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はてなキーワード: 刑務所とは

2018-07-13

不法移民親子を引き離すのがどうして悪いのか

だって犯罪者なわけじゃん。子供まで一緒に刑務所いれるわけにいかからひきはなすしかねえし。なぜ不法移民の親ではなくトランプが悪いことになってるのかマジでわからん犯罪おかしたんだから仕方のないことだと思うんだが

2018-07-12

はてな安倍botに対しようやく重い腰を上げたのは素直に嬉しい反面、低能先生の時と同じくアカウント消して基本は放置って結局問題の先送りじゃねーか。

安倍botが何かやらかし刑務所送りになるか病院行きになるかしないと根本的な解決にならんわ。

2018-07-11

anond:20180710234504

アホか?強盗致傷繰り返せばいいだけやん

それに刑務所入るのなんか簡単

出るほうが100倍むずいのになんで一発で、一生出られない犯罪さなきゃいえないんだよ

頭悪すぎ

2018-07-10

思ってることを述べることについて

死刑について、沢山の投稿がなされている。

自分法律を専門にして生きていているけど、刑事事件とはあまり関係がないから、そこまで詳しいわけでもない。

自分死刑についての投稿とか、それに限らずとも法律関係する投稿を見て、新たな観点だな、と思うことは殆どないと言っていい。既存議論を上手にまとめて紹介しているものとか、自分立場を適切に述べているものはもちろんあるけど、とりわけ断言調で書かれたもので、なるほどなあと唸るようなものはない。大抵の場合、すでに、それに対しての反論議論されているものばかりだな、と思う。

死刑刑罰に関する議論でよく出るものだと、例えば刑罰は何のためにあるのか、というようなものがある。

これについて既存議論簡単にまとめれば、割と最近までは、応報刑論と目的刑論との二つの考え方が対立していたと説明されていて、前者は犯した罪に対して罰を与えるのが刑罰本質であり、後者はもう2度と犯罪を犯さないように矯正したり、社会に対して犯罪を犯すとこういう辛い思いをするからやめたほうがいいよと伝達したり、あるいは犯罪を犯すような人を社会から隔離することで新たな犯罪が発生することを予防することを目的として与えるのが刑罰だというもの

前者はカントヘーゲルに遡るようなクラシックものだけど、罪に対して罰を与えるっていうけど、それは何のためになされるのか、本質というのは何なのかよくわからないよねという批判がある。

後者については、再犯可能性が非常に高い人だと、どんなに軽い犯罪でも、犯罪者なら終身刑にすることになるよね、とか、さらにその考えを進めて、犯罪を犯しそうな(けどまだ犯罪を犯していない)人を刑務所に入れようとかそういう話ななってしまうけど、それでは流石に良くないよね、といった批判がなされている。

それを踏まえて近年では、社会的な規範回復するためになされるのが刑罰である、というような学説も有力で、結局、応報刑論と目的刑論ってそんなに違わないのかも?みたいな話になっているとのことでした。

(この辺の学説的なことは刑事ジャーナルの54号に最近議論がまとまっている。)

で、そういう刑罰本質についての議論自体はどうでも良くて、自分が思っているのは、自分が考えついたことは、誰かすでに考えているだろう、更には批判も尽くされてそれに対する再批判がなされて、という風に議論は進んでいる、という風には思わないのだろうか、ということ。

自分は一応、専門と言えるものがあって、様々な学者が一生を懸けて知恵を絞って、あるいは、実際の社会の中で様々な人たちが工夫を凝らしていろんなことを考えてきてることを感じてきたから、そんなに簡単に新しいものは生まれないということを強く思っている。あるいは逆に、自分の思いつきについては、既に前向きな批判がなされていることが大半で、自分の考えをブラッシュアップするのはその意味では容易だと感じている。だからこそ、自分の専門外のことでも、自分が何か感じたことや思いついたことがあったら、調べてみることは大事だし、軽率発言するのは意味がないことだなとも思う。

から、いろんな社会的なトピックに対して、いろんな人から条件反射的に自分の思っていることを述べて、しかもそれが間違っていたり批判があるということに想いを致さない様子を見ると、心が痛む。人類が協力して分担して、何世代にもわたって知恵を絞ってきて、それを上手にまとめて教えてくれる人すらいるのに、酒の肴にしてるならまだしも、大真面目に自分議論絶対正しいかのように自信満々に理論を展開している人を見るのは辛い。

こういうことを言うと、学問市民感覚はずれがある、学者象牙の塔しょうもない、みたいな意見も出るかもしれないけれど、少なくとも法律学の領域で、市民感覚のようなもの議論全然反映されてない、ということはあり得ないと思う。もちろん、立法対応学会対応が遅い、ということはあるだろうけれど、市民感覚なんてどうでもいいか無視しよう、なんということはなくて、市民感覚がどのように醸成されてきて、今後どうなっていくかということも、議論されているのが普通だと思う。

こんなような感覚は、法律を専門にしてるからまれもので、他の分野を専門にする人は感じないのだろうか?

とにかく何でもいいから自信満々に意見を言うのが良いのだろうか?

2018-07-09

anond:20180709121737

死刑をなくすと、刑務所で養ってもらいたいから罪を犯す系が終身刑を狙ってたくさん殺したりするようになるかねえ?

死刑になりたい人の殺人【追記あり】

死刑になりたかたから」と通り魔をする人がいる。

まり死刑をなくせばこういう人に殺される人もいなくなる。

死刑賛成派はこれとどう折り合いをつけているのかな。

数が少ないから考えないことにしている?

↓を見ると21世紀に入ってから1~2年に1件起きている。

参考

死刑になりたいと望んで引き起された犯罪事件の一覧 - いちらん屋(一覧屋)

https://ichiranya.com/society_culture/122-crime-which-wished-for-death-penalty.html

7/10 23:59追記

犯罪を犯したら病院送りにするのが正しい」(anond:20180710152412)を読んで思い出した。

『罪を犯した人を排除しないイタリアの挑戦』(浜井浩一)によるとイタリア憲法には「刑罰は更正のみを目的とする」とあるそうだ。

イタリア制度共通しているのは、社会的に困難に陥った人に必要支援を届ける、その際に、困難に陥った理由によってクライアント差別しないということにある。障がい者も薬物依存症者も受刑者も困難から回復するために支援必要な人として等しく支援を受けることができる」

イタリア犯罪処遇の特長は、行政の中に、犯罪司法問題ではなく社会問題であり、市民社会的困難を抱えることによって犯罪が生まれるという認識を共有しているところにある。そして、それに対処するためには、彼らの抱える社会的困難を解決することが必要であること、そのためには様々な支援必要であるという認識が共有されている」

浜井浩一『罪を犯した人を排除しないイタリアの挑戦』 - 三日坊主日記から引用

ちなみにこの本の著者は『2円で刑務所、5億で執行猶予』の人。どちらも好著。ついでに『反省させると犯罪者になります』(岡本茂樹)もよかった。

この方向で考えれば、死刑をどうするかとか終身刑ならいいのか、安楽死を設けてはという議論にはあまり意味がないとわかる。

ブコメから

  • そうなんだよね。だから,みんなが「死にたくない」と思う世の中にしないといけないんだが,これがなかなかに難しい。
  • というより、死刑になりたいという人をどうにか生きやすくする方が重要なのでは。

その通りですね。

そりゃまあ確かにパソコン遠隔操作事件は、警察自白でっち上げたことを立証した点ですごい功績だと思いますね。

死刑の有無が犯罪抑止に繋がっていない」は本当にそうなのかな? と思って検索したら増田が出てきた。

アムネスティにも同様の記事があった。

死刑には、他の刑罰に比べて特別な抑止効果があるとはいえない、というのが今日世界における共通認識です。

死刑に関するQ&A : アムネスティ日本 AMNESTY

死刑犯罪抑止に効果あり」という記事もあったが阿修羅か…

とっちらかった追記になってしまって申し訳ありません。

みんなで死刑についてもっと考えましょう。とむりやりまとめて終わり。

死刑反対のロジック死刑賛成のフィーリング

先日、麻原彰晃松本智津夫)をはじめとする複数オウム幹部死刑執行された。

それに関して死刑制度の是非がまた論じられるようになっている。

まあ死刑制度については人によって考えがいろいろあるのだろうが、ここでは個人的な考えを纏めたいと思う。

まず死刑制度は何のためにあるのか?

一つは「報復のため」だろう。目には目を歯には歯を、とばかりに、極悪人には死で償ってもらうというものだ。

二つ目は「スカッとするから」だろう。悪い奴、嫌いな奴、憎い奴が殺されるのは気持ちがいい。もし俺が被害者遺族の立場に立ったら、加害者は殺したいほど憎むと思う。

三つめは「犯罪抑止のため」だろう。だが、これには疑問が残る。もし死刑犯罪抑止効果があるなら、死刑廃止した国は、死刑廃止後に犯罪数が激増しているはずだ。だが、そのような話を聞いたことがない。これは話半分に考えておくべきだ。

では、死刑反対について話をしよう。死刑反対の理由はいくつかあるが、

一つは「冤罪可能性がある」だろう。冤罪人間を殺してしまっては取り返しがつかない。もっとも、これは冤罪のもの問題だし、殺さなければいいというものではない。そして、冤罪でないことが明らかな相手には無関係な話だ。

二つ目は「人を殺してはいけない」に説得力がなくなる点にある。国は市民殺人禁止しているのに、国が殺人を行うのが許容されるのは、明らかに矛盾している。という理屈だ。「正式手続きに則っているのだから良い」という意見もあるが、その「正式手続きを経れば殺人が許容される」という考えがおかしいと批判されているのだから、ここは平行線だ。

さて、死刑反対の話を出すと「欧米ではテロリストを射殺することが多々あるが、現行犯を射殺するのはいいのか」という意見がたまに見られる。

断言するが、このケースは許される。

こういうことを書くと「人を殺してはいけないんじゃねーのかよ」と言われそうだが、これには例外がある。それは「現在進行形他者生命安全が脅かされているとき」だ。

これは正当防衛論理と全く同根だ。もしあなたの家に刃物を持った強盗が押しかけてきたとして、その強盗に反撃して殺してしまっても、基本的には正当防衛適用される。

だが、この強盗をひっとらえ、手足を拘束し、身動きを取れないようにするなど、無力化した場合はどうか。相手自分を殺しに来るような悪人であっても、無力化された人間を殺したり、危害を加えるのは(情状酌量余地はあるにしても)許容されない。

これが死刑反対三つ目の理由であり、そして最も重要ロジックだ。

「無力化された人間は、いかなる理由があろうと殺してはいけない」

逮捕され、拘束され、刑務所に入れられた人間は、明らかに「無力化された人間」に他ならない。だから、そのような人間を殺すのは許されない。

一方、逮捕されてもいない、武装した強盗テロリストは、いつ人を殺すか、危害を加えるかわからない。「無力化されていない、かつ他者生命を脅かしている存在」だからこそ、逮捕せずに射殺が許される。

これこそが、死刑制度否定されるべき理由である

さて、死刑に賛成の人間が、これに太刀打ちできるロジックを立てられるかというと、不可能だ。だが、死刑賛成はロジックでするものではない。

死刑に賛成するのは、感情論で十分だからだ。

死刑を望む理由は二種類ある。「悪い奴は殺されるべき」「極悪人を許せない」という義憤正義感と「悪い奴を、嫌いな奴を殺したい」という欲望だ。

どちらも人類が持つ感情として普遍的ものであり、この感情否定するのは絶対不可能だ。

なぜ死刑肯定されうるか、それは人類にとって普遍的、かつ自然感情に訴えかけているからだ。

ここまで並べればわかるだろうが、死刑反対派と死刑賛成派は決して交わりえない。

論理的に考えれば、死刑制度肯定できるものではない。

だが、感情で語れば死刑制度否定することはできない。

どちらも重要ファクターで、二律背反となっていることこそが、死刑制度の是非が分かれる理由だ。

残念ながら、折衷案は今のところ存在しないし、まったく思いつかない。

2018-07-07

被害者側と違って

加害者側の死刑囚は、

獄中で準備する時間が沢山あるから

況してや、スピリチュアル事柄に詳しい

教団であれば、自らの集団死と引き換えに

怨念を土着させることも不可能ではない

精神異常のふりをして

我々を欺いていた可能性は大いにある

近代化以前には、拘束された影響の大きい

罪人の処遇には細心の注意が払われてきた

( 罪人が一般庶民であれば、特に気にしないだろうけど )

科学なんて過去実証の積み重ねでしか

無いわけで、禁忌伝統を踏みにじる

理由にはならない。

それに、今の死刑制度戦後

確立されたものであり

刑務所内の都合で細部のプロセス

幾らでも変更されているのである

裁判官から聞いた死刑制度反対の理由

裁判官に言わせると、刑罰には因果応報的な犯した犯罪の代償ではなくて改心させ更生させるため、という意味があるそうな。であれば、死刑はそれを、人間は改心してやり直せるという考えを否定することになる。だから死刑には反対、と。

じゃあ終身刑無期懲役もなくすのか?と突っ込みたくなるけれど法律はさっぱりの私にはわかりません。何か上手い切り返しがあるのかもしれません。それでも冤罪可能性を完全に否定できないか死刑はいかん、という理屈よりはずっと納得できました。

といっても現実では刑務所にいる人には2回目、3回目も少なくないそうで、刑務所に入ったら誰もが真人間に生まれ変わりやり直せるなんて綺麗事だと、夢想家であっても気が付きます

再犯率は高く理想論では成り立たないか死刑継続すべきだ、というわけではなくて、死刑廃止議論では刑務や出所後の社会復帰なども合わせて刑罰全体を考える必要があるのでしょう。知らんけど。

anond:20180707185514

本来刑務所に求められてるのが更生ってソースどこ?単なる懲罰だろ

anond:20180707094415

不寛容には不寛容でなければならないが、武力と動因を解消させるのに、命を奪う必要はない。

本来刑務所に求められるのは更生なのに、受刑者に合う更生プログラムがなされてないため、刑が人権制限期間を「ガマン」する罰になっている。

anond:20180707094415

権力による殺人ってのがピンと来ないなぁ。刑罰だし。

そもそも殺人とかテロとか取り戻せない許されないことをしたんだから死刑ってのも仕方ないんじゃない。

そういうことをしたんだから

死刑なくして一生刑務所に入れとくってのも誰も幸せにならなくない?税金無駄だし。

人殺したりテロを起こした奴を社会に戻してほしくないし。一定ラインを越えちゃったら死刑しかないよ。

anond:20180707004535

刑務所の方がましなわけないだろ

刑務所と違って買えるものもおおいし差し入れももらえる

2018-07-06

刑務所って税金無駄だろ

書類偽造して8億円ぬすんで無罪だし50男が29女をレイプして不起訴

めった刺しの死体発見されたらハイ自殺

階級が高い人だったら人を車でひき殺しても無罪

裁判所検察もいらないだろ税金無駄だろ

解体費用無駄から建物は残してペンギンぬいぐるみ征服を着せて椅子に座らせとけ

anond:20180706213915

anond:20180706183503

例えば懲役刑などにしても、長いこと刑務所に入って、後で無実だということがわかって出されても、失われた時間、失われた青春は再び戻ってこないという意味では、これも確かに取り返しのつかないものです。しかし、そういう利益はいくら重要な、しか人格的、その意味主体的利益であろうとも、人間自分の持ち物として持っている利益ですが、生命はすべての利益帰属する主体存在のものです。もちろんこのことと、前述の人間尊厳が人命の上位にあるということとを混同してはなりません。死刑はすべての利益帰属主体のもの存在を滅却するものですから、同じ取り返しがつかないと言っても、本質的に全く違うのであります

というより死刑だけ特別扱いするのがおかしい派だわ

命さえあれば取り戻せるってもんでもないだろう

一度有罪になって刑務所にでも入ってしまったら多くのものが取り返しがつかない

anond:20180706195304

そういう心情的なものはどうでもよくて

死刑になるほどの囚人を生かしていても社会にとって役に立たないしお金もかかるから死刑にした方が効率的とする意見についてはどう反論するの?

仮に100人殺した死刑囚がいたとして、その人を死刑にせず永久に老人になってもボケて刑務所に閉じ込め続けることは社会にどう良い影響を与えるの?

 

しろそんな扱いの方が酷くないか?生きてるわけでもなく死んでいるわけでもない。

でも生への執着だけは強くなった状態死ぬまで牢屋生活し続ける。

そっちの方がよっぽど残酷だと思うが。

死刑廃止派の一法曹としての意見

松本智津夫オウム真理教事件の確定死刑囚死刑執行された。

 私は死刑制度自体に反対の立場ですが、なぜそう思っているのかについて簡単に書いておきたい。およそ日本の今の状況で、松本らの死刑執行タイミングほど、死刑制度についての関心が高まることはないと考えるからです。

有罪であるという確証が持てない時に、多くの裁判官はどういう行動を取るのだろうか

 司法制度では疑わしきは罰せず、という原則があるのは、ほとんどの人が知っていることだと思いますしか現実裁判官がそのように行動しているかというと、そういうわけでもないようです。先日twitterである弁護士が、下級審簡裁だったかな)の判決書きで、若干の疑いがあるからちょっと罪を軽くしとくね、というような文面を書いてしまったため、控訴審でそれが棄却された、というものが流れてきました。これは判決書きに書いてしまったおバカな事例ですが、上級審であっても同じような運用がされていないわけではないようです。元裁判官で、刑法学者植松正は「無期懲役誤判の吹き溜まりである」と言いました。事実認定に若干の疑いがあるが、情状は極めて悪く、真に犯人であるのならば、死刑にするしかないというような場合無期懲役にすることが多い、というのです。これは裁判原則に反しています。実際には、情状に関わらず、事実認定合理的な疑いが残るのであれば、無罪とせねばなりません。なぜそれができないのでしょうか。裁判官人間ですから世論はまちがいなく気にしています世間を騒がせた大きな犯罪である場合裁判官のうち一人に合理的な疑いが残っていたとしても、合議の中で、簡単無罪判決を出せるものではないでしょう。つまり裏を返せば、合理的な疑いが残っていたとしても、死刑をいう選択をされてしま可能性は0ではないということです。死刑という刑罰存在する以上、確実に、100%、全くの疑いの余地なく、死刑に値する、と考えられない場合にも死刑選択してしまう例が存在するということです。

死刑制度問題は究極的には被疑者被告人人権問題に帰する

 死刑に値する犯罪を、まさか自分が行うはずはない、とほとんどの人は思っていると思います。ゆえに、とんでもない罪を犯した人間は、死刑でも仕方ないし、死刑が速やかに実行されるべきだ、という考えを持っている人が多いのではないでしょうか。被疑者被告人人権よりも、被害者の応報感情の充足が優先されるべきだ、と考える人も多いでしょう。しか100人死刑囚の中には、1人の無辜人間がいるとしたらどうでしょうか。その人を国家権力が殺す、という不正義をあなたは許容できるでしょうか。99人の”真実犯罪者”の被害者の応報感情社会要請としての死刑制度は、そのリスクを甘受するべきだと考えるでしょうか。

 では自分痴漢として裁判にかけられるかもしれない、と思う人はどれほどいるでしょうか。自分痴漢をやっていないことは天地神明に誓えるけれども、なんの証拠もない。被害者は、あなた痴漢されたと言っている。裁判所はあなたの訴えを合理的な疑いが残るとして認めてくれるでしょうか。捜査機関は、被害者の主張を、合理的な疑いが残らないように、矛盾をなくした形で、調書を作成するプロです。また裁判所は一応独立機関であるとされていますが、かつては判検交流と呼ばれる制度もあり、基本的裁判官検察官親和性の高い人たちですし、基本的検察提示証拠を信用して事実認定をすることが多い組織です。あなたの主張は認められず、あなた有罪判決を受けるかもしれない。あなたはそのリスクを甘受するでしょうか。疑いがかけられた以上は、痴漢という、卑劣犯罪行為に対して、その犯行を認めようとしない犯人であるあなたには、何の反省も見られない、と言われるかもしれません。

 裁判人間が行うものである以上、無謬ではありえません。痴漢冤罪場合、たとえ有罪であっても、人権上の制約は小さいと言えますし(むしろ冤罪であったとしても認めてしまった方が人権は制約をされないという残念な状況にある)、もし防犯カメラなどから無罪証明できた場合名誉回復され、損害賠償請求できる場合もある。しか死刑場合においては、それは究極の人権制約なのです。

団藤重光は以下のように論じています

例えば懲役刑などにしても、長いこと刑務所に入って、後で無実だということがわかって出されても、失われた時間、失われた青春は再び戻ってこないという意味では、これも確かに取り返しのつかないものです。しかし、そういう利益はいくら重要な、しか人格的、その意味主体的利益であろうとも、人間自分の持ち物として持っている利益ですが、生命はすべての利益帰属する主体存在のものです。もちろんこのことと、前述の人間尊厳が人命の上位にあるということとを混同してはなりません。死刑はすべての利益帰属主体のもの存在を滅却するものですから、同じ取り返しがつかないと言っても、本質的に全く違うのであります

 痴漢冤罪による被害を最小化するために、真犯人を含む、すべての被疑者被告人人権を守りましょう、被疑者実名報道はやめましょう、無意味身体拘束をやめましょう、という主張に対して賛成できる人は、死刑存置を考える人よりも多いのではないかと思いますいかがでしょうか。

 本質的には、これは死刑冤罪による被害をなくすために、真犯人を含む、すべての被疑者被告人に対する、究極の人権侵害である死刑廃止しましょう、という主張は私には同じものに思えるのです。しか死刑廃止するべきだ、という人はずっとずっと少ないのです。

被害者(周辺を含む)の応報感情を軽く考えるべきではない

 痴漢で捕まった人が、周囲に実は自分自白させられただけで、無罪なんだ、と主張することはよくあると思いますが、特に妻子持ちの人に多いのですが、私の経験上、やってないと強く主張していた人であっても、ここで認めても家族に知らされることはない、ということを教えると、スルッと実はやったんだ、という人が結構ます。ですから冤罪を主張する人たちの中に、罪を逃れるためにそう主張している人が多くいることも事実でしょう。しかし実際に痴漢冤罪によって人生が狂ってしまった、という人は確実に存在します。死刑においても同様のことが起きていないとは、誰にも言えないのではないでしょうか。

 しかし多くの人は、死刑に値するような重大な犯罪で、自分冤罪当事者になることな想像もしないでしょう。それに比べれば、自分たちの周りの大切な人たちが傷つけられたということへの怒りはとても身近で、応報感情に流されてしまいがちです。これは非難されるようなことでありません。前述の団藤は、父ブッシュとデュカキスとの討論で、妻を強姦され、殺害されても、死刑に反対するのか、という質問に、淡々と「それでも死刑には反対だ」と主張したデュカキスに対し、世論は非常に強く反発したと書いています。これがデュカキスの敗因ではないと思いますが、死刑廃止を訴える人に対し、「お前の家族を殺されても、死刑に反対だと言えるのか」という主張はよく向けられます殺害される、などという、およそ通常経験しないことを経験した人たちが、犯人を自ら殺してやりたい、あるいは国家によって同じような目に合わせて欲しい、という感情自然ものであると思いますしかし、当事者でない我々が、そう思うのは当然だ、とその応報感情正当化をする必要は必ずしもないとも思うし、死刑廃止論者であった人が、実際にそのような目にあったときに考えを変えたとしても、それはごく自然な話であると思うのです。その感情否定はできませんが、団藤が述べているように法の論理は、もう一段上の次元で考えるべきはないかと思うのです。

自分は無実なのだと内心で叫びながら絞首台に向かう人の存在を許容できるか

 私は貝になりたい、の主人公床屋は無実ではありませんが、死刑に値する罪を犯しているか、と考えるとそうではないと思います。あの絶望を持って、死刑にされる人間がいる、という不正義を許容できるかどうか、結局はその価値判断なのだと私は思います

 私はその価値判断において、死刑廃止して欲しいと考えていますが、それゆえに、死刑の存置を訴える人の価値判断尊重したいと考えていますしかしその上で問いたいのです。あなたは、たとえわずかな確率であっても、あなたあなたの大切な人が、冤罪死刑になってしまうことを許容できますか、と。

anond:20180706124706

読んだけど前カゴに長男乗せて次男を前抱っこし、電動自転車で傘さし運転かいう弁解の余地のないクズだったのであとでボロクソに叩いとくわ

子殺し逮捕待ったなしだろ


追記anond:20180706125502

傘を「さげていた」かよ、ふつう空目したわ

しか子殺し事実

刑務所待ったなし

長男ともお別れだね

お前の母ちゃんゼンカモン

死刑囚視点思考実験する死刑制度

死刑が確定し、収監されるのは集団生活を行える刑務所ではなく留置所独房だ。当然ながら周囲の死刑囚との会話は禁止されている。

日々顔を合わせる人間刑務官警察官弁護士精神医療関係者教誨師(宗教家など)。家族や友人との面会は容易に許可されないこともある。

規則正しい生活矯正され、気分転換は1日3回の食事と狭い空間での30分の運動刑務所囚人と同様に軽作業も割り当てられている。

運動時間以外は独房内でも行動に制限が掛けられカメラ常時監視され続けている。

大罪を犯して死刑が確定しても、死刑囚は直ぐに死ねるわけではない。

死刑囚へ死刑執行が伝えられるのは死刑執行当日の朝。

それまでは精神医療関係者教誨師との会話の中で日々命について考えさせられる。

死刑判決が確定したとき絶望または諦念が無為味だったかのように、その後の独房生活は死が確定していながらも死ねない不安や焦燥、そして恐怖が襲いかかる。

いつ死ねるのか、いつ殺してくれるのか、早く死刑執行を、今日の朝も死刑執行はされない、次の日の朝も死刑執行はされなかった、また次の日も自分は生きている、その次の日はどうか、自分明日生きているのだろうか。

いつ来るかわからない死、自分で決めることのできない死、死はある日突然やってくる、無遠慮に思い掛けないタイミングで死はやって来てしまう。

そして死刑死ぬことが刑なのではなく、死ぬまでが刑なのだと悟る。

anond:20180706085631

いやそろそろだって言われてたでしょ。関係する死刑囚たちは既に執行可能刑務所移送されてたし。さすがに準備しておくわ。

サッカー終わったし、そろそろやりまっか、ってな感じ?

2018-07-02

anond:20180702223313

まず手始めに刑務所病院無資格の看守がコンピュータの指示に従って受刑者を見るところからAI診療実験してほしい

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