はてなキーワード: 反抗期とは
少し前から母は「手をかざせば病気が治る。病院は人間を薬漬けにして金を貪っている」と度々息巻いていた。その日は日曜日だったので家でゴロゴロしていると、突然「今からセミナーに連れていってあげる!」と外出を促された。
「興味がないどころか普通に気色悪い、キモい宗教ぽいし。」と言うと、母は「宗教じゃない!!」などと烈火のごとく怒り出した。こちらも反抗期真っ盛りだったのでバチバチに言い争った。雌雄を決したのは母の「来ないなら今月お小遣い無しだから!!」発言だった。当然反論したが、バイトも出来ない中学生にとってお小遣い無しは非常に堪えるものだった。
セミナー会場は民家と少し離れた山の麓にあった。中へ入ると広いホールがあり、他の参加者は50人ほどで老若男女様々だったが私が最年少だったように思う。まず分かったことは、この集まりは「新規信者獲得キャンペーン」ということだった。既存信者1名につき最低でも1人は知人を連れてこいというノルマだ。母は社交的な性格だったので友人は多いはずだが…。
司会者の挨拶が終わると、突如「では皆様、宇宙の創造主、天主様への祈りを捧げましょう」と言い出した。その後「我々の事をカルト宗教と呼ぶ人がいるが、それは全くの誤りです」と言っていた。次に壇上に男女5人ほどが上がり、「生まれつきのひどいアトピーがハンドパワーで治った」「それまで何年も病院に通っていたのがバカみたいだった」「病気が治って運気も上がり良い会社へ就職できた」「家族の癌が治って家族仲も深まった」とそれぞれが笑顔で語ると会場全体が拍手に包まれた。
セミナー開始前は「本当にパワーなんてあるの?」と不安げな様子の人たちも数人いたのだが、そんな空気は完全に消えていた。周りを見渡すと皆一様に笑顔で話に聞き入っていた。「何でも治るんだ!」「すごい!」と顔を見合わせて笑う人たちもいた。ああ皆洗脳されたんだ、とすぐに悟った。すぐにでも会場を飛び出したかったが、山の麓でバスもなく母の車でしか帰れない状態だった。そもそも会場を飛び出たら、信者たちに囲まれ、取って食われるのではないかという思いもあった。当時14、15の子供だった私にはこのセミナー会場が異世界や魔境のように思えた。私もしっかり心酔したように取り繕って、セミナーの終わりを待つより他には無かった。母がカルトにはまった理由が今なら分かる。兄が病弱で1年ほど入院していたことがある。それがちょうどこの頃だった。ちなみに70万円の受講料でハンドパワーを得られるそうだ。
セミナーから約1年後、叔父が亡くなった。末弟で歳が10ほど離れており、世話焼きな母はそんな弟をとても可愛がっていたらしい。叔父はまだ若かったが、癌が見つかったときには相当進行していた。母は叔父の病室で手かざしを行い「癌はこれで治るのよ」と病室にいた叔父の奥さんにも言ったようだ。当然そんなものの甲斐もなく叔父は亡くなった。奥さんは年も離れた義姉の奇行に何も言えなかったのだろう。葬式後、奥さんは私たち(=叔父家系)とほぼ絶縁状態になった。それでも母は甥っ子(叔父の子)を不憫に思い、クリスマスには甥っ子宛にお菓子を送ったりしていたが一度も電話すらかかってこないと言う。
今も母の洗脳は解けていないどころか、今度はコロナはただの風邪やら人類削減のための人工ウイルスやら支離滅裂な事を言っているが、もう私も疲れ果ててしまったので放置するより他には無い。最近は母が死んだら葬式には一体誰が来るのだろうかとふと考えてしまう。
街中で小さな子供連れの家族をみるたびに、「かわいいな」と思う反面、「自分には縁がなかったな」と言い聞かせている。
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私は45歳で、彼女はもうすぐ40になる。
数年前、そろそろリミットだと思って、「子供をつくるかどうか」で話し合った。
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私は幼少のころから病弱で、その原因のひとつは、両親からの適切な愛情不足だったと自己分析している。
親に叱られたり兄弟にいじめられたりすると、「自分がいなくなったらみんな悲しんでくれるかな」と布団のなかで泣いて、自分がいなくなることを想像した。
体育はしょっちゅう見学していたし、毎年、いろんな原因で入院した。
中学に入り、部活動をするようになってからは身体も丈夫になったけれど、反面、殻にこもるようになった。
学校では明るくふるまっているけれど、家ではほとんど話をしなかった。
兄弟もいたが、上は反抗期を迎えていたし、下は年が離れていた。
そして異性に逃げるようになった。
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異性と話をするのは楽しかった。
同性みたいに下品だったりマウントの取り合いにならないので、幼少のころから女の子とは波長があった。
多数の子と関係をもって、30代の中盤で、今の彼女と同棲した。
知らないだれかと一から恋愛することに疲れていたし、結局のところ、セックスのパターンはそれほど多くはないのだ。
同棲してから浮気は一度もしたことがない。風俗も。(別にここで嘘をつく必要はない)
それまでは職も転々としていたけれど、彼女に出会ってからは定職についている。
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自分のようなつらい幼少期を送らせたくないし、そんなのは私ひとりでたくさんだと思っていた。
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ある程度の幸せな幼少期を送って、結婚して子供をつくっている、もう一人の自分。
おそらくは、こういうのは誰にでもあるんだろう。
「あの大学に入っていたら」「あの会社に入っていたら」「あのプロジェクトに参加できていたら」、
それに縛られて身動きがとれないわけじゃない。
ただ、街中で子連れのカップルを見たときに、ふと、男性のほうに自分を重ねて、女性のほうに彼女を重ねてしまうのだ。
もう45だし分かっている。人生は、死ぬまでの時間は、案外短いのだ。
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彼女は、思春期にいじめにあっており、それがトラウマで、今でも他人とのコミュニケーションが(特に同世代の女性とは)あまりうまくない。友達もほとんどいない。
だから子供を産んでも、その後の付き合い(保育園でのママ同士とかの、そういう大人の付き合い)が心配だし自信がない、だから子供はいなくてもいい、と言った。
「子供は授かるものなんだよ。神様が与えてくれる。だから子供の出生に対して責任をもつとか、そんな大それたことは思わなくていい」と友達に言われたけれど、
子供ができて、その子が我々のように苦労したりつらい目にあうかもしれないと想像すると、どうしても簡単に進めない。
「一人産んだ。もう一人ほしい」と笑顔で言っている人たちが眩しい。
でも、その眩しさも、私たちが年をとればとるほど、薄れていくのだ。
でも、もう一人の自分は、きっと笑って子供を抱っこしているのだ。
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他人が子供をつくることに異論はない。生命の誕生を肯定できるだけの歴史をもっているのだろう。
そのことに対して「うらやましい」と純粋に思う。
紆余曲折もあっただろうけれど、でも、最終的に子供をつくるという選択肢を選べたことに対するあこがれは、やっぱりある。
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暗い気持ちでこれを書いていない。
なんだかんだ言って、悪くない人生を歩ませてもらっている。
まあ多少問題はあれど、姉妹揃って一人暮らしで大学進学させてもらえる家庭で育った。親がADHDぽかったりで衝突はあれど祖母含めて旅行するし、家族LINEだってある。
けど、親と姉が私を愛してるくらい三人のこと愛せていないなーと思って怖くなる。
身内に対して近いということが理解できないし、身内だからコントロールしあえる感覚もわからない。大人だからほっといてっていう永遠の反抗期かと思ったけどそれもそれで微妙にズレてるみたいだし。
そもそも三人と恐ろしいほど価値観が違う。母親からは就職したときに結婚結婚結婚と言われたけどその頃すでに自分のセクシャリティに気づいていたから就職の次の人生のステップは死だった。
そうこうしてるうちに鬱になりここ1年ほど自殺未遂を繰り返している。
親も姉もとても愛を込めて私のケアをしてくれるが、どうしても「私のことを放っておいて欲しい」という気持ちが消えない。端的に言えば忘れられたい。
希薄な、吹けば飛ぶような友人関係だけ私にあれば、私は今すぐ死んだって誰も傷つけることがないのに。
私が自ら命を絶つことで傷つけることはわかるのに、そこに何かを返すどころか愛を捨ててくれない相手に腹が立ってくる。
こういう家族愛が希薄な場合は機能不全家族のパターンを見るが、じゃあ私はなんなのだろう。まあ、私自身が機能不全を起こしているのだろう。
https://twitter.com/wm_matsuri/status/1533992174316310528
こういうツイートがバズっているので
高校のころ両親と教師両方の言うことを聞いて、親や教師の意に沿うよう模範的であろうと努めてきました。
一方で両親と教師の言うことが食い違うことも多々ありましたが、その時教師の言うことに従うと「お前は(自分たちの言うこと聞かないから)寮に送るよ」と脅されました。
確かに学校でも家でも模範的に過ごさなければなりませんでした。自分はそれが怖くて怖くて、でもどうしていいかわからずに堂々巡りを繰り返していました。
ただ、家では寮のような決められた生活時間がなく自由に使えることや、寮では一切プライベートがなく常時同年代に監視されていることを鑑みると、寮送りだけは避けたかったです。
親の意向に沿わないからすぐ子供を捨てるというのは、子にしてみれば天地がひるがえるほどの恐怖体験です。自分も寮に送られたら自殺していたと思います。
もちろん現実には虐待する毒親も多々いますし、自分の経験を安直に敷衍するのは危険なのは百も承知です。
ただ、こういう「親に捨てられること」に激しい怯えを感じる人がいたということは心の隅に置いていてほしいです。
正直自分は幼児期から出来が良くて勉強もすごくできたけど、親、特に母親からは手放しに褒められた記憶なし。自分の子どもの出来が良いことに喜ぶようなそぶりもなし。
どんなに良い成績を獲っても、一番ましな時で「あんたの100分の1でも○○(弟)ができたらね」と疲れた顔で言われた記憶しかない。悪い時は「成績が良いからって調子に乗るな」と言われる始末。
小さい頃から「生意気だ」「育てにくい」「贅沢」「気が強い」「わがまま」と言われ続け、小学校高学年になった頃には反抗期で親との関係は悪かった。
ずっと成績は良かったけど、相変わらず良い成績を獲っても特に誉められず、常に「扱いづらい娘」という空気を母親には出されていた。
「あんたがいくら勉強できても、○○(弟)の方が優しいし、人間そっちの方が大事」みたいなことを何回か言われたこともある。
母親は精神疾患持ちで、物心ついて以降少なくとも小学校の時、高校の時の2回長期入院。
特に高校の時は反抗期で荒れていた自分のせいにされているような空気を感じていた。(実際の原因は職場にあったよう)
母親からは妄想も入り混じって時には暴言吐かれたし、こちらも相当なことを言っていたと思う。
他の親が当たり前にやってくれる様々なことはやってくれず、他の親が関心を持ってくれること(成績とか)には全く興味がなく、ただただわがまま言わずにとにかく大人しくしといてくれ、としか思われていない感じがずっとしていて、辛かった。
弟の軽度知的障害も母親の精神疾患も恥ずかしかったし、障害の有無関係なく弟のことは人間的にあまり好きになれなかったし、今もなれていない。
そんな家族が嫌で早く出ていきたくて、勉強して良い大学に入って良い企業に入ってお金を稼いで家族とは物理的にも精神的にも距離を置けることを願っていた。
離れてからは母親との関係も改善して、たまの里帰りは楽しくできるようになっていた。弟の存在はやっぱり嫌で、両親亡き後のことを考えると本当に気持ちが暗くなって、自分が一人っ子だったらどんなによかったか、とよく思うようになった。
問題ばかりの家族で最悪な環境だったと思っていたけど、弟さえいなければ両親のことももっと好きになれたし、普通にまあまあ良い家族になれたんじゃないか、と何度となく夢想した。
子どもが出来た時は弟のこともあり、遺伝カウンセリングが胎児エコーなどできることはなんでもやった。
今のところ子どもは健常で、幼児期の自分と同じように周りよりも発達が早くて賢くて自慢の子どもだ。
自分に似て気性が荒いところもあるけど、そこも含めて本当にかわいくてかわいくて仕方がない。
自分の子どもを育てるうち、自分には母親に手放しで可愛がられた記憶が一切ないけど、もしかすると弟が生まれるまでは自分もこんな風に愛されて可愛がられていたんじゃないか、と思い始めた。
確かに自分に子どもが2人いて、そのうちの1人は平均よりもずっと勉強ができるがもう1人は知的障害でごく普通の人生さえ送れない、という状況だったら、どんなに平凡でも2人ともに「普通」であってほしい、と願うかもしれない、とも思った。
自分の子どもに障害があるかも、という状況でその不安を隠して上の子を愛情いっぱいに育てられるようなキャパは確かに母親にはない。
もし知的能力が移譲可能な世界であれば、私は弟に足して2で割った差分を譲るべきなのか。
幼児期の私の気持ちはどうなるのか。小学校の時の私は。中学高校の私は。
頑張っても親に褒められず喜ばれず、何をしても疎ましそうな顔で見られ、二言目には「贅沢」「わがまま」「上を見過ぎ」と言われる。
今、褒められないながらも勉強を頑張ったおかげで、社会的にはまあまあ成功している部類だと思う。子どもの頃散々親に言われた「贅沢」で「上を見過ぎ」な生活を送っている。
親は、そんな言葉をかつて娘に投げかけたことは綺麗さっぱり忘れ、高学歴で社会的に成功している娘家族を、昔からそうしてきたかのように褒め、出来の良い孫を褒め、手放しで可愛がっている。
ただ、今どうしても許せないことがある。
人並みの親孝行として両親を家族旅行に誘うと、当たり前のような顔で弟も連れてくる。
良い大人なので、連れてくるなとは言えない。
でも、小さい人間だと言われるかもしれないが、最悪だった家族環境で努力して手に入れたこの私の幸せな家族に、両親は屈託なく参加し、そこに私が嫌っていることを間違いなく両親も知っている弟を平気な顔で毎回連れてくることが許せない。
弟が一人で留守番できないということはなく、両親が私の家に泊まるような時はさすがに連れてこない。
両親はあまり出来た人たちではないので、この気持ちをぶつけてもオロオロするだけだということはわかっている。
両親は両親でかわいそうな人たちだということもわかっている。
自分達には手に余る障害児育児に苦しみ、上の子の反抗期に苦しみ、自分や妻の精神疾患に苦しみ、という時期を経て今は子育ても仕事も落ち着いて、孫も可愛くて、幸せそうにしている。
そこに水を差すのは心苦しい。
でも、幼児期からのこの自分の苦しみを、誰にも言わず、自分だけの中にとどめておくのが辛い。
両親にぶつけたいと何度も思ったけど、もう老い始めているあの人たちから納得のいく弁明を聞けるとも思わない。
ただただ辛い。
旅行に弟が来なければ、ただの親孝行としてこちらも楽しめるのに、と思う。
これからも弟を連れてくるのなら、もう二度と行きたくないと毎回思う。
連れてこないでほしい、と言うことがどんなに大人気ないことかもわかっている。
どうしたらいいのかわからない。
https://togetter.com/li/1884669
といっても、最初の方を1分程度眺めただけで、あとははてぶコメントで推測・補ったという程度なのですけれど。
そのお嬢さんは、スマホ依存なのでは・・と感じます。そして、性依存になる可能性もゼロではないのではと心配になってしまいました。
本や体験談などを聞くと、根底にあるのは「不安」や「寂しさ」です。
愛情が向けられているか不安になり、寂しさを埋めて欲しいからSNSや出会い系等を利用しすぎてしまうのだと解釈しています。
心配している。と。
言葉にして、そしてお嬢さんが嫌がらなければ、一緒にお食事をしたり外出をしたりして楽しい時間をともに過ごしてください。
勿論、一方的な押し付けになってしまっては逆効果ですし、難しいとは思うのですが。
ただ、提案して、そして嫌がった場合に、その意思を尊重してもらえた。そして自分のことを好いてくれているから提案したのだと感じることはできるでしょうし、無駄ではないと思うのです。
なにか好きなもの(個人的には、お菓子やケーキよりお料理お惣菜だったら素敵だなと思うのですがw)ないか?あったら一緒に食べないか、とかそんなやりとりをして、関心を持っていると愛情を分かりやすく伝えてあげて欲しい。
見知らぬ相手に年齢詐称して会うリスクを冒すというのは、寂しいのではないかと、自分の体験からも思うので。
自分も反抗して自傷行為や軽い家出、売春未遂(というのも変ですが)を沢山行いました。
そして上記のは、例えば自分がそれくらいの年の頃にこういう暖かい言葉がけをもらっていたら嬉しかっただろうなと夢想しながら書いてみました。
最初は拒絶するだろうけど、気にかけてくれているんだと少し喜ぶ、幼い子供の自分を想像して。
それも太っていていわゆる太鼓腹と言われるようなだらしない男性が大好きだ。
どうしてなんだろうと思っていた。そして最近ふと気づいたことがある。
自分のことを振り返ってみて、私は両親に甘えられていただろうか。
そりゃあ経済的な意味ではさんざん甘えていたと思うし、そこは否定をするつもりはない。
でも私が言いたいのはそういうことじゃない。
今は一人暮らしをしているが、私は実家でも誰に言われたわけでもないのになぜかいつもいい子でいようとしていた。
なぜか実家なのに本当の自分を出すことはあまりせずに(自分で思う)いい子の演技をして自分で自分を苦しめていたように思う。
いわゆる思春期の反抗期に反抗していないとのちのちになって問題が起こるらしいが、私も反抗期に反抗していなかったのでこれがその問題なのかもしれない。
私の父親はいつも別の部屋にでテレビを見ていた印象しかない。物静かでほとんどしゃべることはなかったし今でもよく知らない。
父は太ってはいないし少し瘦せすぎなほどだ。