はてなキーワード: 刑務所とは
って返せばいいよ
捕まるかどうかっていう観点だと
「やろうと思えばできる」って犯罪は山のようにある
思考が「やるかやらないか」じゃなく「可能かどうか」っていう損得で考えるのはいつかやる
アメリカに期待するのは間違い。
彼らは、江戸時代から日本人を差別してるし、いまさら変わると考える方が変だ。
嫌だったらアメリカを出て他の国に行けば良い。
事情があって、アメリカにいるしかないなら、アメリカに感謝して生活した方が良い。
アメリカにも探せば良い所や学ぶべき点はある。
モンゴル人、香港人、台湾人と日本人が連帯するのはアリだけど、残念ながら多数派は中国人や朝鮮人。
香港は中国だけど、貨幣が違う事と、クールな気質が中国と別だと感じる。
中国と朝鮮は国家ぐるみで反日教育し、反日プロパガンダ、ロビー活動、スパイ活動、犯罪行為をしている奴らだ。
連帯しようとしたら、数で負け、暴力で負け、彼らに支配されるのがオチ。
中国が一党独裁でないと国がなり立たないのは、武力でしか中国人がまとまらないという現実を表している。
連帯という言葉には、日本人が中国人と対等という意味を感じるが、それは夢でしかない。
中国人は中国人が一番だと思っているし、日本を利用するもの、国、国土、技術、金を搾り取る対象としか考えていない。
連帯が実現するとしたら日本人だけ武器を持って中国人を武装解除させた時だけ実現する。
もしアメリカの刑務所にいて腕に自信が無いのなら、チカーノ(メキシコ)と連帯するのは、選択肢の一つだと思う。
アメリカが中国を敵と認識した今、日本人が中国人と連帯する事は、犯罪者に加担する黄色でしかない。
その憎悪は、あなたが考えているよりも深くて、恐ろしい事態を招くだろう。
現実を見て、賢く立ち回る事が最善だと思う。
今はとにかく嬉しい。自由が嬉しいのです
思えば、刑期はあっという間でした
外の方に言われると驚かれましょうが、実に不思議なこと、中にいると時間がとても早いのです
それは先輩の長期受刑者の方と話しているときに如実に理解できました
その先輩は残りの刑期が6年ありましたが、すでに半分は消化したようでした
そこで僕が先輩に「まだ半分も残っているなんて、大変ですね」と声をかけたのです
しかし先輩は「何を言ってやがる。6年なんて本当にクソしてる間にあっという間に終わっちまったぜ」と言ったのです
クソして、の下りは笑える冗談ですがあっという間に終わったというのは本音であろうことは、仲良くさせてもらっていた僕にはよくわかることでした
同じように、出所してみれば僕の刑期もあっという間でした
僕が刑務所にはいったのは、女性に暴行したからにほかなりません
それが僕の罪です
実に愚かな行いでした。相手方はまだ僕の謝罪の手紙を受け入れてくれません。当然だとは思いますが、悲しいことです
とにかく、今は自由が嬉しいのです
出所にしてご飯を食べてからこれを書いています。おそらく、インターネットにあげるのは少し時間を置くでしょう
それでは
例えば、2006年、ロバート・ブランクストン・ジュニアは、付き合っている女性の3か月の子どもの肋骨と足を骨折させたため、2年間の刑務所行きとなった。ところがこの母親のほうは、ロバートから暴力を受けていた証拠があったにもかかわらず、「きちんと暴力に介入しなかった」罪で、なんと30年もの懲役刑を言い渡されている。
また同年、アロンゾ・ターナーは、付き合っている女性の3歳の息子を殺害した。やはり母親も暴力を受けていて、息子の虐待の邪魔をすると殺すと脅されていたにもかかわらず、怠慢によって子どもを負傷させたと、45年の懲役刑をくらっている。
出典:Moms Are Going to Jail When Abusive Partners Hurt the Kids
10代から20代にかけて、およそ10年間、「実家に放火して親を焼き殺す」計画を立てて過ごしていました。
本気でした。警察の本部に売っている「捜査幹部必携」という専門書も入手して、焼死の際の事件性の有無の判定基準まで学びました。
刑務所には入りたくなかったのです。現代の火災現場検証では油が出火もとであればすぐに反応が出る、例えば首を締めて殺した後に火をつけたとしても、肺の中に煙が入っていない(呼吸をしていないから)ことで事件性はすぐに明らかになる、といった内容が載っていました。難しいな。何回も計画を練り、材料を燃やして検証し、でも、実行には移せずにいました。
物心ついた頃から虐待を受けていました。貧困家庭でした。年収200万円の5人家族。その中には、血の繋がっていない人も何人かいました。
思い出したくもありません。口減らしにと、真夜中の山奥に車で連れて行かれそのまま放置されたこともありました。パチンコ狂いの義父が負けて帰ってきて、私のゲームボーイを取り上げて遊びながら私をサッカーの球に見立ててドリブルしてきたこともありました。
食べ物はありませんでした。砂糖に一滴の水を垂らしてレンジでチンすると水飴になるのでそれを食べていたのですが、バレて砂糖を隠され、近所の猫のカリカリを食べました。あれは不味かったです。ハムスターの餌の方が美味しかったです。植物だとツツジの花がほんのり甘くて美味しいと思います。スミレの花も味が薄いので悪くないです。
ある時のドリブルで腰の骨が折れたことがあります。ベッドで動けない私を見た母親は、髪の毛を掴んで綱引きのように引っ張り、私はベッドから転落させられた末、殴られました。ちょうどお盆のことでした。他の家族は私を置いて旅行に行ってしまいました。私は這いずり回りながら、砂糖を探して食べました。帰ってきた母親に折れた腰のまま土下座をして、ようやく医療機関に連れて行ってもらいました。私の足は今も一部がしびれたままです。
紺色の服と白い服しか持っていませんでした。当時流行していた「ベティーズブルー」といった鮮やかな色の衣料とは無縁で、惨めでした。義父は自分が稼ぎが少ないのが気にくわないのか、常にコンビニ店員やガソリンスタンド店員にタメ口で命令していました。かわいそうな、あわれな大人だなと思いました。
長女でした。何度か「父親」が代わり、下の兄弟が増えていき、一番最初の父親に顔がよく似ている私はことごとく除け者扱いされました。
抱っこされた記憶があまりありません。おかげで、25歳ごろになるまでは、交際した男性にも「触らないで!」と要望していました。なにしろ、ハグの仕方が分からないのです。手を繋ぐのも怖かったのです。
自宅では、他のきょうだいが名前で呼ばれる中、「ゴミ」と呼ばれていました。劣等感の塊でした。小学3年から自殺未遂をしました。
数回やってもなぜか生きています。きっと、覚悟がなかったから死ねないのでしょうけれど。
そんな日々で、唯一自尊心を満たしてくれたのが、学校のテストの点数でした。良い点を取れば、認められる。認められたい。なんでも良いから。なんでも良いから認めて欲しい。だから、狂ったように勉強しました。河合塾主催の模試の上位者ランキングに名前が載りました。トイレでも、お風呂でも、ご飯の最中も勉強していました。
志望校に落ちました。「ちょっとだけ頭がいい方」くらいの、赤本を一度も解いたことがないような滑り止めに進学しました。
その時も本格的に自殺未遂をしましたが、死ねず。その学校に通い始めました。
しかし、なんにせよ、実家から脱出できたのは本当に大きかったです。
都内の家賃4万円のアパートを借りました。保証人欄には、今は行方の知れない実父の名前を書きました。奨学金は容易に掛け持ちできました。機関保証と給付です。アルバイトは3箇所ほど常勤で入り、当時規制がなかった日雇い派遣の案件をこなして生活費に当てていました。
ちなみに4万円のアパート、壁が薄くて、外で住人が階段を上がる音がするたびに、かつて母親がそうやって暴力をふるいにきたときの足音を思い出してしまいしばらくは安眠できませんでした。
もともと家に居場所がなかったため、学校ではずっと社交的で行動的なキャラクターを演じ続けていました。表面的な友達がとにかく多いタイプでした。親友はできませんでした。
それが功を奏してか、大手マスコミの内定を取ることができました。
初任給が、かつて私が育った家庭の2.5倍ほどありました。
5人家族で200万円だったのが、1人で500万円です。
お金の使い方が分からないので貯蓄してばかりですが、ずっと入れなかったファミレスの「ジョナサン」などに行くようになりました。
付き合いの宴席も多く、クレジットカードはあっという間にゴールドになりました。
PTSD。
心的外傷後ストレス障害とも呼ばれるこの病気は、辛かった日々が急に頭の中でフラッシュバックし、同じような苦痛を感じる、というものです。私は毎晩、義父にドリブルされる夢や、母親から階段で突き落とされる夢、10代の私が苦労して貯めたアルバイト代を母親が奪い取って美容整形に行って顔が変わって帰ってきた時の夢、そんなものばかりを見ました。
次第に不眠になり、虐待関連のニュースでも吐き気がするようになりました。マスコミ勤務でそれは困ります。現場では頓服を飲みながらかなり無理をしています。この無理ができなくなった時、私は職と社会的地位を失うと思います。
10代の時は貧しくて憎かった。20代で就職し、富を得ても病気で常に苦しめられた。だから元凶の実家を燃やしたい。ずっと、ずっと思っていました。
「実家を燃やしたい」から「どうでもいい」に変わったのは、最近のことです。
私は発病から5年以上が経過しました。一生病気と付き合って行くと思います。そんな中で、憎しみと怨念を抱きながら暮らして行くのは、もう疲れました。
そう、疲れたんです。
幸いにも今、「あなただから話せる情報なんだけど」と仕事に役立つ情報を提供してくれる人も増えています。結婚はしていませんが(結婚話は、元彼との間で一度でました。親の話などが出てくると、とたんに受け付けなくなってしまって、衝動的に別れを告げました)、結婚もありかな、と少しずつ考えることができるようにもなっています。今の生活を守りたい。それだけ、それだけなのです。
故郷の役場に行って、あの家庭の戸籍から私の名前を抜いて分籍しました。頼る家族はいません。正真正銘、ひとりです。
精神疾患を患った我が身のみが頼りです。
これで、よかったんですよね?
実のところパンツを履かずに生活して二年になる。やってみるとわかるのだが、案外楽だ。
まずパンツを洗わなくてすむ。これが一番でかい。その分ズボンの汚染率が若干高くなるかと思われるが、案外変わらない。普段通りの洗濯ペースで変わらない。
元々家では全裸で過ごしているので、今までパンツに股間を締め付けられるのが嫌だったが、履くのをやめてから常時開放されている。
問題がないわけではない。履かなくなってからズボンのチャックが閉まっているかどうかをすごく気にかけるようになった。一歩間違えれば刑務所行きだ。(俺が刑務所に行ったところで特に誰も困らないのではあるが)
それからこの季節、夏場になると汗疹が出来やすい。パンツが汗疹対策になっているというのは履かなくなってからわかったことだ。まぁこれもタオルで拭くようにすれば問題はないのだが。
とはいえトータルでいえば明らかにパンツを履かないほうが人生快適に過ごせるわけで、逆に何故人々はパンツを履くようになったんだろうと疑問を覚えるほどだ。(女性はやむを得ぬ身体的事情があるのだろうとは思うけれど)
元々家にある全てのパンツが破けてしまい、新しく買う金もなかったことでこういう生活を始めたのだが、こういう発見ができると考えれば貧乏も悪くないものだ。皆も最初は戸惑うかもしれないが、半年もすればなれるだろうから試してみるといい。
多分どうしようもない奴が既にいると思うので、提案というか疑問
借金して事業をしないのは何でか?勿論既にその信用すらない人は除外。どうせセーフティネットが充実してるこの日本なのだから、一発破産覚悟で頑張ってみては?
それができないのは何で?→自分の場合は低リスクで収入を得られる状態にある為
最後に大きなストレス発散をして福利厚生抜群の刑務所に入る。まぁ国籍取れるくらい頑張れる人は、こんな選択肢に至る必要はないか。現在進行形で書いていてないなぁと思った笑
3.ディグニタスで死ぬ
これはある程度の収入水準があるが自己実現、自己確立、生き甲斐が失してしまった人向け。要はこれ以上生きていたくないけど死ぬのが怖い人
スイスにディグニタスという安楽死を支援する団体がある大体渡航費含め300万くらいで死ねるらしい。勿論現地の医者の診断がいるし、健康体は診断が認可されないばかりか