自分はどうしようもない愚か者でクズだと思う。イエスをキリストとして信じているにもかかわらず、その信仰を行動で表そうとはしない。もし私が本当に信仰を持っているのだとしたら、家族や友人からの初詣の誘いのようなささいなことは即座に断るだろう。あるいは、初詣に行ったところで参拝はしないと明言するだろう。結局のところ、わたしは自分がキリスト者だと思われるのが恐ろしいのだ。今までひとつの共同体の中を生きていると考えている親しい人々と私との間に溝ができるのが怖いのだ。街中でイエスの教えについて拡声器で演説し続けている街宣車に対する人々の目が私にも向くのが怖いのだ。
イエス・キリストは剣をもたらすために私は来たのだとおっしゃった。教えを実行しないものは砂上に楼閣を作るようなもので、いつか崩れ去ってしまうのだとおっしゃった。私は今年も自分の臆病のために信仰を曲げ、自分のこれまでの思いを砂のように散らせてしまうのだろう。三度目の信仰の死を経験してなお、私は改めようとはしない。