったものではない。
もしイメージが湧きづらいのならば、しらない誰かが描いたあなたの死体の絵を浮かべて見てほしい。
そういうわけで検索避けだとか、ベッター(別サイト)だとか鍵だとかをするようにと暗黙のルールで決まっている。
このルールに反しているものは、こっそり同じ趣味の人から注意を受ける。
「これは公の場で出すと危ないですよ」
と。
まぁなんとなくだけどエロ・グロ関連を公式タグとかで投稿してる人なんかほとんど見ない。
ただ問題なのはそれがBLとか夢とかなのは最近ちらほら見るようになったかなということ。
今のインターネット上、BLや夢は、過剰なエロ・グロが含まれない限り特殊なものでは無いと考える。
でも、検索避けしてないそれをもしBL・夢、その他公式にはない情報がつけ加われた二次創作は、
混乱を招く材料になる、といっても過言はない。
「なんで検索避けしてないの?」
と怒るのだ。
「公にしないでアカウントを鍵にしてください」と注意されても改善しない人は、最終手段としてスクショされ捨て垢で晒される。
でも、そうやって晒すと何が起こるか。
……隠れるべき?
不快?
なんで捨て垢?
私はそこがとてもひっかかって気になった。
それ、なんか、お互い誤解していないか?
こればかりはケースバイケースなのだろうけど、なるべく晒し行為は控えた方がいい。
「やめたほうがいいですよ」「はいそうですか」で済まなかった場合、明確に理由を述べることが大切だと思うのだ。
「これは公式のタグを使ったまま、キャラの名前にも検索避けをせずに、公式にはない設定をつけ加えて投稿されていますよね。これは公式の情報が見たい方にとって混乱を招く可能性が高いと思います」
「それにこの作品は二次創作は容認されていないので、公にするのは控えていただきたいです」
こんなふうに、どうしてそれがだめなのか、どこに迷惑がかかるのかと正確に明記する。
私が思うに、「公にするのやめてください」といわれてやめないような人間はそれをすることによりどこに迷惑がかかるのかイメージがわかないのだ。
よく「この界隈や、公式に迷惑です」と簡潔に注意する人もいるが、それだとどう界隈と公式に迷惑がかかるのかがわからない。
だから優しく詳しく教えてあげるのが最適だと思われる。
そうすればきっと正しく理解してもらえるはずだ。
そして、もう1つ私が引っかかったこと。
「不快だ」
「隠れるべきだ」
という言葉が使われること。
しかし、その不快なものが「好きな人たち」からすればどうだろう。
好きなキャラを他のキャラと恋愛させようと、おいしいもの食べさそうと夢主と絡ませようとレ〇プしようと包丁で刺そうと、本当に考えるだけなら自由である。
100%公式ということ は絶対にない。それが二次創作というもの。
100%公式ではないものの、自分の好きを不快だと踏みにじられてはあちらだっていい気持ちはしない。
そんなことしたら、同人マナーを理由に誰かを傷つけているのと同じだと私は考えた。
だからなるべく「不快」「隠れるべき」という言葉は使うべきではない。
「混乱を招く」「密かに楽しむ」など、相手を傷つけない言葉を選ぶべきだ。
公式を守るためとはいえ、匿名でジャンルのファンであること以外明かされない相手に汚い言葉を吐かれてしまえばそれはただのいじめと同じだろう。
さらに晒しあげた者がいなくなれば自分もそのアカウントを捨てるだって?
権利者でもないのに自分は正義のつもりは控えた方がよろしいと思う。
それだけは本当にやめて欲しい。
マナーを守らなくても相手は同じ人間。そんな人間に捨て垢・愚痴垢で素性を隠し汚い言葉をなげかけるなど言語道断。
なので晒しは最終手段の最終手段くらいの覚悟でしてほしい。もっともない事が1番だが。
つらつらと長文を殴り書きしたが、私はこういう同人マナーみたいなのが好きではない。
と、
なのだと私は思う。
権利者ではないいちファンが怒ってるのも好きではないし、検索避けしなくていいよというのも好きではない。
でもここでいっても仕方ないのでしょうね。
もとの記事 岡村隆史、風俗を自粛「神様は乗り越えられない試練は作らない」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200426-00010000-flash-ent
藤田孝典氏の記事 岡村隆史「お金を稼がないと苦しい女性が風俗にくることは楽しみ」異常な発言で撤回すべきではないか
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20200426-00175351/
元の記事では、岡村氏はコロナが収束したらかわいい女の子が入店すると予想し、それまでは風俗を自粛してお金を貯めようと言っている。藤田氏はこれを、「お金を稼がないと苦しい女性が風俗にくることは楽しみ」と言い換え、岡村は野蛮で下劣な社会を待ち望んでいると翻訳している。
アベノマスクに不良品が多い理由なんだけど、なんとなく理由が想像付く。
受注したのは興和、伊藤忠商事、マツオカコーポレーションと報道が出ている。
https://www.asahi.com/articles/ASN4P6GRPN4PUTFK022.html
前2社は総合商社で、マツオカはアパレルOEM;どっかのブランドや服屋から受注して東南アジアの現地会社に作らせて納品する業態だ。
で、アパレルOEMはいつも同じ現地企業と取引してて品質管理も継続してやってる。だからこういう事はちょっと起こりにくい。
なので総合商社経由の納品分がトラブってるんだと思う。
幾ら総合商社と言っても急にガーゼマスク数百/千万枚とか用意できる訳じゃない。そういうルートを持ってるわけじゃないから。
専門商社というのは沢山あって零細で個人経営のバイヤーと区別が付かいのまである。スポットなのでそういうところに下請で頼んだのじゃないか?
15~20年前に対中貿易が拡大した時に対中貿易商社が沢山出来たが通常、商社は国内販路を持たない。だから製造業や流通業に営業に来る。
それで腰をすえて商品OEM化するんじゃなくてスポットで雑貨やノベルティグッズを依頼してみるか~なんてのが流行ったのだが、この時問題になったのが不良率の多さ。
不良率なんて1%以下とか思ってしまうのだが、この手のスポット取引で送ってくる商品では6割とかとんでもない不良率になったりするんである(特に電気/電子デバイス)。
そうなると商社の営業は呼び出され「これどうすんだよ、出荷できないよ!」となる訳なんである。
それで出荷停止して全部大元の倉庫に戻して全数検品、検品費用は商社持ちなんて事が続出した。
要するに向こうの工場が誠実に西側基準で検品してくれるかどうかというのはスポットじゃ判らない。取引先が近くで担当が怒鳴り込んで来ない場合は手を抜かないかどうかは不明なのだ。
そして日本で検品するとコストが大変にかかるんである。オフショアの意味がない。
今回の汚損アベノマスクはこれに引っ掛ったんじゃないかなという気がする。
または総合商社じゃなくて上の例のような取引ばかりやってる個人経営に近い商社に投げていて、その会社がオトモダチ(笑)経営とかかもしれない。
だから日本で検品するようになると更に数億円増し積みになったりするかもね。
あと忘れられてるが、貿易で虫の混入って防疫上マズイよね。だから税関が抜き打ち検査重点的にやるハメになって更に時間がかかるようになるかもしれない。
創案進言したのが通産省官僚だそうだが、普通はこの辺の、スポットでかき集めた場合に起こる貿易問題の機知があるはずだけどそうじゃない人なのかもね。
きっと誰かがもう考えてることだと思うけど、人の心もエントロピー増大させようとしてるのでは?
エントロピーって「乱雑さ」と捉える事が多いけど、言い換えれば「偏りなく平均化されているか」みたいなこととも言える(よね?調べたら情報系だと平均情報量をエントロピーというらしい。関係あるか知らんけど)
人類はどんどん住むところを広げて、今は世界中あらゆるところに住んでいる。
ダイバーシティであらゆるタイプの人達が活躍できる世の中にしようとしている。
情報を広げる手段はどんどん発達して、インターネットで世界中に発信できるようになり情報の偏りができにくくなった。
生物が本能で子孫を残そうとするのは、原初の生き物の元になった分子が自己複製の性質を持っていたからだという説があると聞いたことがある。大元の分子が持っていた性質が本能として残っている。
エントロピーだって、物理法則で「エントロピー増大の法則」があるんだから、生物の本能として残っていたっておかしくない。
生き物自体がエントロピーを減らしている存在ではあるけれど(いろんな分子・原子が機能を持つために無理やりその形を取らされている)、もしかしたら分子原子だけではない概念としてエントロピーが増大できるように最適化されているのかもしれない。
人は集落を作り固まって住む性質があるけどそれは生存本能とのトレードオフの結果そちらが採用されているだけで、もし生きるのに支障がなければあらゆるところに偏在して固まることなく孤独に生きたほうが落ち着くのかも。
現代になり生活が楽になるにつれ、核家族化など小クラスタ化して単独で生きる人が増えているのは自然な変化なんじゃないだろうか。
俺と弟は6歳歳が離れていて、それぞれの年齢でそれなりに社会環境は変わっているのだけど、学校という大元のトンネルはそんなに変わっていない。弟の小中のクラスに問題児がいたわけでもないし地雷教師を引いたわけでもない。弟は俺とほとんど同じ道を過ごした。小学校は同じ、中学校は同じ地区の公立中で、俺の通っていた公立中より評判がいい。
なのになぜか成績という面では色々違いすぎて、俺が偏差値六十くらいの高校から早慶まで行けたのに対して、弟はこの春から偏差値四十くらいの高校に行くことになった。毎年marchが出るか出ないかくらいの学校なのでドン引きという感じである。
弟と俺で小中ほとんど一緒なのに何が違うんだろうと親と話をした時に、結局のところ保育園がかなり違ったんじゃね、という結論になった。確かに俺の通っていた保育園は結構手厚い保育をしてくれるところで、子供8人に保育士一人くらいだった。交代制でうまく回してたと思う。俺の人生の最初のステージであの保育園に入れたことはこの上ない幸福だと思っている。
それに対し弟の通っていた幼稚園はかなり放置気味で、子供25人に大して保育士一人みたいな環境で評判はかなり悪かった。ハサミを振り回している子供が普通にいるみたいな環境だったらしくその環境が絶対的に違うんだろうと感じた。幼児保育ってかなり重要