はてなキーワード: 主語とは
A「全てのカラスは黒い。」
元々「増田さんのようになりたい、私を育ててくれたのは増田さんだって胸を張って言えるように頑張ります」とまで言ってくれてた後輩の子から、
先日話しかけると無視され、今困ってるから世話を焼こうものなら、対外向けの敬語でそれは結構ですとチャットで返される始末。
一ヶ月前には助けてほしいと向こうから言われて助けたところである。その間自分が何かしたかといえば、上の件で話すまではその子との会話はおろか接触自体無かったのである。
はてブに挙がってたけど、女がサイコパスってほんとそうとしか思えないんだが(主語がでかいというのならそれはそうだが)。
どうでもいいが、その敬語が却ってめちゃくちゃ怒って不快ですって主張してるのがバレバレなのわからんかな。女の怒ったときの会話っていつもこうなの?
別に自分に恋愛感情があるわけでもなし、なんならその子には彼氏もいるし同棲もしている。
自分としては受け持った子がただ真っ当に育って欲しいだけ、さっさと仕事できるようになって昇格して給料もらってほしいだけである。
あれだけ慕ってくれてた子が、逆に何をしたらここまで嫌われるのか笑っちゃうくらいに、自分としては訳のわからないまま嫌われている。
やっぱサイコパスでしょこれ。
「男性ならではの視点で意見を言って」って言われたら、「ねぇよそんなもん」とか「主語がでかいわ」って思わん?
男性の中のどういう点に期待するん?とか、男性カットだけで良いの?自分はそれを代表するほど男性的と言えないけど…とか、年齢・行動・趣向・その他もろもろの自分の属性は関係ないん?とか、その一言に対するツッコミどころが多すぎる。
毎回毎回○○行きたいっていうだけでなーーーーーんにも計画しない男、めちゃくちゃムカつく
結局言われた私がお膳立てしなかったらマトモに出かけることもできない。旅行に行こうと言ったら当日になって指定席とってなくて席空いてないとか、映画行きたいって何回も言ってくるわりに計画が出されないから呆れて調べたらもうほとんど公開終了してて空席もないとか
誘われ待ちだけして生きてきたんだろうか?チケット戦争潜り抜けてライブチケット入手するタイプだからホントになんていうか、熱量が合わないんだよね
見たいと思った映画は公開日に見たいし、ライブは一列でも前で見たいし、どっちも後から円盤でもいいなんて論外なんだよ。まあ行けたらいいなくらいにしか思ってないんだと思うんだけど、だったら私もお前との予定は善処しますにしかなんないよ。
いつも私から誘う時はある程度調べて計画した上で誘ってるので尚のこと腹立つ。予定通りにいかないことも楽しもうよっていうけどお前のそれは予定が初めから適当なことを誤魔化してるだけだろうが
予定通りに進行させる準備しても、当日の天気とか交通事情でダメってなったらそんなに腹立たないけどさ、そもそも見込みが甘くて時間が押してしまって予定がうまくいかないは話が違うわ。できることやってなくて失敗するのはさすがにムカつくよ。
実家の父親もそうだったので、男ってみんな計画性ないわけ?と主語デカなことを考えてしまったが、実際のところ計画立てるの苦手な人多い感じ?よくこんなボンヤリしてて生きていけるなと思うけど、こんなもんなのかなあ
性加害に加担してるんじゃあなくて、男の問題を大多数の女に責任転嫁してるだけ。
誹謗中傷だって誹謗中傷してる人が悪いのに、あえて主語デカにして女を叩くのってアレ。
インターネット黎明期にあった、女を攻撃する男どもが今まで潜んでたのに再発してるんだなぁ、と思う。
よっぽどモテなかったんだね、としか思えないけど、でもそれは学生時代から女性を忌避してコミュニケーションを取ってこなかった、あなた自身の問題なんだよって実際会ったら言いたい。
沙東すずさん(旧名:メレ山メレ子さん)の新刊「奇貨」を読んで、自分の頭の中でぐるぐるしていることを、感想としてしたためます。
ご本人に長文DMを送り付けるのは怖がらせるのではという懸念から、慣れ親しんだはてな匿名ダイアリーを利用します。ご本人にURLを知らせるかどうかは、、、悩み中です。
https://mereco.hatenadiary.com/entry/20231105/1699185014
まえがきを「錆びた灯台に灯を入れて、自分にしかできない痛みの話をする」で締めるのすごすぎませんか。
💡 この文章の主語はわたしです。例えば「怒っている」と書いたときの主語はわたしであり、作者ではありません。
恋人だろうが夫婦だろうが心変わりすることはあるだろう。なにも「好きって言ったのに!ひどい!裏切者!」と詰りたいわけではない。
別れ際に関係を終わらせることへの謝罪をろくにせず、「この状況を演じている自分に酔い」「恋人を泣かせている自分に酔い」「別れ話のあと飲みに誘ったあげく、頭のてっぺんにキスして出ていった」ことに怒っている。とんだ三文芝居。
おそらくだけど、最初は連絡せずにいられなくて。そのうち恋人に考え直して欲しくて。そのあとは、悪意を持って自分を傷つけようとする元恋人と決裂するために。
元恋人との闘いの記録では、作者の「自分の気持ちを文章にする力」にぐいぐい引き込まれた。過去の自分の失恋を思い返しても、感情に流されてとてもあんな風に言語化できなかった。
作者の元恋人は「すずさんの自信というか、自己愛の根拠がこんなにもおれになってたことは気づいてなかったし、いたましいし、申し訳ないと思う」とメッセージを送ってきたそうだ。
あなたが今落ち込んでいるのは、おれに依存していたからですね、気づかなくてごめんね、ということか。バカにしやがって。
自立した人間同士、信頼関係を築く努力を続けてきた(と思っていた)のに、最後にお前がぶち壊したんじゃないか。
よくもまあ他人の失恋話でこんなに怒れますねと言われそうだが、元恋人に対しては知らない人なのでとくに何の感情もない。
わたしは5年前くらいから「信頼できるパートナー」と定義している人がいる。今後の人生もできるだけ一緒にいられるように努力しよう、と話し合った相手だ。
そのパートナーはおよそ半年に一回の頻度で、感情的になる。わたしの何らかの行動や言動に、自分への敵意を見出し、スイッチが入る。わたしにはそれが予測できない。
スイッチが入ると「わたしからの電話は出ない」「DMなどでわたしへ感情的なメッセージを投げつける」「話し合おうとしても取り合わない」といった行動に出る。
そうしているうちにわたしは心身がやられてしまい、落ち込んで、寝込んでしまう寸前にSOSを出して、ようやくパートナーが話を聞いてくれるようになる。そうして仲直りをする。
わたしはいつ爆発するかわからない爆弾をかかえているような気分だった。
このサイクルを繰り返して分かったことは、パートナーは「感情的なメッセージを投げつけること」はコミュニケーションの一種であり、「言い過ぎてごめん」で許し合うものと考えているらしかった。
自分の口から出た言葉は相手に受け取られるものなので、「言い過ぎた」という意味が分からなかったが、それはわたしが言葉というものを神聖視しすぎているのかもしれない。
わたしは、もし相手の行動や言動に違和感があったら、まず対話が必要だと思っている。対話をしないでいきなり感情をぶつけることは、すごく傲慢なことだと思う。
これまで何度も「対話をしないで感情をぶつけるのは止めてほしい」と伝えてきたが、相手を変えることはできないとつくづく感じた。
他人に相談したら「それモラハラじゃないの」と言われそうな気もする。
彼はわたしの「信頼できるパートナー」では無かった。そう認めるのにすごく時間がかかった。5年もかかったのだ。
すずさんの文章を読んで、はからずも自分の思考も整理することができた。
今気づいたけど、わたしの元パートナーも絵を描く人だったな。言葉よりも感情を優先することが、芸術において大事なことなのかしらと想像してみたり。知らんけど。
わたしが「信頼できるパートナー」を持つことは本当に可能なのだろうか、と最近考える。
友達は少ない。死にたい気持ちのときに「死にたい」と言える友達はひとりだけ。そのひとりに対しても、本来の死にたさを十分の一に薄めて愚痴っぽいオブラートにくるんでいる。
それだけで十分だという気持ちもある。
40年以上、内向的で自己と対話をしてきた人間なのだ。他人と深い関係を築くのは難しいのかもしれない。
余談だが、わたしの父が亡くなって10年以上経つが、父がキャッチャーとして甲子園に出場していたことを最近知った。普通そういうの子供に100回は自慢するやつじゃないの???
https://anond.hatelabo.jp/20230612091139 自分は水着にならないと価値がないと思っている女の子へ | 石川優実ニュースレター「for myself」 というとちょっと主語でかではあるんだけど。自分が知ってる範囲で今では大女優と呼ばれる人でも一度は水着になっている。 そして多くは10代で水着になっている。これは異常だと思う。 「本当は水着になりたくないけれど、水着にならないと仕事がないから水着の仕事もしている」というのも頷ける。 綾瀬はるか(グラビア出身だろうと批判されそうだけど、グラビア仕事で夜な夜な泣いていたエピソード) 長澤まさみ 新垣結衣 上戸彩(水着は嫌と公言していたが写真集に1枚だけ上着を着た状態の写真が載った) 吉岡里帆(水着グラビアの仕事がきて泣いた) 広瀬すず 有村架純 今田美桜 浜辺美波 本田翼 宮崎あおい 川口春奈 など 人気女優で水着になってない人は少数派だ。 最近の若い女優ですら水着から逃れられていない。 わ
そろそろこの「はてな民」という表現が、日本人全体をひとくくりにするような主語の大きすぎる雑な論法であると気づいて欲しい。特定の層を指しているようで、誰も指していないので、何の話だ?となる。
はてな民って言葉を使ってはてな民を批判する時に必ずといっていいほどトップブコメに来るこのテの言説、マジで見苦しすぎ。
あのなあ、お前らの考える一括りにできる言葉って何だよ。自民党支持者はひとくくりに出来るのか?その他政党支持者は?統一教会の信者は?老害は?大阪人は?陰謀論者は?
どんなカテゴリでもいろんな人がいてひとくくりにできないなんて当たり前だろ。そんな当たり前のこと誰もいってねーよ。
でもその中でも大きい層をピックアップすることはできる。だからそれをもって何らかの集団を指す表現を使ってるわけ、みんな。
それを見苦しくはてな民なんて人は~とかマジでそれ言ってるんだったらお前は今後特定の人物を指す言葉以外を使うなって思うわ。
追記:そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。
東京大学と東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義はTwitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判のツイートはヒットしない(Twitterの検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評はAmazonのレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである。講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。
本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名の形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学の講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。
まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。
1. 媒体:現地で行う音声形式の講義では記録に基づく批判が困難であるという点。
2. 受け手の資質:講義の対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しかも批判に割くだけのリソースを持っていないという点。
3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。
4. コミュニティ:この講義はボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティを形成する役割を同時に担っており、コミュニティと批判との相性が悪いという点。
以下、これらの点を順に見ていく。
書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画で配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまいやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったからである。
この講義は主として東京大学の教養学部の学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想や概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点からの検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義を批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義そのものが大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである。
ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。
まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲を評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである。
「テマティスムは、作家のメッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ、作家と作品の細部から、作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマを抽出し、作品の価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)
さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師は提唱している。以下に書籍の抜粋を示す。
「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)
「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)
つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。
もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、
①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること
②個別の楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること
③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること
である。しかし書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師の言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚を思考の俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能だからである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由な評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉が賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。
現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバムの作成やちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティを積極的に提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体はマイノリティたる若者を鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義を批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかしコミュニティを形成するとはそういうことなのである。
「ボーカロイド音楽論」の講義が書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙や政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしまう未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。
強い言葉で言えば、
「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別の楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」
である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配は杞憂であってほしいが)。
筆者がこの講義や書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。
1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別の作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。
2. 「思考の俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考が必要なぱて講師の感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。
3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的でしか「思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れなものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能な手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法の限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。
注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンスの書籍『利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体の利他行動も、種や遺伝子を主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身の生存や繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないからである。(遺伝子は自然選択の対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択の対象として観察可能なものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て「個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。