はてなキーワード: 強者とは
数週間前の「年収〇〇〇万円あるけど俺も弱者男性」とかホント大概にしろと思ったわ。
あのな、「男には男ならではの辛さがあるんだ」という系統の話なら田中俊之の男性学系の本を読め。そこにだいたい書いてある。
てか「ステータス的には並~強者男性のはずだけど弱い部分だって当然あるんだ。自分はそれで苦しんでるんだ」という程度の何ら矛盾しない話を一々俺も俺も弱者男性とか言うから話がおかしくなるんだよ。
例えば少なくともここ50年くらいで「自力で恋愛結婚できた奴は恋愛力的に上位30%以内」「そうじゃない奴は何らかの手を借りないと自力では結婚できなかった」という結果があるわけだ。
「ステータス的には強者男性」であったとしても総合的な恋愛力が上位30%に入ってなかったら年齢=彼女無し童貞だとしても何ら不思議はないわけだ。
いや、わかるよ。厳密な定義しちゃうとそこに当てはまらない奴は弱者男性として見做されないから救われないって考え自体は理解する。
でもそれってやっぱり「弱いとこなんてそら誰にでもあるんだからそれは自分で何とかするなり他人から適切なケアを受けるなりしろ」て話でしかないだろ。
ちょっと話は変わるけど、なんか弱者男性(女性も)に妙に拘る奴がなんでこんなにいるのかって、「普通の人へのケア不足」が原因なんじゃないかな。
弱者と認められなければケアされない的な風潮。そうじゃなくて別に弱者じゃなかろうが本人が望めばなるべく適切なケアを受けられることが大事なんだよな、多分。
ただし例えば恋愛・セックスとかって現実的なケアは難しい(金があればある程度解決できることではあるが)ので、そこはAIやらアンドロイドの技術発達に期待なのかもね。
結局その社会規範が行き着く先は「可哀想ランキング©白饅頭」のランカー争いになってしまう。
米国では既に「トランスの弱者性は女性を上回る」というランク認定が済んでおり、
無謬の存在であるトランス女性に異を唱えるシス女性は、職を追われるのが当たり前の社会となっている。
起きていないことにされてしまう。
シス女性が職を追われる理由は、「強者による弱者への差別行為」だ。
ランク認定が済んだ状態では、上位弱者であるトランス女性は無謬の存在として全肯定を受けるようになり、
「無謬の仮定」に従い、トランス女性を全肯定する義務を負う。そこに衝突は発生しない。
もし、トランス女性を全肯定できないシス女性がいたらどうなるか。
それは社会からは「無謬ではない存在が無謬の存在を迫害した」という差別行為として認識される。
だから、トランス女性を全肯定しないシス女性は職を追われる。差別主義者として。
「無謬の仮定」を崩して平和な話し合いを行う世界を想像しているのだろうが、
人間はそこまで賢くない。
シス女性は「無謬の存在を否定する非道徳的な存在」という社会的認識を与えられることとなった。
GACKTのこれ。
女が同じ事を言ったら自称弱者男性に目を付けられて大炎上しあっという間にまとめられて
フェミニストかどうかに関わらずこれだからフェミはーブスがババアがーの大合唱になるだろうに
静かなもんで。
相変わらず自称弱者男性は強者男性とみなした同性には何処までも従順で歯向かわない腰抜け揃い。
https://twitter.com/GACKT/status/1720063737812652407
教えてくれ!
それはもっともなんだけど個人的に思うのは女性は加害者の立場に置かれるのが苦手かもしれない。
女同士の諍いでも自分の方が弱者で被害者だというポジションの取り合いになる。
男性と違って加害はしないというのが女性性のアイデンティティなところがある。
ごめんの一言が言えない人が多い。
女社会では気遣いがないと白い目で見られるのでそういう小さな謝罪は進んでする。
そんな感じじゃないかな。
いや相変わらず凄いね。これだけ明らかに男が悪い典型的な事案を見ても(ガレソのポストはこの引用先だけではなく、ツリーでもっと続いている)
「弱者男性を選ばない女が悪い」と、エクストリーム女叩きに繋げる発想。
女は絶対に「弱者男性」には近づかないようにしようと思うようになるんだが。
https://twitter.com/nautilus_264/status/1720793317976510903
@nautilus_264
金のある男には女がうじゃうじゃ寄ってくるよねーその中の一人でも弱者男性にあてがえればと思うけど、堕胎させられてでも強者男性がいいと女は思うもんなんだよね
@takigare3
·
18時間
「アニメ #進撃の巨人 のプロデューサー“立石謙介”氏と講談社で社内恋愛中、妊娠したので産もうとしたら強制的に堕胎させられ、その後も付き合っていたら突然同氏が別の女性と結婚&出産を発表した件をまとめろ」というDMを頂きましたが、本日24時より最終シーズンが放送予定なので取り上げません。
性犯罪被害の告発に対しては、セカンドレイプという主張が濫用されすぎだと思う。こんなん「時と場合による」としか言いようがないよね。
この場では、とにかく「被害者」の言うことが真実であるという前提で接するべき。仮に「被害者」の言うことが疑わしいのだとしても、ダイレクトに伝えるのではなく、治療者として適切な言葉遣いで伝えたりそれとなく適切な治療に繋げたりすることが求められるだろう。カウンセラーは知らんが、医師は国家資格があるわけで、そういう配慮も当然要求されるだろう。「嘘なんじゃないですか?」とか直截に言うような心療内科医やカウンセラーは看板を下ろすべきだ。
刑事裁判は、圧倒的強者である国家権力が、無力な弱者である市民(被告人)に対して、罰を科すかどうか決める場である。当然、被告人は、全力で自らの身を守る権利がある。被告人は身を守るために、「その日はアリバイがありました」とか「そんなことをする動機がありません」とか「踏み間違いではなく車の欠陥ではないでしょうか」とか「ドラえもんに助けてもらおうと思いました」とか「被害者の証言はここがおかしいと思います」とか、ありとあらゆる反論を国家権力に対して行うことが許されるべきだ。
実際、今回の事件や会津若松虚偽告訴事件のように虚偽の被害を訴えた事件だけではなく、「本当にレイプ事件はあったのだが、被害者が被告人を犯人と勘違いした」事件もある(氷見事件)。「本当の被害者なのだから、その証言を疑ってはいけない」などという原則を採用することは、刑事裁判の原則から考えてありえない。たとえどれだけ悲惨な被害に遭い苦しんだ被害者の証言であったとしても、疑われてしかるべきなのだ。なぜなら、被害が本当にあったのだとしても、被告人は犯人ではないのかもしれないのだから。
たとえば、仲の良い善良な女友達が泣きながら被害に遭ったという話をしてるときに、何の根拠もなく「それほんと? 嘘なんじゃないの~?」と言うのは割と人の心がない所業だと思うし、周囲のやつらからドン引きされ絶交されたりしても、まあ仕方ないだろう。
逆に、隣近所では評判のウソツキ女が被害に遭ったという話を吹聴していたら、何の根拠もなく「それほんと? 嘘なんじゃないの~?」と言っても、まあ、仕方ないだろう。日頃の行い、オオカミ少年、ってやつで、こういう場合に被害を疑うのは社会で生きていく上でなんら問題ない。
もちろん、善良な女友達が実は痴漢冤罪カツアゲ犯であり、評判のウソツキ女が実は本当にレイプ被害に遭っていたということもあり得るわけだし、実際の社会にはこのあいだに広大なグレーゾーンが広がっていて、「新聞で短く報道されたヨソの県のヨソの市での性犯罪」なんて、実際のところはどうだか全くわからないだろう。というか性犯罪だけじゃなくて、殺人だって詐欺だって何だってそうであって、つまり本当に大事なのは「それ、わざわざ話題に出す意味ある? あなたがコメントする意味ある?」ということだろう。友達や近所の人なら意味も必然性もあるかもしれない。友達が泣き崩れてる横で「僕はノーコメントで」とか言うのは(よほどの事情がない限りは)人でなしのすることだ。しかし、「新聞で短く報道されたヨソの県のヨソの市での性犯罪」にあなたがコメントする意味はあるのか?
さらに言えば、そのコメントを公開の場でする必然性もあるのか? もし「草津町ってひどいところだよね~」とか「絶対草津には行きたくないわ~」みたいなことを家族や友人のあいだでだけ喋っているなら、たとえばSNSの発言をめぐって訴訟リスクを抱えるようなことには基本的にはならない。草津町長は名誉毀損で何人もの人たちを訴える意向だと聞いているが、彼ら彼女らが身内の飲み会でそういうことを言っているだけだったら、町長は何の手出しもできなかっただろうし、フェミニスト学者の人たちが謝罪を求められることにもならなかったはずだ(cf. anond:20221117054344; anond:20221118212515; https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/okisayaka/status/1592551751072509953)。
もちろん、自由社会には「表現の自由」という大原則があり、意味も必然性もなくとも表現は自由であって、それを否定するとあいちトリエンナーレやクジラックスが弾圧される世界になってしまうから、SNSなどのオープンな場で自分にとって縁の薄い場所で起きた犯罪についての論評を行うのは自由であるべきだ。だが、天皇アートやロリ漫画と違って、実在の犯罪への言及には「冤罪に加担してしまう」というリスクが常につきまとう。「七色のおっちゃん」である(単なるざまぁ物かと思って読み始めたら期待値よりは面白かった)。義憤を燃やすのはいいが、それは後に訴えられるリスクを負ってまで燃やすべき義憤なのか? はよくよく考えた方がいいだろう。別に黙れとは言ってない。たとえば加藤智大のように現行犯で取り押さえられた人物については、冤罪の危険はそこまで大きくないので、言及しても比較的安全かもしれない。しかしもちろん、四日市ジャスコ誤認逮捕死亡事件のように、現行犯であっても冤罪があり得、取り返しのつかない結果が起きていることも忘れるべきではないだろう。そういうリスクを織り込み済みで、公的な場で義憤を表明したい、というならそれはもちろん表現の自由なので、どんどんX(旧ツイッター)で呟かれたりはてなブックマークでブクマコメントを残されたり、たまに裁判を起こされたりすればよいのではないかと思う。
職場の女性が働きながら不妊治療していたのだけど2年やっても一向に妊娠せず、不妊治療により体調を崩して退職したところ、すぐに妊娠した。
前の職場でも似たようなことあったな…と思う。ハードめな仕事をしていると妊娠しない。無職になると体力があり余ってる状態になり妊娠する。
男性は死にかけると性欲が増すなど、養育は女にブン投げて射精だけする最後っ屁みたいな真似ができるから、子孫のために身体を大事にみたいにならないんだろうな。
でも女性は10か月間、体内で子供を育てて、その後も授乳期間が続くから、体力が弱ってる状態で妊娠という負荷がかかると共倒れになるだろうし、体は妊娠を拒絶するだろう。
おそらく男女平等は進むから、女性は男性と同等の収入を稼ぐためにハードに働くようになっていくよ。それで多分、妊娠できなくなっていくと思う。
男性はハードに働いても不妊にならないけど、女性はハードに働くと不妊や流産が増えるかもしれなくて、でも男女平等のほうが優先されていくと思う。
それでハードに働きながら妊娠できた女性、育児できた女性、強者女性のみが持ち上げられて他の女性が比較下げされるようになっていくんだろうね。
俺は弱者男性だが、それがどうした?お前らの人生に文句があるなら自分で変えろよ
https://anond.hatelabo.jp/20231102171926
弱者寄りの人、この増田みたいにポジティブ精神に溢れてるわけではないにしても社会全体への不満を抱えてる場合って案外少ないんじゃないかという気がしている。弱者寄りの人の場合、不満があっても矛先が社会全体には向かわず、親とか上司とかそういう特定個人への恨みという形になりがちな気が。
逆に強者寄りの人のほうが社会全体への不満を抱えがちなように感じている。自分は馬鹿や無能に足を引っ張られてばかりいる被害者で、本当に可哀想なのはこっちなのに社会は自分はケアしてくれず、むしろ足を引っ張ってくる加害者ばかり弱者扱いして優遇していて不公平だ。とでも言いたげ、というかわりと直接的にそう言ってしまっているケースはわりと多いように思う。以前メンタリストdaigoがホームレスへの差別発言をして炎上したことがあったけど、それなんかがまさにこれ。
弱者は恵まれてないから社会への不満が大きく、強者は恵まれてるから社会への不満が少ないだろうというのは誤った推論で、弱者はそもそもたいして社会に興味がなく、強者は自身の能力と努力に対する自負心が過剰に高いのでたとえ収入が高くても報われてない感覚、ひいては社会への不満を抱きがちというのが実情なんじゃないかなあ。
増田すごく誤解してると思うけど、弱者男性にも女性があてがわれていた時代なんて存在しないんだよ
今は平和な世界の中で一人寂しく過ごしている弱者男性は、ちょっと前の時代では、戦場の慰安婦しか知らずに死んで行ってたのだろうし、もっと前の時代では吉原でバカにされて一番安い遊女を抱けるか抱けないかで暮らしてたのだろうし、どこにも救済なんてありはしないの。
勉強(机の上の勉強だけではない)するエネルギー、見た目を小綺麗に保つエネルギー、相手の立場を思いやりながら考えて話すエネルギー、現状を変えるため転職等努力するエネルギー、当たり前と言われているこれら全てにはエネルギーがいる
鬱になって一度燃え尽きたことがあるからよく分かる、精神的に健康じゃない人にこれらを当たり前にこなすのは無理だ
男女関係なくエネルギーのある人間ない人間がいる。女は女だというだけで憂き目に遭った歴史が実際にあるが、女っていう広いくくりの中なら当然エネルギーのある人間がいるわけで、そういう人間が現状を変えようとしてきた結果が今だ
だが弱者男性はどうだろう、現状を打破する力がないからこそ弱者たらしめられた彼らが現状を変えるには、実際のところ「エネルギーのある弱者男性が声を上げる」しかないわけだが、ほぼほぼ矛盾した存在だから無理に等しい
というか、俺も20年前の時点で「これからは弱者路線だ」と完全に見定めていた。
10年以上前の俺はその路線を意識してネットで振る舞ってたし、実際、そういう売り方でバズる人もいた。
店長のはルーツがだいたいわかる。文芸的な語りの路線で弱さアピールしてた。
「強い男になれない僕の姿を見て、これこそが現実、これこそが真実」ってやつね。
ちなみに俺は学がなかったので、そういう文芸路線は出来なかったし、大嫌いだった。
それもあったので、店長が弱者アピールをするたびに俺は一方的に攻撃した。
さておき、自分が弱者になるにあたり、本当の弱者とはなんだろうと考えに考えた。
そこで辿り着いたのは
「ネットワークでつながる領域の真の弱者、それは友達がいないこと、仲間がいないことである」
だった。
まず頼りになるバックボーンを持たないこと。
甘えると言っても、ファンコミュニティに入ってしまうと仲間を作ってしまう。
ギャルゲーの女の子であっても人格を見つけて「俺と同じだ」と同化してしまったら仲間を作るのと同じだ。
なので、「ただの絵」としてギャルゲーの女の子を見て、その絵にただ縋りつくことにした。
ちなみに、これはけっこうつらい。
ざっくり言うと、当時のやり方としてはケンカを売ることだった。
俺より有名なやつ、俺より学歴いいやつ、俺より頭いいやつ、「俺より強いやつ」だ。
重要なのは、社会的な弱者を相手にしてたら弱者になれないってことだ。
相手が誰から見ても社会的強者じゃなければ、俺は弱者になれない。
しかしこれが難しい。
ネットバトルは頻繁に発生してたから論陣で殴りこむのは簡単だったが、問題はすぐに「仲間」が発生してしまうことだ。
仲間がいたら弱者ではない。
なので同意とか書いてくるやつがいたら、そいつを敵認定して攻撃の矛先を向けた。
弱者アピールするためには、常に弱者で居続けるためには、多数派になってはならない。
ということは、周囲の全てに対し攻撃し続けなければ、弱者とはいえない。
しかし、そうやって攻撃し続けると、被差別者を攻撃してしまうこともあった。
そうなると弱者としてはなりたたない。
現実の学のなさや金のなさで勝負しようとすると、途上国の貧民などいくらでも下がいる以上、ネットでのふるまいでしか弱者になれない。
そして当然だが、大前提として仲間を作ってはいけないので根本的にSNS的なネットと相性が悪い。
SNSが未熟だったころは「友達いない」と言い張れたが、SNSだと「フォロワーいるじゃん」となってしまう。
弱者路線は正解だった(現にいま、こうして流行している)が、限界も見えていた。
現にいま、ほぼ話す友達は誰もいなくなったが、それなりにつらい。
しかし今どきの自称弱者男性は、弱者男性としては全く弱くないと思う。