はてなキーワード: 初詣とは
大みそかに友達とカウントダウン飲みしたのと、初詣に墓参り、2日の初売り以外はずっとシャイニングレゾナンスやってた
そういやおもち食ってないな
スペースの都合で何度か折り返しながら並んでいたんだけど、
その折り返し地点で「どこから並べばいいのかなー」みたいにキョロキョロしながら取り付き、そのまましれっと居座ってた。
自分は横入りを許せない質なので、二人組の内の自分の側にいた爺さんは注意して列から出させたが、
もう一人は自分との間に他の人がいたので割り込まれた人に任せよう、
あるいは注意された爺さんが婆さんを止めるだろうと思ってたら、
割り込まれた人も爺さんも注意することなく、婆さんはそのまま参拝まで漕ぎ着けてしまった。
とても寒くて雪まで降っていた元日のことなので、なおさら腹がたった。
「奇妙な」というのは、その二人連れの爺さんを止めても爺さんと婆さんの間で全く意志疎通がなく、
婆さんは脇目もふらずに並び続け、爺さんはしょんぼりしながら焚火で暖を取りながら待ち続けてたこと。
もちろん、一緒に帰るところまで確認したわけじゃないから他人だった可能性もあるけど、
だったら爺さんがあの寒い日に暖をとって待ってたのが説明つかないし、
婆さんの参拝が終わって気が付いたらいなくなってたし。
何だったんだろう、あの老夫婦。
場所は、埼玉県と山梨県との県境に近い山中。山頂付近に社殿があるもんで、標高もかなり高い。
幸いにも上のほうまで道路が通じているので、クルマでも行ける。
でも今回は、路線バスで行ってきた。雪降ったり路面凍結したりで、事故るのやだったから。
西武秩父駅から1日5本(平日は3本)しかない路線バスに乗って、75分!で着く
…はずだった、定刻なら。
初詣客やら登山客がいっぱいで乗り降りに手間取るのはしょうがないとして、
バス停に着いてから両替しはじめるグダグダな客がいるのも諦めるとして、
マイカー参拝客の駐車場待ちのせいで、あと1kmってとこでバスが渋滞にはまって止まっちまったのには参った。。。
バスの運ちゃんも「お急ぎの方は、降りて歩いたほうが早いかも」ってアナウンス。
みんなわらわら降りて歩き始めたんで、うちらもさっさと降りて自力で歩く。
「熊谷」「所沢」、なかには「宇都宮」「多摩」「足立」なんて車を見ながら、
この時はまだ「あーバスで来てよかった。クルマで来たら、駐車場待ちで何分かかったんだろう」
なんて思ってたんだけど、本当の悲劇は帰る時に起きた。
行き(登り)のバスが渋滞にはまってるんで、折り返しの帰り(下り)のバスが全然来ないわけ。
そもそも本数少ないバスだし、山の一本道だから別ルートでバスを回送するわけにもいかない。
目の前に並んでるマイカー連中がさっさと参拝終えて出てってくれない限り、バスは来ない。
15:20 バス停で並び始めた
15:45 バスの発車時刻のはずだが、バスは来ない。この時はまだ楽観ムードが漂う。「しょうがねぇよ渋滞だもん」
16:00 ちょっと先まで様子を見てきた人が「ぜんぜんバス見えないよ」
16:15 足元からじわじわ冷えてくる。駐車場のクルマの誘導方法にケチをつけ始める。
16:30 日が沈み、太陽の光が届かなくなる。急に寒くなる。足がかじかむ。太陽って偉大だな。
16:40 中国の九寨溝で、国慶節に観光客が殺到して数千人が取り残されたニュースを思い出して、最悪のケースをシミュレーションし始める
16:45 遠くに路線バスのオレンジ色に輝くLED案内表示板がちらっと見える。。。あぁ助かった。
16:50 バスが反対車線を逆走して渋滞をバイパスして到着。結局1時間10分遅れで折り返し発車。
おい、その技さっさと使えよ。
さっさと追い抜いて逆走して来いよ。
いや、バスの運ちゃんを責めるのは酷か。反対車線のクルマとぶつかっちゃまずいし。
<しまなみ海道>乗用車が軽と衝突「携帯触ってた」4人死傷(毎日新聞) - goo ニュース
路線バスと正面衝突=5人死傷、路面凍結―広島(時事通信) - goo ニュース
<横転事故>軽乗用車の男女2人死亡 九州道(毎日新聞) - goo ニュース
暦が変わることになんの意味があるのだ。
それらの誤差(人が勝手に誤差と呼んでいるだけで、天体にはそんなこと言われる筋合いはない)をうるう年、うるう秒でごまかしている。
ちなみに現在西暦と呼ばれているものはグレゴリウス暦で、太陽暦はほかにもある。多くの国と地域でグレゴリウス暦が使われているのは、単に都合が良いからだ。
代わって日本。
百五十年前まで太陰暦(これも種類があって時々朝廷が変えていた)を使っていたではないか。維新後も皇暦、和暦、西暦を併用していて、田舎だと普通に太陰暦を使っていた。もう滅茶苦茶である。
そんな混沌と暦が入り乱れてきた歴史を持つ日本で、いきなり西暦の節目を『祝え』というのは無理がある。
おせちも謎だ。
あの重箱には『昔ごちそうだったもの』がこれでもかと詰まっている。
かまぼこや田作りのどこかごちそうなのだ。寿司・ピザ・ジャンクフードの方がよっぽどうまい。
今でも地方に行くと『死ぬほど甘い料理を作るババア』がいる。人間国宝にすべきだろう。
初詣も謎だ。
お前は氏子なのか。この神社にどんな神様祀られてるか知ってるのか。絵馬に『にこまき』の百合絵を描く……のは許す。
落とし玉も謎だ。
老人が孫に年玉をやる姿は一見微笑ましいが、あれほど偽善的な光景はない。
社会保障の世代間格差は一億円程度。試算によって前後するが、とても年玉で埋められる額ではない。任侠映画でしか見たことのないような札束を孫に渡すべきである。
自分はどうしようもない愚か者でクズだと思う。イエスをキリストとして信じているにもかかわらず、その信仰を行動で表そうとはしない。もし私が本当に信仰を持っているのだとしたら、家族や友人からの初詣の誘いのようなささいなことは即座に断るだろう。あるいは、初詣に行ったところで参拝はしないと明言するだろう。結局のところ、わたしは自分がキリスト者だと思われるのが恐ろしいのだ。今までひとつの共同体の中を生きていると考えている親しい人々と私との間に溝ができるのが怖いのだ。街中でイエスの教えについて拡声器で演説し続けている街宣車に対する人々の目が私にも向くのが怖いのだ。
イエス・キリストは剣をもたらすために私は来たのだとおっしゃった。教えを実行しないものは砂上に楼閣を作るようなもので、いつか崩れ去ってしまうのだとおっしゃった。私は今年も自分の臆病のために信仰を曲げ、自分のこれまでの思いを砂のように散らせてしまうのだろう。三度目の信仰の死を経験してなお、私は改めようとはしない。
嬉しそうに話す人をニュースでよく見かける。
私は独りでコンビニで買ってきたビールを飲みながら笑顔で答える人を見ている。
年末年始を誰かと過ごす人が正直羨ましい。
私もこんな風に、華やかな着物着て盛り上がりたい。
華やかな各局の特番が一層心に突き刺さる。いかに通常番組が大切かが分かる瞬間だ。
私には友人と呼べる人がいない。もちろん、恋人もいない。
漫画とか見てると、主人公の女の子が独り寂しく年を越そうとしていると突然携帯が鳴って、片思いの男の子から「初詣行こうよ」なんて誘われ、頬を赤らめ、いそいそ出かける主人公が羨ましい。
今年で30歳になる私は某バラエティーを見ていつの間にか年を越し、そのまま何となく眠りについて元日を迎え、ダラダラ過ごして、仕事はじめを迎える。
そんな年末年始を今年も過ごすんだろうな。
いっそ仕事してた方が心が休まるよ。
年末年始の華やかさが独り身の心に突き刺さる。
誰かと一緒に過ごして「あけましておめでとう。今年もよろしく」と言いたいな。
母は仏壇の花が萎れてきたらスーパーの花で補充するぐらいには信心深いが、
オレは帰省中に母に頼まれたら水を変える程度、
驚いた。
「◯◯家嬰児」と書かれた項が、年月日付きで4つもあった。
一人目は、兄と姉が生まれた間。
兄は間違いなく婚礼初夜で仕込まれ、姉の誕生日はその1年10ヶ月後。
オレは姉の二歳半下だが、オレが生まれる前に二人。
さらにオレが生まれた翌年に一人。
憔悴した母がポロッと口に出した。
母からは、かつて父は薄給で暮らしが大変だったことを何度も聞かされたが、
年老いた母に今さらそんなことを尋ねて苦しめるつもりは毛頭ないが、
兄に何か知ってるか、聞いてしまうかもしれん。
http://anond.hatelabo.jp/20140601161827
追記
「嬰児」と書いてあったように思う。
4件ともそれらしい戒名もあった。
出生届は提出されていないはず。戸籍に記載がないので。
追記の追記
「嬰児」の使い方が間違ってる!とドヤ顔のブコメがやたらと目につくが、
「オレが生まれた前後に親が記したことを、オレがここに書いている」、
という文脈が読めてない輩が多いようだ。
オレも記憶に頼って書いているところはあるが、
少なくとも「水子」とは記されていなかったのは確かだし、
戸籍に記載がないのも間違いない。
戒名もちゃんとついているということは
id:gazi4 記憶違いだったらアレだけど、位の高い戒名を貰うために「嬰児」にする風習があったとかあったような気がする。
この辺りが真相ではないか。
最近LINEがならなくなってきた。たくさんいた毎日LINEする女の子たちにぞんざいな態度を取り続けていたからだ。
もういい加減にしよう。別に結婚今すぐしたいと思ってないことを自覚しようと思った。
この間の3月に30歳になった。20代最後のクリスマス、お正月はかつてない気合の入り方だった。毎日いろんな女の子を取っ替え引っ換え。三が日なんて五回くらい初詣行った。
二月。バレンタインはそこそこに、誕生日を一緒に過ごすべき人がいないことに気がつく。
誰でもいいのか?誰でもよくない。どいつがいいんだ?どいつもよくない。今年もパートナーになりたい相手に巡り会えなかった。
そう思っていた3月。
四月五月遊ぶだけ遊んで、ようやく気がつく。別に結婚今すぐしたくない。いくら顔がかわいくても、乗っかかられるのは嫌だし、専業主婦希望なんか犬に噛まれて欲しいと思う。
8ケタ毎年稼いでるけど、掃除洗濯ゴミ出し自分でするし、料理もたまにする。そんくらいはできる。いらないって。
もう喉元すぎた。花粉症みたいなもんだ。結婚して幸せそうな人たちのことは羨ましいと思う。でもそれは素敵な出会いが羨ましいんであって、結婚というステータスがうらやましいんじゃないんだ。
30超えたし、もうおっぱいが大きいとか顔がかわいいとかじゃもう男は恋しないんだぜ。年々理想のタイプがよくわかんなくなってる。詰んだわ。
22歳の時に一部上場の自動車部品メーカーに入社し、首都圏で働いている。
「俺」に東京を案内してもらいたいと言って、土曜から今までこっちに来ていたからだ。
日光の温泉旅館に泊まりで出かけて。まあただ泊まっただけなんだけど。
絶対口説けると思って、新幹線の改札前で別れ際に付き合いたいと言った結果が
「そういう対象に見られない」
返事を聞いた瞬間に湧き上がってきたのが、「残念」というよりも、「またか」という感情。
「ドキドキしない」「優しすぎる」「いい人すぎる」「お兄ちゃんみたい」
残業代や住宅補助、出張手当なんかを入れた年収は額面で500万を少し超える。
初対面の人にアメフト部とか柔道部出身とか聞かれるようなガッチリ目の体型で、
野太い声をしているので、外見は非常に男らしいと思う。
学生時代にはフリーペーパーにファッションスナップが載ったこともあるので、
それなりにおしゃれなんだろうとも思う。
18の時に一人暮らしを始めてからというもの、最低でも月に1度は女の子とサシで遊んでいる。
初詣に花見に、ドライブにハイキング。海にプールに冬山でボード。
カフェにバーにイタリアンにフレンチに。スポーツ観戦に花火大会。映画にコンサート。
やることをやるのをのぞいて、おおよそカップルがするような遊びまでは一通り経験できてんだよ。
それなのに、誰とも一線を越えられない。
お断りの理由から察するに、フェロモンが出てないとしか言い様が無い。どうしようもない。
ブザマすぎる。惨め過ぎる。もうどうすりゃいいのコレ。
昨日今日に始まったことではありませんが、靖国神社のことがいろいろと問題になっています。
私は、日本の首相が靖国神社に参拝することは当然だと思っています。
ですが、それに反対する人もいることはもちろん知っていますし、そういう意見も少しは理解できます。
ただここで考えてみたいのは、首相が参拝することではなく、海外からの評価についてです。
靖国神社は海外でよく「戦争神社(war shrine)」「軍事神社(military shrine)」と言われます。
このような評価がまかり通っていることには、たとえ首相の参拝に反対する人でも抗議すべきだと思いますが、そういう抗議をほとんど耳にしたことがありません。
私にとって本当に不思議なことです。
何が不思議かというと、もし「靖国神社は戦争神社」ということになれば、日本人は年間のべ600万人が戦争神社に参拝していることになるからです。
もちろんこれは初詣でや夏祭り、七五三、結婚式、それにいろいろな祈願のための参拝者を含んだ数字です。
ですが、そんなことを外国人に説明しても、「のべ600万の日本人は戦争神社で新年を祝ったり結婚式を挙げたりしている」と思われるだけです。
最近では、靖国神社を「ヒトラーの墓」になぞらえる声も海外から聞こえてきます。
「初詣では日本の風習だから深い意味はない」と言っても、ドイツ人に「われわれはどんな理由があろうとヒトラーの墓参りなんてしない。日本人は間違っている」と言われればそれまででしょう。
確かに靖国神社は戦争や軍事と深い関係があるので、「戦争神社」「軍事神社」という評価が間違いとも言い切れないところはあります。
ですが、このような理解を聞き流していれば、日本人は「戦争神社」「軍事神社」が大好きな、つまり戦争や軍事を崇め讃えることが大好きな国民ということになってしまいます。
果たしてそれでよいのでしょうか。
以上のことから私は、たとえ首相の靖国神社参拝に反対の人でも(靖国神社を潰せとか誰も参拝させるなとかいう極端な意見の持ち主でなければ)、「靖国神社は戦争神社」という悪しざまな評価には反対すべきだろうと思っています。
ですが、何故かそういう意見はほとんど聞いたことがありません。
もしかして、私の考えがどこか間違っているのでしょうか。
愛宕神社の賽銭がEdyで払えるようになったそうだ(「ついに楽天Edyで払えるおさい銭箱が登場 → ちゃんと御利益はあるのか神社に聞いてみた」(ねとらぼ))が、それで「ご利益があるの?」とかいう疑問自体が出てくるのがおかしい。そもそも賽銭の趣旨と効果を理解していないのでしょう。
いまのひとたちは、何もわからないままにやっているのでしょうか。いや、どうせ昔から、ほとんどの人が、意味不明なままやっていたのでしょうね。
賽銭だとかの趣旨はまず、御礼であり挨拶でしょう。みなさんは、例えば年賀状や御歳暮に御利益を求めるのでしょうか?
御利益を求めて初詣をするだとか賽銭を払うだとかいうのは、大変に即物的で、罰当たりなことだなあと、私は思っています。
それと、賽銭の効果ですが、それは、氏子・崇敬者の基金としての機能です。例えば災害が起こった時のための基金です。
また、江戸時代だとかには、寺社に消費者金融の機能があって、消費者金融なんていうのはぶっちゃけ返済困難な人が借りるわけですが、寺社に資産が多くしかも寄付金でまかなわれている部分が大きければ、消費者金融でも成り立ちうるものではあります。もちろん、いまの時代は、寺社は金融機関をやってはいませんが。ただ、いくらかの寺社は公益活動はしていますね。
そもそも賽銭が貨幣で支払われる時点で、簡易化したものです。ですが、貨幣のほうが、払う方も受ける方も、正直に言って、便利ですから(笑)。その観点で言えば、やはりもっと進んで、電子マネーだろうがクレジットカード決済だろうが、そういうのでも便利ではあります(ただ、トラブルの不安はありますがね)。Edyどころかクレジットで賽銭を払えるようになる可能性もあります、本来は所有権留保の担保機能が求められてきた信販ですが、いまや食品だろうがサービスだろうがクレジット決済対応が進んでいるくらいですから。数千円の初穂料だとか、ときに数万円以上になることもありうる祈願だとか、現金のみっていうのはむしろ不便じゃないのかって話にもなるでしょうし。
それよりも本当に憂うべきは、いまのひとたちは賽銭だとか布施だとかの意味がわかっていないことでしょう。そのように私は考えています。
私はアラサー手前のお兄さんですが、柄にも無く賽銭を入れて手を合わせました。
今だに覚えているのは中学生の頃、今年こそは彼女を作ってヤらせてください、というものでしたが、
今思えばよく天誅が下らなかったと神の懐の深さにマジ感謝です。
そんな私も大人になって、どんな神頼みをしたのかと言えば、今年も健康に留意して過ごします、というものでした。
帰りに露天のバナナチョコを頬張っていると、一緒にお参りした中学の同級生から、どんなお願い事をしたの?と聞かれました。
素直に答えて、子供の頃みたいに神様にお願いするよりも、自分がする事を宣言するようになって来た、という話をしました。
相手は、大人になったね、なんて言ってましたが、そりゃアラサー手前、少しは大人になりますよ。
私が話すこともなくなり、今度は相手にどんなお願い事をしたのか聞いてみると、
「君と付き合えますようにってお願いしたの。でも君と違ってお願いだから子供っぽいね」
といっていました。
私の願い事の結果は分かりませんが、彼女の願いはお参りからわずか15分で叶ったようです。
新年早々惚気てすまん。
そして、大正時代(架空の時代なので漢字表記が異なるが)なので、
これってつまり
なんだろうこう考えたらすごく悲しくなってきた。
なんだこの悲しさ。大神一郎の立場や中身は卑屈なキモオタそのもの(≒私)とほとんど同一ではないか?画面では気のいいヘタレ風イケメンではあるが。