はてなキーワード: アトムとは
1974年生まれぐらいの人から見て、手塚治虫ってこんな感じに見られてたなあっていう話。
僕が子供の時は各界に権威者つーか、記号みたいな人がいたのね。
美空ひばり=歌うまい、みたいな。石原裕次郎とかさ、リアルタイムじゃ「太陽にほえろ」しか知らんけど、あの固太りのおっさんのどこが恰好いいの?とか思ってても、裕次郎=二枚目、みたいな記号が権威をもってたんですよ。
いまさ、例えば歌姫って言っても、こーだくみも歌姫なら、浜崎だって歌姫でしょ。僕が子供頃だったら歌謡曲の女王ってたら美空ひばり、ミスタープロ野球ってたら長嶋茂雄、いや島倉千代子はどうなの、とか王貞治の方が記録を残してるよとか、そういう異論は通用しなかった時代なのね。
今だって神様だけどさ、もう当時はカテゴリー的には昭和天皇と同じカテゴリーなのよ。美空ひばりとか長嶋茂雄とか、石原裕次郎とかは皇室と同じポジションにいたわけ。
そういう意識を共有して、日本人は共同幻想体をシェアしてたのね。
タクシーに乗ってさ、いきなり運転手が「いやー昨日は巨人が負けて残念でしたね」って話しかけるみたいな、共同幻想ね。そこにはスワローズファンなんて存在しないの。いや、俺はホエールズファンだからなんてのはあってはならないの。石原裕次郎=二枚目ってのを受け入れるのはさ、天気の話をして場をつなぐ友好的な社交を受け入れるってのと同じことだったわけよ。
そういう仲でさ、手塚治虫=神様=天才=善人=医者、っていうさ、そういう受け入れられ方をしてたわけ。世間はアトムとジャングル大帝しか知らんから。
手塚の場合は、まあ、実際に天才だったわけだしさ、裕次郎が二枚目っていうのよりは実態があったけど、僕らの世代は実際には手塚漫画を読んでないのね。アニメは見たよ。
子供が多い時代だったから、しょっちゅうアニメは再放送されてて、「ジャングル大帝」「ふしぎなメルモ」「悟空の大冒険」「鉄腕アトム(リメイク版ね、♪ボクの腕と脚はジェットで空をとーべるー、の方)」「ジェッターマルス」とか観ていた。僕が一番好きだったのは「悟空の大冒険」だけどさ、まあ正直言って、藤子不二雄とか赤塚不二夫のアニメの方が面白かったなあ。
みたいなことを80年代に手塚は言ったらしいんだけど、晩年の手塚は権威を利用して、また新しいチャレンジをしてたね。
僕がリアルタイムで、手塚の「連載」を読んだのは「アドルフに告ぐ」なんだけど、これ、週刊文春に連載されてたんだよ。一般週刊誌だよね。週刊文春読んでる中学生もやな感じだけど、漫画が一般雑誌に掲載されたのは大昔にはあるかも知れないけど80年代の文脈で言えば手塚だけだったね。で、「火の鳥」と「ブラックジャック」がハードカヴァー版で刊行されたんだけど、漫画のハードカヴァー版も多分、手塚が最初。
権威を利用してたけどさ、最晩年の頃の手塚はむちゃくちゃ現役作家でさ、現役作家として再ブレイクしてたんだよ。ま、あの人、現役じゃなかった時代はないんだけど、藤子F先生が「ドラえもん」に専念して、赤塚先生がかろうじてコロコロとかに細々と連載してる中でさ、手塚は社会のど真ん中で新作でブレイクしたんだよ。
その最中に亡くなったんだけど、「アトム期」「レオ期」「どろろ期」「ブラックジャック期」って連続してるけど、それぞれ別の顔、別の座標軸でブレイクしてるんだよ。で80年代にもブレイクの山をもひとつこしらえたっていうかさ、死んだときは神様じゃなくて現役作家だったんだよ。
「ブラックジャック」とか「火の鳥」の名声で食ってたんじゃなくてさ、多くの読者に早く来週の掲載作品を読みたいって思われる作家だったんだよ。
まあ、おっさんのむかしばなしなんだけどね。
39 ソーゾー君 [] 2013/03/01(金) 00:23:23 ID:db0rslLA Be:
しかもそのアカデミー賞を決める組織を設立して資金提供してるのも同じ連中だよ?」
「3sって知ってる?あれはWW2
後の日本に導入された事で有名だけど
欧米ではWW2以前から導入されてる政策だよ?ベースは歪解した聖書=終末論=メシア再臨です。」
草加所属の偉大な漫画家テコキ治虫の「ケツマン♂アトム」なんかもろプロパガンダだろ?
放射能と放射線を撒き散らし付近の人を被爆させ飛び回るケツマン♂アトムw
ホラーだなw
アルカイダ=欧米政府別動体=国連の飼い犬=欧州の銀行 家の私兵
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1359207037/
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1353851390/l50
http://anond.hatelabo.jp/20120405155455
どせいさんはセーフだろ。「リバイアサン」と一緒で、あれで固有名詞。…違うの?
残りはアウト。オタ仲間のジョークとしてセーフ(っつーか余裕で圏内)であるだけ。
http://anond.hatelabo.jp/20120405155619
そう。
オタクの迷惑だとか社会不適合なところといえば、「自分の知ってる圏内の話を延々する、そこから出ない」という特徴が上がる。
ルパン、サザエさん、ドラえもん、アトムやBJ級くらいだったらある程度認知されてるけど、ToHeart2とか認知レベルでは比べ物にならない。知らない人間の方がたぶん多い。
「そいつの他には誰も知らない話」を延々するからキモがられる。さん付とか論外、どんだけのめり込んでんのって話になる。
この点においては作品はあんま関係ない場合もある。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
以下に紹介するのは海外のblogに載っていたクリプトンの伊藤社長と佐々木氏のインタビューだ。ミクノポリスの3日後、ホテルで2人をつかまえて話を聞いたものらしいが、単なるボーカロイドファンの視点にとどまらずエンターテインメント・ビジネスの有り様まで踏み込んだ、なかなか面白いインタビューである。ボーカロイド現象が単なる一部音楽ファンの世界にとどまらなくなっている現状を示していると看做すこともできそうだ。
urlは以下の通り。
http://lorenz-myanime-reviews.blogspot.com/2011/07/interview-creators-of-hatsune-miku.html
初音ミク、及びヴォーカロイド現象がどんなものであるかについて説明する必要はあるまい。ファン、コスプレイヤー、さらに未来の創造者たちは必要なことを既に知っているだろう。だがもう少し深く踏み込みたいのなら、このインタビューも役に立つ。
7月5日、ヴァーチャル・アイドル初音ミクがアニメ・エキスポ2011でアメリカでのデビュー・コンサートを行った3日後、クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之と佐々木渉はサンフランシスコを通りかかった。
・伊藤博之はクリプトン・フューチャ・メディアのCEOであり、冗談交じりに「初音ミクのお父さん」と呼ばれている。
・佐々木渉はキャラクター・ボーカル・シリーズ01初音ミクの開発者であり、ボーカロイド・ソフトの開発を続けている。
ホテルのロビーに潜入したところ、彼らは寛大にもいくつかの質問に答えてくれた。まず……
問:ロサンゼルスのミクノポリス・コンサートはいかがでしたか? 思ったとおりでしたか?
伊藤博之:思ったとおりだったかですって? そんなことはないでしょうね。コンサートは[思った以上に]上手くいきました。
佐々木渉:ファンの期待に添うものを提供できたと思います。何より、あまり「アメリカナイズ」されず、アメリカ風のエンターテインメントとして提供されなかったと思います。それほど洗練されていなかったのがかえってよかったんじゃないでしょうか。
問:コンサートで使われている技術を改良する何らかの形の試みをしていますか?
伊藤博之:コンサートは「完成」していません。まだ理想的なフォーマットは存在していません。あれは手の内の一部に過ぎません。それに観客がどう反応するかについても予想できません。ミクに関連するあらゆるもの同様、実験的な側面があります。
問:初音ミクを使ったトヨタの降って湧いたような広告キャンペーンに、多くのファンが驚かされました。あのコラボレーションは何がきっかけですか?
伊藤博之:計画自体はトヨタから持ち込まれました。私たちは彼らの申し出を受け入れ、いくつかの忠告を返しました。そうやって広告が始まりました。
問:アニメ・エキスポで米国のミクファンと話す機会はありましたか? どんな印象を受けました?
伊藤博之:AX[アニメ・エキスポ]では多くのファンに会いました。彼らはアニメの大ファンだったので、全体的な反応は好意的でした。多くの人が「凄かった、またやってほしい」と言ってました。
問:ボーカロイド・ソフト関連の仕事をする前のクリプトンはどんな会社でしたか? その時からどう変わってきたのですか?
伊藤博之:クリプトンは音に関連したソフトを制作しており、日本国外で製造された音楽ソフトの代理店の仕事もしていました。これらの製品を日本市場のために輸入し、販売し、日本語化していました。ボーカロイドを始めてからはより広範囲なサービスも追加しています。今では大半は初音ミクに関連した音楽の販売、出版、そしてイラストやキャラクター、動画の製作者に対するサービス提供を手がけています。ミク以降、音楽以外の製作者へのサービス提供も始めたことになります。
問:初音ミクの最終版が販売される前に放棄された面白いアイデアや構想はありましたか?
伊藤博之:ええ、衣装や音楽など最初のころには多くのバリエーションがありました。ですが単に充分な時間がなかったため、いくつかの音楽については諦めざるを得ませんでした。
問:初音ミクの声にユーザーがどう反応するかについて何らかのリサーチをしましたか?
佐々木渉:とても特殊な嗜好を持つ人、ロボット風の声を好む人が間違いなくいることは確信していました。ボーカロイドはロボット風の声を持っていますが、普通の人は「この不自然な声は何だ?」と思うに違いありません。声優の声――それ自体が「普通じゃない」声ですが――を使い、ロボット風の声とミキシングすれば、もちろん最終的にとてもユニークな音になります。逆に優れた歌い手の声にロボットの声を加えれば、それはもっと普通に近い声に聞こえます。私が狙ったのは可愛い、でもロボット風であり、それでも仕上がりはなお可愛い声でした。
問:ボーカロイドのアニメを本当に見たいというファンの声がある一方、他のファンは特にストーリーがなくてもキャラクターは充分にいいと考えています。キャラやその世界を広げるうえでどんなアイデアに立脚していますか?
佐々木渉:アニメはおじさんが作るものです。ミクファンのイマジネーションやミクの様々な歌やスタイルを考える人々の方が、アニメよりずっとクリエーティブだと私は思っています。私は若い世代に多くの期待を抱いていますし、彼らのエネルギーを注ぐ容器にミクがなってほしいと望んでいます。アニメより、ファンの創造性のレベルの方が高いと思っているので、アニメは必要ありません。ファンにもその事実を承知していてほしいと思います。
問:多くの人が英語を含む他の言語でのボーカロイド販売を待ち望んでいます。そうしたものを作り出すうえでの課題は何ですか?
佐々木渉:異なる言語に変換する際に、文脈と意味が簡単に変わることがあり得ます。他の言語であっても、その意味が日本語と同じである限りは大丈夫でしょう。ですが意味が根本的に変わり、結果として「可愛らしく」なくなってしまうのなら、違う言語に無理やり変換しようとは望みません。それが課題です。
伊藤博之:人々がインターネットを使い始めてたった10年ほどです。そして私たちはまだそれを使って何ができるかを見つけ出す途上にあると思います。人々にインターネットが行き渡る間、多くのものと産業が新たな形態に取って代わられるでしょう。例えば音楽、電子商取引、あるいはフェイスブックのようなソーシャルネットワーキングサイト。おそらく電話のような古い設備はいずれ近いうちに完全に新しい産業にシフトするのでしょう。初音ミクが音楽産業を破壊するのかどうかは分かりませんが……ある種のインパクトをもたらすであろうとは予想しています。どうやら私たちはとても新しい何かに巻き込まれているのでしょう。ミクが産業の変化を示すある種の象徴またはイコンになってもらえればと望んでいます。輝かしい未来のため、ミクがそう評価されるようになればいいですね。
問:あなたがたは以前、「初音ミクがなぜ世界中の若者に人気があるのかを理解することは、エンターテインメント・ビジネスの未来に対する理解も与えてくれる」と話していました。エンターテインメント・ビジネスの将来はどんなものになると思っていますか?
伊藤博之:難しい質問です。そもそも「エンターテインメント・ビジネスって何だ?」と問うべきでしょう。それはエンターテインメントに関する仕事でしょうか? おそらくエンターテインメント・ビジネスの未来はもはやビジネスではなくなっているでしょう。例えばすでに今、多くの人がユーチューブを楽しんでいます。そのコンテンツは利用者が作っています。供給者は仕事だからそうしているんじゃありません。コンテンツを作るという作業自体が既にエンターテインメントです。そんなに多くの金がかかわらないだけです。ですが消費者は、コメントを返し「好き」ボタンを押すことで製作者に反応を示しています。最終的に製作者や提供者はある種の評価または価値を得て、最終的にはそこからビジネスをすることもできるでしょう。コメントを残し、交流することで、消費者は単に消費するだけではなくなります。彼らも今やエンターテインメント・ビジネスを形作っています。つまりエンターテインメントを消費することはエンターテインメントを作り出すのに等しいのです。ですから私たちはエンターテインメント・ビジネスとは何かについて意味を再定義する必要があります。それこそがエンターテインメント・ビジネスの未来です。そして初音ミクはその実験体の一つです。
佐々木渉:今や多くの若者が栄養ドリンクを消費しネットゲームをプレイしていします。ですが彼らがプレイしているゲームを作っているのは誰でしょう? ゲーム・プロデューサーです。では最終的に儲けるのは? おそらく企業オーナーです。より多くの子供たちがゲームを楽しみ、そのために金を使えば、彼らのエンターテインメントを作るのに何も寄与しなかった年寄りのところにそれだけの金が積み上がるのです。こいつは単純にクールじゃない話です。あなたの知らない誰か、ゲームユーザーが何の関係も持っていない誰か、あなたが金を使えば使うだけ、彼らがあなたの金を手に入れるんです。それが事実です。その結果クリエーターが生計を立てるのがどんどん難しくなる状況が生まれます。従って、クリエーターとプロデューサーにとっていい状態を生み出すことは、多くの若者が楽しめるよきエンターテインメントを提供することを意味します。今「エンターテインメント・ビジネス」の意味を再定義する必要があるのは、それが理由です。それは世界を変える必要性の一部です。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その11「世界は彼女のもの:初音ミクはいかにして全てを変えたのか」
http://anond.hatelabo.jp/20110717201147
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
表記なんざ通じりゃなんだっていいよ気にスンナ。
しかし、純正なるギャグマンガであることを定義するのは死ぬほど難しいと思うけどなぁ。
構造的に見てロボット漫画ではないよね、とはいえてもドラえもんは(表記直したよ!)ロボットの出て来る漫画には違いないし。
どうやりゃギャグ漫画だと確定出来んの?
個人的にはドラえもんって読み込むほど面白い漫画だとは思わないんだよね。
ドラえもんはおとぎばなしの要素が強いからなぁ、だから飽きる。
んー、なんかこの話色々論じられてそうだけど
面白そうなんで絡んでみる。
まず、ロボットアニメではない派の言い分はこういうことだ。
ドラエモンは「愉快な人外」であるということ。これはオバQやハットリ君といった
同じ構造を持つ作品、「ケロロ軍曹」に留まらず「ラブやん」なんかも系譜に入ってくると思う。
つか、この系譜はあり過ぎて最早収集がつかない。人間以外のなにかがポンと現れて
現実と非現実との橋渡しになる作品は山ほどある。つか、これの始祖はドラえもんじゃないよね。
俺がふと考えた限りでは代表作はおそらく「ファウスト」だ。
要するに「愉快な人外」というのは、メフィストフェレス的なものなんだろう。
これが重要なのは、「通常の世界に住む主人公」を「非現実の世界」へ橋渡すこと。
この物語構造上の形式は「ロボットである」という事実よりずっと重みがあるだろうなぁ。
ドラエモンは「愉快な人外」であれば話が成立するけれど、「ロボット」である必然性には乏しい。
「鉄腕アトム」は最初から「未来」の話であり、「アトム」が現実と未来を橋渡しているわけじゃない。
ロボットである、というのはキャラクターにつけられた属性であり、「オバケである」とか「忍者である」と一緒で
物語の形式上の大きな意味を持ってはいない。だから、あくまで形式の話をすると
ドラえもんは「ロボットまんがではない」って結論になるんじゃなかろーか。
もちろん「ロボットである」ことに力点を置いて論議することも可能だろうし
ドラエモンがロボットであることから始まる系譜、あるいはそこにいたる系譜ってのも
頑張れば作って作れないこともないけれど。
あともう一つ。ドラエモンが「ジュブナイル」であるとか「ビルディングス・ロマン」であるって議論も可能だけど
たったいま電話かかってきて起こされた・・・。
電話の内容はこんな感じだった
かみかぜ:もしもし
俺:はい(超寝起きの声)
かみかぜ:寝てた?
俺:寝てないよ(嘘)
かみかぜ:寝てたでしょ
俺:寝てないよ。っていうか電話かけてきてくれると思わなかった
かみかぜ:誰かわかんなくて
俺:誰でしょう!!??
かみかぜ:えーわかんないー
俺:わかんないのかよーーー
かみかぜ:わかんないから電話したんだもん
俺:デートしよーぜー(寝起きのテンションで若干どうでもいい)
かみかぜ:写メ送って
俺:わかんねーのかよ
かみかぜ:アトムで会ったでしょ
俺:そうそう(あー、ほかにもそういうのが沢山いるのか)
かみかぜ:髪なに色?
俺:髪の色って!!!wwww(滅茶苦茶だな)
かみかぜ:なに色?
俺:了解。いまサイゼいるでしょ?(後ろで雑音がうるさい)
かみかぜ:なんで分かったの?
俺:俺もよくいくもん。で、フォカッチャ食ってんでしょ
かみかぜ:なんとかチキン食べてたよ(雑音でよく聞こえなかったけどたぶん「チキン」って言ってた)
俺:そっかー、俺名前登録しといて
かみかみ:名前知らないし
俺:増田だよー
かみかぜ:おー
俺:じゃあまたね
かみかぜ:うん。じゃあねー
ありえる未来の話、中国が世界の覇権国となっているこれから50年後の世界、インドだって凄い。その時日本は衰退しつつあって、才能ある若者は皆中国でチャンスを掴むために移住していく。中国も多民族国家になりつつある、特に経済特区地域に関してはそう。
よくある議論としては、民主党政権が1回あった後、自民党政権に戻る。(4年後とか?)そこで上げ潮議論が再度台頭して、というかグリーンな国?というか戦後そんな議論がずっとあったくせにいまだにそのまま。ということは、今後も変化はないのか。移民受け入れは合法・非合法共に関係なく進むと思われ。なので地域によっては住みづらい地域も出てきて治安も悪くはなるが、諸外国ほどではない。移民の参政権が認められることで国政も大きく変化、日本もしぶしぶ他民族国家への道を歩むが、もはやその段階で国際的発言力や存在感はなく、中国がアジア諸国をリードして、アフリカ(その頃の新勢力)と手を握って経済成長を引っ張りつつある。そんな中、新たな経済圏も生まれつつある?かつて先進国だった国々からドロップアウトした若者がアフリカなどの国に移民して新たな生活圏を確立、ゼロベースでやり直そうという動き、そこも長期的にみれば新たな勢力になりつつある。
ITはさらに革新が進み、人の移動なくして情報の移動性で世界はより小さく、フラットに。宇宙開発も進み、家一件分ぐらいの値段で宇宙に行くことも可能に、個人もいける。さらに長距離ロケットが開発されて、太陽系以外への進出も考えられるように。
世界中の人々が情報を手に入れるとどうなるのだろうか?より不幸になる?自分の現状を比較対象として考えてしまうから?経済的に(社会的ではなく)考えてしまうから?ここれから起こり得る医療革新、科学革新、寿命がさらに延びる、延命治療、癌を治す技術、アルツハイマーを治す技術、遺伝子を操作する技術、不妊症を治す技術、融合が進んでいく世界の文化、もしくは2つ以上の文化を自分のものとして会得することが普通に、もしくはそういった若者の増加、多様性容認の高まり
お金は、貨幣はデジタル化が進み、世界通貨の可能性が模索され、もはやヒト、カネ、モノ全てにおいてヒトだけが差別化要因になる。
というか現実貨幣はそのままなんだけど、googleが2014年仮想通貨制度を導入、それを使えばgoogleにお金を預けるだけでどこにいても決算が簡単可能になる。巨大企業によってさらにフラット化が進む世界。世界規模で勢力を伸ばす多国籍企業の勢いに追いつくために、ヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカと大きく4つに分けた地域で法制度の確立が求められる。
こうなってくると、世界のどこに住むかは、どの気候や文化を好むかということになり、それ以外の制約はなくなる(google決済サービスで給与も振り込まれ、google rentで家賃も振り込めるのだから)
さて、そのgoogleに大きな脅威が現れる。それは革新するロボット技術であり、そもそも経済活動の根本である、ヒト、モノ、カネのヒトを省いてしまう可能性があった。経済活動において、自分で考えるAIを載せたロボットが登場し、ロボットが労働をしてくれるのだ。しかもアフリカの振興企業の勢いもあり(中国企業もそれには手をやいていた)次々と価格破壊が起こるロボット市場。1月分ぐらいの給料で自分のロボットが手に入るようになる。さらにはロボットOSのオープン化、規格標準化が行われ、ソフトウェアアップグレード(それも自動)で凄い勢いでロボットが進化するようになる。身体の一部にロボットを組み込む人間も現れる。もはやここからはSFの世界だけれども、その辺までは進む気がする。そこで落ちぶれた日本の企業が再度注目される?アトム?笑
若い人々は比較的新しい文化を受け入れ易く、かつ自分たちの文化を形成し易いので、法制度と経済圏などが確立していれば後は気候などで判断する。沖縄が人気になっており、多くの若者が中国にも近い沖縄にコミューンを作って暮らしている。沖縄は日本の経済特区となり、国際空港やITインフラが整備されている。物語は、そこから始まる。
なぜ所得制限なんてするんだろう。
http://agora-web.jp/archives/849693.html
コメント欄がかってないほどの荒れ様www
だいたい所得制限したところで、いくら減らせるって考えているんだろう・・・・
年収2000万円以上は20万人ぐらい。
年収1000万円以上は200万人ぐらい。
で、提案が一つ。
子ども手当の初年度の経費が2.7兆円ほどらしいですが・・・・
貯蓄する人が37%もいるんだし。
http://www.asahi.com/business/update/1201/OSK200912010124.html
奨学金の毎年の融資額が約9000億円(平成19年時点)&見事に増えてます。
ついでに、大学の数も減らしましょう。
セットでやらないと効果が上がりません。
そして、誰かアトムを作ってw
おりしもカザフスタンのウラン輸出責任者、とくに日本向けの担当が逮捕される事件が起きた。
『産経新聞』(09年5月25日付け)は下記の記事を流した。
「カザフスタン政府当局は横領の容疑で国営原子力企業カザトムプロムのジャキシェフ前社長を逮捕したと発表した。治安当局によると、丸紅や東芝、東京電力などが権益を得ているハラサンなどのウラン鉱山について、不当に安い値段で国家資産を売り渡した疑いがあるという。検察当局の要請で21日に社長を解任された。日本は世界第2位のウラン埋蔵量を誇るカザフで2007年に大規模なウラン鉱山の権益を取得。前社長はカザフ側の交渉相手だった」。
このニュースが示唆することは、せっかくカザフスタンとまとまった、長期契約でのウランの日本への供給ビジネスが頓挫する恐れである。
さて、ロシアのウランも欧米(とくにフランスとオランダ)および日本の原子炉向けに大量に輸出されてきた。
これを米国へも輸出することになった。
これは核兵器製造に必要な濃縮ウランを精製する過程での副産物(バイプロダクツ)で、原子力発電の燃料となる。兵器には転用できない。
嘗てロシアは核兵器製造過程での、これらバイプロダクツを大量に保管してきた。冷戦時代のロシアは世界の40%もの濃縮ウランを製造し、その設備過剰と対比的に過小な原子力発電施設。だから原発用の燃料となるウランが余った。
「最終的にこれらを商業市場で処分したいだけのことだ」とロシア国営「ロスアトム」の広報担当セルゲイ・ノビコフは言う(ヘラルドトリビューン、5月27日)。
米ロ間には1993年に締結された政府間取り決めにより濃縮ウランは、米国政府認可業者のみが扱った。今後、濃度の低いウラン燃料に関しては、米ロそれぞれが民間の発電関連企業間でも取引ができることとなった。
同じ日に北朝鮮が核実験。前後してボリビアとベネズエラがイランにウランを輸出している疑いがあると米国情報筋。
核燃料関係のかけひきが活発になっているようだ。
素人の予想など当たるべくもないことは分かっているのですが、こうして予想しておくと1年の終わりに答え合わせをする楽しみが待っているので予想するのです。
優勝は浦和。根拠は特に無く、強いて言えば2007年の鹿島のようなことが起こるんじゃないかなという程度。オリヴェイラ1年目で鹿島が優勝するなんて思った人は殆どいなかっただろうけど優勝しちゃいましたからね。もともと普通にやりさえすれば優勝する戦力はあるだけに、監督が代わればガラッと変わりそう。ACLが無いのもプラス要素。
G大阪は今年も積極補強。戦力的にはやっぱりナンバー1かなという気はします。しかしあれだけ派手に補強しておきながら加地の控えを獲らないってのはイマイチ理解できない。何か理由があるのかしら。
鹿島は毎年の事ながら出入りの少ないオフ。中後の穴は大して問題無いと思う。しかし戦力的な上積みはそれほど無いので、ACLとの掛け持ちはやっぱり負担になりそう。注目の大迫は10試合くらい出場できれば上出来かなと。
清水は中盤から前はリーグ屈指の陣容だと思う。でもDFの層の薄さが気がかり。センターバックは1枚獲っておいた方が良かった気がする。若い選手が多いので波に乗れれば面白そうですが、去年と同じ展開になるような予感もひしひしと。だが一番の不安要素はパルさん。
川崎は関塚さんの復帰が微妙。もう一段ステップアップしないとタイトルは取れないと思うんですが、そこで関塚回帰ってのは正解なのかどうか。まあ谷口を上手く使いこなせるのは関塚さんだけなのかもしれない。
横浜Mは中盤から後ろは超豪華。計算できるストライカーさえ獲っていれば優勝争いできるはずなんですが、レンタルバックのハーフナーとルーキーの渡辺に期待し過ぎるのも酷かと。逆に言えばこの辺がブレイクしたらもっと上に来そうですね。あとコーキチはワケ分からな過ぎて面白いのでもっと色々しゃべって欲しい。
大分は主力の流出も無く、補強も最低限。去年ほどの旋風は起こさないと思いますが、安定した成績は残しそう。長期離脱の深谷の穴は藤田と坪内でおそらく問題なし。前の方では今年はやってくれるはずの家長とユース出身2年目の清武に期待。そして前俊に夢を託したいが今年も裏切られるんだろう…。
名古屋はレギュラークラスだけならかなり強いと思いますが、選手層が心許ない感じ。ACLもあるしシーズン通して戦うのは辛そう。巻とか津田あたりのブレイクに期待か。ダヴィはめんこい。それとマギヌンがいない時にどうするかは今年も課題。でもダヴィはめんこい。大事なことなので(ry
FC東京はそこはかとなく地雷臭を感じる。攻撃重視の戦術→守備に綻びが出てなかなか勝てない→そのうち点まで取れなくなるという定番の悪夢スパイラルにハマるとやばそう。逆に言えば、序盤戦を上手く乗り切れば昨年の名古屋以上の旋風もあり得る。かなりギャンブル性の高いチーム。
広島はもっとギャンブル性の高いチーム。J2降格の原因となった守備崩壊は昨年のJ2最少失点というデータを見る限り解消されたのか…というところですが、実際のところ攻め込まれること自体が少ないことと槙野の個人的成長でカバーしただけという感も。どちらもJ1で1シーズン通用するかどうかは未知数です。それでも何だかんだ中位には潜り込みそう。多分寿人が何とかする。
京都は地味にえげつない補強をしてるんですが、肝心のカトQさんの手腕が未だに良く分かりません。あの人は名将なの?迷将なの?まあどっちにしても多分ディエゴが何とかする。
柏は「上手くいっていた監督が代わると低迷」というお約束のパターンに嵌りそう。アルセウの怪我もかなり痛手だと思います。やはりアレックスを手放すべきではなかったのでは…。それでも多分フランサが何とかする。
神戸も同じジンクスに嵌りそうですね。しかもこちらはブラジル人監督なだけに余計に怖いです。レアンドロはともかく大久保の穴は容易に埋まらないと思うので結構厳しいんじゃないかと思います。
山形は圧倒的な降格候補のようですが、意外と残留するんじゃないかと思っています。結構面白い補強をしてますし、小林監督は曲者です。ブラジル人選手が期待通り働いてくれれば、2006年の甲府くらいにはやるんじゃないかと思います。
千葉はストライカーを補強すべきだったと思います。今年も攻撃面で苦労しそう。そろそろ巻がぶっ倒れるぞ。今年も心臓に悪い一年になりそうだ。
新潟は今年結構危ない気がするのですが、大島と三門の獲得は大きいと思います。この2人がフィットしてくれれば残留は何とかなるんじゃないかと思いますが、フィットしなかったら…ええと…。あとは鈴木順一ことブルーノ・カスタニェイラに密かに期待。その前に田中アトムたんか。
大宮は監督自身にそこはかとなく地雷臭がします。それ以上にレアンドロ様(神、いわゆるゴッド)の放出が失策かと。大宮の残留力の源は間違いなくレアンドロ様(神、いわゆるゴッド)。レアンドロ様(神、いわゆるゴッド)なら何とかしてくれたのに。
磐田は、正直に言ってあまりポジティブな要素が思い浮かばないです…。思い切って改革すべきだと思うんですが新監督はヤンツーさん。それでいいんでしょうか…。
開幕が待ちきれない。
http://anond.hatelabo.jp/20081205004633
これを読んで、大学時代のサークル仲間を思い出したので書く。A子とする。
A子は大学時代、もてていた。芸能人になるような美人ではないが、サークル内の男子はみんな
A子にすかれるべく一生懸命だったし、彼女はそれを気づかぬふりをしていた。
A子は、だいたい3ヶ月から半年ペースで、サークル内外で彼氏をくるくると切り替えていた。
もちろん、必ずつきあうのは彼女持ちの男子。サークル内で昼ドラが見れる、というくらいの惨劇がよく起きていた。
卒業後、34歳になるまでA子と連絡を取り合うことはなかったのだけど、mixi のコミュで再会。
相談がある、というので、私が実家に帰った際に会って飲むことに。
お互いの近況を言い合う。
私:27で結婚、29で出産、仕事は東京で企画の仕事。夫はIT系営業。
A子曰く、地方都市の男はお金を持っていないので、是非私のダンナ主催で会社の人とのコンパを
やってくれないか、との事だった。東京の男と知り合いたい、と。
あれ?昔は彼女こんながっついてなかったよな・・・?
コンパって、周りの人がセッティングしてくれてた感あるけど、自分から動くのって珍しいなあ。
と思っていたのだが、彼女と話しているうち、気づいた。
何となく、幸が薄いのだ。
というか今までもそうだったのかもしれない。幸の薄さ+若さで、男を引き寄せていたのかもしれない。
こいつを一人にしておいたらだめだ、とかね。小さくてかわいいとか。守ってあげたいとか。
でも、30半ばで幸が薄いって、はっきり言って男は避けると思う。女の私でもちょっとぎょっとする。
しかも、20代でさんざん、「男にモテる」ということだけで自信を持って生きていたA子が、男にモテ無くなったことで、
よりいっそう、幸が薄く、自信なさげな女に成り下がっていた。派遣社員で収入が心許ないというのも、
幸の薄さに拍車をかけていた。持っているブランドバックはきれいだったがずいぶん前のデザインだった。
私はユニクロで買ったアトムのTシャツとGパンだったけど、こっちの格好の方がまだマシだと思えた。
私は、「うちのダンナはコンパとか苦手なんだよね〓営業のくせに。子供が出来たら日和っちゃって」と言って逃げた。
うまいこと断ったつもりでいたのだが、よく考えるとこれってフルボッコの言葉だったかも・・・。
A子は「そっかー。」と言ってカルアミルクを飲んだ。私は横で芋焼酎飲んでたけど、こっちの方がマシだと思えた。
最近、自分がオタクなようでオタクでないことに苛立ちを感じ始めてきた。
言及はオタク系文化に対してが多いのに消費傾向が全然オタクではない。
20世紀のエロゲはいろいろやったけど21世紀のエロゲはやってない。(あ、サーカス製はちょっとやった)
ガンダムは種死と00以外全部見た。(ZとVとターンAがよかった)
ラノベはほとんど読まない、っつうかハルヒ読んで秋田。(言葉にできない抵抗感がある)
深夜にやってるアニメは観てない。(あれ何?古典アニメの巻きなおし?)
オタクであるということに情報量が求められて、なんか俺みたいな奴は疎外された感がある。
らきすた観てないとか何なの?
家にあるフィギュアがゲッターロボとパトレイバーとアトムってやる気あるの?
アニメージュとか読んだことないの?
って言わないで言わないで言わないであああああああああああああああ
オタクじゃないことが、なんか悔しい。
俺はオタクになりたかったけど、どうも無理みたいだ。
さっきアニメで「狼と香辛料」が放送されてたんだけど、タイトルが分かっちゃう自分が嫌だ。(しかも面白くないよ)
その裏?で「灼眼のシャナ」やってたんだけど、あれは低年齢向けに十分やっていけるほど分かりやすい文法つかってるね。
とか、ぜんぜんオタクな楽しみ方ができないぜうあああああああああああああ
寝よう。
(追記:わしはまだ20代前半だよ!年寄りいうな!)
機械のような人間、人間のような機械に相対したとき、人は好奇心か、嫌悪か、感動か、何らかの感情を引き起こすものらしい。走るようになったホンダのASIMOやトランペットを吹くトヨタロボットは子供たちの人気者だし、大人さえ惹きつけられずにいられない。また、道化師は人間未満の存在として軽蔑されていたが、派手な衣装や行動で人を楽しませるだけでなく、無礼な言動を自由に発することが許されていたと言う。
※人間未満の「何か」への嫌悪の感情は、ロボットに対する「不気味の谷現象」、道化に対しては「道化恐怖症」なるものが知られている。
初音ミクの奇妙な透明感のある歌に「感動」する人たちがいる。そしてまた、人工的な合成音声の歌を、激しく「嫌悪」する人もいる。音楽に対する感情はとても主観的なものだから一概には言えないけれど、アトムのようなロボットを実現する困難さに比べれば、聴覚だけが不気味の谷を越えたボーカロイドは、はるかに容易に実現できてしまうのかもしれない。
ところで、ロボット研究を突き詰めていくと、「人間とは何か?自分とは誰か?」という、自分自身をめぐる問いに直面せざるを得ないのだという。機械のような人間を、あるいは人間のような機械を、峻別し、嫌悪したり、称賛したりする僕たちはいったい誰なんだろう?