はてなキーワード: 早稲田文学とは
純文学とは制度的には文芸誌に載っている小説作品のこと。芥川賞はこの文芸誌掲載作から選ばれることがほとんど。
まれに早稲田文学やその他のインディーズ雑誌から芥川賞候補に選ばれることはある。
最終候補に残ると編集部から電話がかかってくる。いつその電話があるのか、公式には明らかになっていないが、過去の経験者がブログやTwitterでほのめかしており、5chの文芸創作板を見れば、だいたいの情報が集まっている。
9月末締め切り。最終候補の連絡は1月? 選考会は3月。受賞作は4月発売の文學界5月号。
10月末締め切り。最終候補の連絡は2月? 選考会は4月。受賞作は5月発売の群像6月号。
3月末締め切り。最終候補の連絡は7月? 選考会は9月。受賞作は10月発売の新潮11月号。
3月末締め切り。最終候補の連絡は7月? 選考会は9月。受賞作は10月発売のすばる11月号。
3月末締め切り。最終候補の連絡は7月? 選考会は8月。受賞作は10月発売の文藝冬号。
七年ラノベの賞に一次落ちし続けてたんだけど、やけになって純文学の賞に応募したらなぜか最終選考まで行った
https://anond.hatelabo.jp/20200519161343
この増田を読んだが、私はワナビとして、過去数年分の最終選考に残った作品の選評を読んでいるが、「書きたいことや日頃の鬱憤をごちゃ混ぜにして書き殴った」作品はひとつもなかったように思う。
あと5月の段階で、最終に残っているが、選考会がまだだという新人賞はない。
https://prizesworld.com/prizes/
プロの純文学作家とは、出版社から仕事を依頼され、原稿料の出る仕事をする物書きのこと。必ずしも物書き仕事だけで生活できるとは限らず(いやほとんどの作家はできず)会社員をしながら作品を発表しつづける人もいる。
ただ芥川賞を取って10年くらい生き残れば、どこかの私立大学の創作学科の教員になれたりすることが多い。
小説の新人賞は、出版社が主催する新人賞以外にも、地方の自治体や新聞社が主催する、「地方文学賞」というのものがある。
地方文学賞は受賞しても、賞金がもらえるだけで(ただし上記の5大新人賞より賞金が高かったりする)、本も刊行されない。それはデビューとは言えないし、たぶん受賞した人もデビューだとは思っていない。当然、仕事の依頼とかは来ない。
「どんな批判も甘んじて受け入れる」 津田大介氏が「お詫び」と「報告」(あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d556072e4b0eb875f201a8c
批判を受け入れてないでしょうがこの偽善者。受け入れたらふつうは辞任しますけどね。結局自分を正当化しているだけじゃないですか。
激しく笑う。とくに中村かさねのような嘘つきがいうのは本当におかしい。
まず表現の不自由展に出すなら中村累のような嘘つきに消された日清食品を真っ先に挙げる。
さらにいうとこのあいちトリエンナーレの人選は客観的ではない。
あいちトリエンナーレ2019」でジェンダー平等が実現 芸術監督の津田大介さんのこだわりの理由とは
「アートの門外漢である自分だからこそできること、業界にしがらみのない人間でなければできないことがあるはずです」
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5c9ab498e4b08c450ccd7da6
まず人選からして客観的ではない。そもそもジェンダー平等って結局エリート女性をえこひいきしろという男女不平等、階層差別の肯定でしかない。自分たちがあたかもただしいように言うのはウソ。フェイクニュースと歴史修正主義が正当化されるのはこのようなでたらめな行為をジェンダー平等とかいうフェミニズムにある。柴田英里は支持はしているけど参加はしていない。
つまりこのトリエンナーレ自体が表現の不自由であるといえる。女性が男性より優れているなら、あるいはジェンダー平等が実現しているならなぜ中止をするのか。結局女性は男性より優れていないし、ジェンダー平等なんて単なる利権にすぎないということがよくわかる。
さらに問題なのは結局歴史修正主義が正しいこと、検閲が正しいことを肯定している。このために慰安婦を利用しているという点で非常に最悪だ。慰安婦に対する敬意が感じられない。ジェンダー平等とかいう連中は元からセックスワーカーを人間とみなしていないためこうした利用しかしない。こういう時の権力者に阿りながら表現の不自由を肯定するのは本当に失礼だろう。
表現の不自由展、津田大介氏と実行委が外国特派員協会で別々に会見。「会期中の再開目指したい」と津田氏
30分後に開かれた実行委の会見について、津田さんは「僕は同席しての記者会見を望んだが、(実行委員会のメンバーから)同席を断られているということです」と明かした。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d6c8bd7e4b0cdfe05723001
どこまでも醜悪だが、その電凸をあおっているのはハフィントンポストであり、さらにその一人が中村かさねであるのは非常に悪質だ。
これはあくまで私が感じた観点ですし、私の主観ですが、「表現の不自由展」関係者の言葉の選び方、四方八方に喧嘩を売りながら、自分たちにとって都合の良い「敵」だけしか見えていない視野の狭さには、強い怒りを覚えました。— 柴田英里 (@erishibata) 2019年8月16日
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そうだ、愛知芸術文化センターの地下に『早稲田文学女性号』が売っていたのはちょっと嬉しかったです(拙著「いつまで“被害者”でいるつもり?」読んでね!)。が、『コンビニからエロ本がなくなる日』と反表現規制をどう両立させるかは、ちょっとよくわかりませんでした。 pic.twitter.com/XZyT6xtNtE— 柴田英里 (@erishibata) 2019年8月16日
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本質的にバカをつけあがらせたいのがジェンダー平等とかフェミとかいっている連中で、だからこそこういう人たちには学術的にも言論的にもなんの価値もないわけです。そして排除していい。なぜならジェンダー平等の連中は一切倫理も知性もなくそういう行為をするからです。そういうのには正当性がない。逆に排除しなければ大多数の自由がなくなる。
大雑把な論旨は
お前が言うなで終了だなこれw
というより東自身、震災後の行動のみっともなさについて
そのストレスや言われたことを下に流してるだけじゃないのかこれ?
そんなやつがこれから何言ったって聞かれないよ。
ってことを今回示しちゃったんだよ。そんなやつがこれから何言ったって
聞かれないよ。俺がそう言う。宇野と濱野の話は俺が聞かない。
今回みたいな出来事は二度とない。それで何もできなかった
坂上「震災で明らかになったのは圧倒的に専門家って強いですよね。原発の専門家とか。
そうじゃない東さんなり僕なり人文系の人間はやっていくわけですよ。役割が違うじゃないですか」
東「そうだよ。でもそういうなかで、発言のポジションがなかったり、効力が発揮できなかったら批評家って
無意味だって事でしょ。そういうなかでサバイブするんだとかあいつ言ってたんでしょ。
俺が言いたいのはやってないじゃん、お前口だけじゃん。
俺もそうだけどジャーナリストじゃないし色んな事わかんないから
ツイートしたくない。でも一生懸命頑張って一応プレゼンで示すとかさ。
そういう必死さが全然ないんだもん。
「現代思想」とか「文藝」の連中は震災に対してなにもアピールできてないし知識人としての
役割を果たしてないとおれは思う。そういうことに対して『彼らは自分たちのグループに閉じてて
なにもできないんだ』って言ってた宇野もできてないじゃん。
そういう判断が宇野に戻ってくるでしょ。
東「じゃあさ、あいつ偉そうすぎない?いや俺に対してじゃないよ、いろんな人に対してすっげえ
偉そうにしてたじゃんあいつ。じゃあ言うなよ。
お前しょせんサブカル批評家じゃん。震災になったら黙っちゃってモノポリーやってるサブカル批評家じゃん。
それでいいけどさ、言うなよ。それが世界の真理だろ。アホなのか?」
言ってただけなんだよ。それが今回の震災で現れたの。これは絶対反論できない。
ともあれ早稲田文学は
アクションを起こした。市川くんは僕も含め多くの人間にバーって流してる、震災の三日目か四日後に。
これらってぜーんぶ、