はてなキーワード: 本来とは
フェミニストは少子化を問題にしていない。問題にしていたのは女性差別。
学校教育で男女平等を習うのに社会に出たら男女不平等なので、そこを問題にしていた。
それと、男女共同参画とか女性活躍社会だと煽ったのは政治的な作為によるものなので、本来のフェミニストが問題視していた範疇を超えてる。
偉人キャバクラにしか興味ないのは仕方ないんだけど本来バトルものの創作ってのは俺の考えた最強のオリジナルキャラ語りが付きまとうので偉人が俺の考えた最強のオリジナルキャラと同等に強い方がおかしいんだわ。
ジ・アンダーテイカー(The Undertaker、本名:Mark William Calaway、1965年3月24日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テキサス州ヒューストン出身。
ギミック上の出身地は死の谷とされている。リングネームの "Undertaker" は墓堀人(本来の意味は葬儀屋)を意味し、転じて「地獄の墓堀人」と表されることもある。TV中継では「テイカー」とも略された。
ここで俳句の解説するとボロクソ言われるのが落ちなので、リアルで相談した方がいいよ。
…というのは、俳句は滅茶苦茶コンテクスト(文脈)に依存する芸術だからだ。短歌31文字が対決的な文化(歌合せとか)を成立させてきたように「向き合う他者」に言葉を届ける能力をもつのに対して、俳句は仲間内のような座の中で成立してきたように「コンテクストを共有する仲間」の間で盛り上がるタイプの道具であり、背景となる文化文脈を共有していないことが多い現代社会(特にネット上)では、説明したところで、「そうとは限らないのでは?」みたいな突っ込みが山ほど入るのが目に見えてる。「なんでそう言い切れるの?」「必ずしもそうとは限らない」etc……いやうるせえわ。俳句ってそういうモンなんだから仕方ねえだろ。
それを踏まえた上で、可能な限りの解説をするぞ。長いので暇人向けだ。ちなみに、調べて作者名見て「あー」(嘆息)と声が出そうになってあと調べるのはやめた、から、ほぼ推測のみで書く。まあ、ちょっと古い昭和の俳句だわ、くらいに思いながら聞いてくれ。ちなみに、俺はこの句、一読して「短歌的な俳句だ。それだけに、短歌増田が感心したのは分かる」と感じた。俺自身は、こういう俳句は作らないと思う。理由は後述する。
「ここで昼餉(ここでひるげ)」
初手から6字で字余りだ。字余りについては今更説明しないが、基本的にはあんまりやらない。なぜなら、基本的にはリズムを壊したり重たくしたりしてしまうからだ。わずか17字でつくる詩で、およそ1/3のリズムが崩れかねないというのは、かなりオソロシイことだ。逆に言えば「その危険を押してでもやりたい」と作者が判断したときだけ、リスクを背負ってやる。素人にはあまりお勧めしない手法だ。さて、作者はわざわざ字余りをして、「さあ、この辺(の場所)で昼飯にしようかな」というメッセージを伝えているわけだ。何とも人を食った話だが、昼飯の場所が決まっていないということはこの人が日常の中にいるわけではないことを暗示してる。まあ、単に定年で暇になって毎日あちこちの公園やらデパートやらで飯を食ってる爺さんという可能性もゼロではないが、後で出てくる夏という季節にそんなことをする爺さんもあまりいないだろうから、ここで作者はそれなりに若く、夏の最中に野山を歩き回っていると推測される。これで一気に「作者の年齢、場所、状況」に関する情報が得られるのだから、字余り使った値打はあると言えばあるが、それ以上に作者がここであえて句のリズムをもったり重たくさせたのは、「いい年したおっさんが夏の昼間にハイキングしてる」という「のんびり感」を演出しようとしたためであるかもしれない、とも推測される。その意味では、この初句、のんびりして見えて人を食ったような、それでいて計算もあるやり手の初句だ。ちなみに、この初句、体言止めで切れる。俳句はやはりどこかで「切れる」ことが推奨されるが、それは句の焦点をはっきりさせるためだ。句切れの前に焦点があるか、後にあるかはケースバイケースだとしても。
ただ、それにしても「ここ」が山とか自然の中、は分かったが、どんな場所なのか、また、ここで昼飯にしようと思ったのはなぜか、作者はいまどんな気分なのか、とかは分からない。それは、続く部分で種明かしされる。(よって、ここでは句切れの後、つまり「種明かし」パートが句の焦点だと考えられる。)
「真赤な夏の/花佇つゆゑ」
最後に「ゆゑ(故=理由)」とあるが、普通に考えたらこれまた俳句では普通やらないおきて破りである。句の中でこういう「理由の明示」みたいなこと、ダメだろ普通。なぜかというと、基本的にカッコ悪いからだ。たとえば「閑けさや岩にしみいる蝉の声」を、「蝉の声岩に染むゆえ閑かなり」とかやったら、なんかいろいろ台無しだろう? ネタ晴らしというかなんというか、たとえそういう意図を込めていたとしても、言わずにそこを感じさせて感心させるところがさあ、まあ句の仕掛けなんだから、答え言っちゃったらもう何かダメじゃね?とふつうはまあ思うんだよ。でもこの句はもう少し進化した句で、理由を言っちゃった上で「え?それが理由になるん?」と読み手に突っ込ませることを狙った作品なのだな。突っ込みさせた上で、「え……理由…?………になるんか、…ならんこともないか、うーん、なるほど」みたいな。最初ののんびり路線がここで効いてくるわけだ。作者は「それが理由なん?」という突っ込みに対して"のんびり"という姿勢をとることで「それが理由ですが、何か?」と返してきているわけだ。そうやって自信満々に言われるとなんかこっちが間違ってる気もするし、そう言い切られたらそうかなあ、と少し納得感がないでもない……と思わされた時点でもう作者の術中に落ちているのだ。この作戦、小難しく解釈しようとする人であればあるほどハマる。
もっとも、そういう、突っ込みさせつつセルフ納得もできる「微妙な線」を狙うのはなかなか難しい。だから、それを実現させるために作者は2つほど仕掛けをしてる。
一つは「真っ赤な夏の花」だ。これ、普通なら夏に咲くその花の名前を入れる部分だよな。たとえば朝顔ならアサガオ、向日葵ならヒマワリ……だいたい花の和名なんてそんな長いものじゃない。少なくともただ花それ自体を指すのに9字も使うのって、俳句始めたての人の句なら真っ先に直されそうな部分だ。でも、その上でだ。聞いてみるけど、この花何だろうな? 日本の、ハイキングで行くような野山に、真夏に「真っ赤」な花なんて咲いてるか? あとで「たつ」という言葉がある以上、人の背丈程度には高さがあってすっと伸びた草花だ。さて何だろう? 作者の答えは「知らん!」だよ。知らないから「真っ赤な夏の花」なのだ。おいおい、そりゃねえだろ、と読者に突っ込ませておいて、そこで作者はぬけぬけと「だからここで飯にするんだ、悪いか?(ニヤリ」とやってくるわけだ。無責任に適当にやってるように見せながら計算もあり、でも基本的に楽天的で天衣無縫な語り口の句だ。それが初句の「のんびり」加減と相まって、この句に独特の雰囲気を醸し出していることは否定できない。なんだったらここで笑い出しちゃうような面白みがある。
二つ目は「佇つ」だ。学のある人をこれで引っ掛けようという腹だ。この字、音数から考えれば「たつ」と読ませているのだろう。だがこの字に原則として「たつ」の読みはない(少なくとも家にある広漢和辞典(全四巻)でみる限りはない)。一般的な読みは「たたずむ」で、じーっと立っている、という意味だ。「たつ」に宛てたのは、その意味を合わせて感じさせたかったからであろう。花はいつまでもじーっと立っているのだから、人間が「立つ」のと同じ字でない方がいいんじゃありませんか、というか、「佇む」には途方に暮れて立ち止まる、みたいなニュアンスも漂う。何か、その夏の花が所在なくじっと立っているので、仕方なくしばしのひと時を一緒に過ごす、みたいな感じだ。なんだろう、ひょっとしてこの「真っ赤な夏の花」というのは、山道を歩く途中で一緒になった、真っ赤なサマードレスを着た女性か何かの比喩なんではないだろうか、みたいな、そんなちょっと色気みたいな解釈・深読みが(実際、俳句読みはその手の暗喩、創作をよくやる)この「佇」一字から立ち上ってくるのである。そうなると、花の名前が特定できなかったことも、何だかそのための仕掛けであるようにすら見えてきて、うーん、と悩まされるのだ。当然、そこまで考えての、このルール違反の用字である。
結果、山歩きの途中花の下で飯食うかあ、というだけの句が、俄然ストーリー性、物語性、ロマンスの色彩まで帯びてくる。が、もちろん現実にはそんなことはないのであって、実際ただ飯をくっただけなんですけどねー、という緩い種明かし(そもそもそんなロマンスが勃発したら俳句なぞ作っている暇はないので)を前提に、その幻想を楽しむ、そんな句ということに落ち着くわけだ。
そんな風に、この俳句はなかなか外連味(けれんみ)のある、仕掛けとイメージてんこ盛り、物語調の俳句で、実に面白いと言えば面白い、一般的な俳句の目指すところとはちょっと外れた句だ。一般的に俳句はもっと、瞬間的、即物的、断片的に風景を切り取るのが基本なので、まあ普通は「季語+感情」でつくるとこから始めるのが適切だろう。この句も、山道で赤い花に出会った瞬間の感情を句にしてると言えなくもないが、それにしてはいろいろな仕掛けが人を食っていて、また、無用に物語調で独特だ。一般的な俳句なら、たとえば「握り飯ハイビスカスの色に染む」とかでいいわけだが、この句はその瞬間の風景以上に、遊び、のんびり感、山道を歩いてきてよいしょと腰を下ろすそのしぐさ…からああ花がきれいだな、という一連の感情を全てこの一句に込めようとしてるのだ。これを17字でやるのは、本来かなり無理筋なので、普通はもうちょっとワンショットに切り分けようとしたりするか、あきらめて短歌にいくかするだろう。その無理をやってる(そして、そこそこ成功もしてる)のがこの句の面白いところで、たぶん短歌増田が感心したところなんじゃないか。
まあ、こういう句、狙って作るのはなかなか難しい(ちなみにこの作者・中村草田男は、こういうのをやたら作るのだが、ひどい失敗も多いので有名な人だ)。そういう意味でも、まあなかなかない句ではあると思う。あと、何も知らずにいろいろ書き飛ばしたので、もっと知ってる人から突っ込み入れてもらえたら感謝する。
ここで昼餉真赤な夏の花佇つゆゑ
(ここでひるげ・まっか/まあかななつのはなたつゆえ)
中村草田男(なかむら・くさたお)という明治生まれの俳人の句で、上5と下5が字余り(ないし、中7と下5が「句またがり」)なので素直に十七音ではないね。書いている俺もこの句は知らなかったけど、読み取ってみようと思うよ。長くなるけどそれはしょうがないと諦めてくれ。
内容は、すごいざっくばらんに書かれた意味だけを言うと「ここで昼食にしよう、(近くに)赤い夏の花が咲いているから」だね。まぁ言葉の意味だけ追っても俳句は分からないので、ここから深掘りしないといけない。
「ここで昼食にしよう」ってことは、昼食の場所を選べるわけだね。すぐ後に「夏の花」があるので、それがある環境、つまり野外だということも読み取れる。夏で野外で食事場所を選べるとなると、これはつまり、弁当を持って散策・ハイキング的な行楽を思い浮かべるよね。
行楽なら、高原とか草原とか、そういう緑の多い場所が思い浮かぶね。(明治生まれの人の句だから、現代的な行楽とは違って、素朴なものだと思うよ)
行楽に出るくらいだから、天気は良いのだろうね。夏の晴れの日。緑の丘、青い空、流れる白い雲。夏の行楽は避暑目的、涼を求めてするので、高原の涼やかな空気感、風の流れも想像できるね。
昼食前から出発して、そろそろ腹が減ってきたのかな。そこで真っ赤な花が目を惹いたのだろうね。この赤い花の傍で弁当を食おう、と決めた。そういう句だろう。
ここまで丁寧に「そう連想される理屈」も書いたけど、俳句をそれなりにやってる人はこういう読み方に慣れているので、元の句を見ればすぐに、「行楽、夏の緑の中、赤い花の傍でお弁当を食べる」という映像が直観的に思い浮かぶと思う。
ここまで映像を読み取ったけど、増田が知りたい「どう凄いか」とは、その映像をどう鑑賞するのか、というところになると思う。
「ここで昼餉」といきなり強い意志を示したね。普通、俳句は作者の意思・思考など入れ込まないので、これは珍しい作りだ。ちなみに短歌は人の意思を盛り込むのが普通なので、元増田にとっては「短歌で慣れたスタイル」だから、印象が強かったのかもね。確かにインパクトがあってちょっと驚かされる。もっと言うと、字余りとした分、「本来入りきらないものを押し込めた」ことによる作者としての強い意志、この「ここで昼餉」と決断した意思の強さも表現されていると思う。
「昼餉」の後は、なぜこの場所を食事の場所として選んだか、の理由を述べている。「真赤な花が咲いている/立っているから」と。
夏にまつわる緑や青を連想させつつ、ここで「真赤」と、異なる系統の強烈な色をぶつけてきたね。これもインパクトになる。「赤い」ではなく「真赤」としたのも、インパクトを強める方向へ作用しているね。
しかも「佇つ」とした。「佇む・たたずむ」は、静かに立っている、じっとしているという意味だ。夏の高原で風まで想像していた、ゆるやかな「動」の映像の中に、急に「静」が放り込まれた。これもインパクトだね。さらに言うと、「佇つ」という一言からは、その花が何本も群生している光景よりは、一本だけが生えている様子を思い浮かべる。青、緑の中に一点だけ「赤」が生まれた。この対比が映像としてとても鮮やかだ。美しさも感じる。うがった見方をすれば、この句を詠んでいる時、作者の中村自身が花の傍で「佇んでいた」のだろうな、と想像することも出来るね。その並びの映像にちょっとばかり面白みも感じるよ。
まとめると、作者の中村はしばらく、同じような「夏の風景」の緑や青の中を歩いてきたんだと思う。そこへ、まったく違う「赤」という色が浮かんだ。その鮮やかな驚きと、その赤の美しさ、魅力が彼の足を止めさせ、ここで昼食にしてこの花を眺めていよう・この花と並んでいようと思わせ、さらには句に詠ませたのではないかなと思ったよ。個人的にはその驚きに共感したし、表現も切れ味あって良かったし、良い句だと思ったよ。句にする価値のある驚きだった。(名作かと訊かれたらさすがに考えるけど)
俳句は情景・映像を詠むもので、作者の意思や感情、感傷を直接に書くことはないんだけど、情景の中に感情を織り込むことは可能で、この句はそのように情景や映像の中に作者の驚きを詰め込んだ句になると思うよ。
日本だと女性が買い叩かれていて、海外の方がより公平に評価するため、女性は日本とは比較にならないほどとんでもなく高く評価される(というか本来の価値に近い評価になるだけ)
海外で日本に帰国してく奴を沢山見てきた自分から言わせて貰えば、
海外がクソとか言ってる奴(ほとんど男)って要は能力低すぎて向こうでまともに適応できなかった奴なんだよね
セオリーとして、日本人に限らず、母国外で活躍してる人って、母国では大体その2倍くらい優秀な人なんだよね
母国で活躍できない人が海外行ったところで、母国以上の価値は出せないわけ(当たり前)
日本だと女性が買い叩かれていて、海外の方がより公平に評価するため、女性は日本とは比較にならないほどとんでもなく高く評価される(というか本来の価値に近い評価になるだけ)
契約も済んでさてお金がもうすぐ動くぞって時に仲介業者から言われたんだが
「現住所で登記すると引っ越ししてから再度住所変更の登記をしないといけないし、減税措置が受けられない(手続きが面倒)から先に引っ越せ」だと
理由はわかったけど実際にどのくらいの人がそういうことやってるんだろう
本来、引っ越し先に住むより前に住所変更するのはNGだし、なにより不動産の移転が行われていないのに住所だけが変わっていて行政上は住んでいることになっているのは、明らかにやばいことなんだよね
だってお金の受け渡しが行われるより前にそこに住んでいるってことになっているんだから
だけど行政はそれを理解はしていても書類上は通すしかないし、法務局だって住所が同じだっていうならその通りにするしかないんだと思う
みんなやってる?
自分で答えを出してるじゃん
別にやること自体は自由だし法律に反してるわけでもないけど俺は非常に不快に思っているし、彼らが存在するせいで
みたいな(本来やらずにすんだはずの)いろんな手間が発生するんだよな。それこそ転売ヤーみたいなのをはじくためだけの無駄な手間がたくさん出てきてマジで不毛
のもわからなくはないが、どんなシステムを作っても穴は出てしまうからいたちごっこにしかならんのだよな。最初から完璧なシステムが作れるなら国会なんて要らんよ
近所のラーメン屋で高菜が無料だったのに一部の阿呆が全部の高菜を捨てる奇行をしたとして、それで高菜の無料提供がなくなったとかそういうときでも別にそれは許された中での行動ではあるし店側の対策の問題ともいえるけど、常識的にやるなよボケってうんざりするじゃん
いろんな人が善意で築いてきたものを破壊しながら自分達だけが利益を得て、そのうえでこれは許されているとか穴があるのが悪いとか、まぁそれは一面的には間違ってないんだが、全員がそういうことやり始めるとシステムそのものが崩壊してしまうわけだし俺は本当にうんざりしてるってだけだよ
そのうえでさらに言いつくろってこれは問題ないとかシステムの問題とか言われると本当にうんざりする やるならやるで、せめて他人に迷惑をかけてる自覚をもてよっていう
もし何か既存の体制と共存するためのアイデアが練りこまれてるなら、システムのアップデートと思って受け入れられるだろうけどな
話がそれたけど、なんつーか科学を隠れ蓑に、科学風のことを言いながら問い詰められたら絶妙にこれは科学ではありませんみたいな顔をするペテン師みたいなの俺はめちゃくちゃ嫌いなんだよね
最初から科学なんて関係ねーってスタンスでやってるなら好きにやればいいじゃんと思うけど、不誠実だし本当にうんざりする
これで例えば5年後に本当にCO2の回収ができるシステムが開発されたとしたら、本来その人たちが受けるべきだった栄誉を不当に掠め取ってることになるわけだよな
本当に、本当に、うんざりする
転売ヤーによる悪質な買い占めは確かに本来の消費者の入手機会を奪ってより金積める人間を優遇する傾斜を作ってるけど
そういうやり方が可能って時点で必ず誰か1人以上その隙につけ込む者があらわれる、気づいて実行する人が多いか少ないかでしかない
ソフトウェアの脆弱性と同じようなもので、そういう穴が存在してしまうこと自体がどちらかというと責められるべきなんだよ
転売ヤーっていうのは、言うなればミクロ経済のデバッガーとして機能していて、生産者や小売業者がより洗練された流通システムを構築していくための圧になっている
転売の餌食にされてる事業者はいつまでも転売ヤーに責任をおしつけてないで、自身の業態をアップデートすべきなんだよ
もちろんクラッカーを褒めることがないのと同じで転売ヤー自体も褒められたもんじゃないし居ないほうがいいが
素材本来の味を楽しむのが食の本道だよね
フェミニズムも本来はDEIとか働き方改革とかの背景をきちんと支える役割があって、女性中心に労働者の福祉全体を向上させる社会的な役割や意義もあると思うんだけどはてブや増田で延々と続いているのってそういう建設的な方向に向かわないよね。リベラル政党もその辺ちゃんと理論武装できていなくて、「レズビアンとかゲイの権利!」「夫婦別姓を!」みたいな枝葉末節の水掛け論を延々とやってたり女子社員の愚痴みたいなのを延々とやってたり、「闘士」のSNSを晒し上げたり、炎上をヲチしたり、なんかもったいない。
本来のフェミニストは謝れるんだろうけど日本のは共産党や立憲民主党の影響受けすぎていて別物になってる
同様に本来のリベラルはちゃんと間違いを認めるんだけど日本のリベラルを自称している人たちは何故か間違いを認めて謝れない変種になっている
なんで日本のフェミニストやリベラルだけは謝れなくなるように変化したんだろうか、他の国と比べて日本のリベラルを誇れないのはこういう点なんだから直せばいいのに
アブラハムが、息子イサクを犠牲として捧げよるよう神から命じられる。アブラハムは苦悩するも、神への信仰(息子を死なせたとしても、神は生き返らせる事が出来るという信仰)を貫き、実際にその通りにしようとする。イサクを殺す寸前で神はアブラハムを止めて、代わりの犠牲(羊)を捧げるよう指示する。この、アブラハムの信仰を神は高く評価し、彼の子孫から人類を「原罪」から救う者=救世主=メシアが登場するという約束=契約をする。これが、アブラハム契約と呼ばれる物で、アブラハムの宗教と言われているのは、アブラハムが契約した神様の教えを守っているから。
※余談
メシアの本来の意味は油を注がれた者。救世主という意味は後から付いてきた。
■ユダヤ教
アブラハム以降、イサク、ヤコブ、ヤコブの12人の息子と子孫が増えていく。このヤコブの12人の息子の一人、ベニヤミンの子孫であるモーセが書いたモーセ五書(トーラー)を含む旧約聖書を聖典としている。アダムから受け継いだ「原罪」をメシアが取り除くという希望を抱いている。そのメシアはまだ来ていないというスタンス。
※余談
ノアの時は十戒はまだない。十戒はモーセ。ノアの時は肉食が許可された事と、契約の虹(=洪水で人類を滅ぼさない)が有名。メシアは、ヤコブの12人の息子の一人ユダ族から生まれるという預言がある。
「原罪」を取り除くメシアがイエスだという教え。ただし、現状「原罪」からはまだ開放されていないとする派閥もいれば、「原罪」から開放されたという派閥もおり、この辺の教えは様々。聖典は旧約聖書と新約聖書。教派によって外典を聖典扱いしたり、しなかったりするが、基本外典も聖典扱いしている。
※余談
基本、内ゲバが多い。カトリックのイエズス会は宣教ガチ勢。狂気に近い信念で行動しているヤベー集団。聖書ガチ勢だったルターは別に宗教改革とか考えていなかった。カトリックが良くなればいーなーぐらいのスタンスで、95ヶ条の論題を書いたけれど、思いの外バズって宗教改革につながった。時代の流れって怖いね。元増田にはプロテスタントが自由でカトリックが厳しいというが、どっちもどっち。
ムハンマドが最後の預言者という扱い。モーセ五書(トーラー)を含むクルアーンを聖典としている。イエスについての記述もあるが、キリスト教ほど重要視はしていない。ユダヤ教、キリスト教と比べ、メシア=救世主の重要度は低い。
※余談
イスラム教には詳しくないので、識者求む。