はてなキーワード: 山椒とは
昨日、鰻を食べた。5年ぶりかな。もっとかもしれない。両親と3人で食べた。美味しかった。
昔は夏のごちそうとして、ひと夏に2回くらい食卓に上っていた。学校から帰ってきて、夕食が鰻だと知った時のあのうれしさ!記念日でもなんでもない日に、母がスーパーから鰻を買ってきて、温めていて、その間にすごくテンション上がって両親にいろんな話をして、それで山椒をかけて食べる。かけすぎて鰻の味がよくわからなくなってヒーヒー言ってると、父が鰻を交換してくれたりして。「食べかけの鰻が新品になった!ラッキー」とか言って鰻にかじりついてた。一番疲れてて鰻を必要としてるのは父なのに。
その美味しさよりも、ウナギを取り巻く幸せな空間が好きだったのかも。お正月やクリスマス、誰かの誕生日じゃないときにサプライズ的に登場して家族の幸せを運んでくる鰻が私は好きだった。
でも鰻が絶滅危惧種であると言う話を聞いてから、何となく食べるのは良くない気がして食べてこなかった。
私が何気なく「鰻が絶滅しそうなんだって」って言った時から、なんとなく鰻が出てこなくなったと思う。それでこの数年、全く鰻を食べなくなって、鰻の話題も出なくなった。土用の丑!みたいな広告を見ても、ちょっと黙ってスーッと通り過ぎるようになってた。
それで、毎年のようにこの時期話題に上る「絶滅危惧種たる鰻を食べるなんてなんと野蛮な」みたいなネット上の話題を眺めてて、ふと思い浮かぶことがあった。
「鰻食うべからず」の論者にはいくつかの派閥(っていうかなんていうか)があって、「絶滅危惧種を食うのは野蛮だ」「養殖に成功してから食べよう」「漁獲量を管理し、高級鰻店にのみ許可しよう」みたいなのが主だと思う。
で、この3つ目の意見を見ていて、「鰻食べよう」と思ったのだ。
3600円とか5400円とかの高級うな重を出すお店にのみ許可しよう、安く叩き売っていたずらに鰻消費を増やすのはやめよう、という話だけど、これにものすごい反発を覚えた。
なんだろう。私たちが我慢をして、鰻の消費量を減らしても、結局お金のある人が得をするだけじゃん、っていう気持ちが突然降ってわいた。
私が我慢しても、褒められるわけじゃないし、そのうち食べられるようになる保証もない。
我慢している間に、鰻を食べる人は幸せになって、私は我慢してて、お金持ちは美味しい鰻を食べていて、それでそのうち鰻が絶滅してみんな食べられなくなる。我慢している人がワリを食う構造なんだなってわかった。
社会の縮図みたいなもので、我慢する人よりも我慢しない人のほうが多くの物を得る。モラルをある程度無視するとモノが手に入る。
それなら、私も鰻を食べよう。ワリよりも鰻だ。鰻を食べるのだ。
鰻が希少になって、高級店でしか食べられなくなるのが資本主義の原理なら、鰻をたくさん食べて、価格競争によってもっと安く食べられる資本主義の原理で対抗しよう。
まぁ、そんなに熱くなるほどではないけれど、とりあえず私は鰻を我慢するのはやめた。ネットじゃ怒られるかもしれないけど、スーパーで私を怒鳴る人はいないし。
と言うわけで、鰻を2尾、スーパーで買ってきた。3000円くらいかな。国産らしい。大きくないけど、おいしそうだ。
買うのには大変な覚悟が必要だったけど、頑張った。私の家にはあんまりお金がない。その原因は私にある。発達障害で、普通の勤め先には長く続かない。小さなミスが多すぎるので、ルーチン的なお仕事もうまくいかない。結婚すれば…・とかも思ったけど、こんな私を選ぶ人はいないわけだし。
この鰻を買うにも5時間くらい頑張らなきゃいけないけど、それでも鰻には幸せなパワーがある。買って帰るときはスキップしたくなった。実際してたかもしれない。
私が鰻を買ってきたのはこれが初めてだ。
鰻を買って帰ったときの両親の顔!とっても驚いてくれて、喜んでくれた。やっぱり、なんでもない日に突然幸せがやってくると嬉しいのだ。
それで、私が責任を持て鰻を温めることにした。温めるだけだけど。母が「山椒あったかな?あ、ダメだこれ賞味期限過ぎてる!」とか騒いでて、父も「これは酒飲まないとなぁ」と物置に小走りで行ったり、楽しかった。山椒はちゃんと買っておいたのを使った。
3人で「おいしいねえ、おいしいよねぇ」って言いながら鰻を食べた。やっぱり鰻を取り巻くこの空間が好きだ。絶滅したらごめんなさい。私が死んだら鰻にシバかれるのかな。でも両親のあの嬉しそうな顔にはいくらでも代えられるな。
一年に一度鰻を食べられるとして、両親も還暦を過ぎているから、あと10回くらいかな、楽しく鰻を食べられるのは。その間に絶滅しちゃうかもしれないけれど、ちゃんと味わえる間に鰻を食べていこうって思った。それまで鰻代を稼ごう。頑張ろう。
鰻を食べよう!と決意してから、近所のスーパーでクジラ肉がだいたい毎日売っていることにも気が付いた。みんな「クジラを食べるのはちょっと…」って思いがあるのか、19時くらいになるとかなりの数が半額になっている。どうせだし、クジラも食べちゃおうと思っている。そこのスーパーのクジラは刺身用らしい。クジラのお刺身も美味しいかもしれないぞ。でも父はあんまり好きじゃないっぽいから、今度一人で試してみよう。
暑い夏もこういう楽しみがあると乗り切りがいがあるなぁと思う。大きめのスイカと同じくらいの値段だし、鰻も頑張れば1年に2回は食べられるかも。
オチも結論も何もないけれど、鰻は美味しかったということで、結びたいと思います。
ありがとうございました。
うなぎなんてタレが美味いだけだと思っていたが、よく考えたら白焼きこそが本来の食べ方だと気づいた。
白焼きのうなぎを食べたことがある人はなかなか多くないと思う。
山椒、わさび、醤油、塩、柚子胡椒などシンプルな薬味をつけながら、素材本来の味を楽しむのが白焼きだ。
決してご飯に合わないわけでも無い。うな重やうな丼のうなぎを白焼きで出している店もある。
初めての人なら蒲焼のうな重を頼んで、一品料理で白焼きを頼んでみるといい。
でもそれなりのお値段がするので、試してみたいだけなら何人かで行って分け合うのでもいい。
タレが美味いだけだと思っている人には是非食べてみてほしい。うなぎが食べられているのはうなぎ自体が美味しいからなんだという事を認識できるはずだ。
白焼きを食べたからこそ分かる蒲焼の美味さがある。白焼きで食べるのも美味しいが、それよりも更に美味しいと思う人が多いから蒲焼がスタンダードになっているんだと。
実家の近所には有名な老舗のうなぎ屋があり、子供の頃は、たまにではあるが、何か祝い事があるとそこのうな重を食べたものだった。
家族が滅多に食べられない御馳走だと舌鼓を打つ一方で、子供の私は小骨の多さに辟易した。鰻というのは食べるとのどに骨が刺さる不快な食べ物だ―そういう印象しか持てなかった。
そこのうなぎ屋は今でも繁盛しており、昼頃にはいつも行列ができる人気店だ。また、うなぎ好きの同僚がいるのだが、彼は他県の人なのにその店のことを知っていて、行きたい行きたいとよく言っている。一度土産に買って行ったのだが、恩人か何かのように感謝され、美味い美味い、身がふっくらしてるし皮が最高だなどと言いながら箸を進めていた。
私が美味いと思えなかったうなぎだが、うなぎ好きには納得の一品であるらしい。彼に限らず世間的にうなぎは御馳走なわけで、けして安いものではないのに、日本人は種を喰い尽くす勢いで食べようとしている。うなぎを美味いと思えないのはどうやら普通ではないらしい。
別に他者と足並み揃えたいわけではないのだが、美味いものを美味いと思えないのは舌が貧しいようで癪だ。もう大人になったわけだし味覚も変わってうなぎを美味いと思えるかもしれない。
そんなわけで凡そ20年ぶりにうなぎを食べてみた。感想としては、うーん
不味くはない。ただやはり小骨が気になる。ふっくらした身が売りなのだろうが、小骨のせいで食感が台無しだ。そしてタレと備え付けの山椒、こいつらがダメ。舌を麻痺させ、うなぎそのものの味を分からなくさせている。
昼食に2000円以上払ったのだから美味いと感じなければ損なのだが、そのスパイスあってしても2000円の価値を感じない。500円なら食べても良い。
なぜ日本人はうなぎに惹きつけられるのか、山岡士郎や中松警部がうなぎを評価する理由は何か、うなぎの分からぬ私には分からない。絶滅危惧種だし無理して食べる必要もない、それどころか食べない方が良いのだが、やはりどこか癪に思う。
・犬も歩けばパンティーに当たる(犬もパンティーのような幸運に出会えるという意味)
・猫にパンティー(猫にはパンティーの価値がわからないので洗濯物を引っ掻き回すという意味)
・猿も木からパンティー(得意分野でもパンティーでなんやかんやあるという意味)
・五十歩パンティー(50歩逃げるのもパンティーを被るのも逃げたことには変わりがないという意味)
・塞翁がパンティー(いろいろなパンティーがあるって感じの意味)
・井の中の蛙パンティーを知らず(蛙ごときにパンティーがわかってたまるものか)
・石の上にもパンティー(不法投棄にしたパンティーも小学生には宝物だ)